MidnightInvincibleChildren

書き下ろし短編:『Good morning, everyone.』

 

 深夜四時を回っていた。煙草を一本手に取り、先端を眺め始めてから一体どれだけの時間が経ったのだろう。矢野は考えていた。特別気になる箇所がある訳ではなかったが、そうすることで落ちつくことができた。矢野はライターを持っていない。そもそも煙草を吸う習慣さえなかった。マッチならどこかにあるはずだったが、それより先にコンロが目に入った。ガスの元栓を開け、つまみを捻ると、真っ暗な部屋に青い炎が浮かび上がり、仄かに空気を焦がした。煙草を青い光に近付ければ先端が赤くなり、鼻孔をくすぐる甘い香りが漂ってくる。矢野はそのまま煙草の燃える様を眺めていようと思ったが、コンロから離した途端に赤い光はみるみる弱まり消えてしまった。同時に先ほどまで滾っていた「燃やしたい」という衝動さえも醒めてしまったため、矢野は煙草を流し台に放り投げて水で濡らした。漂う残り香さえ鬱陶しく思えた。窓へと向かいカーテンを引く。朝日はまだ昇っておらず、触れられそうな闇が広がっていた。しばらく目を凝らしてみれば、夜空に浮かぶ雲がぼんやりと確認できる。直に朝日を拝めるだろう。矢野は椅子に腰を下ろし、机の上に置いてあった包丁を手に取った。広げられた新聞紙の上には、皮と実が削り取られ、蝋燭のように細くなったりんごの芯がのっている。矢野は窓に向かったまま、新聞紙目がけて包丁の刃を振り下ろした。芯は二つに折れ、床の上に落ちて転がった。肘かけに肘を置き、重力に任せ、包丁を握る手を地面目がけて振り下ろした。包丁は雑誌の上に突き立つと、静かに角度を変え、床の上に倒れる。目の前の窓ガラスには何も映っていない。実際には映っているのだけれど見えていないだけなのかもしれない。矢野は顔を近づけ息を吹きかけた。曇りは霧散してしまうが、残された黒い窓ガラスには、微かに自分の輪郭が映っていたので安心した。僅かに開かれた窓からは湿った風が入りこみ、室内をじめじめと汚していくかのような気がしてならなかったが、矢野はそれを放っておくことにした。この部屋に住み始めてまだ二週間ほどだが、今となってはすっかり矢野の安住の地へと変化を遂げている。色、温度、匂い、全てが矢野を安堵させた。日中はほとんど外に出ることもなくこの部屋で本を読んだり、ごくたまにテレビを見たりして過ごしていた。矢野は定職に就いていない。以前薬局でアルバイトをしていたことがあったが、頭痛薬を購入した男性の後をつけ、自宅前でその両足の骨を踏み砕いて以来通わなくなった。その男性客と面識はなかった。怨恨など生まれる余地すらないほどの関係性だったが、矢野はそうしなければならないと感じたのだ。風の匂いはかつて嗅いだことのあるものだったが、妙な郷愁に浸るのは避けたいと窓を閉めることにした。時計の針は四時三十分を指している。ふと、矢野は窓ガラスに映る自分に話しかけたい衝動に駆られた。しかし何を話せばいいのかが思い浮かばず、そんな自分を情けないと苛んでいるうちに涙が溢れてきた。二時間前にコンビニに行った。アパートから歩いて五分の場所にあるそのコンビニに、矢野は週に二回ほど買い物に行く。時間は決まって深夜だ。店員は主に床を磨いている。大学生だと思われる目の細い青年で、店内には彼の姿しか見えなかった。矢野が自動ドアを抜けてその店員の横を過ぎる際、小さな声でいらっしゃいませと聞こえた。矢野はその日発売の週刊誌を手に取っては適当にめくり、元の場所へ戻した。客は矢野一人だけだった。五分ほど経って自動ドアが開き、二人の男が入ってきた。一人は四十代ほどの背の低い男で、色の薄いサングラスをかけ、頭を角刈りにしていた。その後ろに続く若い坊主頭はくっきりとした二重瞼で、頭が小さく、両耳の鈍い光沢を放つピアスがやけに目立っていた。再び店員の小さなあいさつが矢野には聞こえたが、果たしてあの二人には届いたのだろうか。二人の男は首や肩を回しながら栄養ドリンクを一人三本ずつ手に取り、他の商品には目もくれずレジへと向かう。床にモップをかけていた店員は小走りでレジの中へと入り清算を始めた。矢野はその様子をじっと眺めていた。店員が釣銭をうっかり落としてしまわないかと期待した。その時に二人の男がどういう反応を見せるのかが気になったのだ。結局店員は無事清算を終えてしまったので、矢野は週刊誌を棚に戻し、果物の缶を五つかごに入れてレジへと向かった。坊主頭が栄養ドリンクの入ったビニール袋を手に、自動ドアに近づく。しかし外には出ずに、先に角刈りを通してからその後に続いた。店員がか細い声で値段を告げる。彼の鼻の頭にはぬらぬらと光る脂が浮いていた。矢野は脇に抱えていた焦げ茶色の袋を店員の前に差し出す。それは底の方に大きな染みの付いた布製の袋で、色を合わせる意思の伺えない白や緑や赤や青の糸で所々縫合されていた。その薄汚い袋を見て店員は細い目の奥で真っ黒な瞳を左右に動かし「困惑」の色を一瞬、その顔に浮かべた。その様子がどうしても演技にしか見えなかった矢野は、この店員はどこか自分に似ていると思った。袋を手にコンビニを出て辺りを見回し、矢野は先ほどの二人を探した。すぐ前の横断歩道を渡っている人影が目に入った。信号は赤だったが矢野もその後を追い横断歩道を渡った。車のライトが遠くに確認できる程度で、道路は実に静かだった。距離を十メートルほど保ったまま、矢野は二人の後をつけた。どちらも矢野の存在に気付いている様子はなく一度も振り返らない。どこかで彼らが、彼らの居場所、例えば住居などの矢野の侵入できない領域に入ってしまったら、この尾行は終了させるつもりだった。先を歩く二人は何かを話している。矢野がかすかに足を速めると、夜の冷たい空気が頬を撫でる。矢野にはそれが、堪らなく鬱陶しかった。二人の男はテナント募集の張り紙が窓に貼られている、老朽化した建物の脇に入った。矢野の靴底がアスファルトを蹴る。袋がズボンに擦れ、缶がぶつかり合う小さな音が届いたのか、角刈りの男が音もなく振り返った。口には着火前の煙草が咥えられている。矢野はその煙草の先端を見つめたまま袋を振り上げると、その男の頭頂部目がけ、勢いよく振り下ろした。袋によって一つの塊と化した五つの缶は、男の頭皮を容易く裂いて骨を砕き、意識を遥か遠くへと一瞬で飛ばしたようだった。続いて膝を踏み潰そうと考えた矢野は足を持ち上げたが、角刈りの男は声一つ発さないまま、アスファルト目がけてうつ伏せに倒れ込んだ。坊主頭の男は、隣で肩をすくめたまま動かない。袋を手放すと、缶のぶつかり合う音がくぐもりながら響き渡った。矢野は角刈りの背中に跨り、その頭を両手で掴むと、顔面を地面に叩きつけた。角刈りの頭頂部の裂傷から血が跳ね、地面に無数の斑点を描いた。坊主頭が何かを叫び、矢野の肩を殴るように押した。矢野は崩れた体制を整えると、再び単調な動作に戻った。両腕を動かしたまま、坊主頭の方を見た。その男は瞬きをしていなかった。血で滑り、その手が角刈りの頭から離れると、矢野は立ち上がってポケットに入っていたスプーンの柄を握りしめる。坊主頭は必死で頭の中を整理している様子で、地面に横たわったまま髪の毛の隙間から血を噴き出している角刈りを、虚ろな目で眺めている。矢野は坊主頭の耳を鷲掴みにし、路地のさらに奥へと引きずり込んだ。坊主頭が声を上げたので、その喉に何度も拳を打ちつけた。坊主頭の真っ黒な瞳のみが、闇の中でぬらぬらと光っていた。手に握られたスプーンは、肌に張り付くかのようだった。坊主頭のくっきりした二重瞼にスプーンの先端をねじ込むと、時計の針と同じ向きに拳を回した。瞼のささやかな弾力に抗い、スプーンの先端は坊主頭の眼球を押し潰した。矢野の手が生温かい液体で濡れる。坊主頭が悲鳴を上げようとしたため、矢野はもう一度その喉に拳を叩きこんだ。咳き込むと同時に、坊主頭の口から唾液に交じった血が飛んだ。自らの顔に押し付けられる矢野の拳を、坊主頭は力強く掴み、退けようとするが、スプーンの先端は更に奥へと突き進み、遂には脳へと達した。力のない擦れた声を絞り出しながら、矢野の腕を掴む力を弱めていく坊主頭は、身体を震わせ地面に膝から崩れ落ちた。眼孔から抜けたスプーンの先には黒い塊が付着していて、矢野は虫を追い払うような仕草でそれを地面に振り落とす。坊主頭は顔を両手で押さえたままアスファルトの上で依然震え続けている。矢野はその様子を眺めながら、手に付いたあらゆる液体が不快だったので、着ている服の裾で拭った。生温かい鉄の臭気が漂っている。強烈な焦燥が矢野を襲った。しかしそれは不愉快なものではなかった。ふと足元に転がっている栄養ドリンクが目に入ったので矢野はそれを強く蹴飛ばした。静まり返った道路の真ん中でビンが軽快な音を立てて回り、夜の闇の中へと消えていった。角刈りの男は爪先で脇腹を突いても反応を見せなかったが、念のために血の噴き出している頭部を思い切り踏みつけると、五度目でその硬い骨が陥没し、更に大量の血が溢れ出て足元を広く濡らした。焦燥は少しずつ消失していった。矢野は血でじっとりと湿った袋を拾うと、破れていないか手でなぞった。無事だった。この頑丈さが気に入っており、これまでずっと使い続けていたのだ。袋の下に落ちていた一本の煙草。矢野はそれを拾ってポケットに入れる。坊主頭の耳に刺さったピアスが、男の揺れに合わせて外灯の光を反射し続け、矢野の目にはそれがストロボのように映った。先ほどの焦燥は、視覚の片端に入り込んだこの点滅を無意識に察知していたからなのかもしれない。血に塗れたスプーンはそのままポケットの中へ入れておいた。少し遠回りをして帰ろう。公園で手と靴を洗わなくては。矢野はふと、さっきの店員の顔を思い出した。しかしその理由が自分でもわからず、まあいいかと地面に靴底を擦りつけながら最寄りの公園へと向かった。遠くで連なるビルの隙間から、微かな光が漏れている。今日もまた朝がやってきたのだ。コンビニで買った缶の内、破れていない三つを次々と平らげた。帰ってきて鏡を見ると頬に糸くずのような黒い塊がついていた。しかし矢野にとってはそれ以上に、鏡に映る自分の顔が知らない誰かのように思え、しばらくの間、不安な気持ちのまま眺めていた。汚れた服と袋は、風呂場の浴槽に張った「スープ」に浸してある。生温かい臭気は未だ漂っていたが、もう気にならなかった。そろそろ布団に入ろう。椅子の上で窓を眺めるのにも飽きた矢野は欠伸をする。窓に映る自分の顔が、相変わらず疑わしく思えてならない。今日はきっと気持ちの良い日になるだろう。矢野は目を細め朝日をしばらく眺めていた。そういえばあの角刈りはうつ伏せに倒れたままだった。どうせなら仰向けにしてやればよかっただろうか。そうすれば朝日を拝むことができただろうに。布団の中に潜り込み目を閉じる。窓から差し込む陽光に顔を照らされていると、再び涙が溢れてきた。この涙がどの感情によって流れ出たものなのか皆目見当もつかなかった。それでも矢野は毎日、朝日を受ける度に泣いている。明日もまた泣いてしまうのだろうか。涙の止め方を矢野は知らない。