ノルウェージャン・コック

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村上春樹を読み始めた。

 

これまで村上といえば龍だと思っていた僕は半ばネタ化した村上春樹像にしか触れてこなかったので、ほんとうにスパゲティを茹でながら射精するようなキザな話ばかり書いている人なのだろう、と思っていた。いざ読んでみるとまあそんなに違わないけど、さすがにそこまででもなかったので安心した。

 

彼のデビュー作である『風の歌を聴け』は「大学生帰省もの」だ。大学生が長期休みに地元に帰って、人に会ったり街を歩いたりする、そんな話はもともと大好きなので、個人的な入口としても最適な1冊だったように思う。「Chill out」なムードが、そこにはあった。

 

 久しぶりにiTunesを開いた。愛用のノートパソコンが今年で8年目に突入。大学時代から溜め込んだ音楽がぜんぶ入っている。村上春樹っぽい曲を探そうと思った僕は、ビートルズの『ラバー・ソウル』を再生した。奇しくも村上春樹の2作目『1973年のピンボール』にも登場するアルバムだ。かつて聴いていた音楽を久々に流してみると、その当時の記憶と匂いがおぼろげに蘇ってくる。

 

 

 

 

 

 

大学生のころ、僕はアパートで一人暮らしをしていた。大家さんが1階に居を構え、2階・3階が賃貸となっているタイプのアパートで、住人のほとんどが同じ大学の人間だった。大家さんは面倒見のいい人で、もらいものだからと鮮魚をくれたり、一年に二度くらいの頻度で手作りカレーをご馳走してくれた。入居時にご挨拶として紅いもタルトを持参したのは正解だったのだ。

 

大学1年のある夜、自室でひとり過ごしているとインターホンが鳴った。おそるおそる覗き穴を覗いてみると、そこにはお隣さんである大学院生と、知らないメガネの女が立っていた。

 

僕はお隣の大学院生にも入居時に紅いもタルトを渡していた。そのお返しとして塩コショウ(「いまこれしかないんだけど」と言って渡してきた)を受け取っていたので、その後も部屋に招いてもらったり、漫画の貸し借りをしたりするような仲になっていたのだが、その隣に立ってニコニコしている女のことはなにも知らない。警戒心の強かった当時の僕は、ドアをほんの少しだけ開け、「どうしました?」と蚊の鳴くような声で聞いた。僕が自閉傾向の強い人間であることを知っていた大学院生は「寝てた?」と確認を取ったあとでこう続けた。

 

「大家さんがカレーつくったけど、どうかって。〇〇ちゃん(僕のことです)もうご飯食べた?」

 

 「あ、まだ食べてないです」

 

「食べに行こうよ」

 

「いいですね」

 

「こんばんは」

 

女が会話に入ってきた。

 

「こんばんは」

 

大学院生の話では、その女は下の階に住んでおり、僕と同じ大学の1年生だった。大学に友達がひとりもいなかった当時の僕は、もちろんその女子とも面識がなく、はじめましてと挨拶を交わした。それから三人で大家さんの部屋に行き、カレーを食べた(この夜、おかわりをどうしても断りきれずに大盛り3杯を胃に詰め込んだ僕は、大家さんちのトイレで盛大に吐いた)。

 

その日を機に、大学構内で彼女と会えば挨拶をするようになった。同じアパートのよしみ、という概念がちょっと楽しかった。専攻は違ったけれどどちらも1年生だったため、でかい講義室で受けるような講義がいくつか被っていた。

 

その子はメガネで、色が白く、背が高く、めちゃくちゃおしゃべりだった。高田純次似のお父さんが大好きだと言っていたし、姉妹の中では自分が一番巨乳だとも話していた。たしかにおっぱいがでかかった。目を合わせて話すことが苦手なのに、おっぱいが大きい人が相手となると視線を下げることも憚られる。迷いに迷った末に、僕は彼女の目とおっぱいを4:6の割合で交互に見ることに決めた。二つ並んでいる、という点では大差ない。

 

しばらくして彼女は、僕の部屋にも遊びに来るようになった。「私は基本人と話してないとダメだから」というエクスキューズが向こうから提示されていたので、じゃあいいかと僕も思った。しまいには、女友達と連れ立って僕の部屋に来たこともある。その日はふたりの「同じ専攻のバカ女子軍団がガキ過ぎてつらい」という話を夜の十二時くらいまで聞いて帰したあと、頭の中でリフレインする「高校生かっつーの!」というパンチラインをノートの端にメモして寝た。

 

2年の夏のことだった。

真夜中、部屋で提出期限ギリギリのレポートをまとめていた僕の携帯に通話が入る。下の階の彼女だ。無視しようか迷って、電話に出た。

 

「飲みすぎて動けないから迎えに来てほしい」

 

なんじゃそりゃ!と思いはしたが、僕はビニール傘を武器がわりに夜の街へと飛び出した。このまえ彼女と話した時に、夜道を歩いていたら不審なワゴン車に横付けされ、ヤンキーっぽい男に声をかけられたという話を教えてもらったばかりだった。大学1年の前期、講義にも出席せず部屋で筋トレと読書と嗚咽を繰り返していたあの日々の成果が問われるときが、ついに訪れたのかもしれない。

指定された居酒屋の前に行くと、彼女と知らない女子が二人で待っていた。見た感じ、介抱役を任された友達らしかった。当の本人はほんとうにベロベロに酔っていてちょっとだけ引いた。友達から介抱を引き継ぎ、アパートまでの道を並んで歩く。ジョギングをしているおじさんが横を通り過ぎるだけで彼女は肩をこわばらせ、嘲るように笑った。

彼女は「最近ちょっとだけ痩せた」という話をした。7キロ痩せたらしかった。それってちょっとか?と思った僕は雑談の端々に見え隠れする彼女の不調に気づいた。大学がつらいらしい。厳密に言えば、専攻内での人間関係で気を揉んでいるらしかった。大学がつらい、という話なら得意分野だったので、ひたすら同意を繰り返しているうちにアパートに到着。

階段を上がって部屋のまえまで送ると、彼女は「今日、〇〇ちゃん(僕です)の部屋泊まっていい?」と言った。最近眠れないので、部屋にいさせてもらうだけでいいとのことだった。よく意味がわからなかったが、当時童貞だった僕は人間がどんなふうに距離を詰めてくるものなのかまったく見当がつかなかったので、とりあえず承諾した。大家さんの出してくれるカレーを吐くまで断れないような人間であることも、理由の一つだった。

 

僕はタオルケットとクッションを彼女に渡し、自分はちゃっかりとベッドで爆睡した。

翌朝を迎えれば早々に彼女を起こし、二、三会話したあとで帰ってもらった。

 

 

 

 

いまでもたまにあの日のことを思い出す。

 

もしその気になれば絶対に抱けていただろう。 

 

とはいえあの日、僕が自分のベッドで先に寝入ってしまったことは決して間違ったことではなかった。その一件を彼女が友達に話したところ、誰もが「めっちゃ紳士」と感動してくれ、たいへんな評判を呼んだらしいのだ。僕はめっちゃ紳士なのだ。

 

 

村上春樹をきっかけに、そんなことを思い出した。ちなみに彼女はその後、一学年上の先輩と付き合う。その先輩は回らない寿司屋でアルバイトしていて、卒論に集中すべく後釜を探していた。そこで彼女に相談する。彼女はある紳士を思い出す。僕の携帯が振動する。

 

僕は大家さんの3杯目のカレーも、女の子の申し出も断れない。

 

 

 

彼女はとんでもないファムファタールだったわけだ。

 僕のイングロリアス・マザーファッカーとしての日々の始まり。そのきっかけをつくった張本人だ。

 

 

ふざけやがって。

 

 

泣きながらシコる日々。

 

 

 

(now playing くるり-『リバー』)