MidnightInvincibleChildren

書き下ろし短編:『屋烏を喰う』

 

 

 




「あ、お湯で洗って」「お湯? 使ってるよ」「えだって湯気立ってないよ」「でも温かいよ」「ならいいや」と会話する僕を見た夏海が怯えた表情で言った。


「だれと話してるの?」


思えばここのところ、なにかと考えに耽ってばかりいたような気がする。夏までのバタバタした日々が急に落ちついて感じるのは、季節の変化にリンクしているからなのだろうか? 僕は自分の歩く速度さえ変わってしまったように感じる。駅までが遠い。道を間違えたのかと思うも、イヤホンから流れる曲はまだ変わっていなかった。
 なにを考えているのかというと、例えば出社してやることの順番についてだとか、今週やるべきこと、もうしなくていいこと、昨日の晩寝る前に沸き起こったささやかな欲望、いま飲みたいもの、財布の残金、次の休みのこと、夏海としたつまらない話、どうしてそれがつまらなかったのか、自分の部屋の使い方に関して、すっかり忘れてしまった習慣、口周りに感じる肌の乾き、気になっていた化粧水、駅周辺のドラッグストア、目の前のおしり、明日の天気……
 僕は仕事をやめた。厳密にはやめていない。やめたつもりで毎日動いている。こだわらなくなれば、少しは楽になるのだろうなという目算があったが、どうなんだろう? いまの僕は楽なんだろうか? 

 ある夜、ちっとも寝つけなかった僕は無性に苛立っていて、夏海と口論になった。彼女は「八つ当たりしないで」と言った。八つ当たり? つまり僕には本来、ほかに怒りをぶつける対象があるということか?
「それってなんだと思う?」
「それ私に聞くの?」と夏海は伏せていた目を僕に向けた。「仕事のこととか、そういうんじゃないの? それだけじゃないんだろうけど、とにかく私にそういう態度とるのやめて。どうしていいかわからない」
「ごめん」
「別にいい。でも今日は一緒に寝られない」
「了解」
 僕は自分の枕と毛布を持ってソファーで横になる。カーテンの隙間からかすかに差しこむ灯りが、暗い天井でゆらゆらと揺れるのを眺めながら、別にいいと言った際の夏海の表情を思い出していた。一緒に寝られないんなら、別にいいってのは嘘じゃないのか? 許せないんなら、許したふりなんてするなよ。胸がより騒がしくなって、眠気も更に遠のいてしまった。ひとりになりたかった。こうやって寝床を分けるのではなく、本当の本当にたった一人になって、ついにはなにも考えずにすめばどれだけいいか……ということをグルグル考えたまま朝を迎えた僕は、のっそり起き上がると重たい体を引きずって唸り、シャワーを浴びながら唸り、髭を剃って唸った。



 十年ほど休みがほしい。



 友人でひとり、十年ほど休み続けているやつがいる。
 十年あればなにをしたいだろう? という愚問が浮かび、僕は毒された自分に辟易する。
彼の長い休みがまだ終わっていませんように。



 更衣室のロッカーから上着をとり、歩きながら羽織る。腕時計を確認する。七時半。まだ余裕。人の温度にあてられていない廊下を抜け、事務所のタイムカードを切ると、すぐさまエレベーターでふたつ上の階まで移動。そこは窓のないフロアで、ドアには電子ロックがかかっている。テンキーに暗証番号を打ち込むと淀んだ空気が僕を迎えた。充電スタンドに立てられた無線機と作業台の上に置かれたクリップボードを手に取る。七時三十五分。挟まれたチェックリストを手に大きな機器の間を練り歩く。ぜんぶで十一のサーバーがあり、それぞれに付属する機器が二つずつある。すべての電源を項目にそって入れていく。僕はこの作業が億劫で、どこかのタイミングで思いもよらない出来事によって流れが中断されるんじゃないかという恐怖がつきまとう。エラーの種類にもよるが、基本的に十分以上は対応に割かれる可能性がある。始業時に間に合わなければ、どれほどの損害が出るのだろうか? あえてきかないようにしているが、想像を超えるきんがくにおよぶのかもしれない。タッチパネルを操作してパスワードを入力する。ここでタッチパネルが反応しなかったら? 機器上部で横一列に並んだ七つのスイッチを左から一、二、三、五、六七同時、四の順に押しながら、機体に耳を寄せ、起動音を確認する。ここで異音がしたら? 薄い金属板の向こうで細かな機器が連動しあうか細い音がする。一、二、三、五、六七、四。異常なし。異常なし。異常なし。一、二、三、五、六七、四。チェック。チェック。チェック。機械の音にまじって僕のため息が聞こえる。チェック。チェック。夏海のことを思い出していた。一、二、三、五、六七、四。チェック。一、二、三、五、六七、四。ここまでは大丈夫。一、二、三、五、六七、四。大丈夫。 一、二。三? 五! 六七……チェック。チェック。チェック。あ、四。チェック。ん? チェックの数変じゃないか? という声がしてハッとする。自分だった。変……でした。まあいいか。チェック。チェック。うっ。

 早朝の大雨が嘘のように晴れ上がった夜、夏海を駅まで迎えに行った。僕は自転車で、彼女と二人乗りをしながらパトロール中の警官に見つからないよう細い路地ばかりを選んでアパートまでの道を進んだ。ネットでみたニュースの話で笑いあっていると、ふと沈黙が訪れた。星が綺麗だったが、気持ちはそう盛り上がらなかった。しばらくして、僕の背中に身体を押し付ける夏海が何かを言った。うまく聞き取れなかった、というより、その音が言葉としてすぐには入ってこなかった。彼女は「泣きそう」と言ったのだ。

 八時二十分。オープン作業を済ませた僕は作業台に戻ってパソコンを開く。まだ強めのままの鼓動に打たれながらメールを見る。作業場の温度確認をする。湿度確認をする。デジタル時計の秒数を調整。+1なので修正……完了。僕はイスの背もたれを支点に背中をそらす。ソファーで寝たせいで朝から肩が重かった。僕はイスを引いて両手を前後に大きくゆっくりと回す。じんわり熱を帯びた肩甲骨が、また少しずつ冷めていくのを感じながら、自分の呼吸音に集中する。機械音が騒々しい。僕は同じサイズにカットして束にしてある裏紙にTo doリストを書き込んでいく。デイリー業務、ウィークリー業務、週末に備えた準備……まずは昨日のうちに終わらせられなかった事務作業を片付けていくことに決めた。Shift + C……Shift + V……クリッククリック。マウスの反応がなくなる。ちっ。軽くバウンドさせてみる。なめるなよ。裏返すといつもは点灯しているはずのブルーのライトが灯っていない。僕はペン立てをどかし、単三電池を探す。が見当たらない。別の部署まで貰いに行こうか。そう思い立ってイスから立ち上がる。

 ぱぼん

 聞き慣れない音がした。
 パソコンからだった。
 メールの通知ではない。デスクトップにはなんらかのお知らせが出ていた。タッチパッドの操作がオンになったことを告げる通知らしい。なぜ。僕はこのラップトップに一切触れていなかったし、切替画面を開いていたわけでもない。身体の左半分が粟立っていた。作業台の横には壁があり、上部だけが繰り抜かれて隣室とつながっているのだが、そこからだれかが僕を見ている気がしたせいかもしれない。こういうときは考えられることだけを考えるしかない。たしか、タッチパッドを直接二回タップすれば操作のオン・オフを切り替えることができるのだが、僕は席を立って背を向けていた状態なのでそれも無理。
 だけど無視。



九時五分。エラーの表示がセンターサーバーに出る。機器同士をつなぐネットワークの接続が切れたらしい。4号機? クソ馬鹿が。僕は椅子から飛び上がり、機器の間を駆け抜け、4号機を目視で確認。ランプが赤く点灯。思わずえずく。いそいでポケットからスマホを取り出し、機器のモニターに英字で表示された警告文の写真を撮り、本社のシステム担当に送信。こちらでもとりあえず機械の再起動を試みようと手順を整理しているところに無線機が鳴る。
「真山さん、おはようございます。三宅です。状況を教えてください」
「おはようございます。ただいま本社の担当者にメールにて連絡致しました。返信はまだですが、おそらく再起動でなんとか対応できるかもしれないので今から試みます」
「了解です。またなにかあれば」
なにかあればそりゃ言うよ、と思いつつ一旦4号機の電源を落とす。メールが来る。
〈再起動で大丈夫です。それでもなおらないようでしたら、サポートセンターに入電してください〉
やった、正解だった。でも何か忘れてないよな。まあいいや。まずは再起動。電源を入れ直していく。よし。ランプが通常通り緑色に点灯した。でもさっきだって始めはそうだった。頼むからもう嘘つかないで。平気なふりはしないで。どうにもならないタイミングで、やっぱりダメでしたって言われても、僕にはもう何もできないじゃないか、後悔以外。

 

 暖簾をくぐり、嗅ぎ慣れた蒸気の温もりを浴びながら空席を探していると、違う課の月村さんがテーブル席でひとりランチセットを食べていた。軽く挨拶だけでも済ませておこうと近づくと、「あ、どうも。てか朝はお疲れ様でした。どうぞ」と正面の椅子に誘導される。いま人と関わるテンションじゃないな、断ろうかなと思うころには、僕はもう椅子に腰を下ろしたあとだった。メニュー表を開いて悩んでいるふりをしながらいつもと同じ一番安い中華そばを頼み、月村さんにさっきのパソコンの話をした。
「えー、出た。真山さんよくあんなとこひとりでいられますよね」
「まあね。でも仕事だし」
「怖くないんですか?」
「めちゃめちゃこわいよ」
「やば。うける」
 月村さんは僕の知らない話を大量にもっている。
 総務部の三宅マネージャーが新卒で入ってきた武田ちゃんと付き合っているらしい。年の差どれくらいだっけ? ほぼロリコンだねと僕が言うと「みんなも言ってます」と月村さんは笑う。みんなも言っているのなら結構笑い事じゃないのかもなと僕は思いながら、営業の樋口くんがかねてよりアプローチをかけていた石原さんにめちゃくちゃ嫌われているという話を聞く。ちょっと面白い。
 ところで月村さんは営業部の高尾くんとほんとうに付き合っているのかなと僕は考える。直接聞くのはちょっと危険だ。随分前に、駅を一緒に歩いているところを見かけたことがあるだけだし、でも高尾くんには彼女がいたはずで、とはいえ古い情報なのでもう別れたのかもしれない。
「面談終わりました?」
 月村さんがテーブルの上においたスマホを指先で叩きながら言った。ラインのトーク画面が開かれていたので、目をそらした。
「来週。予定ではね」
「そうなんですね。普通に終わりますよ」
「あ、もうやったんだ」
「はい。わたしのときは雑談みたいな感じでしたし」
「そうなんだ。なにか意見とか出した? 改善してほしいところとか」
「いいえべつに」
「思ってたより楽そうだな。安心しました」
「そもそも面談いらなくないですか?」
「でもまあ、ああいう場だからこそ伝えられることもあるんじゃない?」
「えー。わたし思うんですよ」
「はい」
「ああいう場で、本当のこと言うわけないじゃないですか」

 僕の前任者である宇野さんは精神に不調をきたして退職したので、事前に準備しておく諸々もなしに僕が業務を引き継ぐことになったのだが、その彼だって何度か行われた面談において特別なにかを訴えていたわけではなかったそうだ。これは総務部の三宅マネージャーから直接聞いた話で、彼は首を傾げていた。労働はアルコールと同じで、合わない人間にとってはとことん毒でしかない、というただの常識がまったく共有されていない時点でこの会社はもう終わりです。宇野さんは周囲の呑んだくれどもの影で静かに疲弊し、ある日限界を迎えたわけだ。胸のうちが自然対流のようにぐるぐるたぎるのを感じていた。突っ伏す寸前のような姿勢でスマホを見る月村さんのつむじから視線を外すと、斜め向かいに位置するシートの背もたれ越しに顔半分だけをのぞかせた女の人と目が合った。あれ。でもそんな気がしただけで、席は無人だった。ふと壁に貼られたビールのポスターがはらりと剥がれ落ちた。店員さんにそのことを伝えようかと思ったが、疲れていたので黙っていた。



 朝が来ないでほしい。
 かといって夜もうざったい。

 

 夏海とベッドに並んで眠る。目を閉じながら、布団内部の高まる温度を寝返りでかきまぜる。深夜三時を回ってもついに眠れなかった僕は、寝息を立てる夏海を置いて部屋を出た。スウェットだけじゃあまりにも寒いのでブルゾンを羽織った。最寄りのコンビニまで歩いて、それから戻ろう。頭髪の隙間まで冷たい夜気が染みこんでくる。通りかかった公園の遊具が風もないのに揺れていた。公衆便所からうっすら灯りが漏れていた。人も、動物も見当たらない。猫でもいたらいいのにね。深呼吸すると骨まで冷えるようで、僕は長い長い道を足早に進む。コンビニにつくと、店内をぼんやり五周ほどした。もう一度歯を磨くのが面倒なので、結局なにも買わずに出てしまった。レジカウンターの中にいた店員はなにかしらの作業に勤しみながら、絶えず僕の気配を意識してくれていたというのに。自動ドアを抜けると、先ほどのような鋭さはもう感じなかった。部屋まで続く住宅地には街灯が少ない。行きより帰りがずっと暗い。

 コンビニを出る前からずっと、僕はさっきの公園の前を通りたくないと思っていた。かといって遠回りを選ぶほどの気力もなかった。足がやけに軽いのに、進みだけがいやに遅く感じて首を何度も回していると、道路脇になにかが立っているのに気づいた。一瞬、人かと思った。真っ黒で、起伏がなく、まっすぐだった。その長方体と僕との距離は五メートルほどで、しかし僕は立ち止まらなかった。気づいていることを、向こうに気づかれたくなかったのだ。後頭部からゆっくり後ろへ倒れていくような感覚にややのけぞりながら、それでも歩を進め、ああ。そこでわかる。

 墓石だ。
 真っ黒な墓石。

 道の脇に墓石がある。

 依然として静かなままだった。僕以外、音を立てるものはなかった。視線はすぐまえのアスファルトに向けている。もうすぐ朝がくる。もうすぐは、しかし今ではないのだ。
 一、二、三、五、六七、四。
 一、二、三、五、六七、四。
 一、二、三、五、六七、四。
 ああ。墓石の横を通り過ぎる。ああ。ずっとそこにあったのかもしれないし。たまたま行きでは気づかなかっただけかもしれないし。僕は歩く。いまどこかからか聞こえた気のする、地面をこするようなざらついた音が、自分の立てたものなのかもう判別できない。わざと大きな音を立てて僕は地面を踏みしめる。
 一、二、三、五、六七、四。
 一、二、三、五、六七、四。
 一、二、三、五、六七、四。
 月極駐車場の看板が見える。その後ろからなにかが顔を覗かせているかもしれない。カーブミラーが見える。なにがうつっているかもわからない。僕は自分の履いている靴を見る。靴紐が解けている。いまは結ばない。立ち止まる理由はすべて無視する。

 アパートの階段を昇りきると、ドアの前に夏海が立っていて、僕は無音の悲鳴を上げた。そのまま腰を抜かし、階段の二つ下の段に手を突いてなんとか体を支えたが、股関節が変な開き方をしてちょっとだけ痛かった。
「起こしちゃった?」
 僕の言葉に彼女は応えなかった。
 ああしまった。もしかして僕はいま、夢をみているのだろうか?
「風邪ひくよ」
 彼女はそう言うと、すんっと息を吐きながらこちらに背を向けた。いまなんで笑ったの? 僕の質問は彼女には届かなかった。



 しゃ!
と意気込んで出勤すると、作業台にニ枚のメモが置いてあった。
 一枚目には次の日曜も出勤してほしいという旨とその理由。
 二枚目には不在時に僕のデスクから内線電話が入ったという旨の内容。
それらを丸めてゴミ箱に投げ入れた僕は、しばらく突っ立ったままホワイトボードに敷き詰められた数字を画として眺め、それから床に両手をついて腕立て伏せを三十回。怒りが収まらなかったので、側転。そのままの流れでバック転。着地に失敗して機械の消耗品が入っていた空箱を尻で潰した。
スマホで高良に連絡を入れる。
返事が来る。
翌日の仕事終わりに、池袋で飲む。
高良と会うのは数年ぶりで、彼は上下スウェットに軽そうなダウンジャケットを着て現れた。スウェットといっても僕が部屋着にしているような類のものではなく、どちらも上等な生地で、細く締まった足首の先には蛍光色のラインが入ったスニーカーを履いている。
「ちなみに、給料いくらもらってんの?」
 僕の質問に高良は笑った。「ぶしつけやなあ」
 綺麗な歯並びだった。指摘して初めて、彼は直属の上司が関西の人間であることを教えてくれた。
「思ってたより元気そうやん」と高良は長い脚を組んで言った。僕もついつい真似をする。
「え、そう?」
「ははは。でもちょっと痩せたろ」
「かな」
「痩せたよ」
「もともと体重の増減激しいタイプだから」
クリスチャン・ベイルじゃん」
「それ言ったらそっちこそぽいよ」
「なんで?」
「『アメリカン・サイコ』っぽいよ」
「おまえ〜」
 高良はこの会話の間にジョッキをひとつ空にした。全身から放つ雰囲気……それこそ肌ツヤからして違う。代謝もいいに違いない。僕はいまこの瞬間も肩から背中にかけてが重いというのに。ビールのアルコールも、まだ高揚感にはつながらない。
「たまってるだろ」
「いや」
「ストレスのことだよ」
「ああ、そうか。てか今日その話していい?」
「むしろそのために連絡よこしたんじゃないの?」
「まあそうなんだけど一応ほら。せっかく来てくれたのに辛気臭い話はだって……だるいだろ?」
「平気だよ。おれは」
「そう?」
「だって俺は調子悪くないもん。良いし」
「えー。なんだよそれ」
「辛いほうが吐き出す。調子いいやつが受け止める。そういうことでしょ」
 もはやため息すら出ない。「痛み入ります」

「憑かれてるな」

 高良にそう言われて僕は固まってしまった。急だな、っていうかそういう話もうしたっけ? 喉の奥でうぐうと音がする。自分にだけ聞こえる音だといいな、と思った。
「なんでそれを」
 と、なんとかつぶやく僕を見て高良は「ん?」と首を前に落とす。
「ん?」
「いや……ん?」
「んん!?」
 混乱が音となって頭蓋の内側に溢れていると高良がやや距離のある笑みを浮かべる。
「ストップストップ。落ち着け。マジで疲れてんじゃん」
 と言われ、今度はするっと腑に落ちる。僕は自分の呼吸がやや浅くなっていることに気がついて、小さく笑いながらビールを飲む。軽く口に含む程度のつもりだったが、そのまま勢いがついて一気に飲み干す。大きく息を吐きだす。おしぼりの包みがテーブルの上を滑って小鉢にあたって回る。
「はは。ごめん。びっくりした。いや。ほら。いまちょっと言葉が……違う変換しちゃってさ」
「変換」
「つかれたって言葉。違う方のやつだと思っちゃって」
「……違う方って言うと」
「ほら、取り憑かれるとかの」
「あ〜」
「なんか妙にバチッとハマっちゃって。ごめんごめん」
「ははははは」
 とはじめは笑っていた高良だったが、急に腕を組み、お尻を前に引くことでテーブルの縁にぴたりと身体を寄せた。僕は質問を待った。
「え、そっち系でなんかあった?」
 僕は職場での作業時に起こる現象の数々や、一昨日の真夜中に遭遇した巨大な黒い墓石についても話す。職場の壁を殴って穴を開けてしまい、そこに書類を貼って隠していることや、夏海が部屋を出て行ったこと、前任者の作業ノートを隠し持っていること、前任者が三宅マネージャーに経歴を笑われひどく傷ついていたこと、ここのところ親知らずが痛いこと、夏海と新宿御苑にいったときの写真でオナニーをしてしまったこと、俺が俺であること、三宅マネージャーと付き合っている武田ちゃんのSNS非公開アカウントを知っていること、貯金がないこと、職場で人を殺してしまうんじゃないか不安であること、よそはよそであること、うちはうちであること、俺が俺であることとその証明について……。
 うんうんと相槌を絶やさない高良に喋っているうちに、僕は胸にすーっとした空気の通りを感じて、あれ? なんでしょうねこの話。高良は優しい声で「それはあかんな」などと言いながらも、なんだよ、ちょっと笑ってやがる。なので僕もひとまず笑っておこうと思う。二人して互いの雰囲気に飲まれてへらへらした笑いが止まらなくなり、気がつくと大声こそ出しはしないが僕も高良も肩を小刻みに上下させていた。息を切らした高良がビールを口に含んでむせ、僕が喉の奥からアザラシの屁みたいな音を出して前後に揺れていると、ついには括約筋が緩んで放屁した。放屁といえば、「屁」は「へ」なのに、「放屁」のときは「ひ」なんだな、ということを言うと、にんげんだってそうやん、と高良が言った。僕はやつのことをじっと眺めてみる。僕だって高良みたいに良い服が着たいのだ。あの肌ツヤがほしいし、引き締まった身体がほしいのだ。
「ところでおまえが見たっていうお墓なんだけどさ」
「うん」
「本当にお墓?」
「え、ほかになにかある?」
「別のなにか」
「別のなにかって?」
「羊羹とか」
 ありがとな、高良。
 それから高良は自分の仕事に関する話をする。取引先のパーティで知り合った政府関係者から、近々某国のミサイル発射をきっかけに第三次世界大戦が始まるとの話を聞いたらしい。冗談じゃないんだ、おれもおまえも跡形もなく吹き飛ぶんだよ、どうこうできる話じゃないよ、でも自分じゃどうにもできないことで、人生に関するあらゆる選択が必要なくなると思うと、すごく楽じゃない?
「そうだな。楽なのはだいたい好きだ」
 と僕は言った。な? せやろ? と高良の弾む声を浴びながら、僕は頬杖をついて目を閉じた。ああ、そうだ。僕は忘れないうちに、十年休み続けている友人について聞いてみる。高良は彼と仲がよかったはずだし、ついでに連絡先でも教えてもらえるんじゃないかという期待があった。なのに「ごめん」と高良は言った。
「ここ三年くらい連絡とってないよ。おまえとだってそうだったじゃん。仕事とかしだすとなかなかさ」
「まあそうかあ」
「でもたしかに、またみんなで集まりたいな」
「そうだな」
「あ、ふふふ。そうだほら、覚えてる?」と高良はガールズバーの女の子たちと開催した合コンの話をしたが、僕はそれに誘われていない。
店員が裏にして置いていった会計の紙に手をのせて、雑多なテーブルの上をしばらく眺めていた。それからちょっとだけ勇気を出して、僕は僕の期待を口にした。
「まだ休んでるといいな」
 高良はどこか寂しそうな顔で言った。
「だってあいつの天職だから」


 店を出てすぐの交差点で、彼は乗り継ぎ先の終電に間に合わないからと、彼女のマンションまでタクシーで向かうと言った。駅までの短い道のりだった。人はまだ大勢歩いていたし、街も明るかったが、気温だけはすっかり真夜中のそれで、僕らは肩を強張らせたまま足早に歩く。
「これからいくマンションの彼女、おれの知ってる人?」
「いや、知らない。知り合ったの今年入ってからだし」
 クラクションが鳴る。歩道を自転車が通り抜ける。
 僕は高良といっしょにマンションに行くこととなる。
 JRではなく西武池袋線に乗って数駅進むあいだ、高良は「リフレッシュしよう。働き方改革だよ」と弾んだ声で言う。有給は一年で五日消化、いつかしようか、わはは。僕はそこまで酔っていない。妙に気持ちが据わっている。なぜ高良は終電のない僕を誘ったのだろう。はっきりと聞いてはいないが、ちゃんと泊めてくれるんだろうか? でもこれからこいつ、彼女の部屋に行くんであって、僕がいきなり登場して、こんな時間だし彼女は絶対迷惑がるはずだ。そもそも終電ないから寄るのはせいぜい彼氏が限界だろう。彼氏の友達は、邪魔だろう。ウザいだろう。じゃあ僕はどうすればいいのだ。ネカフェか? まあいいか。きょうの飲み代は高良が多めに払ってくれたわけだし、ネカフェ代の捻出くらい持ち合わせで十分だけど、だったらそもそもこうやって高良についていくことなく、断って帰ってりゃよかったってことにならないか。あーあ。いまさらなにも言い出せない。飲み込んだ言葉は、空気に触れた途端異臭を発してしまうのだ。
 駅についてすぐ高良はタクシーを拾い、フランス語と日本語の地名が連なった言葉を運転手に伝えた。迷わずタクシーが発車したので、そのマンションの住人はよくタクシーを利用する層であることがわかった。それだけリッチな生活に身を置く女の人なら、真夜中の訪問者を意外とおおらかに受け入れてくれるのかもしれない。いや、人によるか。人によるのだ。僕はまた憂鬱な気分になってきて車窓からの景色がまったく頭に入らない。タクシーが停車すると、そこには五階建ての、灰色の、暖色の街灯の、静かな住宅街にも景観的にしっくりと馴染んだ建物があった。高良は支払いをすませると、勝手についてこいといった歩速でエントランスまで歩き出す。不意に暗い道の奥からジョギングウェアを着た男が現れ、僕がギョッとして固まっていると、その男は高良を追い越すようにエントランスの自動ドアを抜けた。高良はその男に「こんばんは」と深夜にしては爽やかに挨拶をする。振り返る男は四十代ほどで、軽い会釈を返しつつ、テンキーに数字を打ち込んでいる。いいエントランスだな。痛いほど鼓動する心臓を無視して僕は腕を組んだのだが、高良が開錠した男の後ろをそのままついていくので、僕も慌てて後を追う。すると高良が、ジョギング男に話しかける。
「ユウキさん。こいつ、おれの友達で、真山です」
「ああ、どうも」
 僕は慌てて会釈する。「あどうも真山です」結城さん?
 結城さんは僕とは目も合わせず、先頭を歩きながら高良に言う。「もう準備はできてるんで」
「あ、そっすか。ありがとうございます。じゃあ」と言って僕を見る高良。「ちょっといい?」
「どうしたの?」
「いや、じつはおれと結城さんよくいっしょに遊んでて。それに今日は真山もどうかな〜ってことでじつは今日誘ったんだよね」
「あ、そうなの?」僕は高良の彼女についてなにか言ってしまいそうになるも、ついつい言葉を飲み込んでしまった。
「真山さ、別にエロいこととか大丈夫でしょ?」
「大丈夫って言うと?」
「あいや、好きでしょ?」
「好きだけど、エロいことすんの?」
 僕の言葉に結城さんが肩を上下させ、こちらを振り返った。笑顔。
「なにその会話、面白いんだけど」
 高良も笑う。
 エレベーターに乗った。僕はなにも喋らなかった。高良は首をぐりっと回したり、上下させたりしている。なに身体温めてんだこいつ。僕は出勤前と似たような気分に侵食されていく。

    一年ほど休みがほしい。

 通されたマンションの部屋のベッドには横になった女の人が一人、僕より若いか同じくらいか、動いたり喋ったりする姿をしらないので判断が難しい。彼女は掛け布団の上にそのまま横になっていて、服はフォーマルなビジネススーツっぽく、というかリクルートスーツにも思えてきて、部屋は広いが最低限の家具しかなく、高良は「たまにしか使わないからきれいでしょ」と言った。結城さんは、じゃあまあ、いつものかんじでいいですかね、とそこで初めて僕の目を見て言うが、その判断をあおぐのなら僕じゃなく高良でしょう。僕はなにも知らない。彼女が全然目を覚まさない理由も知らない。ふたりが彼女を起こさないよう気をつけている様子も感じていない。結城さんが「なにか飲みますか?」と言った。そうっすね、と高良が言った。「おれらけっこう酒入ってるもんな」
「この子も酔ってるんですか?」
 僕の言葉に高良が口をひん曲げてみせると、結城さんが「酔って……うーん」と呟きながらミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から取り出してくる。
「どっちかって言うと疲れて寝ちゃってる。若いのに体力ねーよな」
 気がつくと結城さんが下を脱いでいて、地面と水平になった陰茎をゆらゆら揺らしながらベッドに膝をつく。「ごめん、今日はお客さんいるけど、おれ一番最初でいい?」
「あ、真山どうする?」と高良。僕は結城さんのチンチンを視界の隅におきながら、一向に目を醒ます気配のない女の子を見つめる。気がつくと高良も上を脱いでいて、まず蜘蛛の巣のようなその腹筋に目を奪われるが、彼が手にするのは持ち運び可能な電動式のペニスで、僕は思わず声を漏らす。
「ん? どうする真山」
 夏海、僕はどうすればいい?
 この場合の迷いが、どのような選択肢の間で行われているか、君がちゃんとわかってくれているといいな。
 僕にはわからないふりを続けるクセがあるようだ。タスクの先延ばし。ToDoリストを作成する。終わった順に線を引く。まずはなんだ? わからないふりをやめることだ。わからないふりをやめることの意味がわからないふりを防ぐため、先に斜線を引いて後戻りを封じろ。僕は一歩前進した。実際に僕はベッドに一歩近づいて、女の子のスーツを脱がしにかかる結城さんの真剣な横顔を見つめる。

 

・高良からバイブを受け取る
 
 斜線。

 

「うお、めっちゃ乗り気やん。いいねいいね。あ、でもローションちゃんとぬってあげなよ」

 

・ローションのボトルを受け取る

 

 斜線。

 

「ぬるぬる! ぬるぬる!」

 

・結城さんの背後に回る

 

 斜線。

 

「すみません結城さん、ちょっと真山が軽く」

・頭部以外への攻撃(腰のあたりに急所あり)

 

 斜線。

 

「おい!」

 

・ローションをまく

 

 斜線。

 

「うそやろこいつ」

 

・二対一を避けるため、結城さんに集中する
 
 斜線。

 

「こら、おい! くそが、やめろ! やめろって、真山! おい!」

 

・高良と絶交する(頭も可)

 

 斜線。

 

「おまえなめんなよまじでおらあ! なにしてくれとんねん! あぶな……やめとけ真山、ばっちいのついてるだろそれは、な? あ! それはふつうに鈍器だから死っ……おおい! なあ真山おまえ混乱してるだろ? 混乱してるよおまえ、ストレスで大変だもんな、わかるよ真山、仕事なんかいくらでもあるからほら、おれもなにか力になれるから……ていうかおいなっただろさっき! おまえのために色々してやっただろ! ここもおまえならと思って連れてきたんじゃん! なのにそんな、っぶな! 投げるな! 振るな……おいおいもう結城さん動けないのわかるだろ! やめろ真山! 結城さん! 起きてください! 大丈夫ですか! 聞こえますか!」
「うう〜……」
「結城さん! 立てますか! おい真山やめろ! くそ! おい、どこいくんだよてめえ! いって! まてよコラ! 逃すかよ殺すぞ、ふつうに! いや、ふつうに殺すぞ! 殺すって、まてまてまて、いてて、うお、すべるすべる、真山ちょっと待って、話そうちゃんと、話そうよ、ともだちじゃん、こんなんなっちゃったけど、おれおまえのこと好きだぜふつうに、なあ? 真山あ。その子はもう返していいよ、でも真山はちょっと待ってよ、あ、そうそう待って、はなそうはなそう、しっかりとコミュニケーションを、よっし、戻ってきたなてめえ殺す、殺す殺す殺す殺す、やめ、ごめんごめん、待って! ごめんごめんごめんごめん、いって、あ! あ、おえ、やめへ! ぶおおおおおおおおおおお、ぶおおおおおおおおおお! っぽ、へえええええええ」
「うう……高良〜……」
「つうううううううううう、つうううううううううううううう」

 

・現場の写真を撮る

 

 斜線。

 

・ふたりのスマホを回収する

 

 斜線。

 

・救急車を呼ぶ

 

 斜線。

 

・ネカフェを探す

 

 斜線。

 

・六時間パックなので、目覚ましをセットする

 

 

 

 

 

 

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 お昼休み、休憩室のテレビでニュースを見ていると武田ちゃんが入ってくる。入って早々、彼女は「真山さんいい匂いしますね」と言った。
「これなんの匂いですか?」
「今日は森林の香り」
 僕は衣類用消臭剤を振りまく手振りをしてみせた。愛想笑いの彼女はケトルに水を入れ、そのスイッチを入れてしばらくシンクに手をついたあと、「お腹すいた」と小さく呟く。武田ちゃんはアニメに出てくるような声をしている。三宅マネージャーはオタクっぽいので、きっと武田ちゃんのこういうところも好きなのかもしれないな、と僕は思った。ちなみに月村さんからの最新情報では、彼女はもう三宅マネージャーとは付き合っていないらしい。SNSのアカウントも削除されていた。僕はまだ三宅マネージャーを殺したい。
 ケトルからマグカップにお湯を注ぐ武田ちゃんが、沈黙を気にしているように見えたので、僕は僕でテレビを注視しているふりをした。児童虐待の容疑で30代の夫婦が逮捕された。警察が女児を保護するに至ったきっかけとして、ある男性の勇敢な行動が紹介されていた。その男性がインタビューに答えている。


「日頃から……そうですね、泣き声とかは気になっていました。迂闊に動くのもどうかなとは思いつつ、万が一の可能性を見過ごしてしまう方が危険に感じたので。それでちょうど、私は現在仕事を休んでいる状態でしたので、まとまった時間がありましたし、児童福祉関連の施設や通告義務、保護の過程などをネットで調べまして、結果的には普通に110番通報したんですが……」


 不意に「聞きました?」と武田ちゃんが言った。なにを? 「月村さんと高尾さんの話です」と彼女は声を潜めた。
「不倫してるみたいですよ」
「え、そうなんだ」
「でもただの噂です」
「へえ」
 僕は武田ちゃんに「好きなの見ていいよ」とリモコンを渡して休憩室を後にする。作業場まで戻るのに階段を使うようになった。肩で息をしながらテンキーに指を伸ばした僕はすぐに思いとどまり、腰にさげた道具入れから衣類用消臭剤の霧吹きを手に取る。
 午後も無事終えられますように。
 今日は勤務終了後に面談がある。
 正中線をなぞるように一吹き。森林の香りには、脳のもやを晴らす効果がある気がする。
 もやか。作業台の下に、エアダスターの空き缶が大量につまれてあったのでそのガス抜きを行うことにした。ぜんぶで何本だ? 数えながらふと、夏海に謝らなきゃなと思う。いやいや、ふと思ったわけじゃない。ずっと思っている。謝らなきゃ。もっとちゃんと。ちゃんとってなんだろう? という自問で逃げる事は絶対に許さない。夏海に会いに行かなくちゃならない。夏海に会うには休みがいる。休みを得るには、仕事を片付けなくてはならない。
 どうしたもんかねえ。数本目のエアダスターのガスを抜きながら、そういやこれって可燃性だよな、と思う。作業台のパソコンが、ぱぼん、と音を立てた。

 

 

 



 

 

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今週短歌(1/21〜1/27)

 

 

 

ため息を浴びたパソコン構われずやがてうっすら顔色翳り

 

 

丸まる背伸ばして気づく壁のシミもう続きのない家系図みたいで

 

 

長押しで全消しされた我が願い よかったとっくにツイートしてて

 

 

億劫と戯れ飽きた三十路前 また自慰行為に二時間かけて

 

 

インスタで見つけた画像触れたくて指紋で汚れたハートの点滅

 


つゆだくの窓のひかりのつぶどもが配信ドラマをきらきら邪魔する

 


中学生らしきカップル手をつなぎ互いの太ももさするはスタバ

 

 

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書き下ろし短編一覧(2024年1月20日更新)

 

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新年あけましておめでとうございます。無職は親戚の集まりに向かいます。

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人生の換気を行います。

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あるいは、その衝動。

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誰かがやるのを待ってちゃ、人生終わっちゃう気がするんです。

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焼肉は陰謀のはじまり──。

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サヨナラ。守ってばかりの自分。

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そうです先生。全員殺します。

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おれは無職。環奈のヒモ。もうひとりの「おれ」が現れ、愛の祈りが次元を超える。

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卒業間近の放課後。僕は学ランを探して校内を彷徨う──。

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雨音と独白。その刹那。

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気が向けば、世界の複雑さについて考えてみてもいい気がします。

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むしゃくしゃする!かかってこいよ!

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叶わぬ恋にはもう慣れたよ。飽きてるし。

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愛だっつってんの。四の五の言うな。

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お祓いできる人とか知ってたら、教えてよ。

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放蕩を続ける無職の親友、その残像に蝕まれていく「おれ」──。

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亜矢子ちゃん大好き大好き大好き……!

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圧縮された暴力と親愛。

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過労と混沌、ささやかな連帯。

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一着のジャケットがもたらす、予感に満ちた日々ときらめき。

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埼玉県北部にて繰り広げられる殺人、徒労、そして反撃……。

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ある労働者の独白と衝動。

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悪に支配された我が家に、大胆不敵な帰宅を試みる「わたし」──。

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愛のしるし』、そして──。

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あなたにできることをしてください。

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文芸部はかくかたりき。

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おれの吐く息はもう雲の上にある。

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最終回はたぶんこない。

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たーがしーじゃか?と彼。

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書き下ろし掌編:『Beat inside the bush』

 

 

 

須藤さんと飲むのが好き。好き好き。好きなの。うふふん。須藤さんは職場の先輩だった人。過去形なのは転職してしまったから。面接の際に、うちの職場の待遇のヤバさを不採用覚悟で愚痴ってみたら同情を買って親身になってもらえたとか話していた。須藤さんにはそういう気持ちのいい正直さがある。だからほぼ毎週飲んでる。てか、須藤さんの転職先はうちよりもずっと待遇がいいらしく、しょうじき羨ましい。か~。やだやだ。悔しいのでビールいいですか? あっし飲みますので。須藤さんも「どんどん飲みな飲みな痛風だけは気をつけな~」と言ってくれるので、うふふふふふ、じゃあもういっぱいだけ、中ジョッキで。須藤さんと飲むときは決まって割り勘だけど、転職してからは羽振りがいいので、いつもちょっと多めに出してくれる。ので、申し訳ない。いや、やっぱありがたい。マジ超好き!

 

みたいなテンションも近くに座る大学生軍団の大声にかき消される。でけえバッグ大量に並べてるところからしてテニサーか? テニサーだね。コールしてますね。コールしてるね、若いね若いね。声量やっば。みたいな感じで私たちが枝豆ほじくりながら話すのは、私の職場にいる安達健さんについて。新卒採用でうちの会社に入って数年、私よりもふたつ歳下だけどいまではマネージャー的ポジションについていて、休日は積極的に社長と食事とかゴルフに行ったりするような、そういうタイプの社員。まあ一言で説明できちゃうんだけどいまちょっと言葉出てこないので私は自分の手を重ね併せてすりすりすり……。背はそんなに高くないけど色白で髪が真っ黒で、実年齢よりもちょっと幼く見える。実年齢よりもちょっと幼く感じるのはなにも見た目だけの話じゃなく、未だに全然学生っぽい言動を見せるので、こっちもそんなに気をつかうことなく接することができるっちゃできる。といっても安達さんはたぶん家とかではネットばっかり見てるタイプの人っぽいので、ネット用語的な言葉が会話の端々で突然とびだしたりと、そういうノリはちょっと寒いと思うが、まあ、それはいま一旦置いておこう。大事なのは、今日出勤した彼の首に、赤いキスマークがついていたという点だ。

 

安達さんは違う部署で同い年の北川紗矢華ちゃんと付き合っているが、本人的にはそれを秘密にしているつもりみたい。でもみんな知ってる。私は朝の通勤時に、駅から職場までの道のりで前を歩くふたりが腕を組んでいるのを観たことがあったし、須藤さんは駅構内にあるカフェで二人がモーニングをとっているところを観たことがあるらしい。

 

私はいまの会社に転職して研修時に会ったときから北川紗矢華ちゃんのことが苦手だ。なんというか、彼女のなぞっている「女子」像が幼く感じるのだ。小学生のころいた、いじわるな子って感じで、物事や人に対していちいち現金なところがある。そういう振る舞いに義務感でも感じてるの? とすら思うときもある。

 

ちなみに北川さんは安達さんと違う部署なので、例のキスマークは安達さんと同じ部署の女達に対する牽制の意味もあるんじゃなくって? と須藤さんが言うのを聞いてなにかがいやに腑に落ちる。そもそも彼ピッピの首にキスマークって、マーキングだよね? ひえ~。うちのダーリンだっちゃ? あの女~! とゲラゲラ笑っていると心が急に罪悪感との均衡をとろうと働いたのか、私は自分の話を始める。

 

「でも気持ちはわかるんですよ。私も大学のころ付き合っていた彼氏にキスマークつけようとしたことありますもん」

 

「あ、そうそう。気持ちはね、私だってわかる。ただ百歩譲って学生ならね。仕事でそれするか~と思うんであって」と須藤さん。それですね~まさに。

 

「でもでも、私のとき、学生ですけど、彼氏は嫌がりましたよ。いやいや、首だと見えるじゃん。見せるためにやってるじゃんって。まあそりゃそうじゃん、と思いましたけどね。でも確かにあのときは彼氏の言うことが冷静でしたね。ダサいっすもんね。あぶね~」

 

「そうそう、もう見せつけが先に来てるから、彼氏も気分よくないんじゃないの? よっぽどおめでたくないかぎりは」

 

「ですよね。ってことはじゃあ、安達さんはおめでたいってことですね」

 

「そりゃ安達さんはおめでたいよ」

 

「かかか、あ、だってほら。まえ話したっけな。安達さん、自分が友達と飲んだときに撮った動画とか見せてくるんですよ。し、か、も! 見せる前に『おれの友達、マジでばかでさ~』みたいなこと言って! そう言われてから見せられるもの、だいたいリアクションに困らないですか?」

 

「わかる無理~」

 

「いや普通に若い男の子たちがギャハギャハ笑ってるだけのなに言ってるのかもわからない動画ですよ? 人に見せるものじゃないですって。しまえしまえ」

 

「安達さんね~、そこも学生っぽいよね、結局」

 

新しいビールが到着した。泡の涼しげな苦味で口の中を満たす。ジョッキの表面を覆う霜に、指先で丸を描いてみる。キスマークがダメなら、じゃあなんならいいのか、そもそもマーキングが必要なくなるにはどうすればいいのか? お酒が回って私も須藤さんも「あれ」とか「みたいな感じ」とか「なんとか」を多用するので、まったく話が深みを得ない。

 

はは、深みって。

 

深み、要るか? 要りません。だって話はぐるぐる迂回しながらもちゃんと進展し、私に大事な経験を思い出させてくれたから。脳の片隅に置きっぱにしていたものに、ようやく光が当てられたのです。わかる? 私はわかる。

 

愛のあるセックスについて。

 

私が口に出した途端、須藤さんは口を放した風船みたいに笑い始めるが、私は自分の発した言葉の響きにハッとして固まる。あ、あああ愛のあるセックス? ワオ~。素面だったら即死だった。

 

でも私は知っている。愛のあるセックスについて。だからこそ、ここで私は笑わなかった。この言葉の強度を信じられているから。

 

もちろんキスマークを残そうとしたような私だ。当時の彼氏とて、キスマークを断ったというだけで、ちょっとAVっぽい真似をしてみたいという提案なんかはわりとしてきて、私もまんざらじゃなかったので、エッチな下着をつけて相互オナニーとかした。穿いているパンツに射精もされた。私のことを笑っている須藤さんだが、本格的に奔放なのは須藤さんのほうだと私は思っている。最近いつセックスしました? と聞こうと思っていると、ふと須藤さんが神妙な顔で「私ね」と言った。

 

須藤さんは潮を吹けるタイプらしい。

 

潮吹きって痛いって聞くけど実際はどうなんだろう?

 

でもお気に入りのAV女優は潮吹きを売りにしているけど毎度「気持ちいい~!」と言いながら吹いているから、痛いなんて嘘なのかなと思っている。須藤さんにも聞いてみようかな。でもそれはちょっと違う気もする。いまは喉にストッパーがかかっていて、質問を投げられない。

 

私は潮を吹いたことはない。

 

「やっぱ潮吹くときって『イク~!』とか言うんですか?」

 

 という私の質問に、須藤さんは首を傾げる。

 

「え、でもあんまり『いく』とか言わなくない? キムは言う?」

 

いわれてみればそうか。「言わないっすね」

 

「いくときは基本黙ってるね」

 

「黙~……まあそうですね」

 

でも潮を吹くことが究極の絶頂というわけではない的なことを、以前どこかで読んだことがあるので、あまり悔しくはない。まあ比べることでもないのか。だってべつに潮は吹けなくていい。もちろん、わざわざ告白してくれた須藤さんの前では言わないけど。

 

だってね須藤さん。私一回だけあるんです。どうしても忘れられないことが。

 

ビールのジョッキについた霜がとけて水滴となり、私の描いた丸の上に一本の筋をつくっている。あれ、急に静かになって。ちょっと須藤さん、聞いてますか? ていうか起きてますか? 聞いてくださいよ。私、大学時代に彼氏とセックスして、一回だけ、もう二度とないんじゃないかってくらいめちゃくちゃ幸せで、絶頂のとき思わず叫んじゃったんですよ。どうしても伝えたくて。なんて言ったと思います?

 

優しい、って言いました。

 

その瞬間、テニサー軍団から爆発的哄笑が沸き起こり、私の言葉よりも優先的に須藤さんの鼓膜と脳がそっちに反応しちゃう。そんで私は須藤さんからサイパン土産であるリップクリームとハードロックカフェTシャツをもらった。めちゃくちゃ嬉しかったので「優しい~!」と一応言ってみたものの、須藤さんには私なりの文脈では伝わらなかったみたいです。

 

 

 

 

 

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書き下ろし掌編:『Midnight Invincible Chilldren』

 

うわ~終わった~。

定額制のアダルトサイトに登録したら最初の二週間は無料とのことだったので、その間にAV観まくって有料期間になる前に退会しようかな、へへへと目論んでいたぼくはここにきてあろうことか恋をした。企画物の女優さん。名前がわからない。なんかソファーに座って軽くインタビューを受けているシーンでは「あき」って名乗っているけど、名字は何なのか、仮に名字はないとして、「あき」がひらがな表記でいいのかカタカナなのか、漢字だとしたらどう書くのか、もしかすると「AKI」かもしれない。はあ~? どう検索すればこの女優さんの他の作品ディグれるの? ぼくはブックマークから企画モノなどに出演している素人系女優の名前を検索する専門のサイトを開いた。作品名ならわかっている。それを打ち込んで出てきた情報をしらみつぶしにしていくと、どうもぼくの観た作品は長く続いている人気シリーズの総集編だったらしく、お目当ての女優さんは本来そのシリーズのVol.18に出演しているとのこと。じゃあVol.18で検索。出演者、の、名、前……出た! あれ? 計六名の女優さんが出演している作品なのだが、出てきたのは五名分の名前だけで、まあ六分の五ならたどり着けるだろうとひとりひとりをググッて画像で顔を確認していく。違う、違う、違う……ときてあれえこれもしかしていなくない? ぼくがのけぞると安もんのワーキングチェアがぎいいっと騒ぐ。よりにもよって六分の一で情報のない女優さんに恋をしてしまうなんて。さらに不幸は重なる。無料期間は残り一日なのだ……という意味での「終わった~」でした。

 

いや、始まってもねえわ。

坂本にLINEする。

 

 

〈最近のAV女優さんに詳しい?〉 既読

 

 

《なんで急に笑》

 

 

なんでいつも笑ってんだこいつは。まあいいか。

 

 

〈企画物に出ている人なんだけど名前が出ないの。専門の検索サイトにもなかった。協力おねがいです〉 既読

〈商品ページURL〉 既読

 

 

《この中のだれ?》

 

 

と質問されてぼくはためらう。

例えば恋バナをしていたとして、だれが好きなの? と聞かれて即答できるタイプの人間じゃないのである。「あき」って人はどちらかというと顔が丸くて鼻も丸くてちょっと垢抜けない感じの女優さんだ。もちろんそこが超可愛いのだが、ほかの人がどう思うのかはちょっと気になるところだ。というのもぼくは高校のころの「オススメAV女優を発表しあう会」にて、ガチな熟女系の女優を発表し、場を困惑させた前科があるのだ。また思い出しちゃった。みんな高校生で臆病だったってのもあるだろうけど、露骨なほど狼狽した面々にたいへんなショックを受けたのだ。そのときの心の傷は、いまだ滲出液でてらてらしているというのに……。

 

なんて怯えているぼくの返信を待たずに、坂本からURLが送られてくる。

 

 

《検索したら5人出てきた。この中にいる?》

 

 

そこには、さっきのぼくがたどり着いた五名と同じ名が並んでいた。

 

 

〈おれもそこまでは調べられたんだけど、5人の中にいないの泣〉 既読

 

 

《まじか。おけ》

《ちょっとまって》

 

 

頼もしい。

もうちょっと自分でも調べてみるかと、再度あらゆる検索ワードを捻出していると、LINEがくる。

が、坂本じゃない。

加藤。

うわ、久しぶり。高校卒業して最初の夏に会った以来じゃないっけ?

 

 

《藤沼ゆうじゃない?》

 

 

加藤の文面を長押しして検索する。藤沼ゆう。いや美人だけどこういうタイプの顔じゃないんだよなあ……。もっと味のある顔なのだ。っていうか坂本のやつ、加藤にも連絡したのか。うお~、ちょっと恥ずかしいけど懐かしい~。っていうかいまふと気づいたが、ぼくは彼女がインタビューシーンで「あき」と名乗っていたことを先に伝えるべきだ。早速坂本と加藤にそのことを送信。

 

 

《なるほど》

 

 

《了解》

 

 

頼もしい二人です。と思っていると三人目からのLINE。

 

 

《キカ単女優の場合、名前が複数あったりするからなあ。月本希美は?》

 

 

誰やねん。

LINEの登録名も「たー」だし。ぼくは一応、月本希美で検索する。顔を見た限り……。

ぼくはまた背もたれをぎいぎい鳴らす。どうしてこんなにも遠いんだ。

 

 

〈ありがとう。でも違うみたいです…〉

 

 

念のため敬語……。既読がつくのを確認するまえに坂本に質問を飛ばす。

 

 

〈たーって誰?〉 既読

 

 

《あれ? 久留米だよ。知らない?》

 

 

え! 

マジか! 

久留米嵩!

懐かしい~。LINEやってたんだ。もっと早く知りたかったなあ。ぼくは束の間、スマホの画面を眺めながら胸の内側でたっぷりふくらんだ郷愁にひたる。背もたれをぎっこぎっこ鳴らしながらイスを回転させ、すぐそばの窓に向き直る。夜気にのって虫の声が届く。月ははっきり光を放ち、周囲の雲を浮かび上がらせている。坂本とは定期的に連絡をとっているとはいえ、加藤に久留米と、ちょっとした同窓会のような気分になったぼくは久留米に話しかけてみる。

 

 

〈ていうか久しぶり。元気? おれは元気~〉 既読

 

 

《だろうね。久しぶり~~~》

 

 

〈久々に話すのがこんな内容ですまぬ〉 既読

 

 

《まあ大事なことだから》

 

 

……痛み入る。

それから「あき」さんそっちのけでぼくは久留米と近況報告をしあう。彼女できた? できてない。大学どう? 夏休みどうすんの? などと話していると、加藤から上原亜衣とのLINE。はあ~? なに急にやる気なくしてんのこの人~、ってかまあいいのかやる気なんてなくたって。ここまで付き合ってくれただけで、ぼくは嬉しいんだもの。

 

で、結局ぼくはこの四人でグループを作る。みんなで夏休みの予定を出し合い、帰省のタイミングを調整してどこかで四人集まれたらいいねと話している。他にだれ帰ってくるのかな。クラス会とか企画しないのかな、などと話していると、急に加藤が《花火!》といいだし、一枚の写真を上げた。

 

写り込んだ民家の屋根らしきものがちょうど夜空を四角に切り取っているその写真には、星空に伸びた花火の軌跡が、重なり合い、消えかけていた。

 

ぼくはAV女優を五十音順にリストアップしたサイトに並ぶ女優の顔と名前を流し見ている。レーベルごとに区分けできるので、ぼくは「あき」さんの出演している作品のレーベル名を打ち込み、出演女優一覧をぼんやりと眺めた。そのサイトには女優さんのプロフィールとして、スリーサイズとバストのカップまで表記されている。ふと思い出してみるに、「あき」さんの胸は比較的小ぶりな印象であり、特筆すべきポイントはあのパンと張ったお尻なわけで、そのあたりも念頭に置きつつ画面をスクロールしていく。

 

その中にひとり、愛らしい鼻をした女の人を見つけた。バストサイズは八十のD。うお。マジか。ぼくは手元にあった紙のはしにボールペンで「宮崎あき」とメモする。その他にも別名義として「白石きき」とか「忽那りな」などの名前もある。名字と下の名が、ぜんぶ脚韻を踏んでいるな。別タブで出演作品一覧も開く。あ、少ない……し、早々にアナルを解禁している、というか、それが引退作品らしい。ぼくはアナルプレイにはそんなに興味がないし、この待遇はちょっと納得がいかない。

 

でもぼくの納得に関係なく、世界は進み続けるのだ。

 

無数の暴力がいま、いま、いま、いまこの瞬間にだって誕生し、その結果をもたらしている。結果は派生し、新たな流れを生む。無数の文脈が世界に張り巡らされ、この星、なんなら宇宙にまで影響を及ぼす小さな種に、また水を与えるのだ。

 

ぼくは切なくなる。でも少しだけだ。ここで少しなのは、すべてを理解するにはぼくの心や頭の出来が脆弱すぎるからなのだろう。せめてもの願いは、和姦だ。いやらしかろうと、そこに愛があれば、どれだけいいか。もうすでに引退しているっぽい彼女の、和姦系の作品を支持し続けよう。ぼくのその選択により、また新たな未来が、止めようもなかった悪しきレールを外れ、光の道をつくるかもしれない──。

 

洗面台で手を洗い、ベッドで横になりながらスマホをいじる。「あき」さんのことは、坂本たちには内緒にしておこう。ぼくはもう無料期間の終了にも戸惑わない。

 

あのころと同じにおいがする。

 

ちょっと目を離していた隙に、三人は「サッカー部・野球部のイケイケメンバーが帰省時にペンションを借りて乱交パーティーを開催するらしい」「女子は誰々集まるのか」「それは本当に合意の上なのか」「お酒を飲ませて行為に及べば準強姦にあたる」「準強姦は、強姦のソフトなやつという意味ではなく、罪の重さ的には同じ、れっきとした凶悪犯罪」「じいちゃんのマニュアル車なら出せる」「マニュアル車は久留米しか運転できないので、ドライバーは久留米」という話をしていた。そして、いくつもの《どうする?》スマホ画面に並んだまま会話が止まっている。

 

あ、ぼくの意見を待ってくれているのだ。

 

おいおいマジか。ぼくは思う。いつまで高校時代のマインドを引きずってるんだっての、こいつらは。どうするったってそんな。ぼくはスマホで時計を見る。え! もう2時半。時間こえ~。

 

 

 

そりゃ行きますよ。

 

 

全員ぶっ殺そうぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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書き下ろし掌編:『ウキウキ、キックミーアップ!』

 

 

眠れぬ夜をこえて迎えた朝に、俺は思う。眠すぎる。これ以外思いようがないので、ベッドから降り立ったさいの、ぺたりとした足の裏の感触や、背中一面を覆う鈍重な後ろめたさに気分をかすかに上下させつつ、カーテンを開け、朝陽を浴びた。するとどうだろう。これは合図だ、と言わんばかりに頭が冴えてきて、冴えたら冴えたでもうなにもかもが嫌になって、そのなにもかも、例えば今日一日にやるべきこと……というかやっておいたほうがいいこと、例えばなんの気なしに触れた乳首に生えている硬い毛を抜くとか、まあその程度のことなんだけど、ってことはなんだ? 俺はべつになすべきことなどほとんどもたないのである。仕事してないし。ならばなぜ早く起きたのかというと、睡魔を上回る飢餓感に襲われたからだ。そもそも空腹だったから眠れなかったのかもしれないし、だったら今日は腹いっぱいにものを食べ、爆睡してやろう。後のことはもう知らない。たっぷり睡眠をとった、未来の自分に任せます。そう決めてしまえば、途端にこの一日が輝かしいものに見えてきた。いまからアイスコーヒーでも飲んで、なすべきことを探そう。俺は自由で、自由は無敵だ。誰でもいいからかかってこい。

 

その意気込みが態度に現れていたのか、散歩がてら立ち寄ったコンビニでニッカボッカを穿いた赤ん坊のように小さな目をした男に舌打ちされた。道を塞いでいたからだと思う。確かにこちらが悪い。でも、態度が不快だ。頭に血が上ったままおりてこない。殺してえ。こんなことならもっとちゃんと眠っていればよかった。おさまらない怒りも睡眠不足が原因なのだろう。睡眠は大事だ。カフェインの含まれたアイスコーヒーなんて飲んでいる場合じゃない。帰り道、八つ当たりも兼ねて半分ほど残ったコーヒーを道端に撒いてみた。すると犬を散歩中の、定年退職を迎えたばかりで、髪が薄く、黒縁の眼鏡をかけ、ラコステの鮮やかなグリーンのポロシャツを着た男に舌打ちをされた。真っ白でふわふわの大型犬を連れていて、はねたコーヒーで犬が汚れるのを懸念したのかもしれない。でも俺は頭に血が上っているので、ロジックでの理解を上回る怒りにより、はっきりと表情を歪めた。向こうは向こうで、朝からなんて男に会ってしまったんだと言わんばかりに、顔を歪め返してきた。鼻の穴がむず痒くてしかたがないというような、目も当てられない表情だった。こらえきれず、叫んだ。

 

「でけえ犬だなおい!」

 

家もでかくねえと飼えねえよな! いい気なもんだぜ……。

 

それから家に帰って八時間寝た。

 

寝起きに頬を撫でたそよ風が心地よく、急に自分が嫌になり、大声を上げて泣いた。

 

 

 

聞こえますか。

 

 

 

いつでも遊びに来てください。

 

 

 

 

 

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書き下ろし掌編:『歓迎』

 

 

 

はい、雨。

 

六月の二周目辺りから続く雨が急に止んで真夏のような晴天が広がったのが昨日で、慌てて洗濯をした。あっという間に乾いた衣類をとりこみながら、いよいよ迎えるであろう梅雨明けを期待したってのに、早朝の雨音で気分が死んで、睡魔も長く居座る羽目となった。ばかやろう。もう知らない。どうせ今日は休みだし。

 

昼になって、ようやく湿気った布団から抜けだした私は、冷蔵庫に何もないことを思い出し、でもお腹は空いている、なのに雨が降っていて、ついでに昨日はシャワーすら浴びずに寝てしまっていたことも振りかえり、部屋の真ん中で立ち呆ける。とりあえずスマホを手にとってアパレルメーカー系の配信メールを削除していき、LINEのニュースアカウントの見出しだけを流し見て、テレビにするかラジオにするかで迷う。テレビをつけてしまうともうしばらく動くことをやめてしまうだろう。決めることすら後回しにしてシャワーを浴びる。顔を押し付けたバスタオルからは、くっさ、部屋中の湿気を吸ったような重いにおいがする。

 

ここのところ、人からの連絡が減った。もちろん仕事関係の連絡ならたま~に入ってくることもあるが、わたし個人への連絡はない。ちょっと前までやっていたマッチングアプリも退会した途端、自分の本来持つあらゆる面での気のなさが可視化されたように余白が増えた。他者の存在が生活から遠のくことで、わたしの怠惰の自由度も増したというわけだ。そりゃこの部屋も汚えわ。掃除しよ。

 

ラジオを流し、洗濯機を回した。食器も洗う。時間にするとひとつひとつが五分とかからないのに、そんな五分のために数日億劫な景色を拝むことを受け入れているのだ。目覚めてから時間が経ったことによって少しずつ頭が冴えてくる。わたしは思う。過去の自分に、このおばかさん。フローリングをワイパーで拭いた。積まれたままの服もハンガーにかけていく。ラジオからは二度目の交通情報が流れた。そうだよ、お腹空いていたんだ。ちょっとだけ息の切れたわたしは腰を反らせてから、最寄りのコンビニまで歩くことを決める。

 

もうひとりで外を歩くのも平気になった。とはいえ、雨の日は緊張が蘇る。雨音のせいで周囲の物音がかき消されてしまうから、何度も足を早めたり、振り返ったり、道を外れたりを繰り返す。もうそろそろこの名残だって消えていくのかもしれない。わたしは、恐怖を抱くことで気持ちの均衡を保っていた。均衡が安定しつつあるいま、わたしがあの経験に対して思うのは、ささやかながら、懐かしさとすら言えそうだ。

 

掃除のさなか、決まってわたしはあの手紙が通帳らと一緒に抽斗の中に収まっているかを確認する。勝手に動くはずがないのに、いつかふっと消えてしまうんじゃないかという疑念がつきまとっている。ボールペンをサッと走らせただけの文字で「先生、ありがとうございました。」とだけ、名前すらなかったが、わたしはそれが誰からのものなのかすぐにわかった。

 

いくらわたしとて、初めは変な人だなと思っていた。しばらく連絡を取り合ってわかったのは、彼が精神的な疾患に苦しんでいること、社会生活への復帰を強く望んでいるが、実現へのハードルがいくつも存在すること。彼はなんらかの理由から、どうしても部屋から出ることができないでいた。わたしがプロフィール欄に「精神保健福祉士」の資格を掲げていたことからコンタクトをとったのだろうなと半ば白けつつ、その切迫した物言いを無下にもできなかったので、メールでのやり取りを続けた。そこからLINEを交換して、電話もするようになった。声は、カサカサ。思っていたよりも饒舌だったけど、かといってこちらを詮索する様子もなく、今日あったこと、感じたことを軽く話し、わたしの漠然とした愚痴に耳を傾け、最後には必ず「おつかれさまです」と言った。他者を心から労うというよりも、その言葉しか知らないというような、妙なぎこちなさがあった。エロい写真も要求してこなかったし、電話でそういうムードに誘導しようという気配もなかった。懸命に生活を維持しよう、そのためには他者の存在が必要で、選ばれたのがたまたまわたしで、というふうにわたしは解釈していて、だから自然と力むこともなくなった。こちらが返信せずとも、電話をとれなくても、そのことを責めるようなことはしない。

 

コンビニで週刊誌を読む。それから冷凍食品とお酒を買って、再び雨の道を進む。

 

ある日、彼がいつもの発作が出たことを電話で話したその数時間後、なんの脈略もなく自分の命が狙われていると言い出した。これから大勢がやってくる。どうするべきか迷っていると、彼は言った。以前にも何度か、盗聴されている可能性があるとか、監視されているかもしれないとか、そういったことをほのめかすことがあった。規則正しい生活と、栄養のある食事、軽い運動を勧めていたが、結局のところ、家からほとんど出ることのない生活を送っていたのだ。社会資源の活用も拒否。いずれはこうなることだって予想できた。わたしのなあなあにしていた時間のつけがここに回ってきたのかとちょっとだけ憂鬱になったが、それは結局わたし自身、彼との距離をうまく取れていないことの証左でもある。まずはどうでもいいと思おう。それから頭を落ち着けて、できることをしてみよう。

 

電子レンジでパスタを解凍しながら、薄暗い部屋に明かりをつけた。もう一日が終わろうとしていた。なんもしてねえや。まあ、掃除しただけ合格としよう。

 

電子レンジが甲高い音を立てる。わたしは電子レンジの前に立つ。ふと後ろを振り返る。

 

クローゼットが開きっぱになっている。

 

さっきの掃除で?

 

思い出せない。でも、違和感はある。恐る恐る近づき、わたしが迷わず手を伸ばしたのは例の抽斗た。

 

あの日以来、彼とは連絡がつかなくなった。わたしが寝ているあいだに、不在着信が何度か入っていたが、朝かけ直したところで誰も出なかった。寝る直前の通話で、わたしは彼に伝えたのだ。どんな相手であろうと、あなたにはなにも手出しできませんとか、安心して、温かいものをとってとか、好きな音楽でも流し、どうか朝を迎えてくださいとか、もうすっかり夜も更けていて、わたしも眠かったこともあって、そんな感じの言葉を並べ立てて、それで、どうなったんだっけ? たしか彼の、「そうしてみます」という言葉が返ってきた気がする。不安げな、なにかを諦めたような、その一方で、なにかを決意したようにもとれるあの声だけが、ありありと蘇ってくる。

 

わたしは抽斗を引く。ない。あの手紙が。

 

さっきわたし、どっかに持ってっちゃったっけ?

 

さすがにそれくらいなら憶えている。わたしは手紙をもとの位置に戻して抽斗を閉めた。すっかり真っ暗になった窓の外では、いまだ雨粒が水たまりを叩いている。雨の日は証拠が残りにくい、みたいな話を、映画かなにかで観たような気がする。は? やば。警察呼ばなきゃ、と慌てたわたしは、一旦冷静になろうと深呼吸を五回繰り返してから、もうちょっと探してみるかと思う。で、見つける。手紙じゃなくて、ミニテーブルの上に無造作に置かれた札束。ぜんぶ一万円で、分厚くて、たぶん百枚以上ある。

 

「こんばんは」

 

比較的おさえたつもりだったのに、わたしの声は部屋中に響いてバツが悪い。

 

「まだいますか?」

 

電子レンジの中にあるパスタがすっかり冷たくなるまでわたしはぼーっと突っ立ったままでいた。再度加熱するためにボタンを押して、オレンジ色の明かりに照らされながら、ちょっとだけ明日の仕事のこととか、さっきシャワーを浴びたので今日もまたそのまま寝ようかなとかを考えていた。

 

コーヒーくらい淹れたのに。

 

それにしてもどうすんのこれ。

税金とか。

 

 

 

 

 

 

 

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架空の上司と戦おう!

  

 

「融通」だの「柔軟性」だのとご高説を垂れるくせに当のテメエは柔軟性のかけらもなく独自の『仕事論』を押し付けそんな自分を棚に上げるばかりか「センス」というワードの頻出する説教を決まってこちらの業務が立て込んでいるときに始める本来なら誰からも好かれていない現実を一番の「課題」として認識し解決に尽力すべき尊敬強制搾取型の餓鬼道に堕ちた生乾き臭い服しか着ないオッサンは、僕の歯茎に剃刀の刃が隠してある理由について熟考してろバカ!

 

 

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埼玉のいいところ

 

 

 

 

 

『埼玉のいいところ』

Lyrics:MCバー坂

 

 

 

 

 

うるせえ馬鹿 海ねえからなんだ 東京までだいたい電車一本

池袋もほぼレペゼン埼玉 東上線 埼京線 関根元

どんどんアゲていこうぜレートにテンポ 御託はもう十分だろ

飲み込むバイブス やばい名産物 一都五県 南無阿弥陀仏

 

 

埼玉いいとこ 家賃安い

埼玉いいとこ 晴れ多い

埼玉いいとこ 一部都会

埼玉いいとこ 挙げろ今すぐ

 

 

まゆゆぱるるこじはるにみおりん ももクロにいるプリティな緑

スタダつながりエビ中のぁぃぁぃ スパガの巨乳浅川の梨奈ぴ

同じく巨乳で女優の夏菜 彼女の生まれたしかあそこ戸田

脚の長さじゃスバリ菜々緒だ 新川優愛も後を追うそうだ 

加藤で言えばシルビアに綾子 みな実に裕子は芸人が好き

竹内結子ミムラ海荷 まだまだ尽きない美女のメッカ

だけどもう 弾切れだ これ以上は もう無理だ

夏は暑いしヤンキー多い 『スーサイド・スクワッド』舞台は埼玉

 

 

埼玉いいとこ ほぼ東京

埼玉いいとこ ニッカボッカ

穿いた男挨拶を無視

MA-1 肩にかけるヤリマン

 

 

無理に褒めることがマジで不毛 遊びに行くより住む専用

心霊スポットマジ多い ワンボックスカー改造マジ多い

火事多い、かは統計を調べろ 無責任発言炎上のもとだろ

星野源とかも生まれてる 風間ゆみは乳揉まれてる

 

 

群馬は都丸紗也華がいる

千葉には桐谷美玲いる

茨城磯山さやかいる

栃木はあいつだ手島優

神奈川はもはや挙げきれねえ

埼玉 マジで愛してる

埼玉 これからもよろしくね

どこまでも続く彩の国

その奥に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本版『ファーゴ/FARGO』の舞台は血にまみれた埼玉!/『GYODA』

 

 

 

 

日本にも『FARGO』はあった

『ファーゴ』といえば、コーエン兄弟が1996年に制作した映画で知られている。ノースダコタ州の都市ファーゴとその周辺を舞台に、ちょっとした邪な思いつきをきっかけとして、事態が徐々に酸鼻を極めていく様子をブラックでオフビートなコメディタッチで描いている。さらには物語の頭で「これは実話である(THIS IS A TRUE STORY)」という文言を提示してみせるという大胆な演出も本作の特徴として有名だ。

2014年にスタートしたドラマ版『ファーゴ/FARGO』は、映画版を原案としたシリーズであり、こちらの方も2017年現在、サードシーズンまで製作されるなど好評を博している。

 

     

 

シリーズとして見た場合の特色としては、田舎を舞台にちょっとした欲望が悪い連鎖を起こす点と、その過程、あるいは行く末にオカルト的要素が絡んでくる点などが挙げられる。なんとなく、日本を舞台にしてもでもできそうな気がする。

 

和製『ファーゴ』で思い浮かぶのは、2005年に山下敦弘監督が撮った『松ヶ根乱射事件』だ。雪の降り積もる「日本のどこか」を舞台に、本家よろしく「実話」であることを堂々提示しながら次々と陰惨な出来事が進行していくところなど、「田舎は最悪映画」としても個人的に大好きな一本である(過去記事でも触れています)。

 

 

 

 

 

 今度の舞台は日本の関東

そして今回、なんと本当に日本版『FARGO』と呼べるドラマが登場した。その舞台はなんと関東。しかも埼玉なのである。タイトルはずばり『GYODA』。まんま行田市だ。

 

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ここです。

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行田市 - Wikipedia

 

このドラマも本家『FARGO』と同じように、タイトルとなった地、及び近隣の町々を舞台に物語が展開していく。いったい埼玉県北部にどんな物語が待ち受けているというのか。 作中のキーワードを確認したい。

 

 

作中キーワード

 

【爬虫類専門店 Exotic Pleasure】

熊谷にある爬虫類専門店。物語の中心を担う。

 

 星野幸雄(ダンカン)

55歳。Exotic Pleasure店長。輸入した爬虫類を法外な値段で売りつける詐欺行為に手を染めている。そのためトラブルには事欠かないが、何年も前から殺人にも手を染め、その遺体を秩父山中にある心霊スポット『闇の森公園』内の廃墟で解体している。自称30人殺し。

 

斎藤常信(児嶋一哉アンジャッシュ

43歳。爬虫類専門店を経営していたが、星野に声をかけられビジネスパートナーとなる。妻子持ちであり、星野の凶行と、共犯としての自分に強い恐怖を感じている。

 

星野愛子(浅野温子

54歳。星野幸雄の妻。前夫との間にできた長女と、星野との間にできた次女がいる。夫の犯罪行為を指揮している。

 

 

 

【埼玉県警】

渡部ふみ(荒木優子)

28歳。刑事部捜査第一課所属。数年前から埼玉県北部で度々発生している失踪事件に目をつける。

 

新井康夫(安田顕

49歳。刑事部捜査第一課所属。2年前に妻を亡くした。幼少期の星野幸雄を知っている。

 

後藤太郎(山口智充

43歳。刑事部捜査第四課。城石組若頭の失踪に関して捜査を進めている。

 

 

 

【城石組】

埼玉県北部を縄張りとする暴力団

 

及川喜久雄 (花山司)

55歳。城石組若頭。星野と懇意な間柄だったが、金銭的なトラブルにより関係が破綻。脅迫を続けていたところ、星野に殺害される。県内の高校に通う15歳の愛人がいる。

 

村田眞一(青木崇高

35歳。城石組構成員。及川の失踪に関与していると確信を持ち、星野を執拗に追い詰める。極真空手二段。

 

窪田想(池松壮亮

21歳。高校を中退し、地元の友人らと不良行為に明け暮れていたところ、親の知人であった及川のもとに預けられる。及川の運転手として見習いを続けているが、盃をもらい城石組の正式な構成員となることを望んでいる。

 

 

 

【須藤会】

群馬に拠点を置く暴力団。城石組の縄張りを奪おうと画策している。

 

山之内昇司(木下ほうか)

50歳。須藤会若頭。早稲田大学商学部卒。

 

真壁彰(渋川清彦)

40歳。須藤会若頭補佐。柔道三段。一卵性双生児。

 

真壁優(渋川清彦) 

40歳。須藤会若頭補佐。剣道三段。一卵性双生児。

 

 

 

【窪田会】

城石組の窪田想を中心とした不良グループ。

 

工藤勇太(駒木根隆介)

28歳。自動車修理工。窪田想の幼なじみ。ヤクザの見習いをしている窪田に羨望の念を抱いている。別れた妻との間に子供が二人いる。

 

萩野晋平(高杉真宙

19歳。ヤンキー。窪田の後輩。 

 

 

カップル】

行田のアパートで暮らすカップル。

 

水田譲治(満島真之介

30歳。上尾の警備会社社員。精神を病んだ彼女と同棲、結婚を考えている。 

 

橋本久美山田真歩

28歳。元看護師。鬱病を患い、自宅で療養している。

 

山岡さん(黒田大輔

49歳。水田と同じ警備会社社員。親身に相談に乗ってくれている。

 

 

【工藤姉弟

母親からネグレクトを受けている小学生の姉弟

 

工藤紗綾(福田美姫)

11歳。家に帰らなくなった母親の代わりに弟の面倒を見ている。

 

工藤焚摩(加藤憲史郎

10歳。「闇の森」でUFOを呼ぶことによる救済に密かな希望を抱いている。

 

工藤麻美子(本田翼)

28歳。新たな恋人ができたことを機に、子供を置いて家を出た。

 

 

 

【殺し屋】

須藤会によって東京から招かれた五人組。

 

佐藤くん(山口一郎:サカナクション

無口。

 

鈴木くん(岩寺基晴サカナクション

しゃべらない。

 

高橋さん(草刈愛美サカナクション

しゃべらない。

 

田中さん(岡崎英美サカナクション

しゃべらない。

 

伊藤くん(江島啓一サカナクション

しゃべらない。まばたきもしない。

 

 

 

【闇の森公園】

秩父山中にあると言われている地図に載っていない謎の敷地。廃墟が点在しており、心霊スポットとしても知られている。建ち並ぶ建造物の内部にはトイレがなかったり、二階へと続く階段がないなどの不思議な点が多いこと、またその近辺で謎の発光体がたびたび目撃されていることなどから「UFO基地」なのではないかとの噂もある。モデルとなったのは心霊スポットの『山の牧場』。

 

 

 日本一気温の高い地獄

 鬱蒼とした木々の輪郭がぼんやりと浮かびあがる月夜。画面中央には文字が映し出される。

 

【これは実話である。】

 

聞こえてくるのは誰かの鼻歌。そのメロディは玉置浩二の『田園』だ。バスルームと思しきタイル張りの部屋で、真っ赤な肉魂を解体する中年の男女(ダンカン&浅野温子。顔を見合わせ微笑み合うふたり。そこに一人の男(アンジャッシュ児島)が現れる。

 

「コーヒーどうぞ」

 

『田園』のイントロ鳴り響く中、血に塗れた状態でコーヒーブレイクをする三人の姿。彼らの日常をモンタージュで見せていく。爬虫類専門店で接客する姿。多くの客を騙し、トラブルになった者は殺害。「闇の森公園」と呼ばれる廃墟にてその死体を処分する。翌日、店で振りまく笑顔に変化はない。そのモラルなきバイタリティ。彼らはまた新たに一人の男を殺害した。それは城石組の若頭(花山司)だった。 

 

この殺人事件をきっかけに、物語は動き始める。行方不明になった若頭を探して城石組が動き出し、混乱状態にある城石組のシノギを狙う須藤会も暗躍を始める。その不穏な動きを嗅ぎつけた埼玉県警も捜査に乗り出す。

 

捜査第一課に配属されたばかりの渡部ふみ(荒木優子)は、過去の捜査資料に目を通していた。彼女はここ数年の間に県内で起きた数々の失踪事件に、ある男の影があることに気づいた。上司である新井康夫(安田顕に相談したところ、新井は幼いころからその男を知っていると話す。街一番のホラ吹きだったその男は、虚栄心の塊で、息を吐くように嘘をついた。高校には進学せず地元の寿司屋で働いていたが、その店はのちに火事で全焼。それ以降、この男の周囲には不穏な事件が度々見られるという。もちろん捜査の手は及んだが、どうしても逮捕の決め手となる物的証拠が見つからない。

 

死体が見つからないのだ。

 

そこに業を煮やしているのは警察だけではなかった。以前から若頭と親交のあった星野に目をつけた城石組の村田眞一(青木崇高は、こちらの追求をのらりくらりと交わしていく星野に怒りをつのらせ、次第に過激な行動へと乗り出していく。かくして地獄の扉が開かれるのだった。

 

 

 メインである爬虫類店をめぐる物語は、かの有名な埼玉愛犬家殺人事件をモデルとしている。園子温監督の手によって映画化もされたあの陰惨極まりない事件だ。

 

 

しかし本ドラマの第1話においては、事件の詳しい経緯は描かれない。知名度ある事件がモデルであり、でんでんの怪演や過激な描写から話題を呼んだ映画などを考慮したうえでの判断かもしれない。しかしなにより、「事件はこれまでも、そしてこれからもこの地で起こり続ける」という視点を視聴者に植え付けるため、第1話で渦中に叩き込む狙いが感じられる。不穏で軽薄な茫漠がすべてを包み込んでいる。

 

 

 脇を固める市井の人々

 

どこまでも広がる畑と建ち並ぶ鉄塔。閑散とした国道沿いにぽつんと現れる、場違いな外観のラブホテル。

 

この物語は殺人鬼とヤクザの揉め事に終始しない。その地に住むあらゆる人間が混沌の一員として事件に絡め取られていく。

 

 

第一話の中盤にて、城石組の窪田がATMに入金するためコンビニに立ち寄る場面が出てくる。その際に漫画雑誌を立ち読みしている小学生の男の子が、のちの第二話以降も登場する少年・工藤焚摩(加藤憲史郎だ。彼はゴミだらけのアパートで、ふたつ上の姉・工藤紗綾(福田美姫)と二人だけで生活している。母親は新しい恋人の元へ出かけたきり帰ってこない。そんな彼らが夜な夜な耽るのは「闇の森公園」の噂話だった。

 

 

城石組で運転手を務める青年・窪田想(池松壮亮には地元の不良仲間がいる。先輩である工藤勇太(駒木根隆介)は、首元まで覗くタトゥーが印象的であると同時にどこか憎めない雰囲気をまとう。彼は歳下でありながら城石組で働く窪田に憧憬と嫉妬の入り混じった複雑な思いを抱く。物語中盤において、窪田が盃を交わすことで正式に城石組の組員となった際、全国チェーンの居酒屋でささやかな祝賀パーティを催すその哀愁。泥酔した彼らは、かつての自由な日々に思いを馳せる。真夜中、あてのないドライブを続ける工藤は、一人道を歩く女性に目をつける。

 

 

上尾にある警備会社で働く水田譲治(満島真之介は、行田市内の安アパートで橋本久美山田真歩と同棲していた。橋本久美はもともと看護師をしていたが、鬱を患い退職。現在は自宅で療養生活を送っている。安い月給で生活も苦しかったが、水田は近いうちに彼女と籍を入れようと考え、職場の先輩・山岡(黒田大輔に相談していた。そんなある日、仕事で疲弊していた水田は今後への不安を吐露する橋本と言い合いになってしまい、不眠気味の彼女に背を向け、先に就寝する。

翌朝水田が目覚めると、部屋に橋本の姿はなかった。

 

 

ハイエースの車内でタバコを吸う工藤たち。後部シートには顔を腫らした橋本の亡骸が横たわっている。外で電話をかけていた窪田がスライドドアを開け工藤に言う。

 

「死体消せる人間を知ってる」

 

窪田は、現在自らも若頭失踪の件で追求を続けている爬虫類専門店、Exotic Pleasureに向かうのだった。

 

 

そしてオカルト

 

※以下、終盤の展開に関するネタバレあり

 

 

混乱の中にある城石組を潰そうと須藤会が乗り出す。彼らは東京から殺し屋(サカナクションを招き、城石組に差し向けるのだった。一方の城石組も人員と武器を増強させ、須藤会との抗争と同時進行で星野夫婦の殺害も決定する。

 

そんななか、密かに死体の処理を依頼していた窪田(池松壮亮星野(ダンカン)から二百万円を要求される。しかし星野殺害が決定した今、その二百万円を用意する必要はない。しかし窪田は二百万円を工面するよう工藤(駒木根隆介)らに伝える。その金を自らの上納金に充てるつもりだった。

 

失踪した彼女の捜索を続ける水田(満島真之介は、山岡(黒田大輔の力も借り、他の部署から複数の映像を入手する。失踪当日に近くを走っていた車や人影をくまなく調べる。やがて生活安全課の刑事から伝えられた情報などから、窪田会の関与を知るのだった。

 

際限のない暴力は加速していく。物語は佳境を迎える。

 

命の危機を察知し逃亡を企てた星野夫婦だったが、その直前に城石組に拉致される。村田(青木崇高によって拷問される星野(ダンカン)。妻の愛子(浅野温子がすんでのところで遺体の在り処をほのめかしたことにより、「闇の森公園」まで案内するよう命じられる。

 

そんな村田たちの後をつける一台の車。その車内には須藤組の双子(渋川清彦:二役)と若い衆が乗っていた。双子は殺し屋に連絡を入れる。殺し屋たちはすでに「闇の森公園」で待機していた。

 

復讐の鬼と化した水田(満島真之介工藤(駒木根隆介)の働く板金工場にて彼を拷問する。この場面は、星野の拷問シーンとカットバックされる。暴力によってそれぞれの行先が開かれる、おぞましくも目の離せない場面となっている。あの日なにがあったか、橋本久美がいまどこにいるのかを吐き出させた水田は、工藤にガソリンをかけ火を放った。

 

捜査第一課の渡部ふみ(荒木優子)新井康夫(安田顕は、斉藤常信(アンジャッシュ児島)失踪の件で話を聞くため、星野夫婦の自宅を訪ねた。しかしそこに星野夫婦の姿はなく、渡部は捜査第四課の後藤太郎(山内智充)に連絡を入れる。

 

 

すべてが「闇の森公園」に引き寄せられていく。

 

 

「闇の森公園」内にある廃墟で待ち構えていた殺し屋の襲撃により、すべての火蓋は切って落とされる。反撃に追われる城石組の隙を突いて逃走を図る星野夫婦。結束バンドによって互いに結び付けられているため、その姿は運動会の二人三脚さながらだ。この夫婦がこれまでもこうしてお互い支えあいながら生きてきたことが感じられる。どこまでも軽薄で冷酷な二人だが、夫は妻を、妻は夫を確かに必要としている。

 

そこに現れる復讐鬼・水田。板金工場から拝借してきたと思しき工具と、仕事で使っている特殊警棒を手に狙うは城石組の窪田想だ。

 

廃墟にはもうふたつ小さな影がある。工藤姉弟だ。UFOの噂を信じ、道無き獣道を歩いてのぼってきたのだ。彼らは廃墟の二階から、目下で繰り広げられる殺し合いを眺めていた。

 

そしてあたりは突然まばゆい光に包まれる。

 

 

 

 

 

 

 

木々に囲まれ四角いキャンバスさながらの空にはまばゆい光を放つなにかが浮かんでいた。その尋常じゃない光量にあてられ、誰もが動きを止める。

 

腹を撃たれ息も絶え絶えに空を見上げる村田。

 

殺戮の限りを尽くしていた殺し屋たちすらその目に困惑の色を浮かべている。

 

須藤組の真壁彰は、顔を撃たれて動かなくなった弟の手を握りながら光に目を細めた。

 

混乱に乗じて逃走を図っていた窪田想は、後方に広がる光に目を奪われ滑落。全身の骨を折り、茂みの中に消えてしまう。

 

誰もが空を見上げる中、水田は地面に落ちていた切れかけのヘアバンドを見つける。それは橋本久美のものだった。

 

工藤紗綾と焚摩も空を見上げている。その表情からは、彼らの心情がはっきりとは読み取れない。その光は彼らの求めていた希望なのだろうか。

 

正体不明の発光体は、「闇の森公園」に向かう県警のパトカーからも見えていた。山の中腹がまばゆく光を放っている。渡部ふみは心もとない表情でその光を見つめる。

星野夫婦は、廃墟の壁にもたれながら光りに照らされた互いの顔を見る。

 

「愛してるよ」

 

「当然でしょ」

 

日本犯罪史上類を見ない大事件は、こうして幕を閉じた。

 

 

呪われた地

全10話をイッキ観した僕は衝撃で動けなくなった。最終話で「光」と対面した登場人物さながらだ。 人々の思惑など一切構わない、そんな抗いようのない力が有象無象を飲み込むかのようなあの展開に、僕はこの世界の持つ魔力のようなものを感じた。

 

最終話のエンドロールあとについている映像も印象深い。そこでは失踪したと思われていた斉藤(アンジャッシュ児島)がバスタ新宿の待合室に座っている。隣りに座る外国人のスマホに映し出される事件のニュースを横目に、時計を確認する斉藤。彼の乗るバスの行き先は秋田。そこでドラマは完全に終了する。しかしどうしてここまで不穏な余韻が僕を掴んで離さないのだろう。おそらく彼の乗ったバスの行き先がどこを示していようとも、同じような胸騒ぎを覚えたかもしれない。きっとまたどこかで凄惨な事件が起こる。というよりも、きっといまも起こり続けているのだ。我々の欲望や、それに応じた知略がどれだけめぐらされようと、そんなものなどまったく通用しない強大な摂理が待ち受けているのだ。

 

いまも世界の何処かで『FARGO』は誕生し続けている。空回りする我々の絶望を飲み込みながら、その茫漠が永遠に膨張し続ける様をこのドラマは描いている。

 

 

 

 

 

 

 あわせて読みたい過去記事 ↓

sakamoto-the-barbarian.hatenablog.com

 

 

書き下ろし短編:『ゼラチン』

 

 

 

 

 生理がきて外も雨だから、せっかくの休日がさっさと終わってほしいだけの日曜日。

この先期待することなんてなにひとつないかのように、私は機微のない心をもてあましている。こんな日にふっと生きることやめに走ったりしかねないかもなあ、なんてことを思うのは、元来、この私に宿る自殺願望の露呈なのかしら。どうなのかしら。

 お腹いたい。

 イライラしてんのかな私。これはイライラか?

 やる気のないときのおまえはただの役立たずだ。そこんとこわきまえなさい。わきまえつつ、せいぜい無感動な、限られた機能を果たすだけのモノに甘んじてろ。

 ゴッドファーザー、もといゴッドマザーは私だ。おまえはゼラチン。役立たず。返事は要らない。ご機嫌取りもいい。そういうのにうんざりしているからこそ、私はあんたに喋るのだ。

 んね。

 ゴッドマザーなんて響きはちょっと大仰かもだけど、私はいろいろ名前をつける。ケンちゃんがケンちゃんたる所以は、アルコールに身を任せた私の、ほんのいっときの厚かましさからである。「近所にいる子っぽい名前だからやめてよ」と笑う彼をみて、なんとなくよっしゃと思った。

 こいつは落とせる。

 で、本当に落ちた。

 一緒に暮らしてみてわかったことだが、名づけたことで芽生える感情ってのは確かにある。何割増しかで愛おしく思える。たとえばその人、私の場合でいうケンちゃんが第一印象となんだか違うってときも、まあ、いいかってなる。私は別に意外性とか好きじゃないはずだから、これはやっぱり、私がゴッドマザーであるがゆえなのかもしれない。

 そもそもケンちゃん性格がよくないとはいわなくとも、心はだらしなくて、嫌なこととかすぐ顔にでるし、それに対して私が呆れようもんなら、それに傷ついてより一層深刻化するからけっこう面倒くさい。私は面倒なのも嫌いで、なんだよてめーまた塞ぎこんでんじゃねえよとか、人に当たるとかしょーもないことしてんじゃねーとかつい口走っちゃって、自ら正面衝突を臨んだりすることもあり、このあいだなんてついには取っ組み合いにまで発展して頭突きを見舞った。ケンちゃんは信じ難いといった表情でおでこを押さえたあと、「やりすぎ」と笑った。力なく。ああもういま思い出してもそうなのだけど、そのとき私の胸は痛いくらいにしぼんだのだった。私はこれまでもずっとそんな感じだった。けっこう、自分の感情をまっとうできない。肝心なところで、というかスタートの時点で、この感情についていけないなってどこか思いつつも、抗えなかったりする。

 私たちは今日も同じ部屋で、ベッドの上で隣り合ってすごせている。不思議なもんだ。今日なんかはもういろいろ不快なことが重なってどこにも出かけられないけど、まあいいかって、ちょっとは思う。

「夕飯どうしようか」

 私は彼の目を見ずに聞く。返事がくるまえに、「なんでもいいはナシね」と付け足して。

「あー」と彼。「どうしようかなあ」

「どうしようかねえ」

「本当になんでもいいんだけどなあ」

「はいはい」

「ちがうちがう。いつもなにつくってもおいしいよって意味だよ」

「だからわかったって。じゃあ冷蔵庫に残っているやつでなんかつくるよ」

「ありがたいです、ほんと」

 といわれたところですぐには動かず。私はうつぶせになって、湿っぽいシーツに顔をうずめている。

 なあゼラチン。

 私はこれからも、ある程度大丈夫なんだろう。根拠は全然ないもんだから、時たますごく不安になるけど、そういうネガティブも、なんだかんだで意外と脆い。

 私は彼に呼び名をつけたときから、きっとずっと彼のことを好きになるって予感がしていた。で、それ相応の見返りがあって当然だとも。傲慢だよなあ。自分でも思うさ。でも私はそれを疑わずに、そのままいまに至っている。

 ゴッドマザーには「後見人」といった意味合いの方が強いみたい。親に次ぐ責任を持った者。

 じゃあゼラチンよ。私はおまえの後見人でもあるとするのなら、おまえの面倒もずっと見なくちゃならないの? 

 うーん。

 いいよいいよ。あんたはケンちゃんほど面倒くさくないしね。あはは。

 ベッドから起き上がり、窓を開けた。雨は大粒で、でも静かだった。貼りつくような冷気が、その湿った香りが、私の頬を通りすぎ、後ろへと流れていく。

 思わず溜息をついた。頼りない私の呼気は一瞬で流れに飲まれ、消えてしまう。なんだか泣いてしまいそうなのは、鈴の音を聞く犬と同じで、べつにきっと意味はない。

 これまでがずっとそうだったように、私はいまも相変わらず根拠とかが大好き。欲してる。でもそれってなんかダサいっても思っている。信じるとか。ばかかよ。

 綺麗な言葉のその価値を、私は保ち続けていたい。

 そういうこったゼラチンちゃん。そんじゃあまたあとでね。私、夕飯つくらなきゃだから。

 ベッドから抜けだす際に、私はケンちゃんの日に焼けていないだらんと伸びた青白い足をペチンと叩く。「ん~」なんて眠たい声で、彼はぐいっとパンツを上げる。

 窓の外から流れ込んでくる風に、ほんのりシャンプーの香りがまじってて、だれか、どこかに出かけるんだろうか? なんて考える。

 まだぜんぜん遅くないしね。

 

 

 

 

 

 

書き下ろし短編:『式では泣かないタイプです』【後編】

 

 

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 我が文芸部の部室のドアには、星のカービィのシールが貼られている。ボロボロになって腐敗の進んだゾンビみたいなやつで、一年のころに先輩に聞いたところ、先輩の先輩の先輩の代からずっとあったものらしい。毎日のように目にしていたはずなのだ。なのに改めて目の前に立ったとき、僕はそいつと偶然出くわしてしまったような気持ちになった。廊下では吹奏楽部の他に軽音楽部の練習する音が響き渡っていて、立ち止まればビリビリと肌が振動するのがわかるが、その中でまたしても僕はぼーっとしている。なにかを掴みそこねている感覚がずっと付きまとっていて、もどかしい。億劫だった。
 不思議。

 重いドアなので表面に肩を押し当てながらノブをひねりかけた僕だが、隙間ができるか否かのその瞬間、扉の奥から微かに人の声が聞こえたかと思うと、無意識のうちに身体を硬直させ、耳をすませていた。なんだか盛り上がっている。会話? そう思ったけど違う。なにかを歌っているのだ。僕はその邪魔をしたくなくて、ドアを開ける次のタイミングを待っていて、せっかくだからとドアに両手と耳を当ててみる。この声はなっちゃんのものか? 桐子もいるのかもしれない。手拍子まで聞こえる気がした。なにかの合唱曲か歌謡曲っぽいメロディが続き、やがてわー! と声が沸くので、僕はそのどさくさにまぎれて勢いよくドアを開ける。
 八重子教諭が卒倒しそうなほどの熱気が漏れ出てきて、いっきに僕の前半分を湿らせるように撫でていった。
 そこでようやく気づいた。
 僕はちょっとビビっているのだ。

 

 部室には予想した通りなっちゃんと桐子、その他に久留米と、なんと照本肇までいて、彼は部室に常備してある安物のサングラスをかけ、カーディガンをディレクター巻きしている。坂本の姿はなかった。僕がなにかをしゃべりだすよりも先に「なんだよその格好」と言ってきたのは久留米だった。相も変わらず真っ黒で動きの乏しい目をしている。声の抑揚も乏しいが、合唱の直後だからか、どことなく紅潮しているようにも見える。
 照本肇がサングラスを外しながら「まだ見つかってないのか!」と満面の笑みを見せるなか、僕は腰に手を当て、俯き、考える。学ランもない。肝心の坂本もいない。全身に力が入っているので妙に緊張しているような気分だったが、単純に寒いのだった。
「ほらほら、ドア」
 桐子に促されるまま扉を閉め、しばらくその場に立ち尽くしていた。じゃあ僕はこれからどうするべきなんだっけ?
「泣けてきた」となっちゃんがなんらかの文脈で突然つぶやいた。奇遇にも僕もまったく同じことを思っていた。彼女はペンをもち、その尻でおでこをかいている。今日はコンタクトの日だ。
 横で落ち着きなく腕を組んだりおろしたりしていた照本が、とつぜん「あ、そうだ」と言い、肩にかけていたカーディガンをするりと外す。
「安藤、これを着たらいいよ」
「え?」
「いいから。からから。学ラン見つかったら返してね」
「でも照本、寒いでしょ?」
「いや。おれには学ランあるし」
「あそうか。ありがたいね。いつまで借りてていいの?」
「どうでもいいよ」と言った、照本は妙にゆったりと笑った。ように見えた。それから「あしたでもいいし」と言う。
 明日は土曜だな、と思う僕は合掌した。「あたたかい」。ちなみにこれは加藤が貸してくれたんだ。ほら、知ってる? 二組の、とマフラーを直しながら言うと、照本肇はパン! と顔の前で手を叩くのでちょっとびっくりする。
「もしかしてあのハンサム?」
「たぶん」
「あ、加藤くんのなんだ」となっちゃんがパイプ椅子の背にもたれ、ギュイイイ、と鈍い音を立てた。「厳密には、加藤の妹のだけどね」と僕が言うと、「うおーう。いいね」と久留米。スマホを触っている。「そうそう」と答える僕は改めて照本肇にお礼を言い、「二つの意味で恩に着ます!」と言いながらカーディガンを羽織った。意味があまり伝わらなかったようで一瞬固まった照本は「構いません!」と敬礼。そんな僕らを見てなんだそれ、という顔をしていた桐子だったが、「加藤さんって妹いましたっけ?」と机に肘を立てながら訊ねる。
「そうそう、いるね」
「へー」
「美少女だよ」
「えーうそー。でもぽいぽい。加藤さんも女装似合いそうですもんね。だってほら」
「ん?」
「見た目がこう……なんだっけ。フェ……フェフェフェフェフェ」
「どうしたんだよ」
「フェから始まる言葉」
フェラチオ
「死ね」
「わかったフェミニン!」となっちゃんが言うと
「それ! フェミニンな感じありますもんね」
「なるほどね」僕はフェミニンの意味をよく知らなかった。
「なんかね、ユニセックスというか」と桐子が続けるので、僕がひとり笑っていると「下ネタじゃねえよ馬鹿」と彼女。馬鹿は響くぜ。

「学ランもないくせに」

「やめてよ」
「でもあんなもん、ふたつもいらないのにな」と言いながらソファーの久留米が脇によってくれるので、僕は敷き詰めるようにその隣に座る。「ていうか盗まれたかどうかも謎なんだよね。謎が謎を呼ぶ状況ですよ」
「坂本に聞けば?」
 という久留米の言葉で僕は思い出す。「ああ、そうそう。それなんだけど、あいつ今日きてないの?」
「きてない」

「そうなんだ」

「きてない」
 了解。
 一息つこうとの思いは満々なのだけど、空のペットボトルや借りっぱなしの本、落書きだらけのルーズリーフやA4サイズのコピー用紙で埋め尽くされた机の上を眺めていると、渡部先生の声が蘇ってくるので僕はちっとも落ち着かない。掃除か~。掃除もしなきゃならないんだったな~。もしこれで坂本が学ラン持ってなかったらどうすんだ、と僕はどんどん心的ぬかるみにはまっていくのだった。


 ずっと考えないようにしていたけど、サッカー部でもないのなら、本当にまだ進路が決まっていない誰かが僕を攻撃していることになってしまう。となると容疑者は三年生の半数以上だ。今夜は眠れなくなるだろう。そうなると日中眠くなる。自習時間に僕がウトウトしていようもんなら、あいつは進路が決まってるからいい気なもんだね、死ねばいいのに、とか思われるんだろうし、そういうのって思っている以上に空気にのって肌を刺してくるものだ。でも明日は土曜日で、あ、よかったよかった、と一瞬僕は思うけど、まだ安心に足るほどではないのだ。たとえ明日が土曜日だとしても、土日の夜ふかしはいつものことで、月曜まで寝不足を引きずる可能性は充分にある。
 オナ禁しようかな。


 なんて自ら不安がることで免罪符を得ようとしているしみったれた逃避に興醒めした僕だが、とはいえこれまでの抑圧からくる反動を理由に最後の最後で仕返しの意味も込めて意図的にはしゃいで見せるんじゃなかった、と心から思い始める。どう考えたって悪手だった。そんな自分の浅ましさにはもう涙すら出ないが、ひどく思いつめてるかといえば実のところそこまで本気にもなれなくて、もうどんな理由で、犯人がだれであろうとかまわないから、学ランさえ返ってくればそれでいいや、なんて僕は思う。神様。
「そうだ安藤、図書館いって『火の鳥』読む?」
 唐突に隣の久留米がそう言うが、うっかり聞き落としてしまったのか、どういう流れかまったくわからないうえに気分でもなかったので、「いまからか」と発したっきり黙っていると「そこまで嫌がられると逆に新鮮だな」と隣から小さく聞こえてくる。まってくれ、嫌ではないんだよ。今じゃないだけで。と口に出せばいいのに、僕は笑うだけでなにも言わない。久留米は「おれひとりで行くわ」と独り言を漏らしたが、特に動き出すこともなくスマホを眺めている。照本が笑うのに続いて桐子が「えーそれはない!」と叫んだ。なにがないのか耳を傾けてみると、「そういや桐子ちゃん久々に部室いるね」となっちゃんが言って、結局新しい話に移る。
「あ、そうですね。練習の順番待ってるんですよ。軽音の」
 桐子が言うとなっちゃんが「あー。ねー」と首を傾げる。
「ああ、それでか」
 僕がなんの気なしにつぶやくも誰も反応しなかったので、ちょっとびっくりして、ついついひとりで喋り続ける。
「いやほら、みんなで歌ってたじゃん。けっこう長く」
「あれ、なんで知ってるんですか?」
「外まで聞こえてたよ」
「えー! ていうかずっと聴いてたんですか?」
「まあ途中からだけど」
「ドアの前で?」
「そう」
「変質者じゃん」
「遠慮だよ」
「入ってこればよかったのに」となっちゃんが本当にそう思っている感じの口調で言うので、桐子が笑う。僕は腰を浮かせると机の上のティッシュを一枚手に取り、鼻をかんだ。
 ブ、ズボー! 
 で、思い出す。
「あ」
「え?」
「そういやなんか桐子さんに言わなきゃならないことがあったような」と僕が言うと「なんすか」と彼女はみんなの顔を見る。みんなも彼女のことを見て僕を見る。
「いやいや、そう構えることじゃないよ」
「はあ」
「そうそう。最後にまた文集つくるんだよね。これはごめん、もう決定事項なんだけど」
「ん?」
「卒業文集ね」
 そう口にした瞬間、隣の久留米と目が合った。なぜか久留米も「え?」という顔をしている。
「まあ、わかりますよ。だってもうそういう時期ですもんね」という桐子は、拍子抜けしたように口角だけを持ち上げる。「でも時期って言ってもそういうのはもっと早く言ったりするもんじゃないんですか?」
「ごめん、一昨日くらいに決めたからさ」
「いやいや、例年の流れってやつがあるんじゃないんですか」
「まさにそうなんだけど、それを思い出したのが一昨日で」
「だったらせめて一昨日の時点で連絡するとか」
 ぐうの音もでず。
「安藤さんしっかりしてくださいよ」
 なんか今日はそんなことばっかり言われるなあと思っていると、隣の久留米が「あ、くそ」と言ってスマホを自分の腿に放り投げる。「電池切れた」
「充電器あるよ」
「おれも持ってるけどつなぎっぱなしにしてないとすぐ切れる」

「じゃあつなぎっぱなしで使えば」

「このソファーコンセントから遠いんだもん」
「機種変、機種変」
「まあ、四月になる前までには」
 黙っていた桐子が急に「あ、てことは後藤先輩も書く?」と言う。なっちゃんはしばらくなにかにペンを走らせたあと、「ん?」と顔を上げて辺りを見回した。そういやなっちゃんはさっきからなにを書いているんだろう。スプリングのいかれたこのソファーからじゃ彼女の手元が見えない。
「なにか書くのかって」照本が改めて伝えてやると「ああ、書く書く。え、書くでしょ?」となっちゃんが僕を見るのでびっくりする。

「あ、おねがいします」

「うん」

「おー! 後藤さんの小説また読めるんだ。超いいじゃん」と桐子。

「え、そう? へへへ。そんなに?」とわざとらしいなっちゃんのテンションに桐子はあえて合わせない。

「わたし後藤さんの書くやつが一番好きかも」
 ぎこちなく微笑むなっちゃんは目を細めたまま腰をねじりだした。以前にも、照れると体操を始める癖があると本人から聞いたことがある。
「やばい。がんばろ」
「ところでなに書くとかは決まってます?」
「えー。全然」
 よし、ここは部長としてひとこと言わなければ、と思った僕が特に考えずに「過去作の続編書けば?」と提案してみる。そのくせ肝心の名前が出てこない。自分のこういうところが嫌いだ。「例えばあれとか。えっとなんだっけ……ちょっと待ってね」
「『毒婦』のこと?」
「そうそう。あと、もうひとつまえの」
「『でかいちわわ』?」
「あーそれ!」
「続編って、でもそんな話じゃなくない?」
「まあ、あくまで提案なんだし、そっちが決めてよ」
「えー適当」
「これ、みんな間に合うか?」と久留米が固い目元をそのままに笑ったので、「そう思うでしょ? 実は浅野はもう書いてるんだよ」と僕はポケットからルーズリーフの筒を取り出してみせる。照本以外のみんなが漏れる声に各々の感情をのせた。
「出たよ、浅野のやろう。手書きだし」

「あははは」
「やめろやめろ、正しい人を責めるな」と言う僕は僕で、部長のくせしてなにも書いていなければ案もない。言わなくてもいいことは言わなくていい。
「だから桐子さんには急で悪いんだけど、もしストックとかあれば出してほしいんだ。もちろんこれから新しいやつ書いてくれても大歓迎だし」
 桐子は椅子の背にもたれて腕を組む。それから首をかしげ、自慢のボブヘアーを揺らしてみせた。いちいち溜めるところが面倒なやつだ。
「がんばります」
「さすが」
「ふふふ。わたしも一応部員ですから」
「ありがとう。軽音部もあるのに」
「あ、そうか桐子ちゃん、忙しくない?」となっちゃんが顔を寄せると、桐子は下唇で上唇を覆い隠す。
「いや全然ですって。わたし受験生じゃないですし」
「でも軽音部の練習はあるんでしょ?」
「あるけど家帰ってから書けばいいじゃないですか」
「ええ、マジで? 過労死しないでよ」と僕が言うと久留米も続く。

「思った。おれには無理」
「まあ、つってもわたし、んな大したもの書かないですもん」
 おっ、言ってくれるぜ。僕と久留米が肩をすくめると桐子はそっぽを向いてしまう。僕はその他の連絡事項を思いついた順に口に出す。
「ちなみに小説じゃなくて、詩とかでもいいからね。大歓迎だから」

「ならストックあります。超余裕」

「なんなら日記とかでもいいからね」
「それは書いてないです」

「みんなそう言うんだよ、最初はさ」

「なんにせよ過労死はないっすね。八時間寝れます」

桐子渾身のパンチラインなっちゃん吹き出し、それを見て照本も笑う。そのままふたりは互いに互いを見て笑い続け、そんな二人を見て久留米も笑った。
「いや~」と深い溜息をついたのは照本が先で、ヤブカラボウにこう言った。
「おれ正直キミらがなにやってるか知らなかったけど、めちゃくちゃ楽しそうだね」
 なのでみんなが黙った。褒められた際のリアクションをきちんと用意することなく生きてきた人ばかりだった。照本にそう言ってもらえたその幸甚と、同時に押し寄せてくる「本当にそうだろうか?」という疑念に混乱している。
 一足先にまあいいやという脳内麻薬を分泌させたなっちゃんが、照れを滲ませ「ありがとう」と低い声で笑うと、その声に便乗して久留米も笑った。僕も久留米に倣って顔面を弛緩させながら、それでいて妙な焦りを覚えつつ、ソファーから立ち上がる。
「照本くんってなにかつくったりするの、興味ある?」
「いや、どうなんだろ。考えたこともない。でも楽しそうだなとは思う」
「じゃあ、文芸部、入る?」
 口に出した瞬間、心臓が大きく脈打つのを感じた。僕の言葉に照本はちょっとだけ固まって、じろりと目を動かす。
「え?」
「どうかな」
「あ、マジで言ってる?」
 ここで久留米が「ふきだまりだけどな」などと言い出さないか、僕は内心不安だった。それは桐子が入部する際に発された一言で、「はい、だいじょうぶです」と答えた桐子は、たまたまそういう煽りを楽しめる人間だっただけかもしれないじゃないか。焦りが僕を饒舌にする。
「超、歓迎。卒業まであとちょっとだけど」
「いいじゃん入っちゃいなよ照本さん」と桐子が拍手をする。「歓迎、歓迎」となっちゃんも続く。「去年入ればよかったのに」と久留米も拍手をするので、照本はいきなり天井を仰ぎ見たかと思うと、強く目をつぶる。そして開く。
「なんだよおまえら! おれだってもっと早く仲間になりたかったぜ!」
 胸に込み上げるものが、確かにあった。その熱はついには頬を染め、頭頂部からスポン! と抜けていく。僕は腐っても部長なので、照本と熱くハグを交わし握手する。桐子がスマホを構えているので、僕と照本は握手したまま体を斜めにし、シャッター音を待った。画面を確認してうなずく彼女は、ふいに口をひらく。
「ようこそふきだまりへ!」
 あ、おまえふざけんなよという目で僕が桐子を見つめていると、照本は軽やかな口調で言う。

「あ、ごめん、ふきだまりってなに?」

彼がそういう言葉と無縁で良かったし、これからもそうあればいいなと思った。
「気にしないでいいよ。ようこそ照本氏!」
「あは、あははは。よろしくお願いしますです」
「残りちょっとだけど思い出たくさんつくろうね」
「つくるぜマジで~。あ、てことはおれもなにか書いたほうがいいのかな?」
 真剣な目で尋ねる照本。ああ、この瞳をごらんなさい。僕は久留米にそう言ってやりたかった。
「そうだね。小説に限定せず、エッセイでも詩でもなんでもいいよ。一番大事なことは、照本氏の思いを表現するってことだから。なんにせよ、気を張らず、遣わず、楽しんで書いてよ」
「おお……」
 照本は意を決した様子で喉を鳴らしたあと、小さな声を絞り出した。
「実はおれ日記書いてんだよね」

 

 日は暮れかけていた。
 あと十分もしないうちに夜に飲まれてしまうそんな気配が窓から忍び込んできている。照本に過去の文集一式を渡していると、不意にドアがノックされる。あれ、いまなんか音した? とみんなで固まっていると、ドアが勝手に開き、その隙間から知らない女子が顔をのぞかせる。
「失礼します。島崎さん、います?」
「あ、はいはい」と桐子が応えると、その女子は「もうちょっとで部室空くよ」と言ったあと、「失礼しました」と静かにドアを閉めた。視線を移せば、桐子がその細い腕に荷物を次々とかけている。
「じゃあわたし行ってきますね。ありがとうございました」
 誰もなにも言わなかったが、一人残らず立ち上がっていた。我が校きってのジェントルパーソンたち。桐子は最後のカバンを肩にかけると「先輩たちの新作、楽しみにしてますから」と部室内のみんなに向けて言った。そんなこと言われたのは初めてだった。桐子は人の作品に本気で蹴りを入れられる人間だったし、僕も何度か痛い目を見ていたので、どちらかといえば、みんなを身構えさせることが多かったのだ。
 例えば僕が去年の文化祭用の文集に載せた『てんてこ舞のすっとこどっ恋』は、ウラジミール・ソローキンの短編集『愛』の真似をして変なことをやりたい一心で書き殴った魂なき一作で、何行にも渡る単語の羅列や三点リーダの多様を用いて主人公「舞」の恋煩いを描いたのち、脈略のない猟銃自殺で幕を閉じるだけの短編だったのだけど、自分でも三度読み返すのが限界で、普段はもっぱら忘れて過ごしていたというのに、後日部室で鉢合わせた桐子が
「なんか、そう、あれはなんでしょうね。『おふざけ』だけで『遊び』はなかった感じでしたね。いや、わかんないですけど。でもふざけて書くのって正直誰にでもできるじゃないですか。もっと適切に言うと『おどけ』っていうんですか? まあいいんですけど、今度はちゃんと『おどけ』とか『おふざけ』を『遊び』にまで昇華させてるやつか、それかもう本気で、安藤先輩の強く思っていること、感じてることをてらいなく注ぎ込んだ、熱とにおいに溢れたやつを読みたいですよね」
 と言ってきて、僕はまずショックで壁まで吹っ飛んだ。というのはもちろん心象表現で、実際はソファーに沈み込んだまま目を伏せて「熱とにおい……なるほどね」とつぶやくことしかできなかったのだけど、それ以来自分の得意技であった「猟銃自殺」を封印せざるをえなくなった。
 怖くなったのだ。
 桐子の揺れるボブヘアーを眺めながら、だからこそ今回はなにを書こうかな、と僕は考える。これまであまりにもぼーっと過ごしていたが、途端にいま考えなきゃならないことが山ほどあるような気がしてならない。いや、なにも考えなくていいときなんてそもそもあったのか? これはやばい状況なのだ。僕は羅列してみる。
 学ランを見つけること。
 帰って小説を書くこと。
 卒業までのこと。
 四月までのこと。
 四月からのこと。
 ……。
「あ、そうだ安藤先輩」
 ドアの向こうに消えたはずの桐子が、僅かな隙間から上半身だけを覗かせている。
「なに? あ、締切?」
「そうそう。いつですか?」
「そんなに部数刷るわけじゃないし、二月の中旬なんてどうですか。三年生はもう休み入ってるけど」
 僕が視線を向けると久留米も肯く。なっちゃんも。照本は「お~中旬か~」と言いながらひとりはにかんでいる。
「了解です。それじゃあ、近々提出します」
「よろしくお願いします。メールでもいいし、おれに直接持ってきてもいいから」
「了解です」
 扉が閉まり、僕はみんなの顔を見回して、「というわけだから、よろしくおねがいします」と言った。
 それからついでに渡部先生から掃除を命じられたことも伝えた。
「わたしもしようと思ってたの。月曜くらいから」
 と机の上を見つめるなっちゃんの手元に広げられている数枚のはがきが目に入った。よく見るとそれは年賀状で、僕は混乱する。
「え、なっちゃんもしかして年賀状書いてた?」
「うん。お返しのやつを」
「一月終わるけど?」
「ね~。もっとはやく書けたらよかったんだけど。進路のこととかでバタバタしてたし」
 ああ、そんな感じね。とりあえず肯くと、なっちゃんも肯いた。
 照本は過去の文集を捲っていたし、久留米はようやくソファーから離れ、スマホに充電器を挿している。
 そんなみんなを見て、いや、厳密にはさっき桐子が椅子から立ち上がって、みんなも立ち上がったそのときから、僕はかすかな立ちくらみに併せて、まどろみのような、意識の中で曖昧にゆらめく部分が気になり始めていた。
 そのときの僕はふと強烈に予感していたのだ。
 いずれこの瞬間のことを懐かしむ時が訪れることを。
 これまでのあらゆる過去にそうしてきたように。
 反射的にその直感を誤魔化そうと、無意識に手を伸ばした先には図書館の本がいくつもあって、その一番上がジョン・ミルトンの『失楽園』で、教養をつけようと借りたままとうとう読破できなかったなと思う僕はその返却日がとっくに過ぎていることにも気づく。ほかに積まれている本も、坂本とか久留米とか浅野とか加藤とかなっちゃんとか桐子とかが適当に借りてきたまま放置しているもので、いい加減返却しなきゃ、図書室の舞先生は絶対僕らのことをブラックリストに入れてるし、なにか言われちゃうんだろうけど、でもこれ以上の先延ばしはもうやめなきゃならない。部室のすみに転がっていたダンボールを手に取った僕は、その中に一冊ずつ本を入れていく。
「あ、返しに行くの?」となっちゃんが言う。僕は彼女の手元に広げられた年賀状のお返しの中に、自分宛てのものがあることがちょっと嬉しい。
「わたしが返しとこうか」
「いいよ。いつもこういうの、なっちゃんやってくれてるじゃん。おれ教室にかばん取りに行くし、ついでだから」
「あ、じゃあおれも途中まで行こうかな」と照本が言った。今日はもうそのまま帰るつもりらしい。照本は僕の抱えるダンボールを指さし、持とうか? と言ってくれる。僕はもちろん遠慮した。久留米は再びソファーに沈んだあと、二人いれば十分でしょ、とつぶやく。いやおまえさっき『火の鳥』読みに行こうとか言ってたじゃねえかよ。でもこういうとき、久留米は本当についてこない。テスト前に「全然勉強してねえわ」と言って、後日赤点をとった問題用紙を堂々掲げるような男なのだ。
「よろしくな」
 そんな久留米になっちゃんが笑う。
 陽はとっくに沈んでいて、夜を背にした窓に部室の様子が鮮明に映っていた。

 

 浅野の原稿の最後の一枚には「あとがき」と称された文章が載っていた。三年間の活動に対する感慨から始まり、糧となったもの、反省点、今後の目標などが抜かりなく記されていた。それを読み、さすがは読書感想文で外したことのない男だ、と僕は思うのだが、最後の最後で出てくる一文だけはやや趣が違った。

 そこにはこう書いてある。

 

『これからもくだらないこと大袈裟にしながらクソッたれな大人になっていこうぜ』

 

 図書館前まで付き合ってくれた照本に僕は礼を言う。
 カーディガンと、部員になってくれたことも含めて。照本は改めて「学ラン見つかるといいな」と言ってくれる。
「見つけてみせるぜ。卒業式で恥かきたくないし」
「あーそうか。卒業式か。ほんとすぐだな」
「はやいよな」
「あ、そういや安藤。今日はもう塾いかないでしょ?」
「あー。うん。でも明日は行こうかな。またマックで……そうだよマックで小説書こうぜ」
「お! おー! それいいな!」
「じゃあ来週はそれだから!」わははと笑う僕と照本のスキンシップはエスカレートする。肩、腕、腰、腿、お尻。
「それじゃあおれは帰るぜ! 今日はマジでありがとう、安藤部長」
「よせやい、こちらこそありがとうだぜ」
 気をつけてな、と手を掲げる僕に、照本は角を曲がるまで独特なステップを踏み続けてみせた。
「なにそれ!」
 大声でたずねると、角の向こうから「オリジナル!」という彼の声が響いてきた。

 

 僕は足元に置いたダンボールを再び抱えて図書室へと入っていく。
 舞先生がカウンターの中でパソコンを打っている。目が合うと、その太めの眉が持ち上がった。
 カウンターにダンボールを載せ、すみませんが……と事情を説明する僕に、舞先生は「ちょっと部長さん、頼みますよ」と苦笑してみせ、本を一冊ずつ取り出してはバーコードを読み取っていく。
「あ、『失楽園』ある。これちゃんと読んだ?」
「一応、冒頭くらいは」
「えー? 面白いのに」
渡辺淳一の方は読みましたけど」
「ははは。どっちも安藤くんくらいじゃない? 借りてるの」
 思っていたよりも怒られなかったことに安心している自分がいた。でもこれじゃいかんと最後に改めて「申し訳ありませんでした」と頭を下げる。舞先生は「許しません」と断言した。
「今後はちゃんと返すなり延長手続きするなりしにきなさい」
「はい」
「そんな安藤くんももう卒業か」
「そうなんですよ」
「はやいね」
「そうですね。まだ実感はありません」
「そんなもんだよ。もう文集作んないの?」
「あ、作ります。これからなんですけど」
「えーこれからは遅くない? 間に合う?」
「それはもうご心配なく。みんな優秀なんで」
「ははは。そういや安藤くん、大学決まったんだってね」
「そうですね。おかげさまで」
「おめでとう。大学でも書くの?」
「んー……どうですかね。やるやらないってあんまり考えたことないんで」
「へえ、そうなんだ」
「書きたきゃ勝手に書くって感じで、わかんないですけど」
「そっか。登山家みたいだね」
「あ、山があるからのぼる的な?」
「そうそうそう」
「でも確かに書きたいことがあるからってのが一番の理由でしょうね。口じゃ言えないようなことでも、おおらかなんで。話って。どうせ嘘だし」
「先生もそう思う。ある程度はね」
「ある程度?」
「うん。でもまあ、いずれわかるよ。あ、別に不自由なもののことを言ってるんじゃないから、そう身構えないでね。もしかしたらもうとっくに気づいているのかもしれないし。とにかく安藤くんは、まずは楽しむといいよ」
「あ、はい、ありがとうございます」
 舞先生の視線が僕の背後に移り、振り返ると本を手にした一年っぽい男子が立っている。僕は「ありがとうございました。失礼します」と頭を下げ、カウンターを離れたが、出口には向かわなかった。なんとなく図書室内を見て回りたかったからだ。
 でもすぐにやめる。

 並ぶ長机の一番奥に、町山りおの姿を見つけた。

 

 ピュ~イ

 

 僕がダンボールを抱えたまま振り返ると、出口のところに坂本がいて、なぜか中腰で、こいこいと手招きをしている。数年ぶりに会ったみたいな気分だ。僕が近寄ると、「まったくおまえは捜すと見つからないリモコンのような男だよ」と坂本は言った。やつは僕のスマホに大量のラインを飛ばしてその返信を待っていたのだが、充電の持ちが悪いために諦め、たまたま見かけた町山さんを張ることにしたらしい。
「なんでだよ、普通に部室こいよ。確率的に考えても」
「でも町山さん張ってた方が確実だと思って」
「なんだこいつ、馬鹿にしやがって」
 僕らはダンボールをバキバキ潰して購買裏の焼却炉まで持っていく。結局坂本は学ランを持っていなかったし、なくなったことも知らなかった。僕はサッカー部の犯行説を話してはみたがたぶんそれはないみたいだし、消去法でおまえが犯人だと思っていたことを正直に伝える。坂本は、おまえの学ランなんていらねえよ、なっちゃんの制服ならネットで出品できるけど、と言った。オタサーの姫は確立されたひとつのブランドらしい。それいいな。お願いしたら卒業後譲ってくれないかな、でもうちはオタサーじゃなくてふきだまりだからな、そうだな、と話す僕らが中庭を歩いていると、図書室の窓から明かりが漏れていて、ついつい視線が誘われる。町山さんの姿が、まだそこにはあった。
「塾行くまではここで勉強してるんだってよ」
 と、僕の隣で同じように腰をかがめる坂本が言った。
「は? なんで知ってるんだよ」
「さっき聞いた」
「話したの?」
「ちょっとだけ。おまえ現れるまで暇だから」
「すごいなおまえ」
「おれはそういうのできるタイプだから」
「そういうタイプだもんな」
 僕は膝に手を置いたまましばらく黙って、「なに話したの?」と聞いてみた。本当なら勝手にどんどんしゃべってくれた方がありがたいのだけど、こういうときの坂本は本当に気が利かないのである。
「なにってべつに、世間話。進路の話とか」
「おまえが進路の話って」
「町山さん、東京の女子大いくから一浪覚悟してるみたいなこと言ってたよ」
 な、に、そ、れ。
 僕はそんなことまったく知らない。妙に親密な会話なのも気になる。打ちひしがれる僕は、坂本をさらに促す。
「ほかには?」
「なんだよ。もうないよ。あ、でも町山さんおまえのこと話してたよ」
「おい、ちょっと! ちょっとまてよ」
「マジで」
「うそだろ」
「うそじゃねえよ。文芸部のみんな、進路決まってるのすごいよねって。おまえも含めて、文芸部のみんな」坂本は円を描くように、人差し指を大きく回した。
「うわなんだそういうことか。いやでもすごいよ。くそーマジかよ」
「話しかけてこいよ」

と坂本が言った。

ん? と思う僕はまた黙り、坂本も黙り、ふたりで暗がりから町山さんの後ろ姿をじっと眺める。
 どうしようかな。
 僕はこの三年間で総計しても、かれこれ一分程度しか町山さんと言葉を交わしたことがない。「あ」とか「うん」とか「はい」「いいえ」くらいだ。彼女の瞳は色素が薄く、虹彩がくっきり見えることにも最近になって気がついたのだ。なにをどういう風に話していいのかがわからないという点で言えば、町山さんもサッカー部の清なんかと大して変わらないんじゃないかとすら思う。
「いや、やめておこう」
 僕は言った。
「そりゃないよ、話しかければ意外としゃべってくれるって」
「そうかもしれないけど」と言う僕の気持は、意外と揺らいだりはしていない。
「ビビるなよ。どうせもう卒業なんだからいくらでも恥かき放題だろ。一組の川谷なんて今年に入って五人に告ってるらしいし、そんなのに比べたら話しかけるくらいなんてことないじゃん」
「え、川谷マジで?」
「マジらしいよ」
「今年に入って?」
「今年に入って」
「やば。まだ一ヶ月も経ってないじゃん。でもそういうことじゃないんだよ。だって、おれなんかが邪魔しちゃダメでしょ」
 町山さん相手ならすぐわかることなのになあ、と僕はしみじみ思っていた。
「ああ」とつぶやいた坂本は、しばらくの沈黙をはさんで「なるほどね」と言った。
 さっさと教室行こうぜ。そんで部室。僕が促せば坂本もついてきてくれる。
 校舎内に入ってすぐに坂本が
「じゃあさっきおまえが言ってたこと、おれが今度町山さんに伝えればいいんじゃない?」
 と言った。
「んん? それはどういうこと?」
「だからおまえが人知れずカッコつけてたことを、おれ経由で伝えたら町山さんおまえのこと好きになるかもよ」
「ばか! そんなわけあるか! 絶対やめろよ。言うなよ絶対」
「これもダメなのか」
「ダメだよ」
「もったいない。それくらい別にいいと思うけどな」
「ありがとう。でもそういうんじゃないよ。おれがめちゃくちゃカッコよかったって事実はおまえがずっと覚えておいてくれりゃ、それで充分だよ。それが本物だろ。違うか」
 ぴゅ~と口笛を吹きながらウインクをする坂本。すごい生き物がいるもんだ、と僕は思う。

 

 教室に戻って荷物をとる。
 山之内の姿はもうないけど、まだ何人かが残って机に向かっている。もう二度と邪魔だけはしないぞ。そう思った直後、参考書から顔を上げた若本紅愛が「あ、安藤くん」と言うのでビビる。
「はい?」
「学ラン見つかった?」
「あー。実はまだなんだ」
 すると彼女は立てた指を壁の方に向けながら、「なんかさっきね、安藤くんのこと探している人がいたよ。学ラン持ってた」
「え、うそ、どんな人?」
「誰だっけ。何組の人かは忘れたけど」
「男子?」
「そうそう、色白の」
「色白? もしかしてあの、すごい猫背の?」
「そうそう!」
 福地じゃん。
 お礼を言う僕に、よかったじゃん、と若本紅愛が表情を大きく崩すことなく小さく呟いてくれた。ひー、やべえ。僕はそのときの若本の遠のく顔、こちらを向く髪を束ねて露出したうなじに対して、体が震えるくらいの勢いで謝りたいと感じていた。「感謝」って字そのままの気持ちだ。若本の器に、僕は完全に飲まれてしまっていた。
「ありがとう」
 こういうときの僕の声は小さくていけないのだが、若本紅愛は顔を上げ、ん? という顔をしたあと、ふわっと片手を上げた。とても律儀な感じのする、甲斐甲斐しい所作だったので、僕も同じようにした。

 

 坂本と七組へと向かう。
 福地の姿はない。
 坂本も自分の荷物をとり、そのまま部室へと向かうことにした。
 渡り廊下に出ると、空には月が浮かんでいた。照明塔の明かりに照らされた運動場は、夕日に染められていたときよりもずっと鮮明だ。
 さみ~と言い合いながら部室棟へと駆け込む僕らは、卒業文集の話をする。浅野はもう出したぜ、と僕が言うと、坂本は「でしょうね」と言った。
「あとで読んでみ」
「はいはい」
「いや、よかったよ」
 これはマジで。

 

 部室の机には、僕の学ランが無造作に置かれていた。
 感動から両手を合わせ膝をついていると、脚を組んだなっちゃんが「よかったね」と言った。「みんな優しくて」
 ほんとにね。
「これは福地が?」
 そう尋ねる僕に「ああ、あいつだよ」と久留米。帰ったのだろうか? 僕は加藤のマフラーと照本のカーディガンを丁寧にたたみ、リュックにしまったあと、久しく会った学ランに袖を通す。ポケットにはスマホがちゃんと入っていて、確認すると坂本の他に、中川からもラインが入っていた。

『見つかった?』

 僕は早速返信する。

『お返事遅れました!学ランが無事見つかったことを報告いたします。ご協力ありがとうございました!』

 もう後回しにはしない。ぼーっとするのもやめにする。この瞬間をできる限り覚えておかなければならない。

 

 物事は更新されていく。

 

 今日のあれこれも過去になる。

 

 残るものも限られてくる。

 

 みんなにも学ランが見つかった報告を入れていく。ああ、僕はちょっとだけ寂しい。嬉しいはずなのに、それを上回る喪失感に手を伸ばしそうになる。
 僕はいまなにを失った? わからない。とにかく今日はもう終わる。終わるに足る理由を、僕は受け止めてしまった。あ、そのせいか?
 しまった。

 

 福地はまだそのへんにいるかもしれないとのことで、僕たちはみんなで部室をあとにする。月曜日は掃除しような! と念を押しながら。渡部先生が来るぞ。渡部先生が来る。バリトンボイスは憂鬱の調べだ。僕らはみんなで渡部先生のモノマネをした。久留米が一番うまかった。声の質が似ているのだ。
 校舎の静寂を挑発するように、軽音楽部の音だけがはつらつと反響する廊下を歩いていると、なっちゃんが「安藤くん、遅れたけど」と言って、さっきの年賀状をくれる。あ、ありがとう。いま読んだほうがいい? 僕が尋ねると「あ、いや、帰ってから読んで。お互いのためにも」とのこと。
 了解。
 僕らは階段を降りる。ドアを開ける。強く冷たい風に吹かれ口々にさびーさびー言い合い、ちょっとだけ走ったり、立ち止まって誰かを待ったりする。ピロティーの太い柱を蹴り、白い息をチョップで割る。
「帰ったら書くか」
 僕はそう呟くけど、マフラーに顔をうずめたなっちゃんがちらりと一瞥しただけで、坂本も久留米も反応をくれない。え、なんだよ。おまえらだってちゃんと書けよ。最後の文集なんだから、そこんところはよろしく頼むよ。
 ポケットの中でスマホが振動する。取り出してみれば戸田セリナからで、『よかったね!』の一言。返信しなきゃ。中川とは違う言葉で。そう考えていると、校門へと続く道にある花壇のそばを歩いていたひとりの男子を見つける。ひどい猫背なのはいつものことだ。僕らに気づいたそいつは、胸の前まで手を挙げてみせる。
「福地!」
 僕は声を張る。学ランありがとう! どこにあったの? 向こうはなにかを答えたけど、声量と、あと風のせいで、たったの一文字も届かなかった。それがなんだか楽しいような、名残惜しいような、とにかくじっとしていられない気持ちを喚起するので、僕はやつの声が届く距離まで小走りした。

 

   まあ。

   こんなもんでしょう。

 

 それは、僕らが一緒に過ごした最後の金曜日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ~18:00