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書き下ろし短編:『ばりくそ慕情』

 

 仕事に向かう環奈を玄関まで見送ったあとでコーヒーを淹れ、ミニテーブルの上にあった博多通りもんを口に放り込んで、あ! しまったと、おれは咀嚼をやめる。

これは彼女が最後の一つとして大事にとっておいたものなのだ。

 

 日曜日。

 久しぶりの友人に会ってきたという環奈が博多通りもんをもって帰ってきた。包装紙を丁寧に開ける彼女が嬉しそうに話していたのを、おれはぼんやり眺めていた。

「わたしがこれ好きなの覚えててくれたみたい」

 その友人こと高橋ちゃんは環奈の福岡時代の親友で、つい最近上京したという。これからも定期的に会えるね、とおれが言うと「ねー」と環奈は歯をみせて笑った。

「あ、ついてる」

「え?」

「通りもんが」

 口元を手で覆いながら目を細める彼女のマグカップに新たなコーヒーを注ぎながらおれは考える。いや、本当はなにも考えていない。基本的に、なにかを考えることはない。

「もう一個食べていい?」というおれに環奈は快諾。連続で二個食べると彼女は言う。

「一個じゃないの?」

「え?」

「いま二個食べたじゃん」

「うわ。ほんとだ」

「うわ、じゃないよ。自分でしたことでしょ」

「無意識だったかも」

「無意識だったでなんでも許されると思って」

「ごめんごめん」

「うそうそ、怒ってないよ」

「あ、ほんと?」

「でも念のためこの一個はとっておくね。絶対食べちゃダメだよ? 返事は?」

「わん!」

「英語!」

「英語? あ、バウ!」

 よーしよしよし、かわいいんですね~喜んでるんですね~とムツゴロウのモノマネをする彼女に頭や背中を撫でられるまま部屋中を四つん這いになってバウワウ、バウワウ吠え回っているうちに疲れて横になって天井を眺めていると、いつのまに入ったのやら、環奈が風呂から上がってくるのでおれはその髪にドライヤーをかけた。

 

 ああ、しまった。しまったしまった。しまってしまいました。おれはそのまま咀嚼を再開する。一度口に含んだものを出すわけにもいかないのだ。親はおれをそんな風には育てなかったから。

 きちんと飲み下したあと、コーヒーでもってサーッと喉を流したおれは、ああ、でもやっぱりこれはダメなやつだろうなあと思う。環奈悲しんじゃう。博多通りもんってそのへんに売ってたっけ? おれは駅前のスーパーまで自転車を飛ばす。時折、他県の物産展なんかを催しているからだ。

 フードコートの給水器で喉を満たして適当な椅子に腰掛けた。物産展などやっていなかった。おいおいおい。おれはひさしぶりになにかを考えなければならないと思い、考え、部屋に戻った。ネットでどこに売っているのかを検索しようと思ったのだ。が、そもそもネットで売っているじゃないか。注文しちゃえば早いのでは? そう思いかけたがダメだ。環奈が帰ってくるまでに用意できなければ意味がない。

 窓を開けて部屋の換気をした。

ベランダに出て腕を組んでみる。

 おれにはクレジットカードがない。なのでネット注文するとなれば、代引きで支払わなければならない。が、いま手持ちが十円玉三枚と五円玉二枚に一円玉五枚……玉ばっかりだ。そこに金玉も足してやりたいほどだ。くそったれめ。ベーシックインカムを導入しろ。

 万策尽きてリビング中央で不貞寝しているとガチ寝に転じてしまったおれ。気が付くと午後三時前でちょっと小腹も空いている。

 環奈の帰りは八時ごろだ。

 ううむ。

 腕を枕にして唸っていると、隣室で物音がする。

 え、なに。なんだろう。

 環奈が帰ってきているとでも? 

 それはあまりにものんきな思考である気がした。侵入者だ。我々の財産を脅かそうとする不届き者だ。ここはひとつ、ふだんの憂さ晴らしも兼ねてぶっ殺してやろう。

 

 だが隣の部屋にいたのはおれの想像をはるかに超えた人物だった。

 

 おれだ。

 

 

 

 いや、本当におれなのだろうか。

 おれは目の前に立つ〈おれ〉を見て呆然としているのに、向こうはちっともそんな気配を見せずに「よう」とか言う。低くくぐもった響きだが、声までおれだ。でもやっぱり同じってわけでもない。まず着ている服が違う。いまのおれのようにスウェットにTシャツといったラフな姿ではなく、厚手のネルシャツに黒のズボンと季節感の若干のズレを感じる。おれは夏のそれだが、〈おれ〉のは秋っぽい。あと、〈おれ〉のほうが妙に体ががっしりしているし、顔もシュッとしている。我ながら精悍だ。どこか獣じみた殺気すら漂わせている。

「大丈夫。説明なら慣れている。でも面倒くさいから端折って先に質問したい」

「は?」

「見た感じひとり暮らしではなさそうだけど、誰かと一緒に住んでる?」

「え、いま?」

「個人情報保護のこととか考えてるだろ。じゃあ俺がいくつか名前を言うから該当したらリアクションして」

「はあ」

「いくぞ。すず、りほ、あやみ、ティナ、かすみ」

「……」

「はるな、かんな、ひなこ」

「あ」

「え? いた? だれ?」

「環奈」

 目の前の〈おれ〉が静かになる。「マジ?」

「うん。いちおういま仕事行ってますけど」

「敬語はいいよ。どうせおれなんだし」

「マジでおれなの?」

「見りゃわかるだろ」

「見てすぐわかるレベルだから困ってんだろ」

「わかる。おれも最初はそう思ったよ」

 とまあなんとも変な感じだ。

 さらに変なのは〈おれ〉が小さく息を吐いたかと思えば、うっすらと目に涙を溜めていた点だ。なにがどうなっているのかまだひとつもわからない。

聞いてみよう、どうせおれなんだし。

「どうしたの?」

「なにが?」

「泣いてる理由」

〈おれ〉は深く息を吐いた。「ちょっと」その声は震えている。

「こいよ」

 おれが両手を広げて迎え入れると、〈おれ〉は素直にしなだれてくる。回した手で背中をさすると〈おれ〉の鼻をすする音が聞こえたので、ついおれも鼻をすすってしまった。

 ハグしながら間近で見てもやっぱりこいつはおれだった。普段目にしないような耳やうなじの様子は新鮮だったが、でもたぶんおれで間違いないのだ。

「ありがとう」とおれから離れる〈おれ〉。

「気にすんなよ」

「ちょっと長い話をしてもいいかな? 時間大丈夫?」

「ああ、いいよ。せっかくなんだし」

 おれはコーヒーを淹れる。やつのぶんは……環奈のマグカップに注いだ。環奈のマグカップを手にした〈おれ〉は、それをじっと眺めたまま、どこか遠い目をしている。

「ぜんぶを完璧に理解しろとは言わない。信じろとも言わない。ただ、おれの認知している範囲でのことを説明するよ。聞いてほしい」

 

 話はこうだった。

 まず宇宙というものは何本もの紐が束になって出来ているらしい。その紐一本ずつにそれぞれの時間が流れている。そしてこの瞬間もまた新たな紐=時間が生まれ続けているというのだ。

 おれは話を遮断しない。もうちょっと聞いてみて耐え切れなくなったら質問をはさもうという狙いだ。

 目の前の〈おれ〉は、元々こことは違う時間紐で生きていたらしいが、そこにも環奈は存在し、〈おれ〉と一緒に暮らしていたそうだ。

 ふむ。

 そんなある日のことだった。

 一緒に道を歩いている最中、〈おれ〉と環奈が互いに歩道側を譲り合ってグルグルしていると、そこに一台の軽ワゴンが猛スピードでやってきた。そのときちょうど車道側に立っていたのは環奈の方で、〈おれ〉は迫り来る車から彼女を守ろうと、その手を強く握ったらしい。

 だが手遅れだった。

 どこからともなく彼女のサンダルが降ってきて、アスファルトの上で跳ねるのが見えた。握ったはずの手は、〈おれ〉の手の中には残っていなかった。なにも信じられなかった。その場に立ち尽くし、すべてから目を逸らそうと逡巡する自分に気がついて、愕然としたという。

 犯人は脇見運転の大学生だった。

「おれは自殺したんだ」と〈おれ〉は言った。

「犯人を殺して」

 言葉もない。

 不思議な出来事はそのときに起こった。

 死んだはずの〈おれ〉が目を覚ますと、永遠とも思える落下の最中にいた。そこは一切の光も射さない真っ暗な空間で、上下左右も定かではなく、ただただ落下しているという感覚だけが続いているという。そんな中〈おれ〉は一匹の柴犬に出会う。落下しながら出会うってなんだ。質問しようか迷っているおれを意に介さずに〈おれ〉は続けた。

「そいつは高校まで飼っていた愛犬のハッシュだったんだ。おまえは犬飼ってた?」

「いや、飼ったことない。ハムスターはいた。プリンとゼリー」

「そうか。まあいい。ハッシュはおれに言ったんだ」

「待って。犬だろ?」

「喋ったんだ。ここまででも充分信じがたい話してるのは承知だし、義務みたいにいちいち質問しなくてもいい」

「そうか。わるい」

 ハッシュは〈おれ〉に

 

愛をとりもどせ

 

 と言ったそうだ。なんじゃそりゃ。そして〈おれ〉はその言葉に「そうする」と即答。このやりとりもすべては落下の最中に行われているのだろうか。もうおれは質問しない。

 意思を示したとたん、目の前のハッシュがまばゆい光を放った。その光に包まれた〈おれ〉。全身を謎の倦怠感に襲われ、意識が遠のいたかと思うとそこは見知らぬ部屋の一室だったという。

 

「あ、それがここ?」

「まあそんな感じだ。正しくはここで五十六万八千二百十番目」

 ははは。

 

〈おれ〉はハッシュの謎のパワーと「愛をとりもどせ」という使命に突き動かされ、あらゆる時間紐を渡り歩き、環奈を探し続けたという。それぞれの時間紐に存在する「おれ」や『おれ』や【おれ】に接触し、環奈を失わせないための啓蒙をはかってきた。

 

「実はこの時間紐で二百十二回ぶり、九十七人目の環奈なんだ。この場合の環奈は『おれと出会って』『いっしょに暮らしている』環奈のことだ。あとの時間紐でのおれはそれぞれ違う女や男や動物や物と愛し合っていた」

「そんな」

おれの頭はとっくにキャパオーバーだ。なので目先の言葉に飛びついてしまう。「動物や物って……?」

「本当に知りたいわけじゃないだろ」

「いや、わからない」

「とにかくこの時間は久々の環奈紐なんだ。最近になってようやくコツのようなものが掴めるようになってきた。まあ、何万回と繰り返すことなんてそうそうないもんな。普通に生きてるときなんか」

「まばたきくらいかな」

「それとはまた勝手が違う」

「ごめん」

「そんなことどうでもいいんだ。要はおれの一番の目的はおまえと環奈が平穏に暮らすこと、ただそれだけ」

 その物言いに面食らってしまう。「いや、なんかありがとう」

「いやありがとうじゃねえんだよ。おまえの力で死ぬ気でもってそれを実現しろ。同じ過ちを犯すことを回避しろ」

 そう言う〈おれ〉の表情は鬼気迫るものだったが、いかんせんあまりにも自分なので鏡でキメ顔をつくっているときのような居心地の悪さがある。くそ。いまは真剣に取り合うべきなのだ、とおれの直感は言っているが。

「ということはつまり……おれが車道側を歩けばいいってこと?」

「いや、それは場合による」

「なんで?」

「いまも含めた過去九十七つのうち、すでに手遅れだったパターンがその大半を占めていた。おれの場合は事故だったけど、通り魔、火事、病気、自殺。いろいろあるよ。おれの方が先に死んでる場合もあったし」

 ザーッと血の気が引く。ある程度可能性を意識したことのある事象の数々が、実際に起こってしまった世界があって、それぞれのおれはその事象がもたらした結果を受け入れてきたというのだ。いまここにいるおれには関係なくとも、広い意味で言えばおれの話ってことでもあるので、やっぱり一応肝はしっかり冷えてくる。

「みんながみんな受け入れたわけじゃない」と〈おれ〉は続ける。

「おれこそそうだろ。おれは受け入れないほうを選んだ。だからこんなことになっている」

 

 こんなこととはなんだろう? 別の時間紐を生きるおれに会いにきていること?

 

「とにかくおれは引き受けることにしちゃったから。業を」

「業?」

「うん。ぜんぶ」

「なにそれ。どういうこと?」

「違う時間紐の復讐をおれが横取りするんだよ。別のおれから」

 

 横取りという言い方からは、〈おれ〉自身抱いているのであろういくらかの罪悪感を垣間見た気がした。

ある時間紐でおれと一緒に暮らしていた環奈は、アパートの隣室で起こった爆発に巻き込まれて死んだ。隣室の住人が爆弾を作製していて、ちょっとしたミスから誤爆したのだ。ということは犯人も一緒にその爆発で死んでいる。それじゃあいったいだれに復讐するというんだ?

 そこで〈おれ〉は爆弾の作製を援助した人物を特定する。そこから芋づる式に、誤爆死した男と同じ思想を持つ過激派組織の存在が浮かび上がる。〈おれ〉は長い時間をかけ、ついにはその組織を壊滅にまで追い込んだという。

 壊滅って、そんな馬鹿な。

「そういうこともあったって話だ」と〈おれ〉はつぶやいた。「他にもある。臓器売買をしているバカどものときが一番最悪だった。でもこれ以上話す必要性を感じないし、おれも話したくない」

聞きながら、つい先ほどハグをした〈おれ〉の感触を思い出す。

〈おれ〉は続ける。

「おれが現れて説得して、それでも彼女の死を止められなかった場合に関して言えば、おれがその時間紐を引き取る。具体的には食べる」

「んんん?」

「できるんだよ。おれはふだん時間紐の外にいるからペロンて。素麺みたいに」

「食べてどうなるんだよ」

「よくわからない。ハッシュも教えてくれない」

「ごめん」とおれは自然と謝っていた。「ふさわしいリアクションがずっと見つからないや。さっぱりわからない」

「こればかりはおれ自身の感覚的な話だから」

「業ね」よくわからないなりにひっかかる言葉だと思っておれがつぶやく。ほつれた糸を目の前に置かれたような収まりの悪さが残る。

 不意に強烈な不安に襲われたおれは、スマホで環奈にラインを送った。

 

『晩ご飯どうしようか?』

 

〈おれ〉も画面をのぞきこんでいる。おれたちはコーヒーをすすりながらミニテーブルに置かれたスマホの画面を何度も確認した。なかなか反応がない。

 不意に〈おれ〉が穏やかな口調でつぶやいた。

「きょう仕事は休みなの?」

「あ、おれ? してないよ」

「ん」

「無職だよ」

「え」と〈おれ〉。「環奈は働いてるんだろ?」

 おれは〈おれ〉に責められるのが急に怖くなる。

「まあ、まあそうなんだけど、いまの時点でおまえはヒモなんだ」

「おれじゃねえよ」と〈おれ〉。「おまえだろ」

「同じ“おれ”じゃないか」

「都合のいいときだけ重ねやがって。おまえは違うおれだ」

 それもそうだ。分が悪いのでいますぐ話題を変えてやろうと考えるが、さっきからぶち込まれるちんぷんかんぷんな情報のせいでちっとも頭が回らない。しょうがないので、壁を眺め、窓の外を見て、それから〈おれ〉を見る。

「そういやこれからどうするの?」

「ん? おれ?」

〈おれ〉はそうつぶやいたっきり動かなくなった。手元の環奈マグカップをまじまじと眺め、小さく呼吸を繰り返している。それから不意に、床に落ちていた一本の長い髪の毛を拾い上げる。

「これおまえの?」

「なわけあるかい」

「もらってっていいかな?」

「え?」

 つい反射的に、いわゆるつっこみというものをしかけるが、いまのおれには突飛に思えることが、だれかの切実な願いかもしれないという可能性が意識をかすめる。蔑ろにはできない。ようやく心がこの状況に追いついた気がした。とたんに涙までこぼれそうになるのでちょっと不思議だ。

「いいよ。掃除しちゃうとただ捨てるだけだし」

「ありがとう」そう言って〈おれ〉は履いているズボンのポケットに小さな輪っか状にした髪の毛をしまう。ああ。もっとなにか持ってってほしいな。そう思っておれは考える。とそこで思い立つ。

「環奈に会ってくだろ?」

「いやそれはしない」

〈おれ〉は即答した。

「なんで」

「向こうがびっくりするだろ」

「え? 二人いるから? だったらおれのふりすればいいじゃん」

「え?」と〈おれ〉はちょっとだけ考え出す。「いいの?」だって。

「いや知らないけど。やったことないのか」

「過去九十六回……の中の彼女が生きていた時間紐ではやってこなかった。環奈自体には何万回も会っているけど」とモゴモゴ言っている。

「へえ」

「いろんな環奈がいるんだよ」

「どんな」

「一番ビビったのはあれだ。アイドルやってたとき」

「え!」

 おれが笑うと〈おれ〉も笑った。

「千年に一人……とかいうすごいコピーまであったぜ」

「冗談だろ」

「いやいや。おれなんてわざわざ握手会にまで行って会ってきたし。号泣しちゃってさ。みんなドン引きしてんだけど、環奈はぜんぜん。神対応だったね」

 そう言う〈おれ〉の目はまた潤みだしている。おれはスマホを手に取るとさっき送ったメッセージを確認する。

「あ!」

「なんだよ」

「既読ついた」

「マジ?」

 スマホ画面を覗き込む〈おれ〉の顔をこっそり覗いてみる。泣いたりするのかなと思ったが、意外と冷めたツラをしてやがる。安堵ととるにはあまりにも途方もない表情だ。そう感じるおれの心がしくしくいってる。

 おれは約束する。ってことをこのときに誓う。

 彼女を絶対に死なせない。

 彼女の幸せを考え、足したり引いたりを繰り返そう。

 こちらに視線を移した〈おれ〉は、「仕事をしろ」と言った。うん。それもひとつの手だ。〈おれ〉は穏やかな口調で続ける。

「仕事でもなんでもして、おまえはおまえ、環奈は環奈でたのしくやれよ。それが一番なんだ。彼女が幸せであるためにはおまえの幸せだって必要だろ。あとそうだ。これも言っておかなきゃ」

「え、なに。ちょっとこわいな」

「ってことはある程度察しがついていることだろうと思うけど、おまえと一緒にいること以外にも彼女の幸せはあるんだよ」

 やっぱそういう話か~。

 まあでも、いまのおれはクソファッキンニートのヒモ野郎なのだ。彼女の生死、という話の大きさに勝手に息巻いているところがあるが、もっと細かなところで戦わなければならないことが山積みだ。ああ、恐ろしい。とはいえ宇宙をまたにかける〈おれ〉がこうやって目の前にいるんだから、この一回分の人生における諸々の課題なんて大したことないような気もしてくる。いまは興奮があって色々なことを見落としている状態なのかもしれないが。でもこの熱だけはもうしばらく冷めないでほしい。例えばおれが仕事を見つけるまでとか。

 どうか。

 どうか。

 

 おれは〈おれ〉に服を貸し、ふたりで環奈の帰宅を待つ。

 ラインに返事が来る。

 

『職場でもらった弁当があるからそれ食べよう!』

 

「緊張するな」

 そう漏らす〈おれ〉の肩をおれは抱いた。

「だいじょうぶ。環奈が帰ってきたら、ちゃんとおれの言ったとおりに伝えればいい」

 夜になる。

 おれは押し入れに身を隠し、わずかな隙間から〈おれ〉を見守る。落ち着かない様子で深呼吸を繰り返す姿は我ながら笑っちゃうが、その背に滲む何十万分の慕情を思うと胸を突くものがある。

 やがて玄関のドアが開き、環奈の「ただいま~」が聞こえてきた。

 ひとつに凝縮されたすべての希望が、自らの非凡さに遠慮しているような、あまりにもいじらしい響きだった。

「おかえり」

 そう言う〈おれ〉の声は震えている。

 震えたままの声で、〈おれ〉は言う。

「ごめん環奈。ちょっと話があって」

「んー。なに」

博多通りもん、食べちゃった」

 死角となっているので、おれからは環奈の姿が見えない。確かなのは、不穏な沈黙が続いているということだけだ。

「はあ?」

「マジで、マジでごめんなさい」

「いや、なんしよーとやー!」

「ごめん。マジでごめん」

「マジってつければいいと思ってもー! ひどい!」

「本当にごめん」

「いやいやいや~」

「ごめんな」

「わ、どうした。ちょっと泣きすぎ」

「ごめん」

「どうした? だいじょうぶ?」

「ごめん、マジで。へへへ」

「いいよもうわかったって」

「うう」

「ちょっとちょっと。情緒がわからん。そんなに?」

「うん、ごべん」

「泣いてんのか笑ってんのか」

「両方」

「ははは。なんかあったと?」

 あったんだぜ環奈。と思うおれは押し入れのわずかな隙間も閉めて寝転がる。これ以上はもう見てられない。

 

 トイレに入ったのを最後に〈おれ〉は姿を消した。

 貸した服も一緒に消えた。代わりに、やつの着ていたネルシャツとズボンはちゃんと押入れの中に残ったままだった。こういうところはおれっぽい。秋頃になったら着ちゃおう、なんて思う一方で、あ!

 ズボンのポケットには環奈の髪の毛が入ったままだった。

 すまねえ。

「ねえ、ほんと今日はどうしたの? なにかあったっしょ?」

 と弁当をつつきながら尋ねる環奈をおれは見つめ、返事に頭を悩ませる。

「だから博多通りもんを食べてごめん。ってことなんだよ。ほんとうにごめんなさい」

「それはもういい。また今度実家から送ってもらえばええし」

「うーん? その手があったな」

「にしてもあんな泣くことかね」

 おれは仕事をさがすだろう。

 なんにせよ収入を得ておいしいものをたくさん食べたい。博多通りもんだって山ほど食わせてやる。そんでいつか南の島にでも行って、ビーチでトロピカルドリンクを飲もう。絶対にそうしよう。おれの熱はまだ覚めていない。同じ布団に入り、隣で寝息を立てている彼女の、その脚の温もりと立ちのぼる髪の匂いに包まれていると次第にまどろんでくる。

 たぶん今ごろ、どこかのおれは笑っているかもしれない。怒っているのかもしれない。泣いているのかもしれない。

 布団の中にいるのかもしれない。

 なにかを食べているのかもしれない。

 なにも考えていないのかもしれない。

 本を読んでいるかもしれない。

 なにかを忘れているかもしれない。

 映画を観ているかもしれない。

 居眠りしているかもしれない。

 陽の光を、風を浴びているかもしれない。

 道を歩いているかもしれない。

 買い物をしているかもしれない。

 車道側から彼女をずらしているかもしれない。

〈おれ〉はおれの短パンに入った博多通りもんのゴミを見つけているかもしれない。

 違う時間紐で悲しむおれを慰めているかもしれない。

 あの意味不明な説明を繰り返しているかもしれない。

 死への怒りをぶつけているかもしれない。

 終わりのない落下の中で、ハッシュという謎の柴犬とまどろんでいるかもしれない。

 何千何万何億何兆もの環奈に出会い、何千何万何億何兆もの時間のなか、すり減ることすらできずに、業を背負うという言葉に縛られているかもしれない。

 たぶん今ごろ、どこかで〈環奈〉がそうしているように。

 無数の可能性が存在するのだ。最悪が無限に芽吹くように、奇跡と呼べる出来事も無限に芽吹いていたっていいはずだ。

 彼女は歌い踊り、地面を蹴る。

〈おれ〉がそうしているように。

 いつかどこかで〈おれ〉は出会うかもしれない。

 いつかどこかで〈環奈〉は出会うかもしれない。

 歩道側を譲り合うふたりのそのグルグルが、蝶の羽ばたきのようにいくつもの次元を超えてまた新たな時間を生んだりもするのかもしれない。

 

 

 

 そんな夢をみた。