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書き下ろし短編:『歓待』

 

 部屋を一通り掃除して疲れて横になったところに発作がきて、俺はまた壁に穴を開ける。情けなくて嫌になる。薬を切らしたばかりだからだ。粘着ローラーで毛やほこりを巻き取ったばかりのカーペットに仰向けになった俺の眺める天井はやけに高くて、それこそ十メートルくらいあるんじゃないか? でもそんなことはありえないし、さっと手を伸ばしてみると今度は急にいつもどおりの高さに見える。はっ。ん? あれ? いやいやいや。そんな感じで遠のいては戻り遠のいては戻りを繰り返す天井が俺の症状のひとつだった。
 先生に聞いたところによると、こういう発作は「脳神経系の機能異常」が原因らしかった。「脳神経系の機能異常」という言葉から俺の頭の中に浮かぶのは絡まる網のような神経の隙間という隙間に銀色の仁丹を液体すら通り抜けられないほどびっしり敷き詰めなきゃならないということだったりする。おえ。情けなくて嫌になるのも当然で、そばにあったクッションに顔を押しつけて叫ぶのは、言葉にならないくぐもった呪詛ばかりだ。

 今朝も六時に起床して真っ先にカーテンを開け朝日を浴びた。快晴だった。俺の発作を抑えるにはセロトニンが必要らしいので、天気のいい日は必ず日光を浴びるようにしている。生活習慣から正していくことが大切だと先生は言った。暖房を切ったあとベランダに出て乾いたタオルで手すりを拭き、布団一式をそこに干す。それから軽いストレッチとスクワットをすませるとダイニングを経由してリビングに向かい、片手サイズの鉢から生えている観葉植物に水をやる。なんて名前の草なのかは知らない。でもかわいい。俺は「脳みそ」と呼んでいる。天気のいい日に一日中窓辺に置いてやると、葉がつやをもち上向くからだ。
 テレビをつけて天気予報を確認した。今日の最低気温は七度。最高は十二度。湿度は三十パーセントで乾燥している。あとで加湿器に水を入れておこう。朝食は食パン二枚をトーストにしてピーナツバターを塗ったやつとゆで卵二個を食べる。パンも卵もそろそろ切れるころだからまた注文しておこうと皿をまとめたおれは引き戸を足のつま先で開けて台所のシンクに食器を置き水で適当に濡らしてから冷蔵庫に貼り付けたB5サイズのホワイトボードに「パン」「卵」と書く。あとなんだ。……「ペニス」と自動筆記してしまった俺は、マーカーの蓋についた綿みたいなやつで最後の文字だけを消す。大きな独り言と並行して、まったく関係のない言葉(しかもだいたい品のない)を無意識に書いてしまうことも増えてきたような。これも症状のひとつなのだろうか? あとで先生に聞いてみよう。
 顔を洗い、髭を剃ろうか迷うもやめて、服を着替え、安物買いの運動靴を履いた。ドアを開けると朝の冷気が鼻腔をいっきに乾かすのがわかる。毛糸の手袋を両手にはめて、踊り場を含めて十五段ある階段を降り、またのぼる。これを五回繰り返してようやく狭い駐輪場を抜け道路に出た俺だけど、でも遠くには行かない。発作が面倒だからだ。なのでアパート前にある古い自販機で缶コーヒーを買ってその場で日光浴をしながら飲むのが日課となっていた(雨天決行)。このアパートは周囲を畑に囲まれたなにもない平野にぽつんと建っていて、最寄りのコンビニまで歩いて三十分だし、歩いている人が居ればそれは近くの畑の持ち主かもうちょっと行ったところにある生コン工場の関係者だ。俺はそう思っているが、たまに俺の様子を見に来た誰かなのかもしれない、ということも考えたりする。暇なのだ。部屋に一日中こもるのも良くないらしい。確かにこもってばかりいると俺もだんだんじっとしていられなくなるのでこういう息抜きの必要性は日々実感している。どんな小さなことだっていいから、やることがあるのはいいことだ。
 部屋に戻ると七時半で、リビング→ダイニング→浴室トイレ前→寝室→書斎の順にフローリング用ワイパーで床を拭く。リビングに敷いたカーペットに粘着ローラーをかけ電気ケトルでお湯を沸かしながら浴槽の残り湯を使って洗濯機を回す。
 八時。ワイドショーを眺めながらインスタントコーヒーを飲む。洗濯物を干し、映画を一本観る。だらだらネットを見て過ごす日もある。まあなんでもいいのだ。ただしいまだに本は読めない。文字が頭で像を結ばないからだ。
 十時半。リビングのミニテーブルの上にアロマキャンドルを置いて火を点け、それをまえにファッション雑誌の写真だけを眺めて過ごす。そのまま十二時を迎えた俺はスマホでラジオを再生しながらスパゲッティを茹でる。朝食分の洗い物をすませ、濡れたシンクをきれいに拭き、新しい食器を用意する。茹で上がったスパゲッティはお湯を切ったあとにオリーブオイルで和え、納豆と味噌とめんつゆとみりんを混ぜたものを上にのせてその場で食べる。食べ始めてからふと思い立ち、フォークを左手に持ち替える。食べ終わると、食器をすぐに洗って伏せておく。なにもないシンクを見ていると落ち着く。冷蔵庫のホワイトボードに「納豆」と書き加える。頭のどこかが重い気がしたので、冷やしておいた冷却シートをおでこに貼った。「でこシート」と書き加える。
 十二時半。歯を磨き、雑誌の続きを読もうかとリビングで横になると、雑誌を開くこともせずに床に頬を押し付け地上十センチほどの視界をぼんやりと眺めたまま動けなくなる。そのまま眠る。肌寒さで起きたのは一時十五分で、ベランダから布団を取り込むとそれを敷いて再び眠る。二時前と三時ちょい過ぎにそれぞれ目を覚ますが、布団の温もりが俺を離さない。三時半。尿意で腹部が重い。布団から抜け出してトイレに向かった。洗面台で手を洗ったあたりからそれは始まっていて、リビングに戻って布団をたたもうか逡巡しているうちに発作に見舞われたのだった。この生活もかれこれ一ヶ月を迎えようとしている。
「それはトゥレット症候群みたいなものかなあ」
 発作の最中、俺は無我夢中で電話をかけていて、先生が出る。俺がこの部屋に住むようになるちょっと前から、主治医である先生から専用の携帯電話を渡されていた。これは俺と先生のためだけの電話らしい。何を話しても外に漏れることはないし、医者である自分にも守秘義務があるので、安心してすべてを話してほしいと、そう言われた。だから今日も先生は俺の支離滅裂な泣き言を傾聴し、落ち着きが戻るころには簡単な雑談をはさんでくれる。呼吸を整えた俺は涙と鼻水をティッシュで拭いながら、今朝無意識のうちに書いていた「ペニス」について聞いてみたのだ。
「トゥレット症候群?」
「チック症の一種でね。チック症は前話したかな?」
 チック症でチックショーという言葉が浮かんできた。以前聞いたときにそうやって覚えたのだ。「覚えています。ビートたけしごっこのときでしたっけ?」
「そうそうそう。それでさっき言ったトゥレット症候群もチックを伴うものでね。汚言症と言って、攻撃的だったり卑猥だったりする言葉を無意識に発しちゃう症状が出ることもあるの」
「おげんしょう?」
「うん。汚い言葉で汚言。四文字言葉とか」
「四文字言葉」
「知らない? 例えばおまんことかきんたまとか、あるでしょ?」
「ひどいですね」
「説明の一環ですよ。いま周りに誰もいないので」
「なるほど」
「言葉を書いちゃった件に関しては、特に問題ないと思います。ある程度なら誰にでもあることですし。舌打ちは割と多くの人がしちゃうでしょう? だから気にしなくとも大丈夫です。最近も、きちんとしたリズムの生活は遅れていますか?」
「そうですね。ちゃんと早寝早起きはするようにしています。あと、運動も最低限するようにしています。朝日も浴びて。そうだ、朝日っていいですよね。朝日を浴びながら飲むコーヒーは美味しいですよ」
「あれ、東條さんコーヒー飲まれるんでした?」
「そういえば飲みますね」
「カフェインはパニックの原因になったりもするので、できるだけ控えたほうがいいかなと思います。カフェインが入った飲み物は、好き?」
「普通です」
「そうですか」
「今度から水にします」
「そうしたほうがいいと思います」
「あ、それと先生」
「なんでしょう」
「薬切れちゃって。ロラゼパム
「え、それはいつの話ですか?」
「三日前の夜だったと思います」
「どうしてもっと早く教えてくれないんですか。まさか自分で薬の量を減らそうと思ってません?」
「あー」
「薬ってのはこちらで処方したものをきちんと飲んでもらわないと、勝手に減らしたり増やしたりされると場合によっては治療が長引くこともあるんです。まあロラゼパムは発作時に服用するものですけど、手元にないとなると予期不安が出やすくなっちゃいますよ」
「そうなんですよ。まさに」
「すぐ送りますのでね。明日の午前中には届くと思うんですが、今日はできるだけ深い考え事などは控えて、リラックスをこころがけるようにしてください」
「リラックス。そうします。すみませんでした」
「怒っていませんよ」
「こんな生活、いつまでも続けていいとは思ってないですけど」
 吐息の音で、先生が笑ったことがわかる。「東條さん、大丈夫ですよ。いまはそういうこと、あまり考えないでください。体調をよくすることが最優先ですし、それは無理をすることで達成できるものでもありません。ゆっくり時間をかけて。それが健康への最短ルートなんです」
「はい。静養します」
 引き続き先生がなにかを喋る気配はあったが、俺はなにも気づかないふりをして通話を切った。カーペットの上に携帯を滑らせ目を閉じる。何も考えない。なかなか難しい。俺はその場で仰向けになり、ゆっくりとした呼吸を続ける。引き戸の向こうにある冷蔵庫の低音が聞こえなくなるまでそうする。俺はトーストの上のバターだ。ここはとても温かいから、溶けて染み込んでいく。
 布団を寝室の押し入れに仕舞い、洗面台で顔を洗った。鏡に映る自分を見ると、朝よりも頬がこけて見える。発作が起きるたび、俺の中の何かが漏れ出ているんじゃないかと考える癖があったが、そういう文脈を見出す必要などないと以前先生に言われている。必要がない、じゃまだ足りない。はっきりと禁止してもらったほうがずっといい。

 台所をはさんでリビングの向かいに位置する四畳半の書斎に入った俺はワークチェアに腰掛けると足元の電気ストーブのひねりをつまんで四百ワットに合わせる。作業机が面する壁には無数の付箋が貼ってあり、その中のひとつであるフルーツゼリーのレシピを眺めた。負担となる思考を封じるには、手を使う作業が適しているのだ。夜になり、不安や孤独に目が向きがちになったら、タッパーいっぱいのゼリーをつくり、ひとりで全部食べてしまおう。この生活を孤独ととるか自由ととるかだと俺は思う。
 午後四時半になる。氷を入れたビールグラスを用意し、韓国焼酎とエナジードリンクを注いでシンクに置く。気だるい夜を迎え、眠たくなったら眠るだけの生活にもハリがいる。
 午後五時。半分まで水を入れた鍋に、沸騰前から生の鶏胸肉を投入し弱火で茹でる。そこでふと思い出すのは「パン」と「卵」と「納豆」と「でこシート」だ。スマホで注文を済ませ、また先生に電話しようかなと思う俺はアルコールでちょっとだけ気分が上向いているのかもしれない。さっきとはまた違う、どうでもいい話を三十分ほどできたら、俺はより快方へと向かう気がする。
 午後五時半。台所に湯気が立ち込めているので換気扇を回した。俺はフォークで鶏胸肉を突き刺し茹で具合を確認。焼酎の瓶とエナジードリンクの缶と氷の入ったコップ、ラップをかけた鶏胸肉の入った皿をいっしょにバスケットケースに入れる。ケースには三メートルほどの紐を結びつけてあるので、その先端を持った俺は玄関を出てすぐの手すりから屋根へと登り、ゆっくり紐を引いてケースを回収する。屋上には折りたたみ式のレジャーチェアーがひとつだけ置いてある。俺はそこで夕陽を見ながら夕飯を食べることを、ここ一週間ほど楽しんでいた。
 俺の発作の原因のひとつには、広場恐怖症というものがあるらしい。そのせいで俺は一定の距離以上外出することができない。このアパートから離れ、いつ誰と遭遇するかもわからない場所なんかを歩いていると、決まって冷たいシャワーを頭から浴びたように呼吸が浅くなり、それは大海原に浮かぶ悪夢であり、気を失うほどの億劫に襲われるのだ。でも屋上にて、この埃っぽいギシギシした椅子に尻を沈めながら、夕間暮れのオレンジと紫が溶け合うところの、その真っ白な境界を眺めている分には、俺の心は平穏そのものなのだ。ここにこそ快方へのヒントが隠されている。俺はそう思っている。
 三つの棟から成るコの字型の我が城には、俺以外の人間は住んでいない。こんなふうに赤く染まる様を眺めているぶんには愛着のひとつも抱いたりはするが、落日とともにそそくさと夜の一部と化しやがるところは好きじゃない。そのそっけなさが、いまの俺にはやけにこたえる。世界から音が消えたように感じられ、静寂に耐えかねたこの頭が、自ら音を生み出そうと暴走することだってあった。夜は基本ろくでもない。薬がないとなおさらだ。
 だから俺は太陽との別れを毎日惜しむ。こうやって覚悟を固めてる。俺は俺の生み出す幾千の音に耳を傾けることはしないし、無視に努めることもしない。ただそこにあるものとして受容することに成功した日なんかは、不思議とよく眠れるのだ。よくある話なんだろう。百とか零とか、近すぎたり遠すぎたりしても物事はうまくいかないようにできているらしい。発作時に見る遠近感の狂った天井だって、脳が必死にその中間を探っている状態なのかもしれない。不安定なオートチューニング機能。いじらしいぜまったく。この脳みそを抱きしめながらぐっすり布団で眠りたい。

 西陽にまどろみつつスマホから伸びたイヤホンで音楽を聴いていると、途端に音が中断され、振動がくる。
 画面を確認すると「福祉課」の文字。
 まず俺は出ない。それから酒を一口飲み下し、椅子から立ち上がって背筋を伸ばした。深呼吸をゆっくりと三回。かけ直す。
「もしもし」
「あ、東條さん?」
 低くよく通る声だった。俺はその主を知っている。
「そうです」
「福祉課の三宅です。どうもお世話になっております」
「ご無沙汰しております」
「ははは。そうね。元気?」
「ええ、まあ」
「そうかそうか。あ、突然で申し訳ないんですけどね? 今日これからそっち伺っても大丈夫?」
「というと、部屋にですか?」
 自分がゆっくりと端の方まで歩いていることに俺は気づいた。
「そうそう。新年度に向けて備品やらなんやらのチェックが必要でさ。ちょっとばかり急ぎなんだよね」
「そうですか。構いませんよ」
 本当にそうだろうか。
「悪いね。すぐ済むから」
「今日っていうと、何時頃になります?」
「実を言うともう向かってるんだよね。あと十五分くらいかな? いまなにしてた?」
「夕飯を食べてました」
「ああ、そうか。ごめんね。ほんとすぐ終わるから」
「別に大丈夫です」
「そういや東條くん、いま号室にいるんだっけ? Bの一〇二号室?」
「いえ、僕はA棟の二〇五号室です」
 通話を切ると、遠く市内放送用のスピーカーから『七つの子』が流れているのが聞こえた。まだ外は明るい。日が長くなってきているのは個人的にも嬉しい限りだ。
 バスケットケースを先に下ろして、自分も廊下へと飛び降りる。人と会うのは久しぶりだ。俺はこの一ヶ月、まともに人と会っていないし、先生以外とはろくに会話もしてこなかった。不安がないといえば嘘になる。軽い散歩さえままならないのに。どうせなら福祉課の人ら、ついでに薬も持ってきてくれると助かるんだけどなあ、なんて思う。
 とはいえせっかくの来客なのでコーヒーでも振舞ってやろうとリビングのケトルを台所まで運んでお湯を沸かす。部屋を見回しながら掃除を日課にしていて良かったと実感した。そういや俺の格好はどうだろう? 屋根に出ていたこともあって上はカーキ色の上着を羽織っているが、下はスウェットのまんまだ。髭も剃ったほうがいいのか? 迷う俺がクローゼットに向かう途中、ミニテーブルの上に置きっぱなしにしてあった先生用電話が振動していたので手に取る。いつのまにか着信が二件入っている。かけ直そうとした矢先、携帯は忙しなく振動を始める。
「あ、先生? すみませんなんか電話」
「東條さん、切らないで聞いてね」
 と言う先生の口調は一時間ほど前とはうって変わって直線的な鋭さを孕んでいた。俺に負担をかけまいとする遠回りな態度ではない。
「なんでしょうか」
 しかしそこで不思議に思うのが、俺は先生のそういう態度に頭のどこかが冷たくなるのを感じている点だ。まるで役割を交換したみたいに、俺は先生の言葉に耳を傾けている。そんな俺に先生は言う。
「落ち着いて聞いてほしいの」
「はい」
「福祉課の人間がそちらに向かっています」
「さっき電話が来ましたよ」と答えると、先生はいつものリズムなら言葉が返ってくるであろうタイミングに沈黙を挟む。
「僕なにかしましたっけ」
 と言ってすぐになにもしてないからか? と思う俺に先生は潜めた声を出した。
「気になる点として、私には一切連絡がきていないんです。それはとても瑣末なことかもしれませんが、一応、念のためと言ったほうがいいですね、伝えておこうと思います。ここまでは大丈夫ですか?」
 何がどう大丈夫かも判断がつかないが、俺は「はい」と答えている。
「こちらの方でも事情を確認しようと思うんですけど、それまでに福祉課の人間が東條さんの部屋を訪ねることになるかもしれないので、それはそれとして覚えておいてください」
 もう着いてるんじゃないか? 俺は窓から駐車場を見下ろす。車はない。「わかりました。ところで先生」
「なんでしょう?」
「それ僕に伝えて大丈夫なやつですか?」
 先生は「わかりません」と言った。正直にそう答えただけなのかもしれない。俺は自分の脈拍に意識を向けてみる。どうだろう。はっきりと身体の揺れを感じる。引き戸が音を立てていないので、地震ではないみたいだ。
「ちょっとすみません」
 俺は携帯を握ったまま仰向けに寝そべった。深呼吸をしながらイメージする。バター、バター、バター。なかなか溶けてくれない。どれくらい繰り返したか、再度携帯を耳に当て「もしもし」と話しかけても、通話はつながっていなかった。じっと画面を眺めていると、台所の方からお湯の沸騰をしらせるカチッという音が聞こえた。

 不意に俺はいますぐこの部屋から飛び出して外に隠れていようかなと思い立ち、着替えようとクローゼットを漁る。と、窓の外からエンジン音とアスファルトの上をタイヤが転がるザラザラとした音が聞こえた。カーテンを開け放したままだったので半分ほど閉めると布を握って揺れを止める。隙間から駐車場を見下ろせば、グレーのコンパクトカーが中央に停車し、中から二人の男が降りてくる。運転席から出てきた方は暗緑色のジャケットを着た黒縁メガネで脚が長い。まだ二十代くらいかもしれない。助手席から降りてきたのは白髪頭で同じくメガネでスーツの上から黒のダウンジャケットを羽織っている。三宅係長だ。三宅係長は真っ先に俺のいる部屋を見上げてくるので目が合う。俺はカーテンを開き、会釈した。これでもう居留守は使えない。
 なにも考えるな、と言い聞かせる自分に懐疑的な気持ちが勝ってしまう。台所に戻り、来客用のコーヒーカップを二つ並べた俺は、壁、天井の順に視線を這わせ、それから背後にある玄関の向こう、階段を上がってくるふたり分の足音に神経が総動員されていることに気づいて深呼吸を始める。鳴り響くインターホンに全身が強張りかけるが呼吸は絶対にやめない。そうしている限りは、俺はまだ生活を続けられるはずなのだ。
 出しっぱなしになっていた韓国焼酎を棚の一番奥に隠してから玄関に向かった。ドアの横に取り付けられたモニターには先ほどのふたりが映っている。「どうも、こんばんは」と若いメガネが言う。「福祉課の者ですけど突然すみません。部屋の備品について確認させていただきたく本日は参りました」
 俺はドアノブに手をかけ、鍵のつまみをひねる。めくるめく逡巡に頭が変になりそうだったが、深呼吸だけに集中し続けた。
「東條さん?」
「ああ、はい」
 としゃがれた声で返事をしながら俺がドアを開けると、二人はその場から動くことはせず、「どうもすみません突然お邪魔しちゃって」と、まずは若い方が笑う。「ちょっと確認させてください。書類にまとめて今日中に報告しなくちゃならないんで、すみません。いいですか?」
 咳払い。「どうぞ」
「失礼します」と若い方がドアを押さえてくれるので、俺はふたり分のスリッパを並べることができる。後に続く三宅係長は「ご無沙汰です。すぐすむから」と俺に言った。そうですか。

 でもそうはならなかった。

 俺の前には無数の選択肢があった。まず差し入れとして渡された缶コーヒーを飲まなかった。手のひらの上で弄びながら近況報告をしていたが、三宅係長の目はなかなか俺の手元には向かなかった。一度だけ、こちらの目を盗むように動いた程度だ。なんらかの意識が働いている気がしたし、そうとることにした。胸がねじれるような気持ちの悪い感覚に襲われた俺がシンクに手をついたときも、また気になることが起こった。三宅係長はいま思い出したかのように、ダウンジャケットの内ポケットから薬袋を取り出したのだ。
 もしや愛しのロラゼパムだろうか?
 渡されたそいつを口に含む俺は、そこで最後の選択をした。

 

 午後六時半。日が落ち、部屋がどっと暗くなったので台所の蛍光灯を点灯させた。
 なにかをやらかした記憶はない。
 一方で、なにもしていない人間にここまで労力を費やすとも思わない。
 水で口を何度もゆすいだあと、コップいっぱいの牛乳を飲む。洗浄目的だったけど、久々に激しい運動をしたこともあって体が補給を喜んでいるような感覚がある。三宅係長にもらった缶コーヒーは、水で血を洗い流したあと冷蔵庫に入れておいた。すべての部屋の戸締りを確認し、カーテンを閉めると、ふたりの持ち物を漁った。若い方の男は月村という名前の二十五歳。尻ポケットからS&Wと刻印された折りたたみナイフが出てくる。三宅係長からはジッポライター。いただきます。ふたりを浴槽まで運び、床の汚れをいらないTシャツで簡単に拭き取る。その最中に先生からの電話が入って、俺は福祉課の人間が来たこと、発作用の薬としてよくわからない薬物を飲まされそうになったことを伝えた。
「福祉課の職員はどうしていますか?」
 嘘をつこうかな、と考える。だがどう時間を稼ごうと俺はここから離れることができない。いまだってこんなふうに手を動かし続けることで精神の均衡を保とうとしているのだ。
「東條さん、なにがあったんですか」
「先生。可能な限り最も早く、薬を届けてもらえる方法はありませんか」

 口内の水を薬ごと三宅係長の顔面に向けて噴き出した俺は、白い無精髭の生えるその口元めがけて缶の底を何度も叩きつけた。足元のキッチンラグに足を滑らせた三宅係長は尻餅をつくので、俺はその上にケトルを落とす。まだ熱湯と呼べる温度の液体を全身に浴びた三宅係長は悲鳴を上げ、湯気が天井あたりまでいっきに立ち上る。振り返ればベルトから抜いた特殊警棒をひと振りで伸長させた男が向かってくるが、振り下ろされた腕を肘で受け脇に挟みこむと、頭突きで鼻を潰した。曇ったメガネがずり落ちるのがわかり、反射的にそれをキャッチする。選択に次ぐ選択だ。メガネを力強く握りしめると柄がへし折れたので、その断面を男の左目に突き立てた。叫び声とともに開かれたその口に手のひらを突っ込むと、下の歯に指をかけ、腕を勢いよく引く。フローリングに顎から叩きつけられた男の首は派手にねじれた。それから俺は三宅係長の頬骨を肘で砕き、足首を踏み潰す。約七十キロの体がフローリングを鳴らす。苦痛と焦燥に歪む顔が俺を見上げている。頭の中には相変わらず膨大な量の情報が飛び交っている。どれを選んだって三宅係長は死ぬ。真上から首の骨を踏み抜けば、俺の呼吸する音だけが残った。

 これがどれほどの事態なのかを考え、受け入れ、戦き、態勢を整えるべきだろうか?
 そういう手もあるだろうねと俺は思うが、必要とまでは思わない。

 駐車場から音が聞こえる。
 すぐさまカーテンの隙間から覗くと、白のバンが二台停車するところで、スライドドアが開き、中から男たちが降りてくる。十名以上いる。襟ボアのついた作業用ブルゾンを着て各々道具を持っている。道具というのは、金槌や手斧やナイフのことだ。
 到着があまりにも早いのでおそらく近場で待機していたのだろうけど、だとするとやはり初めから事は大袈裟で、俺の頭は混乱を増すばかりだ。まあなにもしていなくても毎日混乱しているも同然なので、多少の混乱にも耐性が付いてきている気はする。気のせいかもしれない。俺には結局薬が必要なんだ。
「すみませんちょっと離れます」
 つながったままの携帯をリビングのミニテーブルの上に置くと服を着替える。玄関のドアをはじめとして鍵はかかっている。まだそれほど焦ることはないはずだった。クローゼットにある服のうち最も厚手の枯葉迷彩柄ジャケットを羽織って黒のワークパンツを穿き、ニット帽とネックウォーマーを身に付け、置いてあった「脳みそ」をクローゼットの中に仕舞うと急いで玄関まで向かう。階段を上がってくる無数の足音が轟いているが、ガチャっと開いてこんにちはなんてことはないはずなのでいまは無視。靴箱から鉄板入りのワークブーツを取り出して片足ずつ履いているあいだにドアがガチャガチャドンドンガンガンガンとやかましいので俺もブーツを先に履いた方の足で内側から蹴り返す。ドン! バンバンバン! とやっているうちにさっきからベランダの手すりがカーンガリガリ、コーンという音を立てているような気がして、あ、まさかと思う俺は直後、ガラスの割れる音に全身が粟立つ。それはベランダの窓ではなく、トイレか風呂場の小さな小窓からした音で、ドアの向こうのやつらが我先にと暴れているのだ。縦面格子の隙間から硬いもので誰かが殴ったのかもしれない。あるいは格子が外されたか。あの小窓から大の大人が入ってこれるものだろうか? などと考えながら玄関→台所→リビングと移動してカーテンを引く。ベランダの手すりに、脚を全開にした脚立が二つもかけられていて、駐車場から続々と人が登ってくる。数が多い。即ち、できるだけ殺傷力の高い武器を使わないと体力がもたない。そもそも俺は療養中なのに。
 解錠した引窓を開けると、まず目の前の脚立をのぼってくる茶色い坊主頭の若いクソの顔面を逆手に持ったナイフで浅く素早く突き刺すこと三回。悲鳴を上げて顔を押さえるが片手はしっかり脚立を握ったままだったので並んだ指を真一文字に切りつけると落ちていき、下で待機中の仲間が慌てて受け止める。さらに脚立を押し返してざまあみろと思う俺だったが、もう片方の脚立からは坊主頭のオッサンがベランダに一番乗りしていて、手斧がわずかに腕をかすめるがお返しに正面から喉を突き刺し、血が顔に飛んでこないよう斜め下に引いた。その見開かれた目は一瞬だけ自らの死への哀悼を望んでいるようにも見えたが、俺は手斧を奪いとると右のナイフと持つ手を交換して、二つ目の脚立も(別の男が登り始めようとしていたところで)押し返す。ガソリンがあれば一気に火でもつけてやりたかったが、いまできる最善を尽くすしかない。その積み重ねこそが俺の命を永らえさせる最大の策となるはずだ。
 リビングに戻って窓の鍵もしっかりかけ直した俺は、玄関の様子を見に行く。トイレの他に浴室の小窓もガラスが割られているが、格子はまだ外せていないようだ。とそこで鍵の解除される音が響き、チェーンロックが勢いよく張り詰める。隙間から無数の顔や手足が見えるので俺はすぐさまドアノブを引いて閉めようとするが、男のひとりが腕を差し込んで隙間を作り、「切れ! 切れ!」と叫んでいる。別の男がボルトカッターでチェーンを切断しようとしているのが見えて、おいバカ、ふざけんなと俺は差し込まれた腕を追い返すように手斧で滅多打ちにする。一打目で甲の骨が露出し、三打目で複数の指が同時にひしゃげる。そいつが悲鳴を上げて暴れているせいもあってボルトカッターも狙いが上手く定まらない様子だったから、俺はなんとかドアを閉め切ってもう一度鍵をかけなおす。
 よし。
 とはいえ一度は開けられたのだ。ちょっとの時間稼ぎにしかならない。
 ベランダのガラスを破って男がリビングに上がってくる。もちろん土足で、俺も土足のはずなのに気になってしまう。寝室の方でもガラスの割れる音がする。俺は靴箱の上から消火器を取るとピンを抜いて噴射しながら前進、そのままリビングではなく寝室に入って同じように窓から入ってくる最中だった男の顔面を消火器の底で殴り、続けてベランダに出ると手すりをまたごうとしていたもうひとりにも一撃。そいつはあーっと落ちていく。月明かりの綺麗な夜だった。鼻が潰れた男の元に戻った俺は頚動脈にナイフの刃を当てて勢いよく引く。ブシュー、ブシュ、ブシュとリズムをもって血が噴き出す。それは白い壁を染める。俺のつくったくぼみにも溜まる。白い消火剤にまみれた男が寝室に入ってくる。その背後からさらに複数名の気配がする。玄関のドアが破られたようだ。手斧を投げつけると男の胸に直撃して粉が飛び散るが突き刺さった様子はないので飛びかかって引き倒して馬乗りになり、その胸元を何度もナイフで突き刺す。その間にも寝室のドアに男どもが押し寄せるので俺は死体の襟元を掴んだまま仰向けになり、手斧や特殊警棒の攻撃を防ぐ。死体が揺れるたびに俺のつくった刺傷から血が垂れてきて顔にかかる。鼻にも入ってくる。脇に放ってフローリングを転がった俺は落ちていた手斧を拾い上げ、向かってくる腕という腕を次々と薙いだ。顔に飛んでくる血を呼吸とともに噴き出しながら顎を砕き、首を裂き、目を潰す。血で足が滑り、ひとりに覆い被さられる。脇腹を何度も刺し、近くの爪先をたたき潰す。いまの時点で何人殺しているのかを考えるのはもうやめる。俺の頭はバグりやすいので酷使できない。
 それよりも奪い取った金鎚が軽くて振り回しやすいことに感動した。刃がめり込む心配もないのがよかった。部屋を移動しながら次々襲ってくる連中の頭を叩き割っていき、気が付くと顔に生々しい切り傷のある男がでかいナイフを持って立っていた。もしや最初の男か? 向かってくるので腕をとって背後に放り投げると、窓を突き破ってベランダの柵に頭をぶつけ、そのまま動かなくなる。どうせ死んだふりだ。俺は倒れるその男の頭に金槌を振り下ろし、頭蓋がぶよぶよになったところでやめる。
 次はどいつだ?
 振り返るも、俺の呼吸音しか聞こえなかった。
 各部屋をまわり、横たわる男たちの頭も確認のために一発ずつ殴っていく。ぜんぶで十二名もいた。ここにきて俺はちょっと怖くなる。一ダースのドカタ軍団。
 ニット帽とジャケットを脱いでリビングの姿見で全身を確認する。切り傷や痣が山ほどある。ふと足元に無事なままの携帯を見つけたので、拾い上げるとまだ通話がつながったままだった。
「もしもし先生」
「東條さん?」
「お。よかった。先生、さっきの薬の件なんですけど、なんとかなりませんか。この場所を出なきゃまずいんですよ。そのためには薬がないと」
「落ち着いてください、まず、いまはなにしてるんですか? だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶではないです」
 十二人も来たのだ。
「もう危険はないのでしょうか?」
「いちおう確認しましたけど。土木課でしょうか」
「東條さん、聞いてください。薬を最短で届けるには、私がそちらに向かう必要がありそうです」
「大丈夫なんですかそれは」
「わかりません」
「到着が早いんですよ。みんなさっきから。たぶん周りで待機してると思います。次もどうせすぐですよ」
「急ぎたいのは山々ですが、車で向かっても、そちらまで数時間はかかると思います」
「まあ、そうですね」
「すみません。あとあの、東條さん、その音はなんですか?」
 俺はフローリングにうつぶせになった男の頭を何度も金鎚で殴っているところだった。じっとしているのが嫌だった。
「あ、すみません」
「電話、つないだままがいいですか?」
「できればそうしてもらえるとありがたいです」
 自分の声が震えていることに気づいた。嬉しかったのだ。

 

 先生はいまから飛ばしてくると言った。
 俺は死体をまたいで戸締りを済ませたあと部屋を見渡し、バリケードが必要だなと思う。死体は浴槽に二つ。ダイニングに三つ。寝室に五つ。リビングに四つ。ガラスもあちこち割られて冷たい夜の空気が吹きすさんでくるのが後々こたえそうなので、カーテンでもつくろうかな。第三陣がいつくるかもわからないが善は急げと俺も思う。
 ダイニングに窓はないので、そっちの三つを書斎に移す。クローゼットから麻紐のロールを持ってくると、死体の脇や首に巻きつけ、カーテンロールに結びつけて吊るす。かなりの重労働だが、ただじっと待つより精神衛生的に好ましいはずだ。俺はお腹が空いてくる。
 携帯に耳を当ててみた。ガサゴソと音がしているので、先生はいま移動中なのかもしれない。
 洗面台まで行って顔を洗い、洗濯機の上の棚にあるバスタオルをとって軽く全身を拭いたあと、ダイニングの向かいフローリングの上にそれを敷いた。ダイニング→リビング→ダイニング→寝室の順に移動して手斧や金鎚やナイフを回収してくる。バスタオルの上に並べていく。金鎚二本。手斧五本。警棒三本。ナイフ四本。これだけの武器があると思うと、体は一つのままなのに、どこか心強く思えてくる。数に絶望しかけたのなら、数に励ましてもらうしかない。使い物にならなくなったやつはそのまま放っておくことにした。どうせすぐ汚されるので掃除は最後にしよう。
 俺は台所の電気ケトルでまたお湯を沸かす。冷たいものじゃ落ち着かないから白湯を飲もうと思ったのだ。血の臭気が満ちていることが気になって、アロマキャンドルも持ってくると、三宅係長のジッポで火をつけた。蓋の軽快な音が気持ちいいので、開いては閉じを何度もくり返す。それから改めて係長の持っていたスマホを調べる。しっかりロックが掛かっている。係長の免許証に記された誕生日では開かない。子供がいるのならその誕生日をパスにしている可能性があると考え、さらに財布を漁ってみるが、必要なものは特に出てこない。ここしばらくの生活で思考の衰えは予感していた。こうやって闇雲にただ殺すだけの自分を振り返ると、改めて痛感せざるをえない。三宅係長を殺すことはなかったのだ。
 沸騰前にケトルを持ち上げ、白湯をカップに注いだ。二杯飲んだ。割れた親指の爪が痛むので、書斎の机から薬箱を取る。消毒液をふりかけ絆創膏を巻いたその上からさらに二枚目を巻く。不安なのでもう一枚。念のためさらに一枚。厚ぼったくなった親指で目の下をこすった。どこかに手袋があったはずだ。死体の一つが持っていた革のやつをもらうことにした。
 相変わらず静かな夜だった。街灯も少ないので車が来たらどうしたって目立つ。もちろん向こうだってそれを承知のはずで、ライトを消すか、あるいは離れたところで停車し、徒歩で向かってくるかもしれない。考えたくはないが、悩みの種を無視することにだって負担はある。
 薬箱をもとの位置に戻すと、空の薬袋が目に入った。ロラゼパムの1g錠。あまりがあればいいのにとひっくり返すし中も覗く。握りつぶした薬袋を机下のゴミ箱に投げ込む。電話を耳に当てると通話が切れていて、あれ? と思う俺は画面を確認する。電池切れを示す表示が出ている。やっちまった。充電器に挿してから、肩を回した。
 ふと、肩の関節が鳴る音に重なって物音が聞こえる。
 そんな気がした。窓の外からだろうか?
 俺はその場に腰を落とし、口を開いたまま、静かに首を傾ける。
 気のせいだ、と胸をなで下ろす材料さえない。
 なるほど。この時間は猛毒だ。

 午後八時。魚肉ソーセージを食べていると、アロマキャンドルが消えた。俺は書斎にあった十キロのダンベルを持ち上げたりして過ごすが、あまり気は紛れない。

 午後九時。トイレに入る。頭の位置にある小窓は、雑誌をガムテープで固定して塞いでおく。消臭スプレーが目に入ったので、それを各部屋に噴射して回ることにした。先生に電話をしたが出ないので折り返しを待つことにする。車を飛ばしすぎて事故を起こしていなきゃいいなと思う。

 午後九時半。こうなると体力勝負だ。そして俺にはもう大した体力が残されていない。待つことによる疲弊は甚大だった。むこうはそれを狙っている可能性もある。また別の可能性として、もしかしてもしかすると、今夜はもうこのまま誰もやってこないのかもしれない。その二つの間を感情が行き来している。これをドツボにハマると言うのだろう。血を拭いたあとの生臭いフローリングの上で仰向けになった。何を見るでもなく深呼吸をくり返す。

 午後十時。電子レンジで冷凍チャーハンを温めて食べた。シャツを着替え、ジャケットにトイレ用の消臭スプレーを吹きかける。それからクローゼットの中に避難させていた「脳みそ」を取り出し、腹のところで鉢を抱えてみると、不思議と体が温かくなる気がした。俺はもうこの部屋に住むことはできないようだが、どうなろうとおまえは必ず連れて行くつもりだ。そう言い聞かせる。

 午後十一時。
 寝落ちしていた。飛び起きると心臓が痛いほど脈打っているが、不思議と気分は悪くない。いつもなら寝ている時間だから、気が緩んでしまうと朝までだって眠れそうだ。携帯を確認しても電話は入っていないのでとりあえずラジオ体操第一を行う。

 午前0時。
 いよいよ無視できないレベルで悪臭が立ち込め始めた。死体なんかを吊るしちゃったもんだから重力で体内の物が漏れ出ているのだ。おまけにそれら全部が窓辺にあるせいで、入り込んでくる風に臭気が乗ってくる。文字通りのくそったれ。ネックウォーマーを鼻の頭まで引っぱり上げ、自分の周囲にだけ消臭スプレーを振り撒いた。消臭スプレーのストックは山ほどあるのだ。先生が到着するまでどうとでもなる。

 午前一時十分ごろ。
 書斎でうとうとしていると、遠くで物音がして幻聴かなにかだろうかと考えている矢先、ゴツゴツという足音に変わる。振動だってちゃんと伝わってくる。室内のどこかからだ。おいおい、あまりに急だし堂々としているしでちょっと待ってよと思う俺はナイフと金鎚を両手に持ち、壁に背をつけてじっとする。これは一人だ。鈍い足音の合間に細かい咳払いが挟まるし、ぴゅんぴゅんとなにかが風を切っているような音も聞こえる。俺がこっそり顔を出し、ダイニングと引き戸の向こうのリビングを覗いていると、いた。リビング中央には人影があり、こちらに背を向け窓辺に並ぶ死体を眺めている。と思いきやそいつは振り返り、俺は慌てて顔を引っ込めるが、勇壮なリズムがこちらに近づいてくるので嫌な予感に壁を離れればドン! と背後の壁をなにかが破って飛び出してくる。それは平べったくも鋭利な刃先で、ナイフよりも全然でかい。そいつは大仰なゴーグルとどこにでも売ってそうな白いガーゼマスクをしていた。俺が金鎚を持った方の手を挙げて挨拶すると、そいつも壁に突き刺していない方の刃渡り六十センチほどはありそうなマチェーテを、ひょいと挙げた。顔のあれはナイトビジョンゴーグルっぽい。
 俺もあれがほしい。
 壁のマチェーテをゴリゴリと引き抜いたそいつは、埃でも払うように二本の刃をこすり合わせながら書斎の入口に立つ。両手には白の軍手。着ているMA-1のチャックを一番上まで上げ切り、デニムパンツに黄土色のブーツを召している。露出する素肌は首元と、妙にぼこぼこした坊主頭だけだ。
「あんたひとり?」
 俺が尋ねると、なんと返事がくる。
「そうだお」
 マスクでくぐもっているせいかそう聞こえた。その声は低いとも高いとも、もっと言ってしまえば男か女か、若いのか老いているのかも曖昧で、俺は夜中に小便をしたときみたいに震える。
「そとに仲間いる?」
「いるお」
 ふーん。これは信じてもいいのかな。
「本当?」
「うん」
 じゃあついでにこれも聞いちゃおう。
「なんで俺を殺すの?」
「しーやない。ぷい」
 ぷいってなんだ?
「いまなんていった?」
「うゆたい」
 と言いながらそいつは片方の腕を振った。すぐ脇を飛んでいくマチェーテが背後にぶら下がる死体に突き立ったので、こちらも同じように右に持った金槌をぶん投げる。そいつは体を反ることなくマチェーテで金槌を弾いたかと思うと、間髪入れずに踏み込んでくる。俺はフローリングを蹴って後方に飛び上がると揃えたワークブーツの分厚い底でMA-1の胸元を迎え打った。互いにひっくり返った俺たちだが、こっちはフローリング、やつは碁盤目状にガラスの張られた引き戸に突っ込んで、振り注ぐ細かい破片を浴びている。俺は即座に立ち上がると、死体からマチェーテを引き抜く。同じく跳ねるようにして起き上がったそいつに近づきながら、ナイフを投げつけ、やつがまた同じように弾くそのタイミングでマチェーテを振り下ろした。カッ、という硬い音がして刃がやつの左肩にめり込み、遅れて左耳のついた顔の一部とナイトビジョンゴーグルが地面に落ちた。青白く光る肌に、マーカーかなにかで描かれたらしき波線がいくつも交差している。
「いたいいたいいたい」
 下から上へ振り上げようと動くやつの手をワークブーツで蹴りつける俺は、そのまま下腹部に靴底を押し付け、めり込んだままのマチェーテを勢いよく手前に引き抜いた。真上に跳ねた血が天井を叩く音が聞こえる。マチェーテをバットのように構えると、耳に刺さるような叫び声をあげて仰け反るそいつのむき出しになった首めがけてフルスイング。真っ二つにしてやるつもりだったが、咄嗟に背中を反らせたそいつの首は前半分だけがパカッと開き、MA-1が一瞬にして黒く染まった。ぶらりとひっくり返った頭を背中のあたりで揺らしながら、そいつは崩れ落ちることなく、たどたどしい足取りで後退していく。人間の命は時として信じられないほどの可能性を掴みとるものだ。追いかける俺もマチェーテを振りかざしはするが、そのいびつな奇跡に気圧されてなかなか振り下ろせず、ついにはリビングの窓際の死体にそいつがぶつかるまで、じっと見届けてしまった。
 午後一時十五分。
 MA-1の頭が破裂してその破片が飛んでくる。

 

 

 

 先生からの連絡がこないままどれだけの時間が経ったのかを考えても意味がない。

 そもそもいまの俺にとって先生はすがるべき希望なのだろうか?

 

 背中から壁に張りついた俺の耳に届くのは空高くのぼる銃声だ。
 銃声なのだ。
 弾はおそらく向かいのC棟から飛んできた。真っ先に考えるのは向こうの人数だ。
 吊るされた死体の胸元が飛び散るのと同時に再度銃声が響いた。俺は考える。銃声が先ほどのものと同じようにも思えたが、定かじゃない。
 吊るしていた紐が衝撃で切れ、死体がドサリと落ちてくる。骨ばった顔の、まだ若い男だった。差し込む月明かりの幅が広がって、汚れたカーペットを照らしている。
 弾はいまのところ、間隔をあけ単発で飛んできている。慎重に狙っているだけかもしれないが、例えばそれがライフルでボルトアクション式なら、次弾発射までの時間はある程度空くとみていいだろう。
 なんにせよ、ライフル弾を使われてしまったら、こんな築年数の古いアパートの壁に、果たして意味などあるのだろうか。
 そう考えていると別方向からも銃声がするがあまりにも近すぎて俺の鼓動は一気にそのペースを上げる。玄関だ。煙が舞い上がってドアが開き、長い棒のようなものを持った男が入ってくる。イヤーマフとナイトビジョンゴーグルをつけた誰か。テキパキと肩にストックを当て銃口を正面に構えれば、部屋全体の空気が膨張するような轟音。すぐ横の壁から飛び散った破片が肩を叩くが、俺はワークブーツで死体の破片もろもろを踏み潰しながら全力疾走。マチェーテを持たない方の手で折りたたみ式ナイフを開いておく。動きに反応したらしきC棟からの弾丸が吊るされた死体を貫通して引き戸のガラスを砕くのも無視。実のところ、はっきりとは見えなかったのでこれは賭けなのだが、その白髪のジジイが持っているのは上下二連式の散弾銃で、ドアに一発、壁に一発で残弾ゼロ、排莢と装填が必要のはずだ。玄関のジジイの動きは驚くほど堂に入っており、俺の接近に焦りも見せず、新たな一発を込めると折れた銃身を元に戻して構えた。実にシームレスな動きで気持ちがいい。一方の俺はマチェーテを放り投げると、ダイニングの床めがけて滑り込み大量の血の上を滑走。ジジイの足元に突っ込んでその太腿に刃先を突き刺す。捻る。痰がからんだような声を上げるジジイが発砲、至近距離で銃声が炸裂して破片が降ってくる。ジジイを倣って割れるような頭の痛みに俺は構わない。立ち上がりながら拳で顎を砕き、熱を持った銃身を掴むと背後の靴箱までジジイを押し込む。ゴーグルのまんまるいレンズ。その顔面を殴りつけ、ゴーグルだって引き剥がす。鼻も潰す。股間を蹴り上げれば肋骨も叩き折る。耳が完全に麻痺していて、手応えがいつもの半分ほどにしか感じられず、やめどころがわからない。グニャグニャになったジジイが玄関に尻をつくので、最後に靴底で顔面を踏み潰すと、猟銃とイヤーマフを拝借。腰の弾薬入れに入っていた実包をひと掴み分ジャケットのポケットに突っ込む。ドアの鍵は完全に吹き飛ばされているから、俺はその威力を有するスラッグ弾がほしい。グリップのすぐ上にあるレバーを押すと、銃身が折れて使用済みの薬莢がひとつカポンと飛び出した。上下に並ぶ空洞に親指くらいある種類も定かじゃない実包を二発同時に突っ込んだ俺は、ジジイのナイトビジョンも装着。
 頭が重い。
 頼むぜ俺の視覚。
 元々台所以外の明かりはつけていなかったが、玄関にあるブレーカーを落としておく。真っ暗な部屋の中を、ナイトビジョン越しの視界でゆっくり前進。リビング手前でしばらくじっとする。C棟にいる相手の位置がわからない。俺はダイニングに並べてある鈍器から警棒を選び取ると、まだぶら下がっている窓辺の死体に投げつけてみた。死体が揺れた次の瞬間、銃声とともにそいつの腕が千切れ飛んでカーペットの上に落ちる。なるほど。同じ手を繰り返すしかないか。そう思った俺は、今度は鈍器ではなく奪った散弾銃を構え、死体ひとつぶん空いた窓の向こう目掛けて銃撃する。銃全体が後退しストックが肩にめり込むのでちょっと痛い。いまのは散弾だろうか? 即座に銃身を折ると、一発排莢。新しく実包を込めておく。
 銃声の返事が来て、また新たに死体がドサリと落ちる。月明かりの幅が広がる。ナイトビジョン越しでは眩しいので寝室に移動。その最中にもう一度銃声が響き、俺の動きを読んだように寝室にある死体がドサリと落ちた。なるほど、向こうも狙いを定めるため、死体カーテンの排除を試みているのだ。ライフルの装弾数を俺は知らない。いまのところ、むこうはぜんぶで五発使っている。俺の知りえないところで装弾した可能性だってあるし、二人がかりで交互に銃撃している可能性だってある。どれを選ぶべきか。あまり考えてもらちがあかない気がして、位置の特定にだけ集中することにした。
 C棟からこの部屋の窓までの距離を十メートルとしよう。リビングに撃ち込まれた弾丸は引き戸の中央部にあるガラスを破壊した。窓から引き戸までは三メートルくらいある。角度からして、比較的平行な位置に狙撃手はいるはずだった。C棟二階の廊下か、屋上。俺は寝室の死体を撃ち抜いたと思しき銃弾のあとも探してみる。でも見つけられない。まあいい。
 作戦を変え、ある実験を試みる。俺は玄関にあるジジイの死体を抱き挙げて引きずり、筒抜けになった窓のむこうを意識しながらリビングにそれを投げ入れてみる。
 銃声が鳴り響く。弾丸がジジイの死体を貫いたかどうかに用はない。
 少なくとも向こうには、真っ暗なこの部屋の中が見えている。
 銃声は続く。窓辺の死体がまた落ちる。
 俺はリビングの壁にある電気のスイッチを手探りでオンにしておく。寝室も同じようにする。成功するかはわからないが、結局相手のことはわからない。このあとどちらかが死ぬってだけの、ざっくばらんとした関係性でしかないのだ。俺は玄関に向かうと、ブレーカーを上げた。
 C棟側に面する部屋の明かりが一斉に灯る。俺は猟銃を抱えて玄関を飛び出すと、手すりを伝って屋上へ。音を立てないよう中腰で半分ほど進み、残りは匍匐前進。俺の緑色の視界には、C棟二階の廊下でライフルを構えている人影が映る。ナイトビジョンゴーグルを外して目を細めているのは若い女だった。
 どこかで見たような顔だ。たぶん、よくいる顔なんだろう。
 ようやくこちらに気づくが、死ね。

 

 午前三時になった。俺は荷物をまとめる。

 

 午前三時半。各部屋を回って手を合わせた。

 

 午前四時。クローゼットから「脳みそ」を取り出す。


 
 午前四時半。俺の耳はまだ治らない。
 すこしずつ、朝の匂いが立ち込める。
 もしかすると鳥が鳴いているのかもしれない。
 はやく会いたいよ。

 

 五時。
 遠くの空が紫色に染まる。空に浮かぶ雲がその輪郭をくっきりと浮かべだす。
 明かりが見えた気がした。もしやと観察していると、その明かりはこちらに近づいて来る。車だ。駐車場に入ってくるのは黒塗りのベンツ二台。放置されたコンパクトカーやバンの後方にゆっくりと近づいていき、縦に並んで停車した。
 俺は十キロのダンベルを持ち上げると、それを前方のベンツめがけて放り投げる。特に回転も見せず落下したダンベルは、そのままフロントガラスに直撃し、真っ白なヒビを一面に走らせた。
 前後のベンツから男たちが一斉に飛び出す。スーツを着ていたり、高そうなジャージ姿だったり、外国人だったりしたが、動きの鈍い順にライフルで撃ち殺した。まず三人。
 俺はボストンバッグを肩にかけると、B棟の屋上からA棟の屋上に飛び移り、置いてあった散弾銃を拾い上げて、再度駐車場に構える。二人撃ち殺す。排莢と装填。地平線が白んできた。屋上から自室前に降り立つと表に出しておいた「脳みそ」を回収し、十五段の階段を降りる。もうここを上ることもないのでしょう。寂しいかどうかは時間が教えてくれるだろう。駐輪場を抜けて自販機のある通りに出た俺は、そこから駐車場入口に回り込む。停車するベンツのリアウィンドウ内には、ふたりぶんの頭が見える。左の人物が振り返る。銃口を振って指示すれば、その人物は自ら車を降りてくれた。実にゆっくりと。
 先生だ。
 続いて右に座っていた人物も自らドアを開け、落ち着いた様子で降りてくる。グレーのスーツを着て、そのすそを手で直すオールバックのメガネジジイ。
 総務部長。
 先生がなにかをしゃべっているが、いまの俺にとっちゃ遥か遠くで響くだけの、意味を成さないただの音でしかなかった。俺は猟銃の引鉄を絞る。無数の散弾を浴びた総務部長は、砕け散った窓ガラスとともにアスファルトに崩れ落ちた。
 肩をこわばらせたまま固まる先生が俺を見ている。安心させるために猟銃を下げた俺は、耳の穴に指を突っ込んで笑った。
「やっと来てくれましたね」
 やや声を張りすぎたかもしれない。先生はなにかをつぶやいたあと、後部座席に左手を伸ばす。右手は正面につき出したままで、俺が発砲しないよう制しているようだ。先生を撃つわけがない。俺はちゃんとそう伝える。
 先生の手には薬袋が握られていた。俺は笑う。先生もひきつりつつも、笑い返してくれる。ああついに。俺は深呼吸をする。もう夜の匂いはどこにもなかった。ろくでもない夜。先生から薬を受け取る。
 先生の口が「東條さん」と動くのがわかった。
「だいじょうぶですか」と。
 だから俺は伝える。
「おかげさまで」
 それから俺はポケットに入れておいた缶コーヒーを先生に渡す。
 三宅係長が俺に渡してきたものだ。
「先生。朝日を浴びながら飲むコーヒーは美味しいですよ」
 缶コーヒーを見つめる先生が微笑むことをちょっとだけ期待したが、見届けることはせずにその横を通り過ぎる。一番奥の、ありふれたコンパクトカーに乗り込んで、猟銃と「脳みそ」を助手席に起き、持ってきたキーでエンジンをかけた。座ったとたんに強烈な眠気がよぎったが、俺はもう眠らない。これまでたくさん眠ってきたのだ。もうすぐ朝日が昇る。日の光を浴びれば、体も目を覚ますだろう。
 バックミラーを調整し、シートの隙間から後ろを確認する。先生はまだ同じ所に立っている。先生はさっき、俺になんと言ったのだろう。なにを言わなかったのだろう。ギアを「R」に合わせて発進し、横たわる男たちの死体を踏み越えて、先生のそばで一時停止する。窓を下げた。
 やはり俺の中には山のように選択肢があった。なにを伝え、なにを伝えないか。だが、俺が先生に感謝しているというのは、紛れもない事実だった。
「確かにコーヒーは控えたほうがいいかもしれませんね」
 そのまま表の道路まで出た俺は、改めてクラクションを一度だけ鳴らす。先生は手すら振ってくれないが、逆の立場で考えたら、たぶん俺でも振らない。カーナビに入力する目的地を考え、その中の一つを選択する。アクセルを踏み、両サイドを畑に挟まれた侘しい道路を進んでいく。法定速度は遵守する。ラジオの音量を最大にすれば、パーソナリティーが「今日も一日、いってらっしゃい」と言った。
 午前五時半。
 閉め忘れたままの窓から、薬を投げ捨てた。