MidnightInvincibleChildren

書き下ろし短編:『上司を殺せ!』

 二杯目のビールがなくなるころになって、サカモトが「中嶋を殺しませんか?」と口に出したとき、カスガは「あ、それいいね」と間を置かずに返した。もちろん冗談だと思っていたからだったが、それは違ったし、カスガ自身、本気だといいなとも思っていた。
 サカモトはカスガの同期であったが、配属先が違った。どちらにせよ中嶋という上司との接点があった。中嶋は全体を総括する部署に在籍しており、日々あらゆる社員に罵声を浴びせていた。百歩譲るとして、そこに愛があるのならとカスガは思う。しかし中嶋のそれは衝動的な感情の暴投であり、増えるワカメに注がれる水と同じで、みんなのストレスを何倍にも膨らまし、神経を削り取っていた。
「尊敬できる人間だったら、ある程度は我慢できるんすけどね」
 サカモトは口の片端を持ち上げて力なく笑う。仕事を始めて十キロ太ったと言っていた。もともとふくよかな体型をしていたサカモトだが、ストレスの影響は明らかだった。
「あのクソ野郎、めちゃくちゃじゃないすか? 異常ですよ。おれこの前あいつが営業のアマミヤさんに話してんの聞いたっすよ。中嶋、休みの日パチンコしかやってないんすよ。あとキャバクラ。この二つしか趣味ないんですって。いやいや、あの人もう四十らしいんすよ。で、結婚もしてないし子供もいないじゃないですか。なんか若いころヤンチャしてたとかで、親ともほぼ勘当状態らしいですし、こんな話、自慢気にしますか? おまえ何歳なんだって。いつまで馬鹿な中学生みたいな精神で生きてんだって。もう絶対若い奴のこと妬んでるんすよ。いやわかんないすよ? でも潜在意識でとか、心のどこかでは絶対よくは思ってないじゃないですか? 自分には未来がないからあんなクソみたいな会社にしがみついて若い後輩怒鳴り散らしたりシカトするしかないんですよ。逆に哀れっすよ。いや、同情しないすけどね。おえ。あ、ほんとに吐きそう」
 サカモトは現在精神科に通院中の身であり、日付の箇所だけを空白にした手書きの退職届をお守りとして毎日鞄に忍ばせていると言った。カスガも中嶋のせいで、入社時より五キロほど痩せたクチだ。他のもろもろには慣れてきたというのに、中嶋に関しては一向に馴染めなかった。というのも、中嶋は罵倒による手応えを感じられなくなると、手を替え品を替え攻撃を継続する陰湿さを持っていた。こちらがうっかり麻痺した態度を見せるや否や、無闇矢鱈と机を叩いたり、椅子を蹴り上げるなどして、遠まわしな威嚇を始めたりした。
「周りも中嶋の横暴にはノータッチだもんなあ」
 カスガはジョッキの底に薄く残った黄色い液体を眺めながら、深い息を吐いた。中嶋の質の悪いところは、分け隔てなく部下を攻撃するわけではないところにあった。例えば事務のオカエという女性社員には気さくに声をかけていたし、自分を慕う者には(例えそれがまやかしの敬慕だとしても)理不尽な言動で接することはなかった。カスガもサカモトも、よりにもよって自分があんな人間に睨まれてしまったのだという事実に疲弊しているところがあった。周囲の人間との扱いの落差に打ちのめされていた。なんでおれなんだよ、ちょっと内気なだけじゃねえかとカスガは思っていたし、なんでおれなんだよ、ちょっとデブで要領悪くて汗っかきで気が弱いだけじゃねえかとサカモトは思っていた。ただでさえ拘束時間が長く激務続きの毎日だというのに、なぜあのような人間の近くで圧を感じなければならないのだという怒りと悲しみから、家具に当たったり、枕に顔をうずめて泣いたりすることも少なくなかった。
「はあ」
 サカモトの溜息を合図に、長い沈黙が訪れた。カスガはまた明日になれば中嶋に会わなければならないこと、様々な理不尽に耐えなければならないことなどを考えてうんざりしていた。サカモトは先月退職した営業のヤスダさんのこと、先々月退職したタカハシさんのことを思い出し、しんみりしていた。ヤスダさんはある日の朝、出社して早々に、会社の入口で嘔吐し倒れた。救急車で運ばれ、休職に入り、そのまま辞めてしまった。タカハシさんは神経症を発症し、休職に入り、そのまま辞めてしまった。ヤスダさんもタカハシさんも中嶋に目の敵にされていた人物だった。二人の休職を知った際の、中嶋のあの蔑むような顔を、サカモトはお風呂に入っている最中などに思い出しては、全身をこわばらせ唸り声を上げた。
 殺してやる。

 亡き二人のためにも。
 ビールをおかわりしたカスガとサカモトは、キャバクラ好きという中嶋の特性を活かして、飲みに誘い、泥酔にまで持ち込んだあと、近くを走る高速道路に高架から投げ入れ、大型トラックに轢き潰してもらう計画を訥々と話し合った。はじめこそ、酒の勢いで出た戯言のように捉えていたのだが、話が進むにつれ、ふたりはああ、これは本当に実行する他ないなあ、と思うようになっていた。

 

 実行日まではすぐだった。計画のようなものがぼんやり形づけられていくにつれ、ふたりともいてもたってもいられなくなったのだ。
 ふたりは会社の廊下やトイレで鉢合わせた際にも、会話をすることを避けて過ごした。シンプルな計画の内容などは、すべて頭の中に叩き込んであった。
 その日も中嶋は電話越しに相手を罵倒し、報告に現れたヒラヤマさんを慇懃無礼な態度で長時間に渡り“指導”した。ヒラヤマさんは先月の頭に中途採用で入ってきた初老の男性で、どう見ても中嶋より歳を召していたのだが、小刻みに頭を下げる態度や、声の小ささから、格好の餌食となっていたのだった。高齢者虐待だ、とサカモトは怒りを禁じ得なかったが、それもすべて計画実行へのモチベーションに転化した。
 その日は金曜で、中嶋がお気に入りの飲み屋に向かうことはリサーチ済みであった。カスガは作戦にあたり、自宅アパートを提供する算段となっていた。キャバクラ帰りの中嶋に偶然を装って声をかけ、飲みに誘い、タクシーに乗せて部屋まで誘い込むのだ。中嶋は後輩のそういうお誘いを自分への信奉としてごく当たり前のように捉えるであろうから、意外と有効な計画に思えた。普段からそうやって器用におべっかを使えていれば苦労しないのだが、これがなかなか難しいのであった。しかしいざ対象を殺害するとなると、人は大抵のことなら勢いでこなせてしまうようになるのだと、カスガは実感し、浮ついた。
 部屋に誘い込むことに成功すれば、あとはサカモトの出番である。大学時代に遭遇したという飲みの席での集団昏倒事件を参考に、大勢を意識不明にまで追い込んだというスペシャルサワーを中嶋に煽らせ、レンタカーに連れ込み高架まで運ぶのだ。
 すべては恐ろしいほど滞りなく進んだ。中嶋は暴力的なアルコール度数を誇るスペシャルサワーによってカスガ宅の真ん中で大の字になった。顔は部下を叱責する際と同じくらい赤くむくれ上がり、それがよりふたりを殺る気にさせた。ふと、ここまでの足取りを誰かに把握されていないかと不安に思ったカスガが、中嶋の携帯電話を取り出してあれこれ調べ始めた。そばで見守っていたサカモトだったが、カスガの顔が強張るのが見てとれた。


 中ちゃん @na_ka_chandesu 1時間前
偶然会った後輩に誘われて飲み。まさかの宅飲みという。天変地異でも起こるんじゃないか


「こいつ、Twitterなんてしてやがる!」
 カスガが叫べばサカモトも画面を覗く。「くそが……」
 アイコンは咥えタバコをした中嶋自身の横顔だった。加工までしてある。サカモトは歯を食いしばった。
「誰と会ったかまでは明言してないけど、これじゃあ計画に綻びが出てしまうな」
 不安げなカスガにサカモトはtweetの削除を提案した。確認するとフォロワーも二十名ちょっとしかおらず、彼女もおらず、家族とも疎遠なのであれば、この二十数名は会社のくだらないおべっか使いやキャバ嬢の類に違いない。いますぐ削除すれば、なにも起こらなかったことにできるはずだ。カスガは言われるまま削除をし、着ていた服で携帯をまんべんなく拭った。
「車、下まで回してきます」
 サカモトはこの日のために、三日前からレンタカーを借りていた。外に飛び出すと、眩い月が浮かんでいるだけで、表に人の気配はなかった。すべては滞りなく進む。まるでこれが神の与えたもうた使命であるかのように。世界一有名なテロリストを殺したネイビーシールズのように、おれたちが今夜中嶋を殺すのである。揺るぎのない大義に突き動かされている今、なにも怖いものはなかった。たとえ今ここで巡回中のパトカーに見つかったところで、警官たちは精悍な顔つきで敬礼をくれるはずだとすら思えた。
 ふたりで中嶋を運ぶ際も、あたかも介抱しているという体で、だいじょうぶですか、ははは、飲みすぎですよなどと、小声で囁き続けた。
「じゃあ、運転お願いね。おれ、飲んじゃってるから」
 助手席のカスガに促されるままサカモトは車を発進させる。目的地はここから十五分ほどのところだった。車内の沈黙に耐え兼ねて、ふたりは社歌を歌った。入社してすぐの研修で、喉が枯れるほど歌わされたものだ。月が綺麗だなと、カスガは思った。ふたりはどちらからともなく声を震わせ、やがて涙を流しながらも、社歌を歌い続けた。こんな歌、コブクロ以下だ! そう思っていた時期も遥か遠い。ふたりは歌いながら頭を左右に細かく振り、感情の昂ぶりを表現し続けた。あっというまに目的地の高架にたどり着く。道路脇に停車すると、ふたりはシートに頭を預け、静かに呼吸を繰り返したあと、互いに視線を交わし、後部座席に横たわる中嶋を担ぎ出すため車外に出る。会社にいるときの自分よりも、はるかに先を読めていた。はるかに能率的だった。そんな自分がとても誇らしかった。カスガが中嶋の足を引っ張り、滑り出てきた上体をサカモトが支えた。高架下では、とぎれとぎれではあるが大型のトラックが鈍い振動とともに往来している。ふたりは一旦中嶋を地面に置くと、これからこの男が有終の美を飾る道路を見下ろした。アスファルトはオレンジ色の該当に照らされ、どこか暖かな雰囲気さえある。
 ふたりしてしばらくじっとしていた。やがてカスガが「じゃあ、そろそろ」と言って腰をかがめ、中嶋の足を取る。しかし、サカモトは依然として動きを見せなかった。訝しく思ったカスガが声をかけると、サカモトは小さな声でつぶやくのだった。
「こんな時間に、みんなどこ行くんすかね」
 言葉をなくすカスガ。サカモトは迷いの滲む二つの眼でカスガを正視する。
「これ、轢いちゃったドライバーに悪くないですかね……」
「なにいってんのサカモトくん」
「だって、関係ないじゃないですか。こんな時間に運転して、頑張って働いて、家族とか養ってるんじゃないですかね」
「こんなときにやめてよ」
「人生めちゃくちゃになっちゃうじゃないですか」
 サカモトは泣いていた。鼻がつまり、ゴボッとむせた。おれたちはすでにめちゃくちゃじゃないか、とカスガは言った。毎朝起きて薬飲んで出社して、食欲もないのに冷たい弁当食べて、この男の言動に耐えて耐えて耐えて、なのに給料は雀の涙だしさ、忙しすぎて転職活動する暇もないよ、せめてほかの人間がよければとか思うけど、みんな自分が標的にならないように事なかれを貫いててさ、なんなら一緒になって陰口だって言うしさ、薬が切れれば精神科にまた行って、それをこれから先もずっと続けていくんだよ、身体が動かなくなるのを待ち続けるだけの日々なんだぜ、めちゃくちゃだよ、貯金も全然たまらないし、親は言うよ、人生設計をしっかりって、ちょっとまってくれよ、人生設計なんてさ、ある程度の土台がなきゃ考えようもないじゃん、ぶら下げられたまま殴られるサンドバッグだよ、自殺したってさ、こいつはじゃあどうなるっていうんだよ、お咎めなしじゃん、そんなの納得できないだろ、なあサカモトくん、おれたちはこいつを消すことで、ようやく次に進めるんじゃないかな、そう思ったから、今日はこうやって、ほら、もうここまできたんじゃん、いいじゃんもう、ほかの人のことなんて考えてられないよ、そんな余裕ないんだよ、もうどうるするんだよ、どうすればいいんだよじゃあ……。
 カスガもとめどなく溢れる涙に声をなくした。ふたりはそのまま昏倒した中嶋をはさんで、声を殺して泣き続けた。
「だめだできない」
 カスガの言葉にサカモトは跪いた。「ここじゃなきゃいいんですよ」サカモトは依然として嗚咽を繰り返しながら、言葉を絞り出した。
「ここで殺すのはやめましょうってことなんですよう」
 今度はバーベキューにでも誘って、大自然の力を借りましょう。泥酔させて川に放り込めばすぐですよ。サカモトの言葉に、最初からそうすればよかったねと、助手席のカスガが答えた。おれたち、仕事できねえからな。ふたりは泣きながら笑った。もうすぐ朝になる。中嶋を乗せたまま、しばらくドライブをした。サカモトは会社でのカラオケでいつか歌おうと練習していた『明日があるさ』のウルフルズバージョンを小さな声で歌い続けた。
 カスガは途中で寝てしまった。湿った瞳に、朝日が突き刺さるようだった。カスガはその後、ひどい二日酔いを訴える中嶋と丸一日自室で共に過ごした。水を与え、インスタントの味噌汁を出した。味噌汁を飲んだ中嶋は、腫れぼったい目をどろっと動かし、「なんもねえ部屋」と吐き捨てた。

 

 それから一週間も経たずにに中嶋は死んだ。
 ふたりがバーベキューに誘ったわけでも、大自然の力を借りたわけでもなかった。
 会社で、ヒラヤマさんの手によって殺されたのである。
 ヒラヤマさんは朝一で中嶋の罵声を浴びた直後、すみません、すみませんと繰り返しながら、中嶋の口に両手をねじ込み、力任せにこじ開けるとそのまま顎を上下に引き裂いてしまったのだ。オフィスは阿鼻叫喚。吹きこぼれる血がぼたぼたとタイルの上で跳ね、ハウリングするマイクのような声を上げていたかと思った中嶋も、やがてぴたりと静かになった。血を浴びたヒラヤマさんはその場に立つ尽くし、相変わらずすみませんと繰り返しながら、下顎がぼろりと垂れ下がった力のない中嶋をそっと地面に置いた。
 そこから先は誰も見ていない。避難や通報で忙しかったのである。
 カスガとサカモトは中嶋のいなくなった会社でその後もしばらく働いていたが、そもそも根本からしてずさんな労働環境であったため、ほどなくして退職。いまはそれぞれの未来を見つめて動き始めている。
 カスガは刑務所内のヒラヤマさんに何度か手紙を書いた。ヒラヤマさんのお陰で、平穏な日々が訪れました。お勤めが終わりましたら、一緒にお酒を飲みましょう。ヒラヤマさんから一度だけ、厚みのある封筒が返ってきた。そこには手紙への感謝の言葉や、ヒラヤマさんのこれまでの人生、自分の犯した罪への懺悔が、丁寧な文章で長々と綴られていた。カスガはその手紙を、久々に飲むこととなったサカモトにも読ませることにした。ヒラヤマさんはおれたちの恩人だな。感謝してもしきれないよ。そう呟いて焼き鳥を頬張るカスガだったが、サカモトがふとつぶやく。
「これ、縦読みじゃないですか?」
「え、うそ」
 カスガは身を乗り出して便箋を覗き込む。
「なんて書いてある?」

 




度、



































た。

























す。






































































す。







なっ









メッ













し、



































い。













 

 

 

 


 ふたりはしばらくじっとしたり、手紙を読み返したりして過ごした。カスガはジョッキを空にする。
「まあよくわかんないけど、ヒラヤマさんも新たな一歩を踏み出したってことだ。すごいなあ。おれたちも頑張らなきゃ」
「いやあ、ほんとそうすね」
「乾杯しようよ」
「しましょうか」
「中嶋の死に?」
「ヒラヤマさんの再就職に」
「すべての働く人々に」


 乾杯。


       ◆◆◆◆◆◆


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