書き下ろし短編:『式では泣かないタイプです』【前編】

 

16:00~

 

 

 ホームルーム終了後、教室の後ろの方で加藤たちとまんこからピーナッツを飛ばすおばさんの話をしていたら、すぐ近くを女子バレー部の若本紅愛が通りかかったので違う話に変えた。

 僕の学ランが消えた話だ。

 そもそもこっちが本題だった。


 学ランが消えたのは全国的にインフルエンザが猛威を振るう真冬のある日のことで、にしてはまあまあ気温が高かった。僕は体育のサッカーでゴール前を守りながら、浅野とふたりでオナニーするときどんなリズムでしごくのかという話をしていて、「COMPLEXの『BE MY BABY』と同じリズムだよ」と僕が言うと、「ビーマイベイベーで一往復?」と浅野はジェスチャー付きで尋ねてきた。
「いや、『ビーマイ』で1。『ベイベー』で2……あ、もうちょっと早いか。ビーマイベイベービーマイベイベー……あ違うな、やっぱビーマイベイベーじゃない」
「ちなみにおまえってどっちの手でしてる? おれ普通に右手なんだけど」
「あ、それはおれ左なんだよね」
「おお。でも右利きだろ?」
「そうそう、でも左」
「やっぱりいいの?」
「ていうか右手でスマホ持ってやるから左手しか空いてない」
「そっちか。おけばよくない?」
「寝そべるのが好きだから」
「なるほど横になるタイプね」
「そうそう。仰臥位」
「ん? なにそれギョウガイって」
「あ、あおむけのこと」
「じゃあそう言えばいいだろ」
「あごめん、たしかに」
「なんでわざわざ難しい言葉使うんだよ」
「そういうとこあるんだよね、おれ」
 とそこで不意にボールが転がってきて、反射的に動けた僕は思いきり蹴り返すことに成功した。バツの悪さがそうさせたのかもしれない。

 風は肌寒かったが空からは暖かな日が射していて、砂埃とともに宙で軌道を変える頼りないボールを細めた目で追った。ずりーなあと隣で浅野が漏らし、僕は僕のついカッとなって、といった衝動をちょっとだけ誇らしく思った。素早い蹴りとその手応え。及び浅野の羨望も手伝ってか、いつもよりもやや気が大きくなっていた。

 僕は最後に学ランを脱いだのがいつどこでどんな状況だったのか、なにも覚えていないのだ。

 

「がんばれ」

 と浅野は言った。なんだよ、捜すの手伝ってくれない感じじゃん、と思う僕にやつは言うのも面倒くさいといった感じ「これから教習所」とつぶやいた。
 ピロティーのベンチに腰掛ける僕らは、冷たい風に吹かれながら冷たいエナジードリンクを飲み、さっむ~と繰り返していた。免許どう、取れそう? と尋ねる僕に浅野は「まあまあ。大阪行くまでにはなんとか」と、遠くを眺めながら、下唇をとがらせていた。当然ながら、かわいこぶっているわけではないのだ。一方で寒さに腕を組む僕は、教習所にはいつごろから通おうかなと考えていた。いまから通い始めたところで四月に間に合うかはわからない。それに今はどちらかというと免許よりも遊ぶ時間がほしいので、予定を詰めてまで通うのも気分じゃないのだった。という結論は昨年末から何度も出ているが、同じことをまた一から何度も考えてしまうのだ。
 そういう症状ってなにかあったっけ?
「あ、そうだ」と浅野がリュックに手を入れ、筒状に丸められたルーズリーフの束を取り出す。
「書いてきたぜ」
 僕は初め、なんだこれは、と思った。受け取って開いてそこにタイトルが記されているのを見てようやく納得する。

 それはあまりにも早すぎる提出だった。なぜなら文集用原稿の募集をかけたのは一昨日のことだからだ。

 一昨日の放課後、僕は部室で坂本と直立のまま向き合って、その場から一歩も動いてはならないという制限のもと、互いの隙を突いて股間を攻撃し合っていた。隙を突かれて坂本から強烈な一撃をもらった僕が膝をついたその瞬間、ふと例年作成してきた「卒業文集」を今年も作らなければならないことを思い出した。昨年の卒業文集のあまったやつが、ソファーの脇に積まれているのが目に入ったからだ。

「お、これってもしかして戯曲?」
 そう聞くと浅野はやや遠慮がちに肯いた。戯曲という言葉にまだ親しみがないからだろう。僕も一年のころまではそもそも戯曲という言葉を知らなかったし、いまでも油断すると「コント」と呼んでしまうのだが、それだとぜんぜん厳密じゃないし、そもそもカッコがつかない。まずはカッコから入ろうと、戯曲、随筆、小説と大まかに分けて呼ぶように決めていた。
 僕がこの作品が一番乗りであることを伝えると、「おまえこそ真っ先に書いてなきゃダメだろ」と浅野は笑う。僕には、バツが悪いときには決まって「たしかに」と答えてしまう癖がある。

「一応渡しといたから。誤字脱字ないかとかも、チェック頼むわ。まさかとは思うけどこれもなくすなよ」
 はははまさか、もう脱ぐものないし、と答えると、浅野は深い疲労の滲む苦みばしった表情で小さく笑った。もともとの顔がそうで、ただ息を吐いただけなのかもしれない。
「もし免許取れたらドライブ行こうぜ」
 冒頭部に軽く目を通していると、ふいに浅野はそんなことを言った。いつもならだれかから一方的に誘われて嫌々言いつつも、みたいなことが多い浅野なので、そのらしくなさを笑おうかとも思ったけど、ここで茶化すのはなしだなと思った僕は「いいね」とだけ言った。動揺なんて察されてはならない。
「それよりもはやく学ラン捜せや。いまはだいじょうぶてもすぐ寒くなるだろ」
「すでにじゅうぶん寒いんだぜ」
「うるせ。夕日ももう沈むよ。あっという間だから。高校の三年目と同じで」と急に浅野が言いだすので困る。
「なにそれ。先生たちのマネじゃん。一月は行く。二月は逃げる。三月は去る的な」
「違う。本当にそう思ったからそう言っただけ」
「ああ。ならごめん」
「謝られることでもない気がする」
「まあね」
「いいから早く捜せって」
「……冷たくしないでよう」と僕は細い声でひっそりつぶやいた。これは、中学のときに浅野と一週間だけ付き合っていたソフトテニス部の畠中さんが、最初で最後のデートの帰り道に呟いたといわれる伝説的な一言の真似だった。浅野の表情をチラリとうかがうと、陰のせいかみょうに黒みを帯びた浅野が、「おい」と言って表情を変えることなく僕の胸のあたりをグーでパンチした。目が真っ黒で鮫みたいに見えるので、僕はへこへこしながらやつの空き缶を受け取る。

「これ、捨てとくんで」

「あ。おねがい」と浅野はちょっとだけその場でモタモタして、それから「じゃあ行くよ。また」と校門に向かう。その背中を見送る僕は、とりあえずルーズリーフをズボンのポケットに押し込み、それからちょっとだけぼーっとしたあと、のっそり記憶をたどってみることにした。学ランについて。

 

 いや、そもそも僕はスマホを捜していたのだ。普段からズボンの左ポケットに入れていた僕だったが、基本的にイヤホンをつけていることが多いため、冬場はもっぱら幅の広い学ランのポケットに入れていた。なのでスマホがないことをきっかけに学ランがないことにも気づき、教室にいた人たちにも尋ねてみたものの出てこず、じゃあラインでみんなに呼びかけようかとまたスマホを捜した。

 

 この体たらくの理由として、ひとつに僕がここのところ、ただでさえすぐ腰を下ろしがちなこの脳みそを放任していたせいもある。もちろん卒業間近という環境に甘えることなく、最低限、授業はまじめに聞いているつもりだったのに、自習時間というものが圧倒的に増え、いままで読もうと思っていた小説なんかを消化していると、学校にいながらにして日曜の午後みたいな気分になってくるのだ。日曜の午後といえばオナニーなので、このままじゃ僕は休み時間にトイレでオナニーでもしてしまうんじゃないか? そんな懸念なのか欲望なのかもよくわからないものを感知して、苛まれる中、僕はついに学ランをなくすまでに落ちぶれてしまったらしい。

 

 寒っ。

 ひねり潰した空き缶をゴミ箱に投げ入れた。歩きながら胸を反らすと肩から乾いた音がする。校舎内に戻った僕は、いつもより遅めに歩きながら、自らの過失のほかにもいくつか想定してみる。例えばここんとこの僕がずっと「こんな感じ」であることを快く思っていない人がいて、例えばそれはサッカー部の清とかその下っ端の池田とか永野のことなんだけど、そういう人が僕の脱いだ学ランを持ち去った可能性だってゼロじゃない。僕だって疑いたくはない。しかしどうも清は僕のことを殺そうとしているらしかった。つってもそれは坂本から聞いた話でしかないし、信憑性で言えば一笑に付すことだってできないわけじゃないが、ひとつだけ心当たりのようなものがあるにはある。僕はこのまえ体育館のギャラリーにて女子バレー部の練習をみんなで眺めていたとき、文化祭における三組の劇の話になってつい
「でもあれは超きつかったな~」
「そう?」
「うん」
「え、どこが?」
「だってサッカー部が前に出たいだけの茶番だったから」
「ひで~」
「茶番だし、主役張るくせに声張らねえし。なんであそこでちょっとだけカッコつけんだよ。変だろ」
「ひで~」
「いいよもう、知らないよ、クソだよ! クソクソクソ! サッカー部はクソ!」
 と発言してしまい、それを坂本が別の場所でだれかに話し、三組の劇こと『MC HUJIKIYOと愉快な仲間たち』の主演を張った清の耳に届いてしまったらしかった。僕は別にあの劇に携わった人たちを不快にさせたくて発言したわけじゃないし、本当に思っていたことをその場の空気とかでやや露悪的に盛って喋っただけなのでこれは完全に吹聴した坂本が悪いと思っているのだが、とはいえ怒りの種を蒔いたことは事実なので、ああやだなあ、面倒くさいなあと思うのだった。
 サッカー部が犯人じゃありませんように。僕はそう願うのは、もし仮に本当にそうだった場合、こちらにできることなんてなにもないからだし、実際その可能性がすこぶる高いことも承知の上だからだ。清に限らず、ここんとこのサッカー部は本当に僕のことを殺そうとしている節があった。つい最近だって放課後の廊下を一人で歩いていると、サッカー部の永野が通せんぼするように立ちはだかったかと思うと、挨拶のように足で僕の足元を小突きながら、ぶつぶつ低い声でなにかを言い始めた。僕のハートはその状況に耐えうる強度を持っていなかった。趣旨がまったくつかめいので、僕も終わりを想像できない。僕より身長の低い永野相手に、その身長差を埋める配慮も含め、文字通り萎縮しながら少しずつ後退するほかなかった。
「おいコラ安藤」

「はい」

「おい、なあ、おいコラ安藤」

「はい、はい」

 永野も永野で、絡みはしたもののオチを用意している様子がなく、同じ言葉をイントネーションを変えながら連呼しているだけだ。二人組の女子が僕らを避けるように通り過ぎ、「え、え?」と声を潜めながら笑い合っていた。

「またな」

 満足気に立ち去る永野の後ろ姿を睨みつけながら考える。僕を見かけたらとりあえず襲撃する、というお達しのようなものが、知らないあいだにサッカー部内に流されているのだろうか? 僕自身の普段の行いが悪いせいもあるんだろうけども、とは思う。でもそれが暴力を肯定する理由足り得るかといえば違うでしょう? 彼らの野蛮な血の疼きをどうやれば鎮められるのか、その方法を僕は知らなかった。そもそも僕は清なんかとはあまり喋ったことがない。もし清が僕の発言に怒っているとして、それが実際どの程度なのか、どういう姿勢で臨めば許してくれるのかがまったく見当もつかないし、いたずらに不安だけが膨れ上がってしまう。いやでもやっぱり一番おかしいのは坂本あの野郎。なに勝手に喋ってんだよ。

 

 僕はだんだん腹が立ってきて、まずは七組へと向かう。あのインターネット野郎に学ラン捜索への協力を強制しようと思ったのだ。七組の黒板の前には福地がいた。
「福地くん、坂本のやつ見なかったかい?」
 黒板前にいた福地はピアノの発表会に嫌々立たされた少年のような、右肩が脱臼しているのではないかと思えるいびつな立ち姿で首を振った。部室かな? 僕は学ランがなくなった旨を福留に、まあでもたかが学ランがなくなっただけだ、と半ば自分に言い聞かせるようにして伝えた。
 なくなった、というか見失った?
 そんな気もするんだよなあ。
 そもそも学ランなんてものは学校にいる間ずっと目に入るようなものだし、家ですぐそこにあるリモコンを見つけられないとか、メガネを額にかけたままメガネメガネつぶやくような、後者はちょっと違う気もするけど、そんな感じで日常に訪れる魔の瞬間に飲まれただけなのかもしれないじゃん。それに学ランなんてものは拾ったところでラッキーとなる代物でもないので、たぶんふつうに返ってくるだろう。ポケットの中がコンビニのレシートだらけの他人の学ランなんて僕ならほしくない。最悪今日が無理でも明日、明日が無理でも明後日、明後日が無理でも……ってな感じで、譲歩に次ぐ譲歩で心に余裕ができた僕は、再び廊下をあてもなく進む。

 

 職員室前の廊下には掲示コーナーがあって、そこには先週催された球技大会a.k.a.三年生を追い出す会の写真が貼り出されている。まったく活躍しなかったどころか途中から部室のソファーで漫画を読んでいた僕だけど、だれか知ってる人の写真ないかなと探し始めたら止まらない。例えば町山さん。彼女は……いた。僕は町山さんを見つける能力に長けている。全校集会解散時の人混みの中でも僕はわりとすぐ町山さんを見つけることができる。彼女の容姿に関する多角的なデータが脳にインプットされているからだろう。すでに三枚ほど町山さんの写り込んでいる写真を発見した僕は、流れで浅野も見つける。後藤のなっちゃんのもあった。そんで中川とエルヒガンテのニコイチ・ビッチーズの写真を見つける。中川がその白くて長い腕を高く突き上げなにかを叫び、その隣でエルヒガンテがギュッと圧縮したようなその体躯を地上十センチほどのところで滞空させている写真だった。ふたりの日に焼けた赤い髪の毛まで、空気に押し上げられて蛸の足みたいに波打っている。

 最高じゃん、と僕は思った。こういう写真こそ、卒業アルバムに載っているべきなのだ。被写体である意識を持たず地面を蹴って跳ね上がっている、そんな一瞬を切り取られたという痛快さと、その痛快さにも勝る瑞々しさが交互に押し寄せ、僕はなんとも耐え難い気持ちからこのうえない無表情となった。

 

「おい」

 

 とつぜん声がして僕が表情そのままに振り返ると、呆れや蔑みの混じる鈍い色をその顔に浮かべた中川とエルヒガンテが背後に立っていた。僕は気づかれないようひっそりと表情を取り戻す。
「もしかしてだけど、心霊写真とかさがしてる?」
「暇やな~」
 その態度の一方で、僕の周囲は一気に甘い香りに包まれた。部活をやっているがゆえに高い意識を持っている女子特有の、シーブリーズっぽい香りだった。僕は彼女たちから距離を取るように、一歩脇に寄る。「まさか」
「あ、そこに立たないで。並んでるの見られたら恥ずかしいから」と後から来たくせに中川が言う。冬場に学ランを着ていないからバカ、ということになったのだろうか? 一応、彼女たちにも事情を説明すると、
「じゃあ早くさがせよ」
「見てて寒いんだよ」
「二つの意味で」
「やば。ほんと二つの意味で」
 とか言って自分らでニヤニヤしたかと思えば
「てかさ、たぶんあんたさ、やっぱ頭ちょっと変になってんじゃない?」
 とくる。懸念を突かれた動揺を隠しながら、やっぱってなんだよ、と僕が尋ねると、
「だってあんたここんとこずっと遊んでるでしょ」と中川は続ける。
「まだ進路決まってない人の気持ちとか考えたほうがよくない?」よくない? が語気もそのまま僕の中でリフレインする。
「だね。マジでそれ」とエルヒガンテ。
「あ、思い出した。そうそう、このまえこいつさ」
「うん」
「ベルトの後ろの方にトイレットペーパー挟んで廊下走ってた」
「は? きも、え、どういうこと?」
「やばいよね、わかんない……」
「きも……」
「しかもいつもの雑魚軍団とだし」
「ふきだまりの」
「安藤、ほんとなにしてんの?」
 僕は頭いっぱいに溜まった反論を整理する。まず、なにしてんの? に関して応えるとするのなら、僕は坂本たちとタグラグビーをしていたのだ。タグ代わりにトイレットペーパーをベルトに挟んでいただけで。あとそもそも、なにしてんの? じゃねえんだよ、と僕が思うのは、彼女らだって進路が決定して放課後を悠々過ごしている側だからだ。自分らのことは棚上げして説教垂れんじゃねえよと思う僕だが、これは売り言葉に買い言葉、言われていることの正しさは痛感しているし、胃も痛くなってきた。
 仮に僕が進路未定組だったとしよう。不安と焦りで鬱々としているところで、廊下をバカが全力疾走しているのを見たら何を思うだろう? 殺したくなるのかもしれないし、さすがにそれは実行できなくとも、そいつの持ち物くらいなら燃やしてやるかもしれない。僕は一年ほど前に軽音楽部との関係が悪化した際、文芸部の特攻部隊で大事な機材の破壊を試みかけたことがあった。実際は弁償のこととかを考えて二の足を踏んだ末に白けちゃったのだけど、学ランくらいならほどほど高くて、ほどほど弁償できる感じがある。だから学ランを盗むくらい誰にだってやれそうだ。そしてそうなると、容疑者は三年生全員、いや全校生徒ということにもなりかねないので、僕の胸はゴリゴリと摩耗し、ついには呼吸さえ忘れかける。
 そんなふうに鬱々としている間にも、ふたりは写真を眺めている。それから「あんたのはないね」と、練習した台詞のように勢いよく言い切った。いやなんでだよ、この後頭部は僕だろ。指差す僕を無視し、冗談はさておき、みたいな抑揚のない声で中川が言った。
「でも安藤あんたさ」
「なに」
「学ランはないとヤバくない? 卒業式とか」
「なんで?」
「だってそうでしょ。一人だけシャツで出席ってたぶん無理だよ」
「バカっぽいから?」
「いや、式だもん」とエルヒガンテ。
「最悪帰されると思う」
 え、急になんだよ。彼女らの説得力にたじろぐ僕は手脚になぞの倦怠感を覚えるが、それを察したのか、エルヒガンテがあごをしゃくる。

「だからいまちゃんと探しとけって」

 たしかにそうだ。

「ありがとう。事の重大さにいま気づいた」
「今でよかったじゃん」と中川。
「たしかに」
「もしうちらもそれっぽいの見つけたら教えるわ」とエルヒガンテ。
 え。僕は彼女の炊飯ジャーのような顔と向き合い「戸田さん」と言った。彼女の名前は、戸田セリナといったし、当然のように、エルヒガンテという呼称は本人に面と向かって放ったことなどない。
 彼女は「ん?」と下唇を突き出し、わずかな隙間からやけに細かい下の前歯をのぞかせた。
「ありがとう」
「うん」
「中川も」
「わたしは教えないよ」
「教えろよ」
 ということで僕は自分のラインIDを伝えようとする。すると中川が「そんなの知ってるわ」と制するので、まあそうかと思う。この三年間、同じ学び舎で過ごしてきたのだ。僕らの間には、ちゃんとそれだけの時間が流れている。
 僕はもう一度言う。
「ありがとう」
 そういえばスマホも一緒になくしたんだということは、あとになって思い出した。

 

 式に参加できないのはまずかった。後々話のネタにできるとか、そういう風に思えないのは僕が今を生きているからにほかならない。後々のことは後々の僕のものでしかない。よって、いまは学ランの捜索に心血を注がなければならない。
 ということで職員室にて現文の渡部先生に学ランの落し物はありませんでしたかと馬鹿正直に聞いてしまった僕は、ここでもまた気のゆるみをブスブス突かれたあと、部室の掃除もちゃんとしろとバリトンボイスで命じられ、いそいそおいとまする羽目となった。どうも学ランの話は渡部先生には残らなかったみたいで、結果として説教を受けただけで終わってしまったわけだ。僕が腑に落ちなさを噛み締めながら職員室を出ると、そこで野球部の照本肇と鉢合わせた。その小脇には大学ノートが挟まれていて、話を聞くと、提出物を遅れて出しにきた、と照本は敬礼した。僕もほぼ同じタイミングで敬礼していた。
 照本肇と僕はニ年の後半から同じ予備校に通っていて、授業をサボって同じファストフード店に入り浸っているうちに仲良くなった。なので言葉を交わすようになったのもここ半年くらいの話なのだけど、
「学ランなくすやつ初めて見た!」
 と体をくの字に折って膝に手を付く照本を見ていると、僕はこの悲壮感のなさが好きなんだな、としみじみ思う。
「そうはいっても、ことは結構深刻なんだよ照本氏」
「あ! そうかそうか! ごめんごめん!」
「いやぜんぜん。でもどっかで怪しい学ラン見つけたら教えてよ。といってもスマホも一緒になくしたんだけどさ」
「やば。じゃあどうやって教えりゃいいの?」
「おれの教室に持ってきてくれるとか、あと文芸部の部室に届けるとかしてくれたらありがたいけど、まあそこまでしなくてもいいや。したいようにしてよ」
「なんだそれ。でも了解!」
「よろしくお願いします!」
 執拗な敬礼の応酬をへて一通り満足したあと、僕は「それじゃまた」とあてもなく歩き出す。が、間髪入れず背後からは照本の声。
「そういえば、安藤! 坂本が探してたぜ!」

 

 物事がようやく動き始めた気がした。
 僕は早速自分のクラスに戻ってみる。そこには加藤と野球部の山之内がまだいて、僕の机でオセロをしていた。
「まだ見つからない?」と加藤が言うので僕は自分の白いシャツを指差す。
「だるいな」
 誰よりも僕がそう思っていることを山之内が言ってくれる。坂本がおれのことさがしてるって聞いたんだけど……そう言うと加藤は「そうなんだ」と言った。
 うん、そうらしいよ。
 スマホがないだけでこんなに不便なのかと思う僕は、加藤にお願いして坂本に連絡をとってもらうことにした。電話をかけても出ないらしいので、ラインでメッセージを残してもらう。あとは部室で待機してりゃあやつはくるだろう。ちょっとした安堵からすぐさま動く気にもなれずにいた僕が、ゴリラのように隆起した山之内の肩を揉んでいると
「あ、そうだ」
 加藤がかばんに手を入れ
「気休めかもだけど、これ使う?」
 差し出されたのは紺色のマフラーだった。
「え、いいの? ほんとに?」と受け取ったマフラーを首に巻くと、柔軟剤のいい香りが顔のまわりに広がったので「ありがとう。これいいマフラーだね。なんか女子っぽい匂いがするところとか」とふざけて言うと、「それ妹のだから」と冗談ともつかない態度で加藤が答える。ははは。え? まじ? え? え? ほんと? あの? 加藤の妹といえば、妙に大人びた顔立ちをしていることから、坂本にジュニアアイドル呼ばわりされている美少女だった。加藤に似て目が大きく、やや浅黒かったが、鼻が高かった。ということはあの妹ちゃんと間接首タッチになるわけか。それがどう色っぽいのかはよくわからないけど、加藤のことをお義兄さんとふざけて呼ぼうか迷って、やめた。加藤の気持ちを想像してみたのだ。
「恩に着ます」
「いいって」
「妹さんにも、ありがとうと」
「オッケー」
 そんじゃちょっとだけ使わせて、と踵を返し廊下に出ようとすると、教室に入ってこようとする国生まりえと鉢合わせた。

「わっ」

「すみません!」

「安藤くんじゃん~ふふふ」

 と体をくねらせる彼女を間近にしていると、僕はその色香にむせ返りそうになる。
「どうしたの国生さん」
「そっちこそどうしたのそれ」と僕に向けた人差し指を上下に動かす彼女は帰り支度を済ませた格好で、暖かそうなカーディガンを着ているが、これまた妙にシルエットが浮き立つカッティングのもので、なぜそれを買ったのか、色っぽいことにためらいを持つのは、やはり西洋から持ち込まれた価値観なのか、と僕はつい考えてしまう。
「もしかしていじめられてる?」
 冗談っぽく声を潜めた国生さんの言葉に、一瞬だけ清の顔が脳裏をかすめる。わかんないけど、学ランはたぶん自分でなくしたと思うから、いじめではないよ。たぶん。いや、たぶんだけど。
「冗談だよ。てかなくしたんだ。えー寒そう」
「寒いね」
「だよね。いっしょに捜してあげようか? ちなみに安藤くんの学ランってどんなやつ?」
 どんなやつってああいう学ランだよ、と周囲の男子を示しながら答えると、国生さんは「そりゃそうか」と一人で五秒くらい笑った。もし見つけたら教えてよと頼みかけた僕だったが、あれ? もしかして加藤? と後ろを指させば
「そう、ごめん。いまからいっしょに帰るんだ」
 そうなんだ。
「加藤~」と僕が呼べば、わかってるといった態度で加藤が手を挙げ、その向いに座る山之内が勢いよく盤をひっくり返すのが見えた。
 やたらと換気をうたう社会科の八重子教諭の手によって、廊下の窓は一枚間隔で全開にされているのだが、マフラーによって首の動脈が守られたことにより、先程までの凍えは感じない。その温もりからも改めて考えるに、当たり前のように優しいところが加藤のすごいところだと思う。山之内に盤をひっくり返されても、一番楽しそうに笑っているのが加藤だった。カラっとしている。たぶんみんな彼のそういうところが好きだと思う。そもそも顔がいい。それも人のよさが前に出ているタイプのイケメンで、どこかぼんやりした印象があって、一緒にいてもそれほど割を食うことがなかったし、普段は大人しいくせに口を開けば大好きなルパン三世の同人誌のラストシーン(銭形がルパンの後追い自殺をするやつ)とか、サッカー部のキーパーを務める「タートルズの豚」こと森永拓司の言動についての話しか飛び出さないので、積極的にモテることもなかった。たしかに色っぽくはなりにくい感じはある。とはいえ、加藤のそういう、顔のよさにかこつけて甘い汁を吸っていないところも僕らからすれば気持ちのいい男なのだ。たぶんこのマフラーに関してもそうなのだけど、異性のきょうだいがいる人特有の余裕なのかもしれない、なんて僕らは普段から分析しているが、本当のところはわからない。
 国生まりえとは昨年末から付き合っている。
「このあとデート?」と僕が聞けば、目を細めた国生さんは左右に首を振る。
「いっしょに帰るだけだよ」
「でもそれはデートじゃないの?」
「安藤くん、デートはまた別なんだよ」
 むず。
 ちょっと前までの加藤は、放課後になると僕や山之内なんかと一緒に無人の教室に忍び込んではみんなの体育館シューズを片方ずつシャッフルしたり、黒板に好きなアニソンの歌詞を書いては消したりを繰り返していたのだが、その一部始終をたまたま見ていた国生まりえはどういうわけか恋をした。そんで加藤もその想いに応えた。加藤に聞いてみたところ、国生まりえは「話しやすい」とのことだった。彼女は理数系クラスの数少ない女子のひとりであり、普段の言動がややがさつなせいで一見スルーされがちだったが、よくみりゃ眠そうな目をした色っぽい顔をしていると一部の男子の間では評判だった。その一方で、面食いなことでも有名だった。加藤はカッチリしていないところがあるとはいえ、告白したのが国生さんの方からだということは、たぶん卒業後も関係を継続しようとの目論見があったのではないかと有識者の間では囁かれていた。加藤みたいな男はどうせ卒業したあとこそどんどん垢抜けていくのだから、先見の明がある人間からすればどうみたって逸材のはずだ。たぶん。僕らにそう説いたのはなっちゃんだった。「女ってそういうとこクソだよな」と坂本が言っていたのを覚えている。
「マフラーは借りてていいよ」
 僕は加藤が最初からそう言ってくれることをあてにしていたものの、え! いいの? と大きな声で言った。加藤にはバレてた。並んで廊下を歩いていくふたりの後ろ姿を手を振って見送っていると、ふいに一人残された山之内が僕のすぐそばまで来て、「あのふたりもうやったのかな」と言った。やったってなにを? あ、セックスのことか。僕は想像しかけてすぐやめて、まだだろ、と答えはしたものの、もちろん根拠なんてなく、やってたらどうしようとちょっとだけ胸が騒いだ。やってても別にいいんだけど、妙な割り切れなさが残るのも確かで、この感情の名前を僕は知らない。
「ちなみに焼肉にいっしょにいくカップルはもう絶対やってるらしいよ」
 と前にも何度か聞いたことのある話を山之内がする。

「じゃあ今度あのふたりに焼肉行ったか聞くしかないじゃん」と僕は答えた。

 

 山之内と硬い握手を交わして別れたあと、部室棟へとつづく二階渡り廊下でたまたますれ違ったサッカー部の池田に腹を殴られた僕は、いろいろ考えた末にサッカー部の犯行説を取り消すことにした。というのも池田は、シャツにマフラー姿の僕を見てただのおどけたバカだと認識したっぽかったし、立ち去り際に「見つかるといいな」なんて舐めたこと言っていたからだ。
「なんならいっしょに捜すか?」
「いや、いいです」
「捜すわけねえだろザコ! 殺すぞ!」
 ギャハハ! と立ち去る池田の背中を睨みつけるのにはいくつかの理由がある。もちろん単純にされたことへの嫌悪憎悪殺意はもちろんとして、そのときの僕がなにより困ったのは、池田に絡まれへらへらやり過ごそうとするその様をあの町山りおに見られてしまったということだ。それこそ僕は犬のようにクンクン言いながらあの池田なんぞに愛想笑いをふりまき、あろうことか、歯茎から血の出る思いだが、何度も頭を下げたのだ。それは最も客観視したくない自分だった。
 町山さんは渡り廊下の手すりに両腕をのせながら運動場を眺めていたらしくて、茜色の空からは吹奏楽部の演奏音が降り注いでいた。殴られた際の僕のうめき声は誰にも届かずかき消された点は幸いだったものの、結局池田は馬鹿なので声量が異常で、それが届いたのか、耳のイヤホンを外してコードを畳みながらゆっくり歩いてくる彼女を見た僕は、いや、ああいうコミュニケーションだから、しょっちゅうやられてるぶん腹筋鍛えられてるし……という異様な態度で目を伏せ背筋を伸ばしてみせた。馬鹿らしすぎるが、切実なのだ。彼女のほうも、やや俯きながら僕のすぐそばを通り過ぎた。小さく会釈された気もしたけど、僕は振り返ることすらできずそのまま歩き続けた。
 この風はきっと北からのものだ。
 目を細めながら、さっきまで町山さんがいたあたりの手すりに両腕をのせて運動場を見やる。夕暮れどきの運動場を眺める時間は最高だと思う。特にこの部室棟から伸びる渡り廊下は吹奏楽部によるBGMつきということ、かつ部室からすぐの場所ということもあって、煮詰まった……じゃなくて行き詰まったときなんかは、僕もよく運動場を眺めたりしていた。風に目を細めながら思うのは、町山さんはなにをしていたのだろうか? ということだった。もしかして、彼女もなにかに行き詰まったりしていたのだろうか?

 

 マフラーを巻き直し、乱れたシャツの裾をベルトの内側に押し込んだ僕は、ポケットのなかでぐしゃぐしゃになった浅野の原稿に気づいて慌てて取り出した。風に飛ばされないよう、その場にしゃがみこんでしわを伸ばし、なんとなく目に入った冒頭から再度通読する。文字を目で追っていると、目薬をさしたときのように脳みそが艶を帯びていく感覚になって、深い鼻息が漏れた。

 

 

 

 

 

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