MidnightInvincibleChildren

書き下ろし短編:『屋烏を喰う』

 

 

 




「あ、お湯で洗って」「お湯? 使ってるよ」「えだって湯気立ってないよ」「でも温かいよ」「ならいいや」と会話する僕を見た夏海が怯えた表情で言った。


「だれと話してるの?」


思えばここのところ、なにかと考えに耽ってばかりいたような気がする。夏までのバタバタした日々が急に落ちついて感じるのは、季節の変化にリンクしているからなのだろうか? 僕は自分の歩く速度さえ変わってしまったように感じる。駅までが遠い。道を間違えたのかと思うも、イヤホンから流れる曲はまだ変わっていなかった。
 なにを考えているのかというと、例えば出社してやることの順番についてだとか、今週やるべきこと、もうしなくていいこと、昨日の晩寝る前に沸き起こったささやかな欲望、いま飲みたいもの、財布の残金、次の休みのこと、夏海としたつまらない話、どうしてそれがつまらなかったのか、自分の部屋の使い方に関して、すっかり忘れてしまった習慣、口周りに感じる肌の乾き、気になっていた化粧水、駅周辺のドラッグストア、目の前のおしり、明日の天気……
 僕は仕事をやめた。厳密にはやめていない。やめたつもりで毎日動いている。こだわらなくなれば、少しは楽になるのだろうなという目算があったが、どうなんだろう? いまの僕は楽なんだろうか? 

 ある夜、ちっとも寝つけなかった僕は無性に苛立っていて、夏海と口論になった。彼女は「八つ当たりしないで」と言った。八つ当たり? つまり僕には本来、ほかに怒りをぶつける対象があるということか?
「それってなんだと思う?」
「それ私に聞くの?」と夏海は伏せていた目を僕に向けた。「仕事のこととか、そういうんじゃないの? それだけじゃないんだろうけど、とにかく私にそういう態度とるのやめて。どうしていいかわからない」
「ごめん」
「別にいい。でも今日は一緒に寝られない」
「了解」
 僕は自分の枕と毛布を持ってソファーで横になる。カーテンの隙間からかすかに差しこむ灯りが、暗い天井でゆらゆらと揺れるのを眺めながら、別にいいと言った際の夏海の表情を思い出していた。一緒に寝られないんなら、別にいいってのは嘘じゃないのか? 許せないんなら、許したふりなんてするなよ。胸がより騒がしくなって、眠気も更に遠のいてしまった。ひとりになりたかった。こうやって寝床を分けるのではなく、本当の本当にたった一人になって、ついにはなにも考えずにすめばどれだけいいか……ということをグルグル考えたまま朝を迎えた僕は、のっそり起き上がると重たい体を引きずって唸り、シャワーを浴びながら唸り、髭を剃って唸った。



 十年ほど休みがほしい。



 友人でひとり、十年ほど休み続けているやつがいる。
 十年あればなにをしたいだろう? という愚問が浮かび、僕は毒された自分に辟易する。
彼の長い休みがまだ終わっていませんように。



 更衣室のロッカーから上着をとり、歩きながら羽織る。腕時計を確認する。七時半。まだ余裕。人の温度にあてられていない廊下を抜け、事務所のタイムカードを切ると、すぐさまエレベーターでふたつ上の階まで移動。そこは窓のないフロアで、ドアには電子ロックがかかっている。テンキーに暗証番号を打ち込むと淀んだ空気が僕を迎えた。充電スタンドに立てられた無線機と作業台の上に置かれたクリップボードを手に取る。七時三十五分。挟まれたチェックリストを手に大きな機器の間を練り歩く。ぜんぶで十一のサーバーがあり、それぞれに付属する機器が二つずつある。すべての電源を項目にそって入れていく。僕はこの作業が億劫で、どこかのタイミングで思いもよらない出来事によって流れが中断されるんじゃないかという恐怖がつきまとう。エラーの種類にもよるが、基本的に十分以上は対応に割かれる可能性がある。始業時に間に合わなければ、どれほどの損害が出るのだろうか? あえてきかないようにしているが、想像を超えるきんがくにおよぶのかもしれない。タッチパネルを操作してパスワードを入力する。ここでタッチパネルが反応しなかったら? 機器上部で横一列に並んだ七つのスイッチを左から一、二、三、五、六七同時、四の順に押しながら、機体に耳を寄せ、起動音を確認する。ここで異音がしたら? 薄い金属板の向こうで細かな機器が連動しあうか細い音がする。一、二、三、五、六七、四。異常なし。異常なし。異常なし。一、二、三、五、六七、四。チェック。チェック。チェック。機械の音にまじって僕のため息が聞こえる。チェック。チェック。夏海のことを思い出していた。一、二、三、五、六七、四。チェック。一、二、三、五、六七、四。ここまでは大丈夫。一、二、三、五、六七、四。大丈夫。 一、二。三? 五! 六七……チェック。チェック。チェック。あ、四。チェック。ん? チェックの数変じゃないか? という声がしてハッとする。自分だった。変……でした。まあいいか。チェック。チェック。うっ。

 早朝の大雨が嘘のように晴れ上がった夜、夏海を駅まで迎えに行った。僕は自転車で、彼女と二人乗りをしながらパトロール中の警官に見つからないよう細い路地ばかりを選んでアパートまでの道を進んだ。ネットでみたニュースの話で笑いあっていると、ふと沈黙が訪れた。星が綺麗だったが、気持ちはそう盛り上がらなかった。しばらくして、僕の背中に身体を押し付ける夏海が何かを言った。うまく聞き取れなかった、というより、その音が言葉としてすぐには入ってこなかった。彼女は「泣きそう」と言ったのだ。

 八時二十分。オープン作業を済ませた僕は作業台に戻ってパソコンを開く。まだ強めのままの鼓動に打たれながらメールを見る。作業場の温度確認をする。湿度確認をする。デジタル時計の秒数を調整。+1なので修正……完了。僕はイスの背もたれを支点に背中をそらす。ソファーで寝たせいで朝から肩が重かった。僕はイスを引いて両手を前後に大きくゆっくりと回す。じんわり熱を帯びた肩甲骨が、また少しずつ冷めていくのを感じながら、自分の呼吸音に集中する。機械音が騒々しい。僕は同じサイズにカットして束にしてある裏紙にTo doリストを書き込んでいく。デイリー業務、ウィークリー業務、週末に備えた準備……まずは昨日のうちに終わらせられなかった事務作業を片付けていくことに決めた。Shift + C……Shift + V……クリッククリック。マウスの反応がなくなる。ちっ。軽くバウンドさせてみる。なめるなよ。裏返すといつもは点灯しているはずのブルーのライトが灯っていない。僕はペン立てをどかし、単三電池を探す。が見当たらない。別の部署まで貰いに行こうか。そう思い立ってイスから立ち上がる。

 ぱぼん

 聞き慣れない音がした。
 パソコンからだった。
 メールの通知ではない。デスクトップにはなんらかのお知らせが出ていた。タッチパッドの操作がオンになったことを告げる通知らしい。なぜ。僕はこのラップトップに一切触れていなかったし、切替画面を開いていたわけでもない。身体の左半分が粟立っていた。作業台の横には壁があり、上部だけが繰り抜かれて隣室とつながっているのだが、そこからだれかが僕を見ている気がしたせいかもしれない。こういうときは考えられることだけを考えるしかない。たしか、タッチパッドを直接二回タップすれば操作のオン・オフを切り替えることができるのだが、僕は席を立って背を向けていた状態なのでそれも無理。
 だけど無視。



九時五分。エラーの表示がセンターサーバーに出る。機器同士をつなぐネットワークの接続が切れたらしい。4号機? クソ馬鹿が。僕は椅子から飛び上がり、機器の間を駆け抜け、4号機を目視で確認。ランプが赤く点灯。思わずえずく。いそいでポケットからスマホを取り出し、機器のモニターに英字で表示された警告文の写真を撮り、本社のシステム担当に送信。こちらでもとりあえず機械の再起動を試みようと手順を整理しているところに無線機が鳴る。
「真山さん、おはようございます。三宅です。状況を教えてください」
「おはようございます。ただいま本社の担当者にメールにて連絡致しました。返信はまだですが、おそらく再起動でなんとか対応できるかもしれないので今から試みます」
「了解です。またなにかあれば」
なにかあればそりゃ言うよ、と思いつつ一旦4号機の電源を落とす。メールが来る。
〈再起動で大丈夫です。それでもなおらないようでしたら、サポートセンターに入電してください〉
やった、正解だった。でも何か忘れてないよな。まあいいや。まずは再起動。電源を入れ直していく。よし。ランプが通常通り緑色に点灯した。でもさっきだって始めはそうだった。頼むからもう嘘つかないで。平気なふりはしないで。どうにもならないタイミングで、やっぱりダメでしたって言われても、僕にはもう何もできないじゃないか、後悔以外。

 

 暖簾をくぐり、嗅ぎ慣れた蒸気の温もりを浴びながら空席を探していると、違う課の月村さんがテーブル席でひとりランチセットを食べていた。軽く挨拶だけでも済ませておこうと近づくと、「あ、どうも。てか朝はお疲れ様でした。どうぞ」と正面の椅子に誘導される。いま人と関わるテンションじゃないな、断ろうかなと思うころには、僕はもう椅子に腰を下ろしたあとだった。メニュー表を開いて悩んでいるふりをしながらいつもと同じ一番安い中華そばを頼み、月村さんにさっきのパソコンの話をした。
「えー、出た。真山さんよくあんなとこひとりでいられますよね」
「まあね。でも仕事だし」
「怖くないんですか?」
「めちゃめちゃこわいよ」
「やば。うける」
 月村さんは僕の知らない話を大量にもっている。
 総務部の三宅マネージャーが新卒で入ってきた武田ちゃんと付き合っているらしい。年の差どれくらいだっけ? ほぼロリコンだねと僕が言うと「みんなも言ってます」と月村さんは笑う。みんなも言っているのなら結構笑い事じゃないのかもなと僕は思いながら、営業の樋口くんがかねてよりアプローチをかけていた石原さんにめちゃくちゃ嫌われているという話を聞く。ちょっと面白い。
 ところで月村さんは営業部の高尾くんとほんとうに付き合っているのかなと僕は考える。直接聞くのはちょっと危険だ。随分前に、駅を一緒に歩いているところを見かけたことがあるだけだし、でも高尾くんには彼女がいたはずで、とはいえ古い情報なのでもう別れたのかもしれない。
「面談終わりました?」
 月村さんがテーブルの上においたスマホを指先で叩きながら言った。ラインのトーク画面が開かれていたので、目をそらした。
「来週。予定ではね」
「そうなんですね。普通に終わりますよ」
「あ、もうやったんだ」
「はい。わたしのときは雑談みたいな感じでしたし」
「そうなんだ。なにか意見とか出した? 改善してほしいところとか」
「いいえべつに」
「思ってたより楽そうだな。安心しました」
「そもそも面談いらなくないですか?」
「でもまあ、ああいう場だからこそ伝えられることもあるんじゃない?」
「えー。わたし思うんですよ」
「はい」
「ああいう場で、本当のこと言うわけないじゃないですか」

 僕の前任者である宇野さんは精神に不調をきたして退職したので、事前に準備しておく諸々もなしに僕が業務を引き継ぐことになったのだが、その彼だって何度か行われた面談において特別なにかを訴えていたわけではなかったそうだ。これは総務部の三宅マネージャーから直接聞いた話で、彼は首を傾げていた。労働はアルコールと同じで、合わない人間にとってはとことん毒でしかない、というただの常識がまったく共有されていない時点でこの会社はもう終わりです。宇野さんは周囲の呑んだくれどもの影で静かに疲弊し、ある日限界を迎えたわけだ。胸のうちが自然対流のようにぐるぐるたぎるのを感じていた。突っ伏す寸前のような姿勢でスマホを見る月村さんのつむじから視線を外すと、斜め向かいに位置するシートの背もたれ越しに顔半分だけをのぞかせた女の人と目が合った。あれ。でもそんな気がしただけで、席は無人だった。ふと壁に貼られたビールのポスターがはらりと剥がれ落ちた。店員さんにそのことを伝えようかと思ったが、疲れていたので黙っていた。



 朝が来ないでほしい。
 かといって夜もうざったい。

 

 夏海とベッドに並んで眠る。目を閉じながら、布団内部の高まる温度を寝返りでかきまぜる。深夜三時を回ってもついに眠れなかった僕は、寝息を立てる夏海を置いて部屋を出た。スウェットだけじゃあまりにも寒いのでブルゾンを羽織った。最寄りのコンビニまで歩いて、それから戻ろう。頭髪の隙間まで冷たい夜気が染みこんでくる。通りかかった公園の遊具が風もないのに揺れていた。公衆便所からうっすら灯りが漏れていた。人も、動物も見当たらない。猫でもいたらいいのにね。深呼吸すると骨まで冷えるようで、僕は長い長い道を足早に進む。コンビニにつくと、店内をぼんやり五周ほどした。もう一度歯を磨くのが面倒なので、結局なにも買わずに出てしまった。レジカウンターの中にいた店員はなにかしらの作業に勤しみながら、絶えず僕の気配を意識してくれていたというのに。自動ドアを抜けると、先ほどのような鋭さはもう感じなかった。部屋まで続く住宅地には街灯が少ない。行きより帰りがずっと暗い。

 コンビニを出る前からずっと、僕はさっきの公園の前を通りたくないと思っていた。かといって遠回りを選ぶほどの気力もなかった。足がやけに軽いのに、進みだけがいやに遅く感じて首を何度も回していると、道路脇になにかが立っているのに気づいた。一瞬、人かと思った。真っ黒で、起伏がなく、まっすぐだった。その長方体と僕との距離は五メートルほどで、しかし僕は立ち止まらなかった。気づいていることを、向こうに気づかれたくなかったのだ。後頭部からゆっくり後ろへ倒れていくような感覚にややのけぞりながら、それでも歩を進め、ああ。そこでわかる。

 墓石だ。
 真っ黒な墓石。

 道の脇に墓石がある。

 依然として静かなままだった。僕以外、音を立てるものはなかった。視線はすぐまえのアスファルトに向けている。もうすぐ朝がくる。もうすぐは、しかし今ではないのだ。
 一、二、三、五、六七、四。
 一、二、三、五、六七、四。
 一、二、三、五、六七、四。
 ああ。墓石の横を通り過ぎる。ああ。ずっとそこにあったのかもしれないし。たまたま行きでは気づかなかっただけかもしれないし。僕は歩く。いまどこかからか聞こえた気のする、地面をこするようなざらついた音が、自分の立てたものなのかもう判別できない。わざと大きな音を立てて僕は地面を踏みしめる。
 一、二、三、五、六七、四。
 一、二、三、五、六七、四。
 一、二、三、五、六七、四。
 月極駐車場の看板が見える。その後ろからなにかが顔を覗かせているかもしれない。カーブミラーが見える。なにがうつっているかもわからない。僕は自分の履いている靴を見る。靴紐が解けている。いまは結ばない。立ち止まる理由はすべて無視する。

 アパートの階段を昇りきると、ドアの前に夏海が立っていて、僕は無音の悲鳴を上げた。そのまま腰を抜かし、階段の二つ下の段に手を突いてなんとか体を支えたが、股関節が変な開き方をしてちょっとだけ痛かった。
「起こしちゃった?」
 僕の言葉に彼女は応えなかった。
 ああしまった。もしかして僕はいま、夢をみているのだろうか?
「風邪ひくよ」
 彼女はそう言うと、すんっと息を吐きながらこちらに背を向けた。いまなんで笑ったの? 僕の質問は彼女には届かなかった。



 しゃ!
と意気込んで出勤すると、作業台にニ枚のメモが置いてあった。
 一枚目には次の日曜も出勤してほしいという旨とその理由。
 二枚目には不在時に僕のデスクから内線電話が入ったという旨の内容。
それらを丸めてゴミ箱に投げ入れた僕は、しばらく突っ立ったままホワイトボードに敷き詰められた数字を画として眺め、それから床に両手をついて腕立て伏せを三十回。怒りが収まらなかったので、側転。そのままの流れでバック転。着地に失敗して機械の消耗品が入っていた空箱を尻で潰した。
スマホで高良に連絡を入れる。
返事が来る。
翌日の仕事終わりに、池袋で飲む。
高良と会うのは数年ぶりで、彼は上下スウェットに軽そうなダウンジャケットを着て現れた。スウェットといっても僕が部屋着にしているような類のものではなく、どちらも上等な生地で、細く締まった足首の先には蛍光色のラインが入ったスニーカーを履いている。
「ちなみに、給料いくらもらってんの?」
 僕の質問に高良は笑った。「ぶしつけやなあ」
 綺麗な歯並びだった。指摘して初めて、彼は直属の上司が関西の人間であることを教えてくれた。
「思ってたより元気そうやん」と高良は長い脚を組んで言った。僕もついつい真似をする。
「え、そう?」
「ははは。でもちょっと痩せたろ」
「かな」
「痩せたよ」
「もともと体重の増減激しいタイプだから」
クリスチャン・ベイルじゃん」
「それ言ったらそっちこそぽいよ」
「なんで?」
「『アメリカン・サイコ』っぽいよ」
「おまえ〜」
 高良はこの会話の間にジョッキをひとつ空にした。全身から放つ雰囲気……それこそ肌ツヤからして違う。代謝もいいに違いない。僕はいまこの瞬間も肩から背中にかけてが重いというのに。ビールのアルコールも、まだ高揚感にはつながらない。
「たまってるだろ」
「いや」
「ストレスのことだよ」
「ああ、そうか。てか今日その話していい?」
「むしろそのために連絡よこしたんじゃないの?」
「まあそうなんだけど一応ほら。せっかく来てくれたのに辛気臭い話はだって……だるいだろ?」
「平気だよ。おれは」
「そう?」
「だって俺は調子悪くないもん。良いし」
「えー。なんだよそれ」
「辛いほうが吐き出す。調子いいやつが受け止める。そういうことでしょ」
 もはやため息すら出ない。「痛み入ります」

「憑かれてるな」

 高良にそう言われて僕は固まってしまった。急だな、っていうかそういう話もうしたっけ? 喉の奥でうぐうと音がする。自分にだけ聞こえる音だといいな、と思った。
「なんでそれを」
 と、なんとかつぶやく僕を見て高良は「ん?」と首を前に落とす。
「ん?」
「いや……ん?」
「んん!?」
 混乱が音となって頭蓋の内側に溢れていると高良がやや距離のある笑みを浮かべる。
「ストップストップ。落ち着け。マジで疲れてんじゃん」
 と言われ、今度はするっと腑に落ちる。僕は自分の呼吸がやや浅くなっていることに気がついて、小さく笑いながらビールを飲む。軽く口に含む程度のつもりだったが、そのまま勢いがついて一気に飲み干す。大きく息を吐きだす。おしぼりの包みがテーブルの上を滑って小鉢にあたって回る。
「はは。ごめん。びっくりした。いや。ほら。いまちょっと言葉が……違う変換しちゃってさ」
「変換」
「つかれたって言葉。違う方のやつだと思っちゃって」
「……違う方って言うと」
「ほら、取り憑かれるとかの」
「あ〜」
「なんか妙にバチッとハマっちゃって。ごめんごめん」
「ははははは」
 とはじめは笑っていた高良だったが、急に腕を組み、お尻を前に引くことでテーブルの縁にぴたりと身体を寄せた。僕は質問を待った。
「え、そっち系でなんかあった?」
 僕は職場での作業時に起こる現象の数々や、一昨日の真夜中に遭遇した巨大な黒い墓石についても話す。職場の壁を殴って穴を開けてしまい、そこに書類を貼って隠していることや、夏海が部屋を出て行ったこと、前任者の作業ノートを隠し持っていること、前任者が三宅マネージャーに経歴を笑われひどく傷ついていたこと、ここのところ親知らずが痛いこと、夏海と新宿御苑にいったときの写真でオナニーをしてしまったこと、俺が俺であること、三宅マネージャーと付き合っている武田ちゃんのSNS非公開アカウントを知っていること、貯金がないこと、職場で人を殺してしまうんじゃないか不安であること、よそはよそであること、うちはうちであること、俺が俺であることとその証明について……。
 うんうんと相槌を絶やさない高良に喋っているうちに、僕は胸にすーっとした空気の通りを感じて、あれ? なんでしょうねこの話。高良は優しい声で「それはあかんな」などと言いながらも、なんだよ、ちょっと笑ってやがる。なので僕もひとまず笑っておこうと思う。二人して互いの雰囲気に飲まれてへらへらした笑いが止まらなくなり、気がつくと大声こそ出しはしないが僕も高良も肩を小刻みに上下させていた。息を切らした高良がビールを口に含んでむせ、僕が喉の奥からアザラシの屁みたいな音を出して前後に揺れていると、ついには括約筋が緩んで放屁した。放屁といえば、「屁」は「へ」なのに、「放屁」のときは「ひ」なんだな、ということを言うと、にんげんだってそうやん、と高良が言った。僕はやつのことをじっと眺めてみる。僕だって高良みたいに良い服が着たいのだ。あの肌ツヤがほしいし、引き締まった身体がほしいのだ。
「ところでおまえが見たっていうお墓なんだけどさ」
「うん」
「本当にお墓?」
「え、ほかになにかある?」
「別のなにか」
「別のなにかって?」
「羊羹とか」
 ありがとな、高良。
 それから高良は自分の仕事に関する話をする。取引先のパーティで知り合った政府関係者から、近々某国のミサイル発射をきっかけに第三次世界大戦が始まるとの話を聞いたらしい。冗談じゃないんだ、おれもおまえも跡形もなく吹き飛ぶんだよ、どうこうできる話じゃないよ、でも自分じゃどうにもできないことで、人生に関するあらゆる選択が必要なくなると思うと、すごく楽じゃない?
「そうだな。楽なのはだいたい好きだ」
 と僕は言った。な? せやろ? と高良の弾む声を浴びながら、僕は頬杖をついて目を閉じた。ああ、そうだ。僕は忘れないうちに、十年休み続けている友人について聞いてみる。高良は彼と仲がよかったはずだし、ついでに連絡先でも教えてもらえるんじゃないかという期待があった。なのに「ごめん」と高良は言った。
「ここ三年くらい連絡とってないよ。おまえとだってそうだったじゃん。仕事とかしだすとなかなかさ」
「まあそうかあ」
「でもたしかに、またみんなで集まりたいな」
「そうだな」
「あ、ふふふ。そうだほら、覚えてる?」と高良はガールズバーの女の子たちと開催した合コンの話をしたが、僕はそれに誘われていない。
店員が裏にして置いていった会計の紙に手をのせて、雑多なテーブルの上をしばらく眺めていた。それからちょっとだけ勇気を出して、僕は僕の期待を口にした。
「まだ休んでるといいな」
 高良はどこか寂しそうな顔で言った。
「だってあいつの天職だから」


 店を出てすぐの交差点で、彼は乗り継ぎ先の終電に間に合わないからと、彼女のマンションまでタクシーで向かうと言った。駅までの短い道のりだった。人はまだ大勢歩いていたし、街も明るかったが、気温だけはすっかり真夜中のそれで、僕らは肩を強張らせたまま足早に歩く。
「これからいくマンションの彼女、おれの知ってる人?」
「いや、知らない。知り合ったの今年入ってからだし」
 クラクションが鳴る。歩道を自転車が通り抜ける。
 僕は高良といっしょにマンションに行くこととなる。
 JRではなく西武池袋線に乗って数駅進むあいだ、高良は「リフレッシュしよう。働き方改革だよ」と弾んだ声で言う。有給は一年で五日消化、いつかしようか、わはは。僕はそこまで酔っていない。妙に気持ちが据わっている。なぜ高良は終電のない僕を誘ったのだろう。はっきりと聞いてはいないが、ちゃんと泊めてくれるんだろうか? でもこれからこいつ、彼女の部屋に行くんであって、僕がいきなり登場して、こんな時間だし彼女は絶対迷惑がるはずだ。そもそも終電ないから寄るのはせいぜい彼氏が限界だろう。彼氏の友達は、邪魔だろう。ウザいだろう。じゃあ僕はどうすればいいのだ。ネカフェか? まあいいか。きょうの飲み代は高良が多めに払ってくれたわけだし、ネカフェ代の捻出くらい持ち合わせで十分だけど、だったらそもそもこうやって高良についていくことなく、断って帰ってりゃよかったってことにならないか。あーあ。いまさらなにも言い出せない。飲み込んだ言葉は、空気に触れた途端異臭を発してしまうのだ。
 駅についてすぐ高良はタクシーを拾い、フランス語と日本語の地名が連なった言葉を運転手に伝えた。迷わずタクシーが発車したので、そのマンションの住人はよくタクシーを利用する層であることがわかった。それだけリッチな生活に身を置く女の人なら、真夜中の訪問者を意外とおおらかに受け入れてくれるのかもしれない。いや、人によるか。人によるのだ。僕はまた憂鬱な気分になってきて車窓からの景色がまったく頭に入らない。タクシーが停車すると、そこには五階建ての、灰色の、暖色の街灯の、静かな住宅街にも景観的にしっくりと馴染んだ建物があった。高良は支払いをすませると、勝手についてこいといった歩速でエントランスまで歩き出す。不意に暗い道の奥からジョギングウェアを着た男が現れ、僕がギョッとして固まっていると、その男は高良を追い越すようにエントランスの自動ドアを抜けた。高良はその男に「こんばんは」と深夜にしては爽やかに挨拶をする。振り返る男は四十代ほどで、軽い会釈を返しつつ、テンキーに数字を打ち込んでいる。いいエントランスだな。痛いほど鼓動する心臓を無視して僕は腕を組んだのだが、高良が開錠した男の後ろをそのままついていくので、僕も慌てて後を追う。すると高良が、ジョギング男に話しかける。
「ユウキさん。こいつ、おれの友達で、真山です」
「ああ、どうも」
 僕は慌てて会釈する。「あどうも真山です」結城さん?
 結城さんは僕とは目も合わせず、先頭を歩きながら高良に言う。「もう準備はできてるんで」
「あ、そっすか。ありがとうございます。じゃあ」と言って僕を見る高良。「ちょっといい?」
「どうしたの?」
「いや、じつはおれと結城さんよくいっしょに遊んでて。それに今日は真山もどうかな〜ってことでじつは今日誘ったんだよね」
「あ、そうなの?」僕は高良の彼女についてなにか言ってしまいそうになるも、ついつい言葉を飲み込んでしまった。
「真山さ、別にエロいこととか大丈夫でしょ?」
「大丈夫って言うと?」
「あいや、好きでしょ?」
「好きだけど、エロいことすんの?」
 僕の言葉に結城さんが肩を上下させ、こちらを振り返った。笑顔。
「なにその会話、面白いんだけど」
 高良も笑う。
 エレベーターに乗った。僕はなにも喋らなかった。高良は首をぐりっと回したり、上下させたりしている。なに身体温めてんだこいつ。僕は出勤前と似たような気分に侵食されていく。

    一年ほど休みがほしい。

 通されたマンションの部屋のベッドには横になった女の人が一人、僕より若いか同じくらいか、動いたり喋ったりする姿をしらないので判断が難しい。彼女は掛け布団の上にそのまま横になっていて、服はフォーマルなビジネススーツっぽく、というかリクルートスーツにも思えてきて、部屋は広いが最低限の家具しかなく、高良は「たまにしか使わないからきれいでしょ」と言った。結城さんは、じゃあまあ、いつものかんじでいいですかね、とそこで初めて僕の目を見て言うが、その判断をあおぐのなら僕じゃなく高良でしょう。僕はなにも知らない。彼女が全然目を覚まさない理由も知らない。ふたりが彼女を起こさないよう気をつけている様子も感じていない。結城さんが「なにか飲みますか?」と言った。そうっすね、と高良が言った。「おれらけっこう酒入ってるもんな」
「この子も酔ってるんですか?」
 僕の言葉に高良が口をひん曲げてみせると、結城さんが「酔って……うーん」と呟きながらミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から取り出してくる。
「どっちかって言うと疲れて寝ちゃってる。若いのに体力ねーよな」
 気がつくと結城さんが下を脱いでいて、地面と水平になった陰茎をゆらゆら揺らしながらベッドに膝をつく。「ごめん、今日はお客さんいるけど、おれ一番最初でいい?」
「あ、真山どうする?」と高良。僕は結城さんのチンチンを視界の隅におきながら、一向に目を醒ます気配のない女の子を見つめる。気がつくと高良も上を脱いでいて、まず蜘蛛の巣のようなその腹筋に目を奪われるが、彼が手にするのは持ち運び可能な電動式のペニスで、僕は思わず声を漏らす。
「ん? どうする真山」
 夏海、僕はどうすればいい?
 この場合の迷いが、どのような選択肢の間で行われているか、君がちゃんとわかってくれているといいな。
 僕にはわからないふりを続けるクセがあるようだ。タスクの先延ばし。ToDoリストを作成する。終わった順に線を引く。まずはなんだ? わからないふりをやめることだ。わからないふりをやめることの意味がわからないふりを防ぐため、先に斜線を引いて後戻りを封じろ。僕は一歩前進した。実際に僕はベッドに一歩近づいて、女の子のスーツを脱がしにかかる結城さんの真剣な横顔を見つめる。

 

・高良からバイブを受け取る
 
 斜線。

 

「うお、めっちゃ乗り気やん。いいねいいね。あ、でもローションちゃんとぬってあげなよ」

 

・ローションのボトルを受け取る

 

 斜線。

 

「ぬるぬる! ぬるぬる!」

 

・結城さんの背後に回る

 

 斜線。

 

「すみません結城さん、ちょっと真山が軽く」

・頭部以外への攻撃(腰のあたりに急所あり)

 

 斜線。

 

「おい!」

 

・ローションをまく

 

 斜線。

 

「うそやろこいつ」

 

・二対一を避けるため、結城さんに集中する
 
 斜線。

 

「こら、おい! くそが、やめろ! やめろって、真山! おい!」

 

・高良と絶交する(頭も可)

 

 斜線。

 

「おまえなめんなよまじでおらあ! なにしてくれとんねん! あぶな……やめとけ真山、ばっちいのついてるだろそれは、な? あ! それはふつうに鈍器だから死っ……おおい! なあ真山おまえ混乱してるだろ? 混乱してるよおまえ、ストレスで大変だもんな、わかるよ真山、仕事なんかいくらでもあるからほら、おれもなにか力になれるから……ていうかおいなっただろさっき! おまえのために色々してやっただろ! ここもおまえならと思って連れてきたんじゃん! なのにそんな、っぶな! 投げるな! 振るな……おいおいもう結城さん動けないのわかるだろ! やめろ真山! 結城さん! 起きてください! 大丈夫ですか! 聞こえますか!」
「うう〜……」
「結城さん! 立てますか! おい真山やめろ! くそ! おい、どこいくんだよてめえ! いって! まてよコラ! 逃すかよ殺すぞ、ふつうに! いや、ふつうに殺すぞ! 殺すって、まてまてまて、いてて、うお、すべるすべる、真山ちょっと待って、話そうちゃんと、話そうよ、ともだちじゃん、こんなんなっちゃったけど、おれおまえのこと好きだぜふつうに、なあ? 真山あ。その子はもう返していいよ、でも真山はちょっと待ってよ、あ、そうそう待って、はなそうはなそう、しっかりとコミュニケーションを、よっし、戻ってきたなてめえ殺す、殺す殺す殺す殺す、やめ、ごめんごめん、待って! ごめんごめんごめんごめん、いって、あ! あ、おえ、やめへ! ぶおおおおおおおおおおお、ぶおおおおおおおおおお! っぽ、へえええええええ」
「うう……高良〜……」
「つうううううううううう、つうううううううううううううう」

 

・現場の写真を撮る

 

 斜線。

 

・ふたりのスマホを回収する

 

 斜線。

 

・救急車を呼ぶ

 

 斜線。

 

・ネカフェを探す

 

 斜線。

 

・六時間パックなので、目覚ましをセットする

 

 

 

 

 

 

f:id:sakabar:20190404104659p:image

 



 




 お昼休み、休憩室のテレビでニュースを見ていると武田ちゃんが入ってくる。入って早々、彼女は「真山さんいい匂いしますね」と言った。
「これなんの匂いですか?」
「今日は森林の香り」
 僕は衣類用消臭剤を振りまく手振りをしてみせた。愛想笑いの彼女はケトルに水を入れ、そのスイッチを入れてしばらくシンクに手をついたあと、「お腹すいた」と小さく呟く。武田ちゃんはアニメに出てくるような声をしている。三宅マネージャーはオタクっぽいので、きっと武田ちゃんのこういうところも好きなのかもしれないな、と僕は思った。ちなみに月村さんからの最新情報では、彼女はもう三宅マネージャーとは付き合っていないらしい。SNSのアカウントも削除されていた。僕はまだ三宅マネージャーを殺したい。
 ケトルからマグカップにお湯を注ぐ武田ちゃんが、沈黙を気にしているように見えたので、僕は僕でテレビを注視しているふりをした。児童虐待の容疑で30代の夫婦が逮捕された。警察が女児を保護するに至ったきっかけとして、ある男性の勇敢な行動が紹介されていた。その男性がインタビューに答えている。


「日頃から……そうですね、泣き声とかは気になっていました。迂闊に動くのもどうかなとは思いつつ、万が一の可能性を見過ごしてしまう方が危険に感じたので。それでちょうど、私は現在仕事を休んでいる状態でしたので、まとまった時間がありましたし、児童福祉関連の施設や通告義務、保護の過程などをネットで調べまして、結果的には普通に110番通報したんですが……」


 不意に「聞きました?」と武田ちゃんが言った。なにを? 「月村さんと高尾さんの話です」と彼女は声を潜めた。
「不倫してるみたいですよ」
「え、そうなんだ」
「でもただの噂です」
「へえ」
 僕は武田ちゃんに「好きなの見ていいよ」とリモコンを渡して休憩室を後にする。作業場まで戻るのに階段を使うようになった。肩で息をしながらテンキーに指を伸ばした僕はすぐに思いとどまり、腰にさげた道具入れから衣類用消臭剤の霧吹きを手に取る。
 午後も無事終えられますように。
 今日は勤務終了後に面談がある。
 正中線をなぞるように一吹き。森林の香りには、脳のもやを晴らす効果がある気がする。
 もやか。作業台の下に、エアダスターの空き缶が大量につまれてあったのでそのガス抜きを行うことにした。ぜんぶで何本だ? 数えながらふと、夏海に謝らなきゃなと思う。いやいや、ふと思ったわけじゃない。ずっと思っている。謝らなきゃ。もっとちゃんと。ちゃんとってなんだろう? という自問で逃げる事は絶対に許さない。夏海に会いに行かなくちゃならない。夏海に会うには休みがいる。休みを得るには、仕事を片付けなくてはならない。
 どうしたもんかねえ。数本目のエアダスターのガスを抜きながら、そういやこれって可燃性だよな、と思う。作業台のパソコンが、ぱぼん、と音を立てた。

 

 

 



 

 

 f:id:sakabar:20190313004503j:image