書き下ろし短編:『式では泣かないタイプです』【前編】

 

16:00~

 

 

 ホームルーム終了後に現れた加藤たちと教室の後ろの方でまんこからピーナッツを飛ばすおばさんの話をしていたら、すぐ近くを女子バレー部の若本紅愛が通りかかったので違う話に変えた。僕の学ランが消えた話だ。もともとはこちらが本題だった。


 学ランが消えたのは全国的にインフルエンザが猛威を振るう真冬のある日のことで、にしてはまあまあ気温が高かった。僕は体育のサッカーでゴール前を守りながら、浅野とふたりでオナニーするときどんなリズムでしごくのかという話をしていた。
「コンプレックスのビーマイベイベーと同じリズムだよ」と僕が言うと、「ビーマイベイベーで一往復?」と浅野はジェスチャー付きで尋ねる。
「ちがう、ビーマイで一。ベイベーで二、いやもうちょっと早いかも。ビーマイベイベービーマイベイベー……ああ、違うなやっぱ。ビーマイベイベー忘れて」
「ちなみにどっちの手でしてる? おれ右」
「あ、それはおれ左」
「でも右利きだろ?」
「だけど、左」
「なんで? やっぱりいいの?」
「ていうか右手でスマホ持ってやるから左手しか空いてない」
「おけばよくない?」
「寝そべるのが好きなんだ」
「あ、横になるタイプか」
「そうそう。仰臥位だけど」
「なにそれ、ギョウガイって」
「あ、あおむけのこと」
「じゃあそう言えばいいのに」
「そうだけど、いや、そうだね。ごめん」
「なんでわざわざ難しい言葉使うんだよ」
「や、そうなんだよ。自分でもよくそのことについて考えるんだけど、そういうところがあるんだおれ」
 とそこで不意にボールが転がってきて、反射的に動けた僕は思いきり蹴り返すことに成功した。風は肌寒かったが空からは暖かな日が射していて、砂埃とともに宙で軌道を変える頼りないボールを細めた目で追った。ずりーなあと浅野は漏らし、僕は僕のついカッとなって、といった衝動をちょっとだけ誇らしく思った。素早い蹴りとその手応え。及び浅野の羨望も手伝ってか、気が大きくなっていたのかもしれない。
 僕は最後に学ランを脱いだのがいつどこでどんな状況だったのか、なにも覚えていないのだ。

 

「がんばれ」と浅野は言う。なんでい、捜すの手伝ってくれないのか、と思う僕にやつは「おれ教習所」と続けて言った。
 ピロティーのベンチに腰掛ける僕らは、冷たい風に吹かれながら冷たいエナジードリンクを飲み、さっむ~と繰り返していた。免許どう、取れそう? 尋ねる僕に浅野は「まあまあ。大阪行くまでにはなんとか」と、遠くを眺めながら、下唇をとがらせていた。かわいこぶっているわけではないと思う。一方で寒さに腕を組む僕は、教習所にはいつごろから通おうかなと考えていた。いまから通い始めたところで四月に間に合うかはわからない。それに今はどちらかというと免許よりも遊ぶ時間がほしいので、ギリギリまで通うのも気分じゃないのだった。という結論は昨年末から何度も出ているが、同じことをまた一から何度も考えてしまうのだ。
 そういう病気ってなにかあったっけ?
「あ、そうだ」と浅野がリュックに手を入れ、筒状に丸められたルーズリーフの束を取り出す。
「書いてきたぜ」
 僕は初め、なんだこれは、と思った。受け取って開いてそこにタイトルが記されているのを見てようやく納得する。それはあまりにも早すぎる提出だった。
 文集用原稿の募集をかけたのは一昨日のことだ。僕が部室で坂本と直立のまま向き合って、互いの隙を突いて股間を攻撃し合っていたのだが、坂本から強烈な一撃をもらって膝をついたその瞬間にふと、例年行ってきた「卒業文集」を今年も作らなければならないことを思い出した。昨年の卒業文集のあまったやつが、ソファーの脇に積まれているのが目に入ったからだ。
「お、戯曲?」
 そう聞くと浅野はやや遠慮がちに肯いた。戯曲という言葉にまだ親しみがないからだ。僕も一年のころまではそもそも戯曲という言葉を知らなかったし、いまでも油断すると「コント」と呼んでしまうのだが、それじゃ厳密じゃないしカッコがつかない。まずはカッコから入ろうと、戯曲、随筆、小説と大まかに分けて呼ぶようにしていた。
 僕がこの作品が一番乗りであることを伝えると、「おまえこそ真っ先に書いてなきゃダメだろ」と浅野は笑う。
「一応渡しといたから。誤字脱字ないか、チェック頼むね。まさかとは思うけどこれもなくすなよ」
 だいじょうぶ、もう脱ぐものないし、と答えると、浅野は深い疲労の滲む苦みばしった表情で小さく笑った。ただ息を吐いただけなのかもしれない。
「もし免許取れたらドライブ行こうぜ」
 冒頭部に軽く目を通していると、ふいに浅野はそんなことを言った。いつもならだれかから一方的に誘われて嫌々言いつつも、みたいなことが多い浅野だ。らしくなさを笑おうかとも思ったけど、ここで茶化すのはなしだなと思ったので「あはは、いいね」と僕。
「それよりも学ラン捜せば。いまはだいじょうぶてもすぐ寒くなるだろ」
「すでにじゅうぶん寒いけどな」
「アホだ。夕日が沈むのはめちゃくちゃ早いんだぜ。高校の三年目があっという間だったみたいに」と急に浅野が言いだす。
「なにそれ先生たちのマネじゃん。一月は行く。二月は逃げる。三月は去る的なあれ」
「違う。本当にそう思ったからそう言っただけ」
「そうか。なら、ごめん」
「謝られることでもない気がする」
「そうか」
「いいから早く捜せや」
「冷たくしないでよう」と僕は中学のころ浅野に告白し、一週間で別れを告げたソフトボール部の女子が最初で最後のデートの帰り道に呟いた伝説的な一言の真似をした。表情を変えることなく僕の胸のあたりをグーで打ち付けた浅野は、じゃあな、と立ち上がり、小走りで校門に向かう。その背中に敬礼する僕は、とりあえずルーズリーフをズボンのポケットに押し込み、それからちょっとだけぼーっとしたあと、のっそり記憶をたどってみることにした。

 

 そもそも僕はスマホを捜していたのだ。普段からズボンの左ポケットに入れていた僕だったが、基本的にイヤホンをつけていることが多いため、冬場はもっぱら幅の広い学ランのポケットに入れていた。なのでスマホがないことをきっかけに学ランがないことにも気づき、教室にいた人たちにも尋ねてみたものの出てこず、じゃあラインでみんなに呼びかけようかとまたスマホを捜した。

 

 この体たらくの理由として、ひとつに僕がここのところ、ただでさえすぐ腰を下ろしがちなこの脳みそを放任していたせいもある。もちろん卒業間近という環境に甘えることなく、最低限、授業はまじめに聞いているつもりだったのに、自習時間というものが圧倒的に増え、いままで読もうと思っていた小説なんかを消化していると、学校にいながらにして日曜の午後みたいな気分になってくるのだ。日曜の午後といえばオナニーだ。このままじゃ僕は休み時間にトイレでオナニーでもしてしまうんじゃないか? そんな懸念なのか欲望なのかもよくわからないものを感知して、苛まれる中、僕はついに学ランをなくすまでに落ちぶれてしまったらしい。
 
 いや、寒。
 ひねり潰した空き缶をゴミ箱に投げ入れつつ校舎内にかけこんだ僕は、自らの過失のほかにもいくつか想定してみる。例えばここんとこの僕がずっと「こんな感じ」であることを快く思っていない人がいて、例えばそれはサッカー部の清とかその下っ端の池田とか永野のことなんだけど、そういう人が僕の脱いだ学ランを持ち去った可能性だってゼロじゃない。僕だって疑いたくはない。しかしどうも清は僕のことを殺そうとしているらしかった。つってもそれは坂本の言ったことでしかないし信憑性で言えば一笑に付すことだってできないわけじゃないが、ひとつだけ心当たりのようなものとして、僕はこのまえ体育館のギャラリーにて女子バレー部の練習をみんなで眺めていて、文化祭における三組の劇の話になったときに
「でもあれは超きつかったな~」
「そう?」
「うん」
「え、どこが?」
「だってサッカー部が前に出たいだけのクソじゃん」
「ひで~」
「クソだろ。なんだよあの初めっから女子ウケだけを狙った配役とだせえ演技は」
「ひで~」
「クソだよ! クソクソクソ! サッカー部はクソ!」
 と発言してしまい、それを坂本が別の場所でだれかに話し、三組の劇こと『ジャック・スパロウと愉快な仲間たち』の主演を張った清の耳に届いてしまったらしかった。僕は別にあの劇に携わった人たちを不快にさせたくて発言したわけじゃないし、本当に思っていたことをその場の空気とかでやや露悪的に盛って喋っただけなのでこれは完全に坂本が悪いと思っているのだが、とはいえ怒りの種を蒔いたことは事実なので、ああやだなあ、面倒くさいなあと僕は思うのだった。
 サッカー部が犯人じゃありませんように。僕はそう願うのは、もし仮に本当にそうだった場合、こちらにできることなんてなにもないからだし、実際その可能性がすこぶる高いことも承知の上だからだ。清に限らず、ここんとこのサッカー部は本当に僕のことを殺そうとしている節があった。つい最近だって放課後の廊下を一人で歩いていると、サッカー部の面々が通せんぼするように周囲を囲んだかと思うと、挨拶のように太ももに蹴りを入れながらラップのフリースタイルで言うところのサイファーを始めた。みんながみんな韻もフロウもなっちゃいないワックな三流フリースタイルだったが、その中の池田が最後の方で
「おいコラ安藤マジ言動、わきまえとけよその限度」
 と元々高めだった声を低く轟かせ、廊下を行き交う女子に色目を使いながらのそのパンチラインを締めにフリースタイルをなあなあに終わらせた。肝が冷えるとはあのことだ。僕を見かけたら囲んで襲撃する、という不文律のようなものが、知らないあいだにサッカー部内に確立されていて、それこそなんだっけ、これはあれにとても近い、あれあれ……ああ、またなにも浮かんでこないのでそれは置いとくとして、僕自身の普段の行いが悪いせいもあるんだろうけども、とは考える。でもそれが暴力を肯定する理由足り得るかといえば違うでしょう? 彼らの野蛮な血の疼きをどうやれば鎮められるのか、その方法を僕は知らなかった。そもそも僕は清なんかとはあまり喋ったことがない。もし清が僕の発言に怒っているとして、それが実際どの程度なのか、どういう姿勢で臨めば許してくれるのかがまったく見当もつかないし、いたずらに不安だけが膨れ上がってしまう。いやでもやっぱり一番おかしいのは坂本あの野郎。なに勝手に喋ってんだよ。

 

 僕はだんだん腹が立ってきて、まずは七組へと向かう。あのインターネット野郎に学ラン捜索への協力を強制しようと思ったのだ。そこには福地がいた。
「おっす。坂本いない?」
 黒板前にいた福地は嫌々ピアノの発表会に立たされた少年のような、右肩が脱臼しているのではないかと思えるいびつな立ち姿で首を振った。部室かな? 僕は学ランがなくなった旨を福地に、まあでもたかが学ランがなくなっただけだ、と半ば自分に言い聞かせるようにして伝えた。
 なくなった、というか見失った?
 そんな気もするなあ。
 そもそも学ランなんてものは学校にいる間ずっと目に入るようなものだし、家ですぐそこにあるリモコンを見つけられないとか、メガネを額にかけたままメガネメガネつぶやくような、後者はちょっと違う気もするけど、そんな感じで日常に訪れる魔の瞬間に飲まれただけなのかもしれないじゃん。それに学ランなんてものは拾ったところでラッキーとなる代物でもないので、たぶんふつうに返ってくるだろう。ポケットの中がコンビニのレシートだらけの他人の学ランなんて僕ならほしくない。最悪今日が無理でも明日、明日が無理でも明後日、明後日が無理でも……ってな感じで、譲歩に次ぐ譲歩で心に余裕ができた僕は、ふらふら校内を徘徊する。

 

 職員室前の廊下には掲示コーナーがあって、そこには先週催された球技大会a.k.a.三年生を追い出す会の写真が貼り出されている。まったく活躍しなかったどころか途中から部室のソファーで漫画を読んでいた僕だけど、だれか知ってる人の写真ないかなとまじまじ眺めてみる。例えば町山さんとか。浅野はいた。後藤のなっちゃんのもあった。そんで中川とエルヒガンテのニコイチ・ビッチーズの写真を見つけた僕は、そいつをまじまじ眺めてみる。中川がその白くて長い腕を高く突き上げなにかを叫び、その隣でエルヒガンテがギュッと圧縮したようなその体躯を地上十センチほどのところで滞空させている写真だった。ふたりの日に焼けた赤い髪の毛まで、空気に押し上げられて蛸の足みたいに波打っている。

 いい写真だなと思った。こういうやつこそ、卒業アルバムに載っているべきだとすら思う。ただでさえ大きな目をさらにでかく編集するような自意識の化物たちが、被写体である意識を持たず地面を蹴って跳ね上がっている、そんな一瞬を切り取られたという痛快さと、その痛快さにも勝る瑞々しさが交互に押し寄せ、僕はなんともエモい気持ちになった。
「おい」
 とつぜん声がして僕が短く声を上げると、呆れや蔑みの混じる鈍い色をその顔に浮かべた中川とエルヒガンテが背後に立っていた。ご本人登場をやられたのだ。
「もしかしてだけど、心霊写真とかさがしてる?」
「暇やな~」
 その態度の一方で、僕の周囲は一気に甘い香りに包まれた。部活をやっているがゆえに高い意識を持っている女子特有の、シーブリーズっぽい香りだった。僕は彼女たちから距離を取るように、一歩脇に寄る。「びっくりした。なわけあるかい」
「あ、そこに立たないで。並んでるの見られたら恥ずかしいから」と後から来たくせに中川が言う。冬場に学ランを着ていないからバカ、ということになったのだろうか? 僕が彼女たちに事情を説明すると、
「じゃあ早くさがせよ」
「見てて寒いんだよ」
「二つの意味で」
「ぶぶ、ほんと二つの意味で」
 とか言って自分らでニヤニヤしたかと思えば
「てかさ、たぶんあんたさ、やっぱ頭ちょっと変になってんじゃない?」
 とくる。懸念を突かれた動揺を隠しながら、やっぱってなんだよ、と僕が尋ねると、
「ここんとこずっと遊んでるでしょ」
「ね。まあいいんだけど別に」
「そうそう。たださ。まだ進路決まってない人の気持ちとか考えたことある?」
「だね。マジでそれ」
「あ、思い出した。そうそう、このまえこいつさ」
「え、なに」
「ベルトの後ろの方にトイレットペーパー挟んで廊下走ってた」
「は? きも、え、どういうこと?」
「わかんない……」
「きもー」
「しかもいつもの雑魚軍団とだし」
「ふきだまりの」
「安藤なにしてんの?」
 なにしてんの? じゃねえんだよ、と僕が思うのは、彼女らだって進路が決定して放課後を悠々過ごしている側だからだ。棚上げして説教垂れんじゃねえガッデム・ビッチどもと思う僕だが、これは売り言葉に買い言葉、言っていることの正しさは痛感しているし、胃も痛くなってきた。
 想像することは大事だ。
 例えば僕が進路未定組だったとしよう。不安と焦りで鬱々としているところで、廊下をバカが全力疾走しているのを見たら何を思うだろう? 殺したくなるのかもしれないし、さすがにそれは実行できなくとも、学ランくらいなら燃やしてやるかもしれない。僕は一年ほど前に軽音楽部との関係が悪化した際、文芸部の特攻野郎どもで大事な機材の破壊を試みかけたことがあった。実際は弁償のこととかを考えて二の足を踏んだ末に白けちゃったのだけど、学ランくらいならほどほど高くて、ほどほど賠償できる感じがある。だから学ランを盗むくらい誰にだってやれそうだ。そしてそうなると、容疑者は三年生全員、いや全校生徒ということにもなりかねないので、僕の胸はゴリゴリゴリと萎縮し、ついには呼吸さえ忘れさせる。
 なんて鬱々としている間にふたりは写真を眺め始めている。それから「あんたのはないね」と言い切った。いやなんでだよ、この後頭部は僕だ。指差す僕を無視し、冗談はさておき、みたいな抑揚のない声で中川が言った。
「でも安藤あんたさ」
「うん」
「学ランはないとヤバくない? 卒業式とか」
「それはなぜ?」
「だってそうでしょ。一人だけシャツで出席ってたぶん無理だよ」
「バカっぽいから?」
「いや、式だもん」とエルヒガンテ。
「最悪帰されると思う」
 急になんだよ。彼女らの説得力にたじろぐ僕はまた別の意味で泣きたくなるが、それを察したエルヒガンテが「だからいまちゃんとさがしときな」と言いながらあごをしゃくる。
「たしかにそうだわ。事の重大さにいま気づいた」
「今でよかったじゃん」と中川。
「ああ、うん。ありがとう」
「もしうちらもそれっぽいの見つけたら普通に教えるわ」とエルヒガンテ。
 僕は彼女の炊飯ジャーのような顔と向き合い「戸田さん」と言う。彼女の名前は、戸田セリナといったし、当然のようにエルヒガンテという呼称は本人に面と向かって言ったことはない。
 彼女は「ん?」と下唇を突き出し、わずかな隙間からやけに細かい下の前歯をのぞかせた。
「ありがとう」
「うん」
「中川も」
「いやわたしは教えないよ」
「教えろよ」
 僕は自分のラインIDを伝えようとする。すると中川が「そんなの知ってるわ」と制するので、まあそうかと思う。この三年間、同じ学び舎で過ごしてきたのだ。僕らの間には、ちゃんとそれだけの時間が流れている。
 僕はもう一度言う。
「ありがとう」
 そういえばスマホも一緒になくしたんだということは、黙っておいた。

 

 式に参加できないのはまずい。後々話のネタにできるとか、そういう風に思えないのは僕が今を生きているからにほかならない。後々のことは後々の僕のものでしかない。よって、いまは学ランの捜索に心血を注がなければならない。
 ということで職員室に向かい現文の渡部先生に学ランの落し物はありませんでしたかと馬鹿正直に聞いてしまった僕は、ここでもまた気のゆるみをブスブス突かれたあと、部室の掃除もちゃんとしろとバリトンボイスで命じられ、いそいそおいとまする羽目となった。どうも学ランの話は渡部先生には残らなかったみたいで、結果として説教を受けただけで終わってしまったわけだ。僕が腑に落ちなさを噛み締めながら職員室を出ると、そこで野球部の照本肇と鉢合わせた。その小脇には大学ノートが挟まれていて、話を聞くと提出物を遅れて提出にきた、と照本は敬礼した。僕もほぼ同じタイミングで敬礼していた。
 照本肇と僕は三年の頭から同じ予備校に通っていて、授業をサボって同じファストフード店に入り浸っているうちに仲良くなった。なので言葉を交わすようになったのもここ半年くらいの話なのだけど、
「学ランなくすやつ初めて見た!」
 と体をくの字に折って膝に手を付く照本を見ていると、僕はこの悲壮感のなさが好きなんだろうな、と思う。
「ことは結構深刻ですぞ照本氏」
「あ! そうだったのか! ごめんごめん!」
「いやいやぜんぜん。でもどっかで怪しい学ラン見つけたら教えてよ。といってもスマホも一緒になくしたんだけどさ」
「じゃあどうやって教えりゃいいんだ」
「おれの教室に持ってきてくれるとか、あと文芸部の部室とかしてくれたらありがたい! もしあったらでいいから! もしあったらで!」
「了解!」
「ありがとう!」
「了解!」
 執拗な敬礼の応酬を経て一通り満足したあと、僕は「それじゃまた」とあてもなく歩き出すが、「あ、そういえば安藤」と背後から照本の声。
「坂本が探してたぜ」

 

 物事がようやく動き始めた気がした。
 僕は早速自分のクラスに戻ってみる。そこには加藤と野球部の山之内がまだいて、僕の机でオセロをしていた。
「まだ見つからない?」
「だるいな」
 誰よりも僕がそう思っていることをふたりは言ってくれる。坂本がおれのことさがしてるって聞いたんだけど……そう言うと加藤は「そうなんだ」と言った。
 うん、そうらしいよ。
 スマホがないだけでこんなに不便なのかと思う僕は、加藤にお願いして坂本に連絡をとってもらうことにした。電話をかけても出ないらしいので、ラインでメッセージを残してもらう。あとは部室で待機でもしてりゃやつはくるだろう。ちょっとした安堵からすぐさま動く気にもなれずにいた僕が、ゴリラのように隆起した山之内の肩を揉んでいると
「あ、そうだ」
 加藤がかばんに手を入れ
「これ使う?」 
 差し出されたのは紺色のマフラーだった。
 受け取ったマフラーを首に巻くと、柔軟剤のようないい香りが顔のまわりに満ちたので「なんか女子っぽい匂いがするよ」とふざけて言うと、「それ妹のだから」と冗談ともつかない態度で加藤が答える。え? それはまじ? え? え? ほんとなの? あの? 加藤の妹といえば、妙に大人びた顔立ちをしていることから、坂本にジュニアアイドル呼ばわりされている美少女だった。加藤に似て目が大きく、やや浅黒かったが、鼻が高かった。ということはあの妹ちゃんと間接首タッチになるわけか。それがどう色っぽいのかはよくわからないけど、加藤のことをお義兄さんと呼びたい欲の高まりは感じる。
「恩に着ます」
「いいって」
「妹さんにも、ありがとうと」
「ああうん。いやそれいる?」
 いらないね、そんじゃ借りてきます、と踵を返し廊下に出ようとすると、教室の入口に立つ国生まりえが僕を見ながら笑っていた。「安藤くん~ふふふ」と体をくねらせていて、僕はその色香にむせ返りそうになる。
「どうしたの国生さん」
「そっちこそどうしたのそれ」と僕に向けた人差し指を上下に動かす彼女は帰り支度を済ませた格好で、暖かそうなカーディガンを着ているが、これまた妙にシルエットが浮き立つ生地のもので、なぜそれを買ったのか、色っぽいことにためらいを持つのは、やはり戦後西洋から持ち込まれた価値観なのか、と僕はつい考えてしまう。
「ずっと気になってたんだけど、もしかしていじめられてる?」
 冗談っぽく声を潜めた国生さんの言葉に、一瞬だけ清の顔が脳裏をかすめる。わかんないけど、学ランはたぶん自分でなくしたと思うから、いじめではないよ。たぶん。いや、たぶんだけど。
「えーなくしたんだ。寒そう」
「寒いね」
「ねー。ちなみに安藤くんの学ランってどんな感じのやつ?」
 どんな感じってああいう学ランだよ、と周囲の男子を示しながら答えると、国生さんは「そりゃそうか」と一人で五秒くらい笑った。もし見つけたら教えてよと頼みかけた僕だったが、あれ? もしかして加藤? と後ろを指させば
「そう、ごめん。いまからいっしょに帰るんだ」
 だろうね。
「加藤~」と僕が呼べば、わかってるといった態度で加藤が手を挙げ、山之内が勢いよく盤をひっくり返すのが見えた。
 やたらと換気をうたう社会科の八重子教諭の手によって、廊下の窓は一枚間隔で全開にされているのだが、マフラーによって首の動脈が守られたことにより、先程までの凍えは感じない。その温もりから改めて考えるに、当たり前のように優しいところが加藤のすごいところだと思う。山之内に盤をひっくり返されても、一番楽しそうに笑っているのが加藤だった。いろんなことにカラっとしている。たぶんみんな彼のことが好きだと思う。そもそも顔がよかった。それも人のよさが前に出ているタイプのイケメンでどこかぼんやりした印象があって、一緒にいても割を食うことがなかったし、普段は大人しいくせに口を開けば大好きなルパン三世の同人誌のラストシーン(死んだルパンを追って銭形が自殺するやつ)とか、サッカー部のキーパーを務める「タートルズの豚」こと森永拓司の言動についての話しか飛び出さないので、積極的にモテることもなかった。たしかに色っぽくはなりにくい感じはある。とはいえ、加藤のそういう顔のよさにかこつけて甘い汁を吸っていないところも僕らからすれば気持ちのいい男なのだ。たぶんこのマフラーに関してもそうなのだけど、異性のきょうだいがいる人特有の余裕なのかもしれない、なんて僕らは普段から分析しているが、本当のところはわからない。一時期はゲイなのかもしれないと思ったこともあったし、別にゲイでもいいとも思っていた。まあでも加藤はゲイじゃない。
 国生まりえと付き合っているからだ。昨年末から。
 このあとデート? と僕が聞けば、目を細めた国生さんは首を左右に振る。
「いっしょに帰るだけだよ」
「それはデートじゃないの?」
「安藤くん、デートはまた別なんだよ」
 ふーん。
 これまでの僕は放課後になると、加藤や山之内と一緒に無人の教室に忍び込んではみんなの体育館シューズを片方ずつシャッフルしたり、黒板に好きなアニソンの歌詞を書いては消したりを繰り返していたのだが、その一部始終をたまたま見ていた国生まりえはどういうわけか加藤に恋をした。そんで加藤もその想いを受け取った。加藤に聞いてみたところ、国生まりえは「話しやすい」とのことだった。彼女は理数系クラスの数少ない女子のひとりであり、普段の言動ががさつなせいで一見スルーされがちだったが、よくみりゃ眠そうな目をした色っぽい顔をしていると一部の男子の間では評判だった。ただし面食いなことでも有名だった。加藤はカッチリしていないところがあるとはいえ、告白したのが国生さんの方からだということは、たぶん卒業後も関係を継続しようとの目論見があったのではないかと有識者の間では囁かれていた。加藤みたいな男はどうせ卒業後もどんどん垢抜けていくのだから、先見の明がある人間からすれば逃がすには惜しい逸材のはずだ。たぶん。僕らにそう説いたのはなっちゃんだった。「女ってそういうとこクソだよな」と坂本が言っていたのを覚えている。
「マフラーは借りてていいよ」
 僕は加藤が最初からそう言ってくれることをあてにしていたものの、え! いいの? と大きな声で言った。加藤にはバレてた。並んで廊下を歩いていくふたりの後ろ姿を手を振って見送っていると、ふいに一人残された山之内が僕のすぐそばまで来て、「あのふたりもうやったのかな」と言った。やったってなにを? あ、セックスのことか、まだだろ。と答えはしたものの、もちろん根拠なんてなく、やってたらどうしようとちょっとだけ胸が騒いだ。やってても別にいいんだけど、妙な割り切れなさが残るのも確かで、この感情の名前を僕は知らない。
「ちなみに焼肉にいっしょにいくカップルはもう絶対やってるらしいよ」
 と前にも何度か聞いたことのある話を山之内がする。「じゃあ今度あのふたりに焼肉行ったか聞いてみようぜ」と僕は答えた。

 

 山之内と硬い握手を交わして別れたあと、部室棟へとつづく二階渡り廊下でたまたますれ違ったサッカー部の池田に腹を殴られた僕は、いろいろ考えた末にサッカー部の犯行説を取り消すことにした。というのも池田は、シャツにマフラー姿の僕を見てただのおどけたバカだと認識したっぽかったし、立ち去り際に「見つかるといいな」なんて舐めたこと言っていたからだ。
「なんならいっしょに捜すか?」
「いや、いいです」
「捜すわけねえだろザコ! 殺すぞ!」
 ギャハハ! と立ち去る池田の背中を睨みつけるのには理由がある。もちろん単純にされたことへの嫌悪憎悪殺意はもちろんとして、そのときの僕がなにより困ったのは、池田に絡まれへらへらやり過ごそうとするその様をあの町山りおに見られてしまったということだ。それこそ僕は犬のようにクンクン言いながらあの池田なんぞに愛想笑いをふりまき、あろうことか、ああ、何度も頭を下げたのだ。それは最も客観視したくない自分だった。
 町山さんは渡り廊下の手すりに両腕をのせながら運動場を眺めていたらしくて、茜色の空からは吹奏楽部の演奏する音が降り注いでいた。殴られた際の僕のうめき声は誰にも届かずかき消された点は幸いだったけど、結局池田は馬鹿なので声量が異常で、それが届いたのか、耳のイヤホンを外してコードを畳みながらゆっくり近づいてくる彼女を見た僕は、いや、ああいうコミュニケーションだから、しょっちゅうやられてるぶん腹筋鍛えられてるから、と自分でも無理があるのは承知な態度で目を伏せ背筋を伸ばしてみせた。馬鹿らしいね。彼女もやや俯きながら、僕のすぐそばを通り過ぎた。小さく会釈された気もしたけど、僕は振り返ることすらできずそのまま歩き続けた。
 この風はきっと北からのものだ。
 目を細めながら、さっきまで町山さんがいたあたりの手すりに両腕をのせて運動場を見やる。夕暮れどきの運動場を眺める時間は最高だと思う。特にこの部室棟から伸びる渡り廊下は吹奏楽部によるBGMつきということ、かつ部室からすぐの場所ということもあって、煮詰まった……じゃなくて行き詰まったときなんかは、僕もよく運動場を眺めたりしていた。風に目を細めながら思うのは、町山さんもなにかに行き詰まっていたのだろうか? ということだった。

 

 マフラーを巻き直し乱れたシャツの裾をベルトの内側に押し込んだ僕は、ポケットのなかでぐしゃぐしゃになった浅野の原稿に気づいて慌てて取り出した。風に飛ばされないよう、その場にしゃがみこんで広げ、なんとなく目に入った冒頭から再び読んでみる。文字を目で追っていると、目薬をさしたときのように頭の中が艶を帯びていく感覚になって、深い鼻息が漏れた。

 

 

 

 

 

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