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書き下ろし短編:『蓬ヶ丘殺人事件』【後編】

 

 蓬ヶ丘近辺で立て続けに三人の児童が行方不明となり、街が一気に騒がしくなる。各小学校では集団下校が実施され、いたるところで張り紙を見かけるようになるが誰ひとりとして見つからない。噂によると身代金の要求もないらしい。
 じゃあみんななんで消えたんだ。
 渡辺大地くんに続いていなくなったのは五十嵐輝介くん八歳で、自宅の庭で遊んでいたはずが忽然と姿を消してしまった。三人目の松本來未ちゃん七歳は、通っていた水泳教室の帰りにいなくなっている。貼り紙の種類が増えるたびに報道も加熱していき、ぼくたちはこのニュースの続報を待つようになるけど大きな進展は見られない。たぶん次もあるんだろうなと、なんとなく思う。
 いや、それってかなりやばいけど。
 亜矢子は立てた膝に口を押し付けながらニュースを眺め
「こんなんばっかりだね」
 そんなことを言ったりする。
 もしかして晴空くんのことを言っているのかなと思うぼくは「うん」としか言えない。別に同意しているわけじゃないけど、それ以外なにも浮かばない、というよりも、意味のあることを口にするのがちょっと怖い。
「わたしの親のこともそうだけど」と言う彼女は訥々と、しかししっかりと言葉を選んでいる。
「晴空のこととか、中学でのこととか、話したよね」
「うん」
「小六のときも……これは初めて人に言うのかな」
 あ、マジか。ぼくは伸ばしていた脚を折り曲げて抱いた。
「学校からの帰り道、声かけられたの。高校生だと思う」
「男?」
「うん。抱きつかれてさ」
「やばいね」
「うん。でも逃げられたんだ。声は出なかったけど暴れたら大丈夫で」
「そいつはどうなったの」
「しばらく走って振り返ったら、まだ同じところにいるの。ただ立ってこっちを見てるんだけど、わたしがまた走り出したらそいつも反対側に走ってった」
 ぼくはついどうでもいいことを口走ってしまう。
「死んでたらいいね」
「え?」
「そいつ」
 亜矢子はちょっとだけ黙ったあと首をかしげてはは、と笑う。
「で、ほかにも色々あるんだよね、こういうことって。なんかわたし、そういう経験多いの。だからなんか、またかって思う」
 ふたりして黙る。
 日が暮れてぼくは彼女の家からお暇する。玄関先まで出てきてくれる亜矢子は、「明日体育あったっけ」と言う。
「あさってじゃない?」
「そうだった」
「うん、また明日」
 亜矢子は明かりの中へ消えていく。ぼくは彼女の話を思い出しながら、ちょっとだけ薄ら寒くなり、小走りで帰ることにした。呪われた呪われた言っているぼくだったが、本当に呪われているのは彼女の方なのかもしれない、なんて勝手なことを思うぼくは高校一年生で、頭の回転が死ぬほど悪く、どうしようもなく無知だった。
 ちょっと死にたい。

 翌日の学校で藤田から隣町で中学生が逮捕されたという話を聞く。公園でホームレスを襲い、意識不明の重体にまで追い込んだのだ。なんでまたそんな物騒な真似を! と思うぼくに藤田は続ける。
「そいつ中学の後輩なんだよね。そいつも野球部なの」
「知ってる人ってこと?」
「うん。そういうやつじゃないんだけど、ただちょっと心当たりもあるっちゃある」
「なに」
「五十嵐輝介って知ってるだろ?」と当たり前のように言われてぼくは困る。
「いや……」
 藤田が溜息をついたその瞬間ぼくはあ、と思う。
「いなくなった子?」
 逮捕された中学生の名前は五十嵐竜輝で、輝介くんのお兄ちゃんだった。五十嵐竜輝は弟を誘拐した犯人を捜し、弟がよく遊んでいた公園で休むホームレスを金属バットで襲ったのだ。
 嫌な流れが生まれている気がした。でも、そう考えること自体不吉な感じもあって、一刻も早くすべてを忘れたい気分にもなる。
 その日亜矢子は学校を休んだ。
 期末テストが近いということもあり、ぼくは藤田と一緒に図書館で勉強をする。図書館の表にある掲示板にも、行方不明になった三人の貼り紙が貼ってある。やっぱり誘拐なのだろうか? 街にはもう夏の匂いが充満していて、ぼくは久々に詰め込んだ知識を漏らさないよう足取りを慎重に家まで歩くことにする。帰る方向が反対の藤田は「誘拐されんなよ!」と言って手を振った。
「笑えねえよ」
「笑ってるじゃん」
「うるせえ、また明日」
 亜矢子はまた休む。
 送ったメールにも返事がない。
 唐突に人から嫌われるってことも、これからの人生で何度か経験することなのかも知れない、みたいな感じでまあ気にならない。といえば嘘にはなるけど、気にするのもなんだか癪で、ぼくはまた藤田を誘って図書館で勉強する。ほかのことを考えるよう専念するにはテスト期間もちょうどいい。とはいえ、なにか亜矢子に余計なこと言ったっけなあと考えてみるに、ぼくは基本余計なことしか言っていない気もするし、溜まりに溜まった不満が決壊でもしたのかもしれない。いや、違うかもしれない。もうわからん。ぼくはそもそも亜矢子の考えていることを上手に察せたことが、いままであったのかって話だ。
 で、噂をすればほにゃらららといった感じで、その夜彼女から返事が来る。
 ぼくは吐きそうになる。

 ああ、しまったと思った。なんでもっと一連のあれこれにムキにならなかったのか。心の距離を保ったのか。そしてぼくがそんなこと思ったところでなんの意味もないことも同時に思う。晴空くんがいなくなったその日、亜矢子は一日中晴空くんを捜して街中を回った。その翌日も。晴空くんが行きそうな場所、蓬ヶ丘の公園や、一度連れて行っただけのバッティングセンター、住宅街の暗渠をどこまでも進んで、とうとう亜矢子は晴空くんを見つけることができなかった。そしてぼくのメールに返事をし、事の経緯を大まかに教えてくれる。彼女のおばあちゃんは強いショックを受けていて、まともに動ける状態じゃないっぽいし、ぼくは学校が終わると速攻で彼女の家へと向かう。短パンにTシャツ姿の亜矢子が出てくる。
「ちょっと待ってね」
 ぼくはどうしてすぐに教えてくれなかったんだということを、どういうわけか聞けずにいる。その時間さえもったいないという気持ちがあるからかもしれない。
 これは誘拐だろうか?
 たぶんそうなんだろう。近い年齢の子供ばかり立て続けにいなくなっている。とはいえ身代金の要求は亜矢子たちの元へも一切ないらしいので、目的はもっと別なところにある。
 とにもかくにも早く見つけなきゃならない。
 二人で手分けして街を回る。なにか見つけたら携帯で連絡する。ずっと一緒に過ごしてきた亜矢子が手当たり次第捜索して見つけられないので、ぼくはもう心当たりゼロのまま直感に従って捜して回る。
 途方もない。
 ふと思いついたぼくは蓬ヶ丘団地に向かい、いつかのフェンス越しに双眼鏡を覗きこむ。ここからなら亜矢子の家周辺を一望することができる。無数の家、無数の家庭、無数の人。子供。
 亜矢子から電話が来る。
「いまどこ?」
「蓬ヶ丘団地にいるけど」
「そっか。もう遅くなるから、宮本くんは帰ってもいいよ」
「え、大丈夫だよ」
「ううん。警察も捜してくれているし、本当にありがとう」
 有無を言わせない感じの謝辞だった。ぼくはそのまましばらくベンチに腰掛けたまま夜に染まる街並を見つめ、家まで歩いた。長い坂道を下りながらふと後ろを振り返り、そびえ並ぶ蓬ヶ丘団地を見る。転々と灯る明かりのどれかから、誰かがこちらを見ているような気がして、ぼくはとにかく睨み返す。

 晴空くんは見つからない。

 大橋亜矢子の弟がいなくなったという話が学校でも広まり出し、藤田がぼくのところにくる。
「大橋のこと、おまえ知ってたか」
「おととい知った」
 藤田は「ああ」と言ってぼくの机に指先をのせながら目を伏せている。
「おまえも一緒に捜したりしてんの?」
「え?」
「大橋の弟のこと」
「なんでおれが」
「大橋は捜してるのかな」
「わからないけど、たぶん」
 藤田は指先で机をトントン叩き、「見つかるといいな」と言った。
「うん」
 亜矢子はまだ休んでいる。
 その日の放課後もぼくは晴空くんの捜索を行うが、行動もワンパターン化していき、空回っていることに自覚的になるのでつらい。どうすればいい? 改めてぼくは、もし仮に自分が犯人だとして、子供を誘拐するなら? と考えてみる。人目につかないところでサッと誘拐するなら、車があったほうがいい。誘拐するにあたってクロロホルムとかを使う場面を漫画なんかでよく目にするけど、実際どれくらいの効果があるのかわからないし、そういう薬品って手に入れるのもそれなりの手続きがいるんだろうし、犯人が仮にそういった記録の残る方法を選んでいたとしたら、それこそ警察がとっくに調べて犯人の目星をつけているはずだ。ぼくらには伝わってこないだけで、もう何人かに絞られているのかもしれない。それをただじっと待つのは苦しいから動いているわけで、本当に誘拐された子供たちとか犯人を見つけられるという気は正直あまりしない。いや、ほとんどしない。でもなにもしないでいるのも怖い。ぼくは晴空くんの声や動き、誰にどれだけ愛されているかを知っている。
 ぼくは今日も今日とて蓬ヶ丘団地を訪れる。長い坂を登ってたどり着くそこはすべてを俯瞰するにはうってつけの場所なのだ。
 それは捜す側のぼくだけじゃなく、誘拐する側だって同じはずだ。ぼくは蓬ヶ丘周辺の地図を広げ、誘拐された四人の子供たちが住んでいた家の位置に印をつけてみた。そして、警察はそう遠くないうちに犯人を逮捕するんだろうなと思う。これだけのペースで動いているんだから、誰にも見られていないってこともないんだろう。この風景の中にも、山ほど痕跡が隠れているはずなのだ。
 翌日、亜矢子は四日ぶりに登校し、数名の女子に囲まれる。彼女は眠そうな顔で、力ない愛想笑いを浮かべながら「うん、ありがとう」と繰り返している。
 ぼくはテスト勉強に集中するふりをしている。朝のホームルームが終わると、先生が亜矢子を廊下に呼ぶ。なにかを話している。やがて彼女は教室に戻ってくるが、自分の席には向かわずぼくの方に来る。
「もしよければなんだけど」
「え、うん」
「数学のノートかしてほしい」
 ぼくは亜矢子に緊張する。
「ああ、いいけど」机の中を漁りながら「ほかにもなにかいる?」と聞いた。
「ううん、ありがとう」
 学校であまり話したことがなかったからなのかと思っていたけど、それもちょっと違うような気がする。なんというか、亜矢子の表情や仕草というか、まとう空気というか、なにかが明らかに変わってしまっているような、そんな違和感をぼくは覚えている。
「大橋」
 と声がしてぼくと亜矢子が同時に顔を上げると、そこには藤田が立っていた。亜矢子はちょっとだけ目を細めながら「なに」と言った。
「おれの知り合いもさ、弟がいなくなったんだ。知らない?」
「同じ中学だった子だよね」
「そうそう。野球部の後輩だったやつ。捕まったんだけどね。公園でホームレス襲って」
 ぼくはふたりに挟まれ、それぞれの顔を見過ぎないよう、机の上のシャーペンを手に取ってノックする。芯の先を紙に当てるがなにも書かない。
「みたいだね」という亜矢子はぼくのノートを胸の前で掲げ、
「じゃあこれ、あとで返します」
 そう言い残し、自分の席へと去っていく。藤田があとを追う。あ、おいおいと思うぼくはちょっとだけ椅子をずらし、机から脚を出すけど立ち上がったりはしない。藤田は椅子に座った亜矢子の正面に回り、「なんであいつが襲ったかわかる?」と言った。
「ホームレスを誘拐犯だと思ったんだよ」
 シャーペンを制服の胸ポケットに入れたぼくはついに立ち上がる。なに言うつもりかわかんないけど落ち着けよ藤田。
「ごめんな急に。うざいし大橋も大変なときにこんな話して悪いとは思ってる。でもああいうことって意味ないし、まあ、あいつの場合はさらに人違いだったってこともあるしみんなを余計に悲しませることになったから、だから、ああいうことはやめてほしいって言いたかったんだよね。それだけだから。とにかく無事見つかるといいな、大橋の弟」
 そう言って藤田は亜矢子の机を指でトトトン叩いて踵を返す。
 その背中に向かって亜矢子が言う。
「意味はあるかもよ」
「え?」
「藤田くんの後輩がしたことは間違いだったけど、意味はあったかもしれないよ。警察がより警戒を強めるし、犯人側への牽制にもなったかも」
 藤田がなに言ってんの? という顔をしている。ぼくもしている。
「誘拐した人があの事件のこと知って、誰かがすごく怒っていることをようやく理解したかもしれない」
「いやそれは」
「そういう気持ちもちゃんと伝えなきゃ、だれもほかの人のことなんて想像してくれないかもしれない」
 空気の変化に気づいたみんなが亜矢子のことを遠巻きに見る。黙っていた藤田が言う。「でも、実際に意味なかったじゃん」
 それって結局晴空くんは誘拐されただろって意味? 売り言葉に買い言葉だ。空気の流れが早まる。
「藤田」ぼくは小声で言った。「もういいって」
 一時間目、現代文の先生が入ってきて、みんなが席へと戻る中、亜矢子はぼくのノートをめくり始める。あ、変な落書きとかしてなきゃいいなと思うぼくは、まだ心臓が痛いほど鼓動している。

 その日の放課後、よせばいいのに藤田が亜矢子に再度話しかけ、彼女がついに怒る。亜矢子に突き飛ばされた藤田は机と一緒に転倒し、止めに入ったぼくは彼女の二の腕を押すように蹴った。その日はずっと息苦しかったし、それは亜矢子を蹴ったところで変わるものでもなかった。
 飲み込まれてしまう。
 いや、もうとっくに手遅れなのか?
 ぼくは立ち上がった亜矢子とまた教室で取っ組み合う。まーたこれかよと思う。ぼくはもうなにもしたくない。亜矢子のことも殴りたくない。新しい呪いを受けとりたくない。藤田が謝りながらぼくたちふたりの間に入ろうとするが、亜矢子はもう誰の声も聞かない。ずっとずっと怒りを抱えてきた彼女が、とりつくろうことをやめってしまった感じがあって、じゃあぼくはどうすればいい?
 どうすれば。
 ついには涙をポロポロ流す亜矢子に対して、ぼくと藤田になにができたと言うんだ。馬鹿であることに半ば甘んじる幼稚なぼくたちは、はなから彼女にできることなんて何一つ持ち合わせていなかったんだよとネタばらしをされた気分になる。最低だよ。いやいや、気づかないふりをしていた自分たちがなによりも悪いのだ。あとこれはずっとそうだが、目の前で女の子が泣くともうそれだけでパニックになってしまう。亜矢子の笑顔はいつだって嘘っぽいのに、このとめどない涙は疑いようもない感じにしか見えなくて、ぼくはどんどん力が抜けていく。そのくせ胸の奥は固くなる一方だ。
 なにか言いたげな藤田を先に帰らせた。「ほんとうにごめん」と半べそのまま繰り返す様も見ていられなくて、ぼくは無根拠な「だいじょうぶ」を繰り返してしまう。「だいじょうぶなわけねえだろ」と言う藤田に、まあそうなんだけど、と思う。ぼくもめちゃくちゃ泣きそうだ。
 でも泣かない。ここで泣くのは空気を読む、みたいなものでそこに意味など微塵も含まれていないからだ。なにも言わずに出ていった亜矢子のあとを追いたかったけど、誰かが教室を片付けなくちゃならない。机を起こし、椅子をしまいながら、ぼくはほんの少しだけ呼吸が楽になった気がした。それからトイレによって手と顔を洗い、西日の眩しい校庭を抜けて正門へと向かうと、亜矢子がぼくのことを待っている。
 もう二度と話せない気がしていたのに。
 いや、二度と話さないほうがいいと思ってたのに。
 彼女は鼻をすすりながら「ごめんなさい」と言うが、それほんとうに意味のない謝罪だからやめたほうがいいよと、でもぼくは言えない。意味をなくすも与えるもぼく次第なのだ。ちゃんとこの「ごめんなさい」を受け止めなければならないんだ。
 並んで歩きながらも亜矢子の呼吸は乱れていて、たまに立ち止まっては声を漏らして泣いたりする。なのにぼくは彼女がなんで泣いているのか正直よくわからなくなっている。ていうか、これまでだってわかっていた瞬間なんてなかったのかもしれない。ああ、だめだ。ぼくも彼女に「ごめんなさい」と言う。彼女が首を振るので泣きそうだけど、でもだめなんだ。彼女の嘘のない涙に水を差すような真似はしたくない。
 公園で亜矢子を休ませる。じっとうずくまる彼女の隣で同じように腰を落とすと、彼女はぼくに殴られたあの日の話を始めた。思えばぼくの前で言及するのは初めてかもしれない。
「これまえにも言ったかな」と言う彼女から飛び出した話をぼくは知らない。
「小学六年生のとき、担任の先生がわたしを教室に残るように言ったんだよね。あれもいまくらいの時期で、夏休みが近くて、一学期最後のお楽しみ会をする予定だったの。その準備を手伝ってほしいって」
 帰りが遅くなり、先生は彼女を送っていくと言った。車で向かった先は担任の自宅で、亜矢子はそこで服の中に手を入れられ、お腹を撫でられたと言う。初めて聞くけど、何度も聞いたような話でもある。
 そんなやつばかりで嫌になる。
 亜矢子は担任の指の爪を剥がし、左目に親指を入れた。それから台所へ向かうと包丁を取り出し、刃先を向けたまま荷物を持つと家まで歩いて帰ったのだという。その後も学校には休まず通い続け、担任はやがて辞職したそうだが、それって亜矢子の勝ちとしていいのだろうか。だって、結局そいつはまた別な場所で同じことをやるんじゃいないのか? ぼくはそう思うけど、彼女の言葉の続きを待つ。
「宮本くんに殴られたあのとき、わたしは色んな日のことを思い出した」
 全身をこわばらせて唸りながら小さくなる亜矢子のとなりで、ぼくは一言も発さずに地面を見つめている。考えている。逃げないように踏ん張っている。
「だから」
 と絞るような声で亜矢子は続ける。
「怖いから、離れられない」

 

 四人の児童を誘拐して強姦してバラバラにしたあと石灰をふりかけて自宅の離れの床下に遺棄していた鶴谷陽司は、五人目の誘拐も計画していた本物のクソ野郎だった。通っていた大学を休学中の鶴谷は、そういうことにずっと興味があって、慎重に事を為せばすべてうまくいくものだと思っていたらしい。正真正銘のアホだ。そもそも行動の理由が性欲である時点でこいつに慎重な行動なんてできるわけがなかったのだけど、逮捕に至るまでに結局四人の子供が陵辱され殺されたのだ。お母さんの肩を揉むことが大好きだった渡辺大地くんや、絵を描くことが得意だった五十嵐輝介くんの小さな手は、胴体から切り離され五つに分けられたあとだった。松本來未ちゃんは愛犬クウの頭を二度と撫でることができないし、晴空くんはもうサッカーボールを蹴ることができない。亜矢子の撫でる、柔らかい髪の毛に覆われたあの小さな頭も、もうない。
 ぼくは大橋晴空くんの通夜に参列する。亜矢子のおばあちゃんは一気に老け込んだように見えた。挙動の一つ一つが苦しそうで、ぼくは声をかけることができなかった。
 事件は連日ニュースを賑わせた。ぼくたちは期末テストを受け、すべてが片付くころには事件の熱も冷めている。もちろんテレビやネットではってことだけど。
 犯人の家は蓬ヶ丘から街を二つ越えたところにあって、ぼくは自分の読みが外れたことを知る。まあそうだよな、くらいにしか思わないけど。
 とはいえもうしばらくこの息苦しさは続きそうだった。どこへ行ってもそれはついて回った。蓬ヶ丘全体が巨大なドーム状のもやに包まれ、ぼくたちはすこしずつこの街で疲弊していくのだ。それがいつまで続くかなんてわからない。
 でも、ただただ終りを待ち続けるのもなんだか癪じゃないか。
 鶴谷陽司逮捕から二週間ほど経ち、ぼくは久しぶりに亜矢子と一緒に帰る。彼女は事件後も毎日登校している。亜矢子のおばあちゃんはしばらくの間、親戚のおじさんの家で休養をとるとのことだった。彼女も一緒にと誘われたが、いまは一人であの家にいるらしい。晴空くんを一人にできないと彼女は言った。
 亜矢子はまた、いつかと同じ空気を孕むようになった。この街を覆う重たさは、彼女自身も覆って離さない。それは隙あらばぼくにも伝達する。
 ぼくはいつだって隙だらけなのだ。
 彼女の部屋で漫画を読んでいたぼくはいつのまにか寝てしまっていた。彼女のベッドに背中と頭をあずけて、大口開けて三十分ほど。目を覚ますと部屋には誰もいなくて、膝の上にページの閉じられた『はちみつとクローバー』の二巻がおいてあった。顎を鳴らしていると部屋に亜矢子が入ってきて、「おはよう」と言いながら制服をハンガーにかけている。ぼくは妙にホッとして、それから急に寂しくもなる。そのことを亜矢子が察したら嫌だなとも思う。彼女は部屋着に着替えていて、これから夕飯を作るけど食べてく? と言った。まだ五時ではあったけど、お腹は結構空いていた。
「手伝っていい?」
 なにを作るのかと思ったら、インスタントラーメンに野菜炒めを盛ったもので、ぼくは麺を茹でる係、彼女が野菜を炒めていく。
「包丁使うのうまいね」とぼくが言うと「そう?」と彼女は囁くように言ったきり黙る。ぼくはまたどうでもいいことを探して口に出す。
「そういや見せたいものがあるんだけど」
「なに」
「夕飯食べてからでいいや。別に面白いものじゃないけど」
 テーブルについてラーメンを食べるぼくに、亜矢子が「なにか見る?」と言ってリモコンを差し出してきた。
「普段はテレビ見るの?」
「ご飯のときは見ないかな」
「じゃあ別にいいよ」
「ほんと?」
 使った食器を洗っている間、亜矢子はテレビをつけてせわしなくチャンネルを変え続けていた。手を拭いて、さあ帰ろうかなと思うぼくに彼女が「見せたいものって?」と声をかける。
「ああ、そうだった」
 亜矢子の部屋の床に蓬ヶ丘周辺の地図を広げる。彼女は立ったままそれを見下ろしていた。
「これ」点在する四つの丸の内一つを彼女が指差す。
「ここ。うちだよね」
「うん」
「ていうかこれぜんぶ子供たちの家か」
「そう。で、ちょうど真ん中に蓬ヶ丘団地がある」
「うん」
「たぶん、いや、わかんないんだけど」
 相槌が消える。
「蓬ヶ丘団地から捜していたんだと思う」
 亜矢子はなにも言わない。どんな顔をしているのかなとちょっとだけ気にはなるけど見上げたりはしない。例えばの話、ここで彼女がぼくのすぐ後ろで凶器を手にしていても構わない。
「犯人はもうひとりいるのかもしれない」
 呪いは未だに解けていないし解ける見込みも特にない。ぼくは亜矢子と一緒にいる。亜矢子は離れられないと泣く。本当に呪われているのは亜矢子で、彼女はそれらを解く方法をひとつしか持ち合わせていない。
「知ってる」と亜矢子が言った。
 ああそうかしまった、とぼくは思う。時間がない。
 伝えなければならない。
「おれも蓬ヶ丘団地から大橋の家見てたんだ」
 喋りながらも、まだ振り返らない。
「大橋のこと殴った日あったでしょ。あの日からおれおかしいんだよね。確実に変なんだ。それでずっと大橋のこと考えてた。そうだ、これ言ってなかったけど、おれも大橋のことが怖かったよ。たぶん、殴るずっと前から」
 振り返らない。音もない。
「まあ別にいいよそんなこと。蓬ヶ丘団地って眺めいいよね。昔住んでたんだっけ。あそこからならなんでも見える気がする。フェンス越しでそうなんだから、団地の上からだともっとよく見えるんだろうな。ああ。もしかしたらおれ、犯人と何度かすれ違ってるのかも。わかんないけど。犯人と同じ景色は見てたのかも。少なくともこの家を見てたし」
 殺せ。
 早く。
 お願い。
「そのとき気づけなくてごめん」
 殺してくれ。
「晴空くん助けられなくてごめん」
 亜矢子の歴史が更新される。両親のもとで弟が虐待されていたとき、彼女は近所の人にすべてを話し、助けを求めた。禁止されていたのに、親の言うことを初めて破った。彼女は強い罪悪感に苛まれていたし、誰もそのことには気づかなかった。彼女はこれだけ苦しい思いをしなければ大切な人や物を守れないと思うようになったし、それは自分に力がないからだとも思った。救急車のサイレンが聞こえるたびにそんな気持ちを喚起された。環境は変わっても、揺蕩う暴力は彼女をすぐに見つけた。彼女は図らずしてそういうことをしてしまっていて、そしてそのことだって誰にも気づいてもらえなかった。
 ロリコン教師に連れ込まれたときも、知らない高校生に抱きつかれたときも、同級生の女子を殴ったときも、その復讐に遭ったときも、彼女がまだ一度も他人に話していない様々なときだって、亜矢子はそいつらに見つかったことに辟易し、追い払うことに傷ついてきた。それでも彼女が逃げなかったのは、逃げることで一生ついて回る恐怖をすでに知っていたからだ。
 犬小屋の中にいる晴空くんを覚えているからだ。
 綺麗な服を着ている自分を覚えているからだ。
 ぼくが亜矢子のそういった覚悟と疲弊をあやふやな形で感知し、恐れ、盛大に間違えたあの日だってそれは同じだった。亜矢子はぼくから逃げるべきだった。違う違う。ぼくが亜矢子に興味を持つべきじゃなかった。目を凝らすべきじゃなかった。まだまだあまりに未熟すぎることを自覚するべきだった。
 もっともっと深く考えるべきだった。
 亜矢子。
 やっぱぼくなんか殺すな。
 彼女がぼくのすぐ横に膝をつくのが分かる。彼女の気配が充満している。ぼくは彼女の顔を見る。
「わたしのこと怖いの」
 わからない。
「怖いなら離れちゃだめだよ」
 だからわからないっつの。
 聞いてみる。
「怖くなくなったあとはどうしたらいい」
「怖くなくなったとき?」
「離れられるもんなの」
 亜矢子は力なく笑った。あ。嘘をついてないなとぼくは思った。
 わかる。
「そんなの知らないよ」

 亜矢子に抱きしめられて彼女の髪が鼻の頭をこすったとき、ぼくは呪いが強まるのを感じる。
 ああしまった。彼女の体温に乗って舞い上がる香りをたくさん吸い込む。
 このままじゃダメだ。でもじっとしていたかった。終わりがあるならとっとと終わってしまいたかった。いますぐ走り出したい気持ちの一方、まだまだ時間をかけるべきだとも感じていた。
 彼女の腕から離れて、亜矢子の顔を見る。真正面から。世界一綺麗で気を失いそうになる。ふざけんじゃねえっての。ぼくは彼女の顔を手のひらで打つ。ぼくが打てば、彼女も打ち返す。突き飛ばせば、彼女はすぐに起き上がって、ぼくのことを突き返す。あ~嫌。亜矢子はまた泣いてるし、笑っているし、ぼくはそのどちらもできないままだし、あ、でもちょっとだけ、彼女に信じてほしい気がしている。
 どうか。
 どうか。

 鶴谷陽司と同じ自動車教習所に通っていた中嶋豊は、蓬ヶ丘団地の五号棟四〇一号室に家族と共に住んでおり、買ってもらった中古の軽を使って四人の子供を誘拐した。すべては鶴谷陽司の提案だったが、協力しているうちに「さらなる深い仲」を得るため、中嶋も鶴谷と同じことをすることになった。
 三番目の被害者、松本未来ちゃんだけ女の子なのは、中嶋豊の性的趣向に関係していたってだけの話だ。
 ぼくと亜矢子は夏休みに入って三日目で中嶋豊を殺して蓬ヶ丘団地裏の茂みに捨てる。見つけ出すまでに多少の時間はかかったけど、二人で必死に頑張ればまあこんなもんだ。警察より早く動けたことを亜矢子は喜んでいた。一瞬でも、いつか見た大きな力を手に入れた気分になったのかもしれない。
 そもそも警察は中嶋豊の存在を認知していたのだろうか? 鶴谷陽司がこいつの名前を出していないっぽいのは、中嶋の言った「深い仲」の証左なのだろうか?
 まあなんだっていい。
 クソ野郎は死ぬだけだ。
 中嶋の車のダッシュボードからは、松本未来ちゃんの髪の毛でつくられたミサンガや晴空くんのサッカーボールを裂いて刺繍のように貼り付けたエコバッグなんかが見つかった。ぼくと亜矢子はドン引きしたし、心からの怒りを覚えたが、もしかすると中嶋豊もまた、恐怖の対象から離れられなかっただけなのかもしれない。
 ぼくと亜矢子は服を着替えたあと、蓬ヶ丘団地にある滑り台の上から街並みを眺める。
 大きな入道雲が盛り上がっている。あれがそのまま倒れてきて、この風景すべてを潰してしまえばと考えるぼくはまだまだ覚悟が足りていない。そういうものは焦って備わるものではないってことも、ぼんやりながらわかっているので、ぼくはなにも口に出さないし傷ついたりもしない。隣に立っていた亜矢子が、不意にぼくの肩に鼻を近づけてくる。
「え、なに?」
「ううん」
「臭い?」
「ちがう。いま一瞬いい香りがして」
「そうなんだ。わかんない。どんな匂い?」
「懐かしい匂い」
 ぼくらは使ったバットをバッティングセンター脇の草の茂った暗渠に捨てたあと、スーパーでカレーの材料や花火なんかを買う。亜矢子の家でじゃがいもを洗っていると、扇風機の角度を変えた亜矢子がおばあちゃんはもうしばらくかかりそうだと言った。時間でしか解決しようのないものだってある。それは亜矢子が未だ抱えている諸々にだって言えることかもしれない。
 できあがったカレーをお皿に盛って、晴空くんの遺影の前に置くぼくらは手を合わせて祈る。
 晴空くんが安らかに眠れますように。
 この祈りがどうか届きますように。
 できることはなんでもしてやりたいと思う。できないことまでやろうとする。そのせいでより相手を不幸にするなんて話は、結局のところありふれている話なのかもしれない。
 縁側で花火をしながら、晴空くんと初めて会った日のことを思い出していた。なにかを斬るように立てた指を振り下ろす晴空くんは、たぶんきっと、お姉ちゃんを守ろうとしていたんじゃないだろうか。亜矢子にまとわりつく不吉なものを断とうと、たった一人で頑張っていたのかもしれない。
 お疲れ様ですと思う。ぼくはまた苦しくなりかけるが、落ち着いている。
 花火をする亜矢子の、眩い光に照らされた青白い顔は特別楽しそうといった感じではないけれど、夏の夜の湿った風が吹いていて、空には青白い月と雲と星々が揺らめいていて、どことなく悪くないなと思えるこの瞬間と、ちょっと先の未来と、もっとずっと未来のことを考えるには、ちょうどいい夜かもしれない。