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書き下ろし短編:『蓬ヶ丘殺人事件』【前編】

創作

 

 この町にあるいくつかの丘のうち、最高でも最低でもないなだらかな高台の上に蓬ヶ丘団地があった。周囲は深い茂みに覆われていて、各階二部屋ずつの四階建て、造りも古い棟が無数に並び建ち、それがちょっとだけ墓石に見えなくもないとぼくが思うのは、四号棟と七号棟にある部屋のどれかに幽霊が出るという噂を聞いたことがあるせいなのかもしれない。
 まあ幽霊はあくまで噂だけど、蓬ヶ丘はろくでもない場所だった。
 蓬ヶ丘団地の五号棟四〇二号室に住んでいた大橋裕太は妻の美代子との間に二人の子をもうけた。女の子と男の子だった。子供は親を選んで生まれてくるみたいなことを言う人もいるけど、だとすれば少なくとも、大橋家の長男である大橋春空くんはこのふたりのもとになんか生まれてくるべきではなかったのだ。父親である大橋裕太は絶望的に頭がパーなくせしてプライドが高く攻撃的だったし、そのバイ菌男とホストクラブで出会った母親の美代子だって不用意な同調だけを頼りに生きてきた人間だったので、瞬く間に旦那の馬鹿がうつってしまった。
 大橋晴空くんには生まれつき軽度の知的障害があったが、ふたりはそのことにずっと気づかなかった。上の子と違って、お利口さんではないなと思っていた。いつしか彼らはそんな晴空くんにまともな食事を与えることをやめるようになり、綺麗な服も着せなくなった。いつまでたってもお漏らしが治らなかった晴空くんはオムツだけを身につけたままの姿で過ごしていたし、泣き声がうるさいからと口にタオルを巻きつけられたりもした。リビングの隅に犬用のケージを起いたふたりは、その中で晴空くんを生活させるようになる。聡明で美人だった長女には、食事はもちろん毎日綺麗な服を着せ、頻繁に外出もさせていたくせに。一方で大橋晴空くんは、そのお姉ちゃんがくれる水やパンを食べて生きながらえていたのだった。両親から与えられる食事の量は、いくら体の小さい幼児とはいえ、生きていく上で十分な量とは言えないものだったらしい。すべては排泄物の量を減らすためだった。
 大橋晴空くんが三歳の夏に児童相談所の職員が大橋家を訪問し、すべてが明るみに出た。大橋裕太と大橋美代子は逮捕され、子供たちは保護された。発見当時、晴空くんの体重は八キロにも満たなかった。平均の約半分だ。残された姉弟は絶縁状態にあった母方の祖父母の元に引き取られることとなった。当時九歳だったお姉ちゃんは、救急車で運ばれる晴空くんのそばにずっとついていた。彼女にとって救急車内はすべてが未知だった。見たことのないエネルギーで溢れていた。弟を生かそうと懸命になる大人たちを、彼女は初めて目の当たりにした。
 彼女にとって、それは大きな力に見えた。
 大橋亜矢子にとって、なによりも必要なものだった。
 高校に上がり亜矢子と同じクラスになったぼくは、ある日の放課後、人気のない教室で彼女の顔を思いきり殴り、殴られるのだけど、あのときだって亜矢子は幼くして形成した彼女なりの哲学に則って行動していたはずなのだ。恥ずかしながら当時のぼくがそうだったように、ほとんどの高校一年生にはっきりとした哲学や信条なんてものが芽生えているはずがなくて、そんなアホでマヌケなぼくたちからすれば、大人しいけど愛想だけはよくて、そのくせどこかそっけない感じがある大橋亜矢子という女子は、なんだかちょっとだけ気持ちの悪い存在に思えた。
 いやもっとはっきり言っちゃえば、ぼくは彼女のそういう感じが許せなかったのだ。見ていて妙にムカつく。同じクラスになってふと目で追っているうちに透けてくる「でもわたしは違うから」といった態度が生意気に映ったし、かといってみんなと同調しろという気分にもならず、ぼく自身、彼女にどうしてほしいのかわからなくて困る。
 ううう! なんというか位置が悪い!

「宮本くん、わたしのこと嫌いでしょ」

 とはいえぼくはあの日、自分がまさか大橋亜矢子を殴るなんて思ってもみなかったのだが、きっかけのひとつには、たぶんぼく自身の恐怖があったのだと思う。
 許せないもムカつくもバカなりの強がりだ。
 ぼくは完全に怯えていた。彼女の重めの真っ黒な髪とかクーラーの効いた目とかナメクジを裂いたような唇とか容易く出血しそうな皮膚とか蜘蛛の脚みたいな指とか、人づてにぼんやりと耳にする彼女の過去とかそういうもろもろすべてに。
 その日、ぼくらはその場の空気というか流れというか、結局十分ほど応酬し合う羽目になり、その間机や椅子はいくつも引っくり返るし、ふたりして口を切ったり鼻血を出したりでみるみる取り返しがつかなくなる。ぼくはぼくで先制を仕掛けた自分への驚きと状況への混乱で興奮状態にあったし、一方の亜矢子もぼくが一発返すたびに二発、三発と腕をぶんぶん振り回し、蹴り、丸めた教科書で突いてきたりするもんだから、とにかく自分が死なないよう尽力するしかなかった。男子とすら殴り合う機会なんてないのに自分はいま何をしているんだ? そう思う一方でぼくは頭の中央部がぼんやりまどろむような鈍い感覚に襲われていた。彼女の血とか唾液や汗にまみれた頬を拳骨で打つたびにもうちょっと、あとちょっとという気分が膨らんでくる。……いやいや、人を殴るなんて趣味はないぞと思うぼくだが、女子を殴りながらじゃ全然説得力がないので自分自身を信じることさえままならない。こわい。ぼくはそういう人間なのかもしれない。成人を迎えて初めて幽霊を見たという人がいるように、自分のまだ見ぬ本質を発見するのに歳なんて関係ないのかもしれない、とか思いながらもバンバン殴り殴られているぼくは、これは生存本能なのではないかということでとりあえずの決着をつける。必死で殴って何が悪い。自分からやっといてなんだけど、ぼくはまだ十五年とちょっとのこの人生をこの女に終わらせられたくない。
 息と唇と鼻の粘膜が切れ、さすがに傷の上から殴るのも忍びないからと妙な角度をつけて撫でるように押したり叩いたりしているうちに、心まで完全に疲弊したぼくはついに手を止め、かざした腕で彼女の攻撃を受け続ける。受けながら全身を覆う毛や皮膚や筋肉を思い、肉に包まれた骨のことを考える。痛い。申し訳ない。情けない。
 なんだか急に静かになったなと思って顔を上げると、彼女は肩で息をしながら、腫れた唇をだらしなく開けぼくのことを見ている。指でも入ってしまったのか、彼女の痙攣する瞼の内側からは涙が溢れていて、濡れたまつげのすっと伸びる様にハッとする。
 そんな感じでまた十分くらい経った。ぼくらはどちらからともなく教室の後片付けをする。割れた瓶の破片をつまむ彼女の指とその繊細な動きに見とれてるのか朦朧としているのかわからない状態のまま教室を、そんで校舎をあとにした。で、特になにも言わないけど、ふたりして一階の渡り廊下から中庭を抜けてグラウンドまで回ると、水洗い場で顔を洗うことにしたのだ。
 口をゆすぎ刺すような痛みを感じながら、ぼくは明日からどうしようとか、そういうことを考えていた。青紫に染まるグラウンドの対角では野球部が後片付けをしながら大声を上げていた。ふと気づくと、彼女がハンカチを差し出してくれていたのでぼくはそれを受け取る。タオル地で甘い匂いが染み付いていて、スヌーピーの刺繍が施されたハンカチだった。フォークソングに出てくるようなハンカチだねと思っていると、急に彼女に対する恐れとか興味が白けていくのがわかって、それはそれでさみしいような、我ながらわがままな気持ちになる。
「ありがとう」
「ううん」
 なんか普通に喋っててうけるけど、ぼくはぼく自身の無責任な怒りに恥ずかしさを覚えている。
 いますぐ一人になりたかった。
 翌日ぼくは登校し、亜矢子は休む。ふたりして顔を腫らしていたら先生にいろいろ聞かれるんだろうなと思っていたけど、彼女なりの配慮だったのだろうか? 配慮というか、彼女だってそれが嫌だったのだろうか? ぼくはもう亜矢子のことしか考えられなくなる。朝礼が終わり、同じクラスの藤田が来る。
「顔どうしたよ」
 高校に入学してからの友人だったが、こいつには本当のことを伝えすぎないほうがいいとぼくは思っていた。そういうタイプの人間なのだ。渋るぼくにやつは続ける。
「大橋か」
「ちがうって」
「大橋だろ」
「なんでわかるんだよ」
「マジか~」
 藤田は大橋亜矢子と同じ中学を卒業していて、大橋に関するわずかな情報もぼくはすべて藤田経由で耳にしていた。
 翌日、大橋亜矢子は登校してくるが、もちろん会話をしたりはしない。藤田は「おまえがあれやったのか」と言う。さすがにちょっと引いている。薄暗かったので気付かなかったが、裂傷の残る唇もそうだけど、腫れに瞼が押され土偶のような目になっている彼女の顔はかなり凄惨で、改めてぼくも気圧される。自分の行為に寒気がする。そもそもぼくはまだ彼女に謝ってすらいないのだ。
 放課後、下校途中の彼女に声をかけた。彼女は「別にいいよう」と言って足早に歩き出すが、そうもいくかと思ったぼくは、どうかもっと真剣に人の話を聞いてくれと思う。言う。亜矢子が立ち止まる。
「うわ。なんで止まるの」
「話を聞こうと思って」
「ああ、そうか」とぼくは改めて「殴ってごめん」と言い、頭を下げた。
「なんで謝るの」と今度は亜矢子が聞く。
「なんでって普通でしょ」
「わたしが悪いんだよ」
「いやいや、なんで? そんなことないでしょ」
「あるよ」
 独り言のようにそう言い残し、どんどん歩く彼女の後ろ姿を見ながら、なんだあの女、イカれてんのかとぼくは思う。それから急に寒気がして、家まで走って帰る。こわい。いやこわくない。
 気持ちが妙に寒々しい。みっともない。
 ぼくはその夜、藤田にメールする。
『大橋はイカれてる』
 返事が来る。
『お前のほうがイカれてる』
 ぼくは唸る。
 そうかもしれない。
 というのもぼくは彼女と殴り合ったあの日から、オナニーができなくなっていた。

 ぼくは呪われたのかもしれない。大橋亜矢子はあの日の放課後、ぼくに呪いをかけたのかもしれない。
 放課後になると、大橋亜矢子のことを尾けるようになった。そのために双眼鏡まで買い、ついには彼女の自宅まで突き止める。彼女にもう一度声をかける気にはなれなかったけれど、どうしても呪いだけは解いてほしかったので、いろいろ考えた末に彼女の殺害までちょっとだけ考えるぼくはさすがにどうかしている。でもぼくはいま確かにどうかしているのだ。それをなんとかしなければならないんだ。
 思い切って藤田に相談する。
「おれ呪われてるかも」
 藤田には野球部の練習があるので、放課後長々と相談にのっている暇がないし、おかしくなったぼく自身に引いている素振りすら見せる。薄情だとは思うがぼくは仕方がないかとも思う。ぼくだって呪われたとか言い出す友人に始めから真摯に寄り添える自信はない。とはいえ、ぼくが大橋亜矢子に殴られ、殴り返したことにより呪いにかかってしまったことは藤田しか知らないので、ほかに相談する相手もいないのだ。ぼくは高校に行くのがつらくなって、やがて体重まで減り始める。やや丸みを帯びていた頬はしゅっとこける。両親はそんなぼくをみて「あんたも精悍な顔つきになってきたね~」とか言うので話にならない。ここで「呪い」という文言を口に出すことは流石に憚られるので適当に嘘をついてやりすごす。新しい環境に馴染めなくて……。でもそれだって丸っきり嘘というわけではない。入学してまだ二ヶ月、新しい教室には決まって亜矢子がいて、腫れの引き始めたその顔には以前のような涼しさをたたえ出していたし、時折目が合えばその眠いのか笑っているのかわからない三日月型の目を伏せ、意味深に伸びをしたりするのだ。
 悪魔。
 ぼくは彼女の自宅の監視を強化する。彼女の家は蓬ヶ丘団地のフェンス越しに一望できる住宅街の一角にあったので、ぼくは団地内にある公園のジャングルジムや滑り台の上、ベンチの背もたれなどに腰掛けながら彼女の家をウォッチする。平屋の一戸建てで、日が沈みだすころ頃、団地内にある集会場から午後六時を告げるドヴォルザークの『家路』が流れるなか、窓から温かな光が漏れる様を眺めていると、ぼくはすべてが虚しくなる。いますぐこの高台から飛び降りてすべてを終わらせたくなるような滅茶苦茶な気持ちだ。あるいは、この目の前の風景に空から無数の星が降り注いで焼き尽くすとか。あーあ、どうしてくれるんだ大橋亜矢子。運命を呪いこそすれ、ぼくは負けたくもない。
 監視を始めて一週間と四日経つころには、ぼくは大橋亜矢子のことを色々と知る。彼女には小学生の弟がいる。毎日ではないが一緒に散歩をする。庭をうろうろしたりする。ふーん、なるほどね。ぼくは蓬ヶ丘団地に住む同級生から、なんか気持ち悪いことをしているという噂を立てられたことにより望遠監視はやめにして、彼女の家の近所を歩くことにする。もしもばったり鉢合わせるようなことがあれば、それはそれでどうしていいかもわからないけれど、ほかにすることなんてないのだ。ぼくは呪いを解いてもらうか、それが無理なら相応の復讐をしなければならないと思っていた。
 彼女の近所にあるブランコと滑り台と砂場をあつらえただけの小さな公園でコーラを飲んでいると、ぼくは亜矢子に見つかってしまう。こうなることくらい百も承知だったはずのくせして死ぬほど狼狽えたぼくは、目が悪くてなにも気づいていないふりをした。すると彼女はぼくに近づいて言う。
「宮本くん」
 うう、頼むからほっといてくれよ。
「こんにちは」ぼくは驚いたふりをして、お尻の砂を払いながら立ち上がった。
「家このへんなの」
「ん、いや、違うけど」
「そうなんだ」
 ふたりしてどうしたらいいのかわからない感じになっていると亜矢子が続ける。
「もしかして、また謝りにきたの」
「え」本当に理解が追いつかず「違うけど」とぼくは顔を上げる。
「あごめん。じゃあ本当になにしてるんだろ」と言う彼女は一瞬笑い、ぼくはその顔を直視できない。
 別に今日は殺す気できたわけでもないし……。
「怒ってる?」と言う彼女の顔をぼくはまだ見ない。
「え、別に。なんで」
「ごめんなさい」
 ぼくはいまの「ごめんなさい」がなにに向けられているのかちょっとだけ考える。
「ん?」
「まだわたし謝ってなかった。ごめん」
 いまのは謝るのが遅れたことに対する「ごめん」か。うむ。
 それからぼくは、どういうわけか彼女の家に招かれ、そこで大橋晴空くんと初めて会う。「こんにちは」と言うぼくに一切目もくれず家に向かって歩いていくどこか不思議な男の子だと思った。
 晴空くんを通せんぼするように目の前にしゃがみこんだ亜矢子が言う。「晴空。こんにちはは? ほら、こんにちはって」
「こんにちは」
 晴空くんの真後ろに立つぼくは「顔似てるね」と言うが、彼女は特に何も言わず、弟の頭に手を置いて「はい」と呟いている。
 そんでなぜか彼女の方が家の中に消え、ぼくは庭で晴空くんとふたりっきりになった。晴空くんは人差し指を立て、何かを斬るように腕を振ってみせている。ぼくの近くのなにかも斬る。なにが見えてるのかなと思いながらその手から逃げるぼくは、晴空くんの爪先に当たったサッカーボールを蹴り返す。晴空くんがまた蹴ってくる。蹴り返す。かれこれ十往復ほどさせたころ、亜矢子が縁側に現れる。
「ごめん、麦茶いる?」
「あ、いいのに」
「嫌いだった?」
「そういうことじゃないよ。麦茶好き」
「飲んで」
「あ、うん。ありがとう……」
 ぼくは亜矢子がコップに注いでくれた麦茶を飲んだ。その間も晴空くんがボールを蹴ってくるので、二口飲んでからコップをお盆に起き、再び晴空くん目掛けて蹴り返す。
「晴空、いまはだめ」と亜矢子が言うが、晴空くんはまったくやめようとしないのでちょっと面白い。
「別にいいよ」と言うぼくに亜矢子が「ごめんね」と言う。
 また謝ってる。
 ぼくは少しだけ落ち着いている。どこまでもついてまわるあの切迫感もない。晴空くんにボールを蹴り返しながら、ぼくは亜矢子の顔を見る。こみ上げた感情をそのまま口にしてしまう。
「顔、ごめん」
 よく聞こえなかったみたいで、縁側に腰掛けていた彼女は少しだけ身を乗り出した。ぼくはジェスチャー付きで再度言う。
「顔。殴ってごめん」
 あはあ、と短く息を吐いたあと、彼女は太ももの裏に手を敷いてスカートを押さえながら「わたしは全然いいし、謝るのもわたしの方だし、もういいよ」
「うーん」
 とは言ってもね。黙るぼくに彼女はもう一言添えてくれる。
「きりないよ」

 そう言う亜矢子だったが、きりがなくなるまで徹底的にやるというのは彼女の哲学の一つだった。彼女が中学一年のころにクラスメートの女子を殴ったことによってその彼氏一味に階段から突き落とされたり、下校途中に追い回され殴られたりした際も、彼女はちゃんとやり返し続けた。きりがなくなるまでやってやってやりまくれ。だんだんと事が大きくなるにつれてついていけなくなった相手側が亜矢子に近づかなくなり、そこでようやく亜矢子はひとつの諍いに終止符を打てたというわけだ。うーむ。極端な話でもっといい解決策はあるはずだと思うぼくだけど、まあ一理ある気もしていた。もちろんあくまでほんの欠片であり、すべてじゃないけど。
 でもずっとそんな感じでやってきているのだとしたら、なんか疲れない? と思うぼくは彼女といろいろな場所へ行ったりする。学校が終わるとどうでもいい話をしたり何も話さなかったりしながら歩いたし、たまたま見つけたバッティングセンターに入ったりもする。彼女は部活には入っていないが、運動が好きだといった。走ったり跳んだり投げたり打ったりをすると、気分が良くなるから、本当は部活にも入りたいと言っていた。
「バレー部とか入りたかった」
「まだ五月だよ。入れば?」
「ううん、だいじょうぶ」
 彼女はバットを思い切り振る。ボールにかする。素人目に見てもフォームは変なのに、対象に向けてしっかり振れているのでぼくもちょっとだけやる気になる。野球は全然やったことがなかったが、亜矢子の隣の打席に入って、バットを振った。振った。全然ダメ。でもなんとなく気持ちは晴れた気もする。たぶん近いうちにまた来るんだろうなとぼくは思って、その日は亜矢子と別れる。
 彼女の思い出話を聞く。
 晴空くんとも散歩をする。
 たまには自分の話もしてみる。亜矢子はぼくの話にちゃんと相槌を打つ。「うん」とか「へー」とか「そうなんだ」。
 呪いは未だ解けないままではあったが、まあ別にいいかと思う瞬間も増えていく。いやよくはないんだけど、呪いそのものに集中することが自然と少なくなっている。
 学校でのぼくらは、これまでどおり、必要以上に接することもなかった。ぼくはもっぱら藤田と過ごしている。これはちょっとフェアじゃないよなあと思ったりもするけど、藤田に「おまえ大橋と仲良いよな」と言われると「そうだろうか?」と思う自分がいるのも確かなのだ。そもそも仲がいいってどういう状態のことを言うんだろう?
 亜矢子の家の縁側で『エスパー魔美』を読んでいると、「宮本くん」と声をかけられる。
 亜矢子のおばあちゃん。
「晩ご飯食べていかない?」
「え、そんな大丈夫ですよぼくは」
「いいからいいから、いつも遅くまであの子に付き合わせちゃって悪いし。カレー好き?」
「好きです」
「よかった。もうちょっと待ってね」
 亜矢子のおばあちゃんは特別派手ではないが、仕草が全体的に若々しい。亜矢子と違ってはきはき喋るし、ちょっと歳のいったお母さんって感じだ。
 ぼくは母親に連絡をする。
「あ、今日は友達の家で食べて帰るから」
 ここでごく当前のように「友達」という言葉を使ったわけだが、そこに無理や誤魔化しは特に感じない。トイレから戻ってきた亜矢子が「あ、なんかおばあちゃんが」と言ってくるのでかぶせるように言う。「あ、聞いた。夕飯ご馳走してくれるって、なんかごめん。本当にいいの?」
「あ、ううん、ぜんぜん。食べてく?」
「そう答えたけど」
「そっか」
 なんかもうよくわかんないけど、これからもよろしくねって感じだ。

 ぼくが亜矢子の家で鶏もも肉と豚バラ肉の入ったカレーを食べているちょうどそのころ、蓬ヶ丘でひとりの男の子がいなくなる。渡辺大地くん六歳。小学校を出たところまでは同級生が見ていたが、それ以降の目撃情報が一切なく、午後八時を過ぎても戻らないので、両親が警察に連絡したらしい。そういうことが身近で起こるなんてまったく想像できていなかったぼくは、無事に見つかるといいなと思うくらいだった。
 でもまあ、見つからない。
 すべては始まりでしかない。