友達のニートが親に殺されかけたからとうちに転がり込んで、そのまましばらく過ごしたかと思うと今度は上京するとかいいだして本当に出ていったのがここ一ヶ月くらいの話。そりゃさすがのおれとてずっと一緒に過ごすわけにもいかないよなあとは思っていた。うちの母親はとくになにもいわなかったけど、さすがに気を遣う部分だってあったろうし、そう考えれば自然な流れでこっちも助かったかなって感じなんだけど、ちょっとだけ寂しいのも事実だったりする。毎日おれの部屋で遅くまでマンガ読んだり、テレビを見たり、ラジオ聞いたり、話したかったら話すし、喋りたくなければ黙るし、なにをしているんだか夜遅くにどこかに出てそのまま戻ってこなかったり、そんな日々のリズムにもすぐに慣れて心地よかった。安藤には、誰かと一緒に過ごす才能があるのかもしれなかった。家に上がり込んできたこと以外、自分から特になにかを要求するとかもなかった。実家でもそうやって過ごすことで、何年もニートでいることができたのかもしれない。おれは部屋の隅に収まって本を読む安藤を見てそんなことを思っていた。
やつは両親の部屋に金槌や包丁が隠されていたのを見つけ、そのまま最低限の荷物だけを持って家を出たのだ。お金に関してはわずかな手持ちの他にクレジットカードを使っていた。だれのものかは聞いても曖昧に笑うだけで答えなかった。やつがうちで過ごした最後の夜のこと、おれたちは家の近くの土手沿いにあるグラウンドで花火をした。風下に立って煙を浴びるおれを見てやつは笑っていた。花火もぜんぶ安藤が買ってきた。おれも出すよといったが、やつは断った。
「東京行くんだったらお金いるだろ? 節約したほうがよくない?」
「まあでも、お金尽きたらそれまでだよ」
煙の向こうで安藤が笑った気もするが、めちゃくちゃ無表情な気もした。
それから半年が過ぎ、久々に安藤から電話があった。
東京に出て、じゃあいよいよ仕事とか探すのかなとか思っていたけど、やつはいまだに定職には就いていないといった。
「どこ住んでんの」
最初は、と安藤はいった。
「知り合いの部屋に行って、その人が彼女と同棲するからまた別の知り合いの部屋に行って、さらにその知り合いの知り合いのって感じ」
いまはなんのつながりもない人の家にいる、と安藤はいっていた。すごいな。そんな感じでいつまでもつのかな。ぼんやりとした相槌を打っているうちに、電話は終わる。おれはちょっとだけ浮ついた気分になって、近くのコンビニまで行ってカップラーメンを買って帰って食う。
その後も安藤からは定期的に連絡が入った。
夏の終わりに差しかかったある日のこと、駅で男に突き飛ばされ階段から転げ落ちた安藤は、周りに集まった人たちから絆創膏や飴玉を恵んでもらったらしい。
「なにやってんの」
「ほんとほんと」
「じゃなくて、そのクソ野郎がだよ」
「まあね」
「まあねじゃなくて」
その後安藤は数日かけて駅に張り込み、自分を突き飛ばした男を見つけ、一日かけて尾行して家まで突き止めた。それからさらに一週間尾行を続け、ついには男に声をかけ、本人に出頭を勧めた。が、向こうは再度抵抗を見せたので、色々あった末に思い切り股間を蹴り上げたらしい。
「マジで?」
「でも捕まることはないと思うよ」
「え、どっちが?」
「あ、こっちが」
「なんで?」
「通報はしないと思う」
「そういう話かなあ」
「最初は手の骨折ろうと思ったんだよ」
「え?」
「そいつ痴漢でもあるんだよ」
「うん……まあ」
「でもなんか痴漢って、性欲はあんまり関係ないらしいよ」
「ええ。そうなんだね。ん?」
「なに?」
「いや、なんか。なんだろう。なにかいいたかったんだけど。まあいいや忘れて」
「マジか。気になる」
そろそろさすがに危なっかしい感じもして、おれは安藤の放蕩の終わりを強く予感する。定期的に入るこの連絡も結構楽しみにしていたんだけど。
その次に安藤からの連絡が来たときには、おれのスマホは新しい機種に変わっていた。
安藤は駅で見つけたターゲットの生活を調べ、把握し、生活費リストに加えることで新しいリュックと靴とズボンとシャツを手に入れていた。
「どうでもいいけど、いまどこに住んでるの?」
安藤は一人暮らしのおじいちゃんの家に住みついていた。近所の人には遠い親戚だということにして、生活面、例えば買い物やネットでの手続きなんかを補助しているといっていた。だったらいっそのことそういう仕事に就けばいいのにとおれは思うのだけど、特に伝えなかったのは、そういう仕事が実際にあるのかよく知らないからだ。
とりあえず健康には気をつけろよといったおれに、安藤は「ありがとう」といった。「今日はちょっとお礼がいいたくて」
「お礼?」
なんでもない会話が続いて、ぼんやりしたまま終わるんだと思っていたおれはソファーに埋もれていた身体をちょっとだけ起こす。
「一番最初、まこっちゃんが家に上げてくれなきゃ、多分いろいろがこうはいかなかったと思う。ありがとう」
「いいよ。なんだよ。死ぬのかよ」
笑いながら聞いてみたら、むこうもちゃんと笑ってくれて安心する。
「みんないつか死ぬだろ」
あそっち? ローテーブルにおいてあったマグカップの、冷めて常温というよりも、ずっと冷たくなっていたコーヒーを一口飲んだ。
「えー。なんかあった?」
「いやいや。いつもどおりだよ。たぶんこれからも」
「なんか困ってたらいってよ。お金とか。おれもないけど」
「いいって、そういうんじゃないよ。こうやって話聞いてくれていつも助かってるよ」
「ぜんぜん。おれも楽しいし。これからもいつでも」
「うん。ほんとうにありがとう、最後の最後まで」
「最後の最後なの?」
「ははは。これからも」
「いまどこ」
「いま? っていうと、ほんとうにいま? 風呂場」
「風呂場? 風呂はいってんの?」
「いや、ただいるだけだよ」
「大丈夫か。今日なんか食べた?」
「食べたよ」
「ふうん。太った?」
「なんて?」
「いや、体重。いまどんな感じなのかなと思って」
「どうだろう。あんま変わってないと思う」
「そうか。ならまあいいか」
「うん」
「あと、そうだ。またなにかあったら、いつでも戻ってこいよ。おれの部屋になら泊まっていいから」
「本当にありがとう。本当に。あとそうだ。もう大丈夫だと思うけど」
「はいはい」
「お母さんのこと殴るなよ」
「ああ」
「念のため」
「いや大丈夫。大丈夫ってのも嘘くさいだろうけど、もうしないよ。約束というか宣言というか。それにほら、もうおまえの大外刈くらいたくないし」
「なにそれ?」
「おれにやったろ」
「あれオオソトガリっていうの?」
「そうだよ。知らないでやってたのかよ」
「ははは。どこかで見たものをなんとなく真似ただけだよ」
「なんだよそれ」
「ごめん、ちょっとおれの話していい?」
「え?」
「おれの話っていうか、考える時間たくさんあったからわかったことなんだけど、嫌なものって逃げ回ったところでどうせ向こうからくるだろ? だから八つ当たりしてる暇はないんだよ。漠然とした話でごめんな。でもわかるだろ?」
わかっている。
「そういえば後遺症とかないよな」
「え。オカンに?」
「いや、一応まこっちゃんに関してだけど、どっちもだよ」
「たぶんどっちも大丈夫だとは思うけど」
物覚えが悪いのは昔からで、強いては挙げない。「おれはでも大丈夫じゃないかも。なにやってんだろうな」
「まあ落ち着けよ。たいていのことは振り返るより、じゃあどうするかを考えるほうがいい」
「へえ」
「なんかおればっかり喋ってごめん。あとでまた余裕のあるときにでも思い出してよ」
「そうする。ただ、もしものときはまたおれをぶん投げてよ。マシになったつもりでいるけど、まだまだ全然ダメなままだよおれは」
「そこは自分でなんとかできるだろ」
「できるかなあ」
「しろってことだよ」
「厳しいな。ありがとう」
気がつくとおれのほうがぼやいていて不思議な感じだ。安藤に会いたかった。またこの部屋の庭側の窓から、こっそり音を消して入ってきてほしかった。おれは未だに鍵をかける習慣に戻れない。
電話が終わって家のなかをちょっとだけウロウロしてだんだん落ち着かなくなってきたおれは、安藤に電話をかけなおそうかなとも思うけどそれはちょっとやめにして土手まで散歩することに。
この時間帯の地平線はうっすら紫がかっている。
流れる風は埃っぽいのにひんやりとしていて、小さいころの運動会を思い出した。だれもいないグラウンドの中心まで歩き、そのままじっと立ち止まる。このまえスーパーで安藤の両親を見た。普通だった。ゆっくりした動きでカートを押している小さな女の人と、おいかけて食パンをかごに入れる白髪頭の痩せた男の人だった。安藤だったら別に殺されずに済みそうな気もした。そういう客観的な視点を安藤の家に介入させることで、なにかを変えることだってできたんじゃないだろうか。
どうせ安藤は殺せませんよ。
おれんちでしばらくお預かりしますよ。
だから……だからなんだ? いたずらにみんなが傷つくことも避けられるはずですよ? おれは自分がなにをいいたいのかよくわからない。そもそも、おれなんかに重要な言葉が吐けるとも思っていない。だから結局安藤の両親にはなにも伝えていない。気付かれないようにそっと店を出て、うっかり会ってしまわないように、何十分もかけて一つの方向にむかって歩き続けた。
ああ、くそ。
花火を買ってくればよかった。
今度はちゃんと風上に立って火を点けて。
それからおれは生活を変える。というか、まっとうする。ジョギングを始めたり、なんとなく買った本を読むようになって、自然とそれが習慣化して、空いた時間でバイトもはじめて、稼いだお金を母親に渡して、通い始めた柔術道場の月謝に充て、一年はあっという間に過ぎ、なんとなくも仲良くなった人も増える。バイト先の書店で知り会った杉作りんという大学生は映画が好きで、どこに感動したかをきちんと言葉にできて、世の中にはおれにはできないことができる人がたくさんいるなと思って、それが別に不快な感じでもないのが自分でも意外だった。恐怖の一つでも感じそうなものなのに。たまに杉作りんに誘ってもらって、いっしょにご飯を食べたりもする。彼女に安藤の話をする。彼女はすぐに安藤のことを覚える。
「きょうは安藤くんから連絡きた?」
「や、きてないよ」
「えー残念」
「もうこないと思うよ。わかんないけど」
「どんな感じの人なんですか?」
「安藤? うーん。背はおれと同じくらいで、顔は、なんだろうな。普通」
「普通ってなに」
「普通なんですよ」
「まあ見た目のことを聞いたわけではないんだけど」
「はは。あと、なんだろう」といいかけておれは言葉を見失う。「や、なんでもない」
「そういえばなんだけど、今度の映画だいじょうぶですか?」
「あ、うん? ごめん。だいじょうぶってどういう意味?」
「二時間くらい電源切るじゃないですか」
「ああ、そういうことか。ぜんぜん大丈夫です」
「ほんと? 気になりません?」
「そんな気を遣わなくても」
とはいっても確かにその二時間のどこかで安藤からの連絡が来るかもしれないと思うと、やっぱ映画はちょっとやめとこうかなとすら思えてくる。
なのでいろいろ考えて、安藤の番号を着信拒否にした。
杉作りんと過ごす時間が増えるも、付き合うとかそういう話にはならない。おれがそういった話題を避けていて、彼女もそれに気づいているけど、どうして避けているかを説明したくないので、たぶんもうしばらくしたら彼女と過ごす時間も変わっていくと思う。おれはこの腕を握り返す安藤の力を忘れないでいるし、忘れちゃならないと思っていて、もしかするとこのままなんとかなるんじゃないかとどこかで安堵していた自分について考えるようになる。
果たしていまのこの日々が、あの瞬間に期待したものなのだろうか? なんてことも。
でもわからない。
こういう話はだれにもしない。
なのですべてがちっとも判然としないまま、おれはジムで汗まみれになり、何度も投げられ、押し付けられ、極められる。書店でのバイトもやめて、杉作りんとのやりとりもあっさり途絶え、またこの部屋に戻っている。
母が寝てしばらくして、おれは自室の鍵をかけた。
深夜一時。
ネットニュースをあさり、部活の指導中に生徒に暴力をふるい、全治二ヶ月の大怪我を追わせた教師の情報をパソコンにメモする。事件のあった都道府県や市町村もとっておく。保存してバックアップもとる。それからまた別の記事を探す。
ふいに風の匂いがした。
冬よりも重さを得た、春の夜風の匂いだ。
おれは窓に目をやる。
鍵はしっかりかけられていたが、おれは動かない。息を殺して耳を澄ませ、しばらくしてからパソコンに向き直ると、安藤の名前で検索をかける。
なにも出てこない。
もう一度検索する。
出てこない。
でもおれは信じている。
このどこかに安藤がいる。
いつかまたこの窓を開けて入ってくる。
だからずっと眠らないでいる。