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第一回無職文学賞受賞作『告白』

 

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町田康の『告白』を読んだ。文庫版を購入したのだけど、そのあまりの厚さに読む前から身構えてしまった。どれくらいの厚さかというと女の子の手首くらいはある。いったいこれほどの厚さでどういったことが物語られているのかというと、明治に実際に起こった大量殺人事件、通称「河内十人斬り」をモチーフに、人はなぜ人を殺すのかという永遠のテーマに迫っている。

 

物語の主人公、城戸熊太郎はひどく思弁的な男。小さいころから感じていたことといえば、思っていることと口に出すことの間にある埋めがたい差異で、気持ちを的確に言語化できない居心地の悪さを常に感じている。みんなもこういうこと思っているんだろうかと気にはなるけど、そんな素振りは誰も見せない。この気持ち、わかるかなと友人に問うても「あーあーあー、わかるわかる」みたいなお前絶対わかってねえだろという返答をされて、はいはいわかりましたよ、もうなに言ったって伝わんねんだと偏屈になってしまう。その結果どうなったか。熊太郎はやくざものになってしまう。といっても北野映画に出てくるような沖縄で米軍横流しのM4を手に入れて殴り込みを敢行するような人たちを指す意味合いとはちょっと違い、酒や博打や女にうつつを抜かしまくるだけでちっとも働かないような人間となってしまったのだった。そんな熊太郎の思考は脳内暴走族といったところで、とにもかくにも考えずにはいられない。それはもう見栄や損得についてだったりと、とにかく俗っぽくて打算的な思考でつねにがんじがらめ状態。考えすぎるあまり動けないし、考えすぎるあまり動いても散々。そんな彼がなぜ十人もの人間を斬殺するに至ったのか。その過程である彼の人生そのものが軽妙な文体で飄々と、時に切実に語られていくのである。

 

物語の流れをみれば、これは『タクシードライバー』な気もするし、こういった事件は現代にも多く起こっているような気にもなる。舞台が明治といえど、扱っているのは我々人間が持つ普遍的なままならなさ。思考を完璧に言語化し、かつ相手もそれを完璧に受け取ってくれるということはたぶん有り得ない。そのもどかしさに人一倍敏感であったがゆえに不器用に振る舞い、ぬかるみでもがくように自尊心を傷つけていく熊太郎の足掻きを丁寧にその視点に立って描ききった町田康の力量は恐ろしい。実際、読んでいる間はその饒舌な語り口とユーモアに夢中になって、思いのほかページは進んでいった。

 

熊太郎の中に渦巻くのは見栄や後悔や罪悪感。あの日あの時あの場所でという小田和正的ifストーリーに付きまとわれ、なにをするにも際限のない思弁が邪魔をする。かといって気を楽にもっとテキトーにやろうといった器用さもないから、いつまでもいつまでも熊太郎は判断を誤り、解釈を誤り、やがて大量殺人へと走るのだった。自分の中にある「こうするべき」「こうあるべき」を譲れない人間は結局周囲との齟齬に苦しむのだという今更疑問を呈するのもはばかられるような世界の約束事があるとしても、この物語の中でしっちゃかめっちゃかな頭を抱えて右往左往する熊太郎はどうみたって自分なのだ。そこにはぼくたちのままならなさがすべて詰まっている。

 

後半にて、これまで信じていたあることがすべて自分の思い違いであったことが判明する場面の直後に熊太郎はこう漏らす。

平たい土地に松の木が生えている。くだらない。切り倒せ。そこに松があることを含めて宇宙そのものが徒労だ。面倒くさい。死にたい。死ね。

このあたりから熊太郎の吐く言葉にえも言われぬ迫力が宿り始める。物語の最後では、熊太郎は自らの内にある「本当の本当の本当のところの自分の思い」を探り、告白する。そのたった一言の持つ重たさと余韻は未だ心を離れない。この一言のために熊太郎は迷いに迷い、そして気づいたのだ。追い求めていた「本当のこと」に。

 

今回この作品を読み終え、選考委員の面々で厳正なる選考を行った結果、本作が第一回無職文学賞を受賞することと相成りました。もちましては、受賞者であります町田康さんには、正賞としてぼくが本を購入した分の印税、副賞として全国の無職より「感動した」「超よかった」等の思念が授与されます。おめでとうございます。