MidnightInvincibleChildren

書き下ろし短編:『式では泣かないタイプです』【前編】

 

16:00~

 

 

 ホームルーム終了後、教室の後ろの方で加藤たちとまんこからピーナッツを飛ばすおばさんの話をしていたら、すぐ近くを女子バレー部の若本紅愛が通りかかったので違う話に変えた。

 僕の学ランが消えた話だ。

 そもそもこっちが本題だった。


 学ランが消えたのは全国的にインフルエンザが猛威を振るう真冬のある日のことで、にしてはまあまあ気温が高かった。僕は体育のサッカーでゴール前を守りながら、浅野とふたりでオナニーするときどんなリズムでしごくのかという話をしていて、「COMPLEXの『BE MY BABY』と同じリズムだよ」と僕が言うと、「ビーマイベイベーで一往復?」と浅野はジェスチャー付きで尋ねてきた。
「いや、『ビーマイ』で1。『ベイベー』で2……あ、もうちょっと早いか。ビーマイベイベービーマイベイベー……あ違うな、やっぱビーマイベイベーじゃない」
「ちなみにおまえってどっちの手でしてる? おれ普通に右手なんだけど」
「あ、それはおれ左なんだよね」
「おお。でも右利きだろ?」
「そうそう、でも左」
「やっぱりいいの?」
「ていうか右手でスマホ持ってやるから左手しか空いてない」
「そっちか。おけばよくない?」
「寝そべるのが好きだから」
「なるほど横になるタイプね」
「そうそう。仰臥位」
「ん? なにそれギョウガイって」
「あ、あおむけのこと」
「じゃあそう言えばいいだろ」
「あごめん、たしかに」
「なんでわざわざ難しい言葉使うんだよ」
「そういうとこあるんだよね、おれ」
 とそこで不意にボールが転がってきて、反射的に動けた僕は思いきり蹴り返すことに成功した。バツの悪さがそうさせたのかもしれない。

 風は肌寒かったが空からは暖かな日が射していて、砂埃とともに宙で軌道を変える頼りないボールを細めた目で追った。ずりーなあと隣で浅野が漏らし、僕は僕のついカッとなって、といった衝動をちょっとだけ誇らしく思った。素早い蹴りとその手応え。及び浅野の羨望も手伝ってか、いつもよりもやや気が大きくなっていた。

 僕は最後に学ランを脱いだのがいつどこでどんな状況だったのか、なにも覚えていないのだ。

 

「がんばれ」

 と浅野は言った。なんだよ、捜すの手伝ってくれない感じじゃん、と思う僕にやつは言うのも面倒くさいといった感じ「これから教習所」とつぶやいた。
 ピロティーのベンチに腰掛ける僕らは、冷たい風に吹かれながら冷たいエナジードリンクを飲み、さっむ~と繰り返していた。免許どう、取れそう? と尋ねる僕に浅野は「まあまあ。大阪行くまでにはなんとか」と、遠くを眺めながら、下唇をとがらせていた。当然ながら、かわいこぶっているわけではないのだ。一方で寒さに腕を組む僕は、教習所にはいつごろから通おうかなと考えていた。いまから通い始めたところで四月に間に合うかはわからない。それに今はどちらかというと免許よりも遊ぶ時間がほしいので、予定を詰めてまで通うのも気分じゃないのだった。という結論は昨年末から何度も出ているが、同じことをまた一から何度も考えてしまうのだ。
 そういう症状ってなにかあったっけ?
「あ、そうだ」と浅野がリュックに手を入れ、筒状に丸められたルーズリーフの束を取り出す。
「書いてきたぜ」
 僕は初め、なんだこれは、と思った。受け取って開いてそこにタイトルが記されているのを見てようやく納得する。

 それはあまりにも早すぎる提出だった。なぜなら文集用原稿の募集をかけたのは一昨日のことだからだ。

 一昨日の放課後、僕は部室で坂本と直立のまま向き合って、その場から一歩も動いてはならないという制限のもと、互いの隙を突いて股間を攻撃し合っていた。隙を突かれて坂本から強烈な一撃をもらった僕が膝をついたその瞬間、ふと例年作成してきた「卒業文集」を今年も作らなければならないことを思い出した。昨年の卒業文集のあまったやつが、ソファーの脇に積まれているのが目に入ったからだ。

「お、これってもしかして戯曲?」
 そう聞くと浅野はやや遠慮がちに肯いた。戯曲という言葉にまだ親しみがないからだろう。僕も一年のころまではそもそも戯曲という言葉を知らなかったし、いまでも油断すると「コント」と呼んでしまうのだが、それだとぜんぜん厳密じゃないし、そもそもカッコがつかない。まずはカッコから入ろうと、戯曲、随筆、小説と大まかに分けて呼ぶように決めていた。
 僕がこの作品が一番乗りであることを伝えると、「おまえこそ真っ先に書いてなきゃダメだろ」と浅野は笑う。僕には、バツが悪いときには決まって「たしかに」と答えてしまう癖がある。

「一応渡しといたから。誤字脱字ないかとかも、チェック頼むわ。まさかとは思うけどこれもなくすなよ」
 はははまさか、もう脱ぐものないし、と答えると、浅野は深い疲労の滲む苦みばしった表情で小さく笑った。もともとの顔がそうで、ただ息を吐いただけなのかもしれない。
「もし免許取れたらドライブ行こうぜ」
 冒頭部に軽く目を通していると、ふいに浅野はそんなことを言った。いつもならだれかから一方的に誘われて嫌々言いつつも、みたいなことが多い浅野なので、そのらしくなさを笑おうかとも思ったけど、ここで茶化すのはなしだなと思った僕は「いいね」とだけ言った。動揺なんて察されてはならない。
「それよりもはやく学ラン捜せや。いまはだいじょうぶてもすぐ寒くなるだろ」
「すでにじゅうぶん寒いんだぜ」
「うるせ。夕日ももう沈むよ。あっという間だから。高校の三年目と同じで」と急に浅野が言いだすので困る。
「なにそれ。先生たちのマネじゃん。一月は行く。二月は逃げる。三月は去る的な」
「違う。本当にそう思ったからそう言っただけ」
「ああ。ならごめん」
「謝られることでもない気がする」
「まあね」
「いいから早く捜せって」
「……冷たくしないでよう」と僕は細い声でひっそりつぶやいた。これは、中学のときに浅野と一週間だけ付き合っていたソフトテニス部の畠中さんが、最初で最後のデートの帰り道に呟いたといわれる伝説的な一言の真似だった。浅野の表情をチラリとうかがうと、陰のせいかみょうに黒みを帯びた浅野が、「おい」と言って表情を変えることなく僕の胸のあたりをグーでパンチした。目が真っ黒で鮫みたいに見えるので、僕はへこへこしながらやつの空き缶を受け取る。

「これ、捨てとくんで」

「あ。おねがい」と浅野はちょっとだけその場でモタモタして、それから「じゃあ行くよ。また」と校門に向かう。その背中を見送る僕は、とりあえずルーズリーフをズボンのポケットに押し込み、それからちょっとだけぼーっとしたあと、のっそり記憶をたどってみることにした。学ランについて。

 

 いや、そもそも僕はスマホを捜していたのだ。普段からズボンの左ポケットに入れていた僕だったが、基本的にイヤホンをつけていることが多いため、冬場はもっぱら幅の広い学ランのポケットに入れていた。なのでスマホがないことをきっかけに学ランがないことにも気づき、教室にいた人たちにも尋ねてみたものの出てこず、じゃあラインでみんなに呼びかけようかとまたスマホを捜した。

 

 この体たらくの理由として、ひとつに僕がここのところ、ただでさえすぐ腰を下ろしがちなこの脳みそを放任していたせいもある。もちろん卒業間近という環境に甘えることなく、最低限、授業はまじめに聞いているつもりだったのに、自習時間というものが圧倒的に増え、いままで読もうと思っていた小説なんかを消化していると、学校にいながらにして日曜の午後みたいな気分になってくるのだ。日曜の午後といえばオナニーなので、このままじゃ僕は休み時間にトイレでオナニーでもしてしまうんじゃないか? そんな懸念なのか欲望なのかもよくわからないものを感知して、苛まれる中、僕はついに学ランをなくすまでに落ちぶれてしまったらしい。

 

 寒っ。

 ひねり潰した空き缶をゴミ箱に投げ入れた。歩きながら胸を反らすと肩から乾いた音がする。校舎内に戻った僕は、いつもより遅めに歩きながら、自らの過失のほかにもいくつか想定してみる。例えばここんとこの僕がずっと「こんな感じ」であることを快く思っていない人がいて、例えばそれはサッカー部の清とかその下っ端の池田とか永野のことなんだけど、そういう人が僕の脱いだ学ランを持ち去った可能性だってゼロじゃない。僕だって疑いたくはない。しかしどうも清は僕のことを殺そうとしているらしかった。つってもそれは坂本から聞いた話でしかないし、信憑性で言えば一笑に付すことだってできないわけじゃないが、ひとつだけ心当たりのようなものがあるにはある。僕はこのまえ体育館のギャラリーにて女子バレー部の練習をみんなで眺めていたとき、文化祭における三組の劇の話になってつい
「でもあれは超きつかったな~」
「そう?」
「うん」
「え、どこが?」
「だってサッカー部が前に出たいだけの茶番だったから」
「ひで~」
「茶番だし、主役張るくせに声張らねえし。なんであそこでちょっとだけカッコつけんだよ。変だろ」
「ひで~」
「いいよもう、知らないよ、クソだよ! クソクソクソ! サッカー部はクソ!」
 と発言してしまい、それを坂本が別の場所でだれかに話し、三組の劇こと『MC HUJIKIYOと愉快な仲間たち』の主演を張った清の耳に届いてしまったらしかった。僕は別にあの劇に携わった人たちを不快にさせたくて発言したわけじゃないし、本当に思っていたことをその場の空気とかでやや露悪的に盛って喋っただけなのでこれは完全に吹聴した坂本が悪いと思っているのだが、とはいえ怒りの種を蒔いたことは事実なので、ああやだなあ、面倒くさいなあと思うのだった。
 サッカー部が犯人じゃありませんように。僕はそう願うのは、もし仮に本当にそうだった場合、こちらにできることなんてなにもないからだし、実際その可能性がすこぶる高いことも承知の上だからだ。清に限らず、ここんとこのサッカー部は本当に僕のことを殺そうとしている節があった。つい最近だって放課後の廊下を一人で歩いていると、サッカー部の永野が通せんぼするように立ちはだかったかと思うと、挨拶のように足で僕の足元を小突きながら、ぶつぶつ低い声でなにかを言い始めた。僕のハートはその状況に耐えうる強度を持っていなかった。趣旨がまったくつかめいので、僕も終わりを想像できない。僕より身長の低い永野相手に、その身長差を埋める配慮も含め、文字通り萎縮しながら少しずつ後退するほかなかった。
「おいコラ安藤」

「はい」

「おい、なあ、おいコラ安藤」

「はい、はい」

 永野も永野で、絡みはしたもののオチを用意している様子がなく、同じ言葉をイントネーションを変えながら連呼しているだけだ。二人組の女子が僕らを避けるように通り過ぎ、「え、え?」と声を潜めながら笑い合っていた。

「またな」

 満足気に立ち去る永野の後ろ姿を睨みつけながら考える。僕を見かけたらとりあえず襲撃する、というお達しのようなものが、知らないあいだにサッカー部内に流されているのだろうか? 僕自身の普段の行いが悪いせいもあるんだろうけども、とは思う。でもそれが暴力を肯定する理由足り得るかといえば違うでしょう? 彼らの野蛮な血の疼きをどうやれば鎮められるのか、その方法を僕は知らなかった。そもそも僕は清なんかとはあまり喋ったことがない。もし清が僕の発言に怒っているとして、それが実際どの程度なのか、どういう姿勢で臨めば許してくれるのかがまったく見当もつかないし、いたずらに不安だけが膨れ上がってしまう。いやでもやっぱり一番おかしいのは坂本あの野郎。なに勝手に喋ってんだよ。

 

 僕はだんだん腹が立ってきて、まずは七組へと向かう。あのインターネット野郎に学ラン捜索への協力を強制しようと思ったのだ。七組の黒板の前には福地がいた。
「福地くん、坂本のやつ見なかったかい?」
 黒板前にいた福地はピアノの発表会に嫌々立たされた少年のような、右肩が脱臼しているのではないかと思えるいびつな立ち姿で首を振った。部室かな? 僕は学ランがなくなった旨を福地に、まあでもたかが学ランがなくなっただけだ、と半ば自分に言い聞かせるようにして伝えた。
 なくなった、というか見失った?
 そんな気もするんだよなあ。
 そもそも学ランなんてものは学校にいる間ずっと目に入るようなものだし、家ですぐそこにあるリモコンを見つけられないとか、メガネを額にかけたままメガネメガネつぶやくような、後者はちょっと違う気もするけど、そんな感じで日常に訪れる魔の瞬間に飲まれただけなのかもしれないじゃん。それに学ランなんてものは拾ったところでラッキーとなる代物でもないので、たぶんふつうに返ってくるだろう。ポケットの中がコンビニのレシートだらけの他人の学ランなんて僕ならほしくない。最悪今日が無理でも明日、明日が無理でも明後日、明後日が無理でも……ってな感じで、譲歩に次ぐ譲歩で心に余裕ができた僕は、再び廊下をあてもなく進む。

 

 職員室前の廊下には掲示コーナーがあって、そこには先週催された球技大会a.k.a.三年生を追い出す会の写真が貼り出されている。まったく活躍しなかったどころか途中から部室のソファーで漫画を読んでいた僕だけど、だれか知ってる人の写真ないかなと探し始めたら止まらない。例えば町山さん。彼女は……いた。僕は町山さんを見つける能力に長けている。全校集会解散時の人混みの中でも僕はわりとすぐ町山さんを見つけることができる。彼女の容姿に関する多角的なデータが脳にインプットされているからだろう。すでに三枚ほど町山さんの写り込んでいる写真を発見した僕は、流れで浅野も見つける。後藤のなっちゃんのもあった。そんで中川とエルヒガンテのニコイチ・ビッチーズの写真を見つける。中川がその白くて長い腕を高く突き上げなにかを叫び、その隣でエルヒガンテがギュッと圧縮したようなその体躯を地上十センチほどのところで滞空させている写真だった。ふたりの日に焼けた赤い髪の毛まで、空気に押し上げられて蛸の足みたいに波打っている。

 最高じゃん、と僕は思った。こういう写真こそ、卒業アルバムに載っているべきなのだ。被写体である意識を持たず地面を蹴って跳ね上がっている、そんな一瞬を切り取られたという痛快さと、その痛快さにも勝る瑞々しさが交互に押し寄せ、僕はなんとも耐え難い気持ちからこのうえない無表情となった。

 

「おい」

 

 とつぜん声がして僕が表情そのままに振り返ると、呆れや蔑みの混じる鈍い色をその顔に浮かべた中川とエルヒガンテが背後に立っていた。僕は気づかれないようひっそりと表情を取り戻す。
「もしかしてだけど、心霊写真とかさがしてる?」
「暇やな~」
 その態度の一方で、僕の周囲は一気に甘い香りに包まれた。部活をやっているがゆえに高い意識を持っている女子特有の、シーブリーズっぽい香りだった。僕は彼女たちから距離を取るように、一歩脇に寄る。「まさか」
「あ、そこに立たないで。並んでるの見られたら恥ずかしいから」と後から来たくせに中川が言う。冬場に学ランを着ていないからバカ、ということになったのだろうか? 一応、彼女たちにも事情を説明すると、
「じゃあ早くさがせよ」
「見てて寒いんだよ」
「二つの意味で」
「やば。ほんと二つの意味で」
 とか言って自分らでニヤニヤしたかと思えば
「てかさ、たぶんあんたさ、やっぱ頭ちょっと変になってんじゃない?」
 とくる。懸念を突かれた動揺を隠しながら、やっぱってなんだよ、と僕が尋ねると、
「だってあんたここんとこずっと遊んでるでしょ」と中川は続ける。
「まだ進路決まってない人の気持ちとか考えたほうがよくない?」よくない? が語気もそのまま僕の中でリフレインする。
「だね。マジでそれ」とエルヒガンテ。
「あ、思い出した。そうそう、このまえこいつさ」
「うん」
「ベルトの後ろの方にトイレットペーパー挟んで廊下走ってた」
「は? きも、え、どういうこと?」
「やばいよね、わかんない……」
「きも……」
「しかもいつもの雑魚軍団とだし」
「ふきだまりの」
「安藤、ほんとなにしてんの?」
 僕は頭いっぱいに溜まった反論を整理する。まず、なにしてんの? に関して応えるとするのなら、僕は坂本たちとタグラグビーをしていたのだ。タグ代わりにトイレットペーパーをベルトに挟んでいただけで。あとそもそも、なにしてんの? じゃねえんだよ、と僕が思うのは、彼女らだって進路が決定して放課後を悠々過ごしている側だからだ。自分らのことは棚上げして説教垂れんじゃねえよと思う僕だが、これは売り言葉に買い言葉、言われていることの正しさは痛感しているし、胃も痛くなってきた。
 仮に僕が進路未定組だったとしよう。不安と焦りで鬱々としているところで、廊下をバカが全力疾走しているのを見たら何を思うだろう? 殺したくなるのかもしれないし、さすがにそれは実行できなくとも、そいつの持ち物くらいなら燃やしてやるかもしれない。僕は一年ほど前に軽音楽部との関係が悪化した際、文芸部の特攻部隊で大事な機材の破壊を試みかけたことがあった。実際は弁償のこととかを考えて二の足を踏んだ末に白けちゃったのだけど、学ランくらいならほどほど高くて、ほどほど弁償できる感じがある。だから学ランを盗むくらい誰にだってやれそうだ。そしてそうなると、容疑者は三年生全員、いや全校生徒ということにもなりかねないので、僕の胸はゴリゴリと摩耗し、ついには呼吸さえ忘れかける。
 そんなふうに鬱々としている間にも、ふたりは写真を眺めている。それから「あんたのはないね」と、練習した台詞のように勢いよく言い切った。いやなんでだよ、この後頭部は僕だろ。指差す僕を無視し、冗談はさておき、みたいな抑揚のない声で中川が言った。
「でも安藤あんたさ」
「なに」
「学ランはないとヤバくない? 卒業式とか」
「なんで?」
「だってそうでしょ。一人だけシャツで出席ってたぶん無理だよ」
「バカっぽいから?」
「いや、式だもん」とエルヒガンテ。
「最悪帰されると思う」
 え、急になんだよ。彼女らの説得力にたじろぐ僕は手脚になぞの倦怠感を覚えるが、それを察したのか、エルヒガンテがあごをしゃくる。

「だからいまちゃんと探しとけって」

 たしかにそうだ。

「ありがとう。事の重大さにいま気づいた」
「今でよかったじゃん」と中川。
「たしかに」
「もしうちらもそれっぽいの見つけたら教えるわ」とエルヒガンテ。
 え。僕は彼女の炊飯ジャーのような顔と向き合い「戸田さん」と言った。彼女の名前は、戸田セリナといったし、当然のように、エルヒガンテという呼称は本人に面と向かって放ったことなどない。
 彼女は「ん?」と下唇を突き出し、わずかな隙間からやけに細かい下の前歯をのぞかせた。
「ありがとう」
「うん」
「中川も」
「わたしは教えないよ」
「教えろよ」
 ということで僕は自分のラインIDを伝えようとする。すると中川が「そんなの知ってるわ」と制するので、まあそうかと思う。この三年間、同じ学び舎で過ごしてきたのだ。僕らの間には、ちゃんとそれだけの時間が流れている。
 僕はもう一度言う。
「ありがとう」
 そういえばスマホも一緒になくしたんだということは、あとになって思い出した。

 

 式に参加できないのはまずかった。後々話のネタにできるとか、そういう風に思えないのは僕が今を生きているからにほかならない。後々のことは後々の僕のものでしかない。よって、いまは学ランの捜索に心血を注がなければならない。
 ということで職員室にて現文の渡部先生に学ランの落し物はありませんでしたかと馬鹿正直に聞いてしまった僕は、ここでもまた気のゆるみをブスブス突かれたあと、部室の掃除もちゃんとしろとバリトンボイスで命じられ、いそいそおいとまする羽目となった。どうも学ランの話は渡部先生には残らなかったみたいで、結果として説教を受けただけで終わってしまったわけだ。僕が腑に落ちなさを噛み締めながら職員室を出ると、そこで野球部の照本肇と鉢合わせた。その小脇には大学ノートが挟まれていて、話を聞くと、提出物を遅れて出しにきた、と照本は敬礼した。僕もほぼ同じタイミングで敬礼していた。
 照本肇と僕はニ年の後半から同じ予備校に通っていて、授業をサボって同じファストフード店に入り浸っているうちに仲良くなった。なので言葉を交わすようになったのもここ半年くらいの話なのだけど、
「学ランなくすやつ初めて見た!」
 と体をくの字に折って膝に手を付く照本を見ていると、僕はこの悲壮感のなさが好きなんだな、としみじみ思う。
「そうはいっても、ことは結構深刻なんだよ照本氏」
「あ! そうかそうか! ごめんごめん!」
「いやぜんぜん。でもどっかで怪しい学ラン見つけたら教えてよ。といってもスマホも一緒になくしたんだけどさ」
「やば。じゃあどうやって教えりゃいいの?」
「おれの教室に持ってきてくれるとか、あと文芸部の部室に届けるとかしてくれたらありがたいけど、まあそこまでしなくてもいいや。したいようにしてよ」
「なんだそれ。でも了解!」
「よろしくお願いします!」
 執拗な敬礼の応酬をへて一通り満足したあと、僕は「それじゃまた」とあてもなく歩き出す。が、間髪入れず背後からは照本の声。
「そういえば、安藤! 坂本が探してたぜ!」

 

 物事がようやく動き始めた気がした。
 僕は早速自分のクラスに戻ってみる。そこには加藤と野球部の山之内がまだいて、僕の机でオセロをしていた。
「まだ見つからない?」と加藤が言うので僕は自分の白いシャツを指差す。
「だるいな」
 誰よりも僕がそう思っていることを山之内が言ってくれる。坂本がおれのことさがしてるって聞いたんだけど……そう言うと加藤は「そうなんだ」と言った。
 うん、そうらしいよ。
 スマホがないだけでこんなに不便なのかと思う僕は、加藤にお願いして坂本に連絡をとってもらうことにした。電話をかけても出ないらしいので、ラインでメッセージを残してもらう。あとは部室で待機してりゃあやつはくるだろう。ちょっとした安堵からすぐさま動く気にもなれずにいた僕が、ゴリラのように隆起した山之内の肩を揉んでいると
「あ、そうだ」
 加藤がかばんに手を入れ
「気休めかもだけど、これ使う?」
 差し出されたのは紺色のマフラーだった。
「え、いいの? ほんとに?」と受け取ったマフラーを首に巻くと、柔軟剤のいい香りが顔のまわりに広がったので「ありがとう。これいいマフラーだね。なんか女子っぽい匂いがするところとか」とふざけて言うと、「それ妹のだから」と冗談ともつかない態度で加藤が答える。ははは。え? まじ? え? え? ほんと? あの? 加藤の妹といえば、妙に大人びた顔立ちをしていることから、坂本にジュニアアイドル呼ばわりされている美少女だった。加藤に似て目が大きく、やや浅黒かったが、鼻が高かった。ということはあの妹ちゃんと間接首タッチになるわけか。それがどう色っぽいのかはよくわからないけど、加藤のことをお義兄さんとふざけて呼ぼうか迷って、やめた。加藤の気持ちを想像してみたのだ。
「恩に着ます」
「いいって」
「妹さんにも、ありがとうと」
「オッケー」
 そんじゃちょっとだけ使わせて、と踵を返し廊下に出ようとすると、教室に入ってこようとする国生まりえと鉢合わせた。

「わっ」

「すみません!」

「安藤くんじゃん~ふふふ」

 と体をくねらせる彼女を間近にしていると、僕はその色香にむせ返りそうになる。
「どうしたの国生さん」
「そっちこそどうしたのそれ」と僕に向けた人差し指を上下に動かす彼女は帰り支度を済ませた格好で、暖かそうなカーディガンを着ているが、これまた妙にシルエットが浮き立つカッティングのもので、なぜそれを買ったのか、色っぽいことにためらいを持つのは、やはり西洋から持ち込まれた価値観なのか、と僕はつい考えてしまう。
「もしかしていじめられてる?」
 冗談っぽく声を潜めた国生さんの言葉に、一瞬だけ清の顔が脳裏をかすめる。わかんないけど、学ランはたぶん自分でなくしたと思うから、いじめではないよ。たぶん。いや、たぶんだけど。
「冗談だよ。てかなくしたんだ。えー寒そう」
「寒いね」
「だよね。いっしょに捜してあげようか? ちなみに安藤くんの学ランってどんなやつ?」
 どんなやつってああいう学ランだよ、と周囲の男子を示しながら答えると、国生さんは「そりゃそうか」と一人で五秒くらい笑った。もし見つけたら教えてよと頼みかけた僕だったが、あれ? もしかして加藤? と後ろを指させば
「そう、ごめん。いまからいっしょに帰るんだ」
 そうなんだ。
「加藤~」と僕が呼べば、わかってるといった態度で加藤が手を挙げ、その向いに座る山之内が勢いよく盤をひっくり返すのが見えた。
 やたらと換気をうたう社会科の八重子教諭の手によって、廊下の窓は一枚間隔で全開にされているのだが、マフラーによって首の動脈が守られたことにより、先程までの凍えは感じない。その温もりからも改めて考えるに、当たり前のように優しいところが加藤のすごいところだと思う。山之内に盤をひっくり返されても、一番楽しそうに笑っているのが加藤だった。カラっとしている。たぶんみんな彼のそういうところが好きだと思う。そもそも顔がいい。それも人のよさが前に出ているタイプのイケメンで、どこかぼんやりした印象があって、一緒にいてもそれほど割を食うことがなかったし、普段は大人しいくせに口を開けば大好きなルパン三世の同人誌のラストシーン(銭形がルパンの後追い自殺をするやつ)とか、サッカー部のキーパーを務める「タートルズの豚」こと森永拓司の言動についての話しか飛び出さないので、積極的にモテることもなかった。たしかに色っぽくはなりにくい感じはある。とはいえ、加藤のそういう、顔のよさにかこつけて甘い汁を吸っていないところも僕らからすれば気持ちのいい男なのだ。たぶんこのマフラーに関してもそうなのだけど、異性のきょうだいがいる人特有の余裕なのかもしれない、なんて僕らは普段から分析しているが、本当のところはわからない。
 国生まりえとは昨年末から付き合っている。
「このあとデート?」と僕が聞けば、目を細めた国生さんは左右に首を振る。
「いっしょに帰るだけだよ」
「でもそれはデートじゃないの?」
「安藤くん、デートはまた別なんだよ」
 むず。
 ちょっと前までの加藤は、放課後になると僕や山之内なんかと一緒に無人の教室に忍び込んではみんなの体育館シューズを片方ずつシャッフルしたり、黒板に好きなアニソンの歌詞を書いては消したりを繰り返していたのだが、その一部始終をたまたま見ていた国生まりえはどういうわけか恋をした。そんで加藤もその想いに応えた。加藤に聞いてみたところ、国生まりえは「話しやすい」とのことだった。彼女は理数系クラスの数少ない女子のひとりであり、普段の言動がややがさつなせいで一見スルーされがちだったが、よくみりゃ眠そうな目をした色っぽい顔をしていると一部の男子の間では評判だった。その一方で、面食いなことでも有名だった。加藤はカッチリしていないところがあるとはいえ、告白したのが国生さんの方からだということは、たぶん卒業後も関係を継続しようとの目論見があったのではないかと有識者の間では囁かれていた。加藤みたいな男はどうせ卒業したあとこそどんどん垢抜けていくのだから、先見の明がある人間からすればどうみたって逸材のはずだ。たぶん。僕らにそう説いたのはなっちゃんだった。「女ってそういうとこクソだよな」と坂本が言っていたのを覚えている。
「マフラーは借りてていいよ」
 僕は加藤が最初からそう言ってくれることをあてにしていたものの、え! いいの? と大きな声で言った。加藤にはバレてた。並んで廊下を歩いていくふたりの後ろ姿を手を振って見送っていると、ふいに一人残された山之内が僕のすぐそばまで来て、「あのふたりもうやったのかな」と言った。やったってなにを? あ、セックスのことか。僕は想像しかけてすぐやめて、まだだろ、と答えはしたものの、もちろん根拠なんてなく、やってたらどうしようとちょっとだけ胸が騒いだ。やってても別にいいんだけど、妙な割り切れなさが残るのも確かで、この感情の名前を僕は知らない。
「ちなみに焼肉にいっしょにいくカップルはもう絶対やってるらしいよ」
 と前にも何度か聞いたことのある話を山之内がする。

「じゃあ今度あのふたりに焼肉行ったか聞くしかないじゃん」と僕は答えた。

 

 山之内と硬い握手を交わして別れたあと、部室棟へとつづく二階渡り廊下でたまたますれ違ったサッカー部の池田に腹を殴られた僕は、いろいろ考えた末にサッカー部の犯行説を取り消すことにした。というのも池田は、シャツにマフラー姿の僕を見てただのおどけたバカだと認識したっぽかったし、立ち去り際に「見つかるといいな」なんて舐めたこと言っていたからだ。
「なんならいっしょに捜すか?」
「いや、いいです」
「捜すわけねえだろザコ! 殺すぞ!」
 ギャハハ! と立ち去る池田の背中を睨みつけるのにはいくつかの理由がある。もちろん単純にされたことへの嫌悪憎悪殺意はもちろんとして、そのときの僕がなにより困ったのは、池田に絡まれへらへらやり過ごそうとするその様をあの町山りおに見られてしまったということだ。それこそ僕は犬のようにクンクン言いながらあの池田なんぞに愛想笑いをふりまき、あろうことか、歯茎から血の出る思いだが、何度も頭を下げたのだ。それは最も客観視したくない自分だった。
 町山さんは渡り廊下の手すりに両腕をのせながら運動場を眺めていたらしくて、茜色の空からは吹奏楽部の演奏音が降り注いでいた。殴られた際の僕のうめき声は誰にも届かずかき消された点は幸いだったものの、結局池田は馬鹿なので声量が異常で、それが届いたのか、耳のイヤホンを外してコードを畳みながらゆっくり歩いてくる彼女を見た僕は、いや、ああいうコミュニケーションだから、しょっちゅうやられてるぶん腹筋鍛えられてるし……という異様な態度で目を伏せ背筋を伸ばしてみせた。馬鹿らしすぎるが、切実なのだ。彼女のほうも、やや俯きながら僕のすぐそばを通り過ぎた。小さく会釈された気もしたけど、僕は振り返ることすらできずそのまま歩き続けた。
 この風はきっと北からのものだ。
 目を細めながら、さっきまで町山さんがいたあたりの手すりに両腕をのせて運動場を見やる。夕暮れどきの運動場を眺める時間は最高だと思う。特にこの部室棟から伸びる渡り廊下は吹奏楽部によるBGMつきということ、かつ部室からすぐの場所ということもあって、煮詰まった……じゃなくて行き詰まったときなんかは、僕もよく運動場を眺めたりしていた。風に目を細めながら思うのは、町山さんはなにをしていたのだろうか? ということだった。もしかして、彼女もなにかに行き詰まったりしていたのだろうか?

 

 マフラーを巻き直し、乱れたシャツの裾をベルトの内側に押し込んだ僕は、ポケットのなかでぐしゃぐしゃになった浅野の原稿に気づいて慌てて取り出した。風に飛ばされないよう、その場にしゃがみこんでしわを伸ばし、なんとなく目に入った冒頭から再度通読する。文字を目で追っていると、目薬をさしたときのように脳みそが艶を帯びていく感覚になって、深い鼻息が漏れた。

 

 

 

 

 

sakamoto-the-barbarian.hatenablog.com

 

 

 

『GGG』計画

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 不労所得のことばかり考えているのは根っからの荒くれ者だからだ。この傲慢さを保ち続けなければ、そのまま朽ち果ててしまう。
 
何かを残せさえすれば、何かを残さなければという気色悪い焦燥から解放されるかもしれない。
 
最近、部屋にある10キロのダンベルを7キロに変えたら筋トレが続くようになってきた。それは本当に正しい厳しさなのか?という問いを常に持ち続けていたい。
 
いびつな厳しさで得るものがゼロになるなら、小銭でもいい、自分にできる範囲で動き続けたいと僕は思う。 
 
 
 
ということで…… 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 

 HOP!

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STEP!

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FUCK!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 

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 って感じの小説を書きます。案が浮かんだのは大学2年のころ。かれこれ7年温めている(ほったらかした)話なので、すっかり冷えて硬くなった鉄を力尽くで打ちます。
 
 
 
 
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書き下ろし短編:『ばりくそ慕情』

 

 仕事に向かう環奈を玄関まで見送ったあとでコーヒーを淹れ、ミニテーブルの上にあった博多通りもんを口に放り込んで、あ! しまったと、おれは咀嚼をやめる。

これは彼女が最後の一つとして大事にとっておいたものなのだ。

 

 日曜日。

 久しぶりの友人に会ってきたという環奈が博多通りもんをもって帰ってきた。包装紙を丁寧に開ける彼女が嬉しそうに話していたのを、おれはぼんやり眺めていた。

「わたしがこれ好きなの覚えててくれたみたい」

 その友人こと高橋ちゃんは環奈の福岡時代の親友で、つい最近上京したという。これからも定期的に会えるね、とおれが言うと「ねー」と環奈は歯をみせて笑った。

「あ、ついてる」

「え?」

「通りもんが」

 口元を手で覆いながら目を細める彼女のマグカップに新たなコーヒーを注ぎながらおれは考える。いや、本当はなにも考えていない。基本的に、なにかを考えることはない。

「もう一個食べていい?」というおれに環奈は快諾。連続で二個食べると彼女は言う。

「一個じゃないの?」

「え?」

「いま二個食べたじゃん」

「うわ。ほんとだ」

「うわ、じゃないよ。自分でしたことでしょ」

「無意識だったかも」

「無意識だったでなんでも許されると思って」

「ごめんごめん」

「うそうそ、怒ってないよ」

「あ、ほんと?」

「でも念のためこの一個はとっておくね。絶対食べちゃダメだよ? 返事は?」

「わん!」

「英語!」

「英語? あ、バウ!」

 よーしよしよし、かわいいんですね~喜んでるんですね~とムツゴロウのモノマネをする彼女に頭や背中を撫でられるまま部屋中を四つん這いになってバウワウ、バウワウ吠え回っているうちに疲れて横になって天井を眺めていると、いつのまに入ったのやら、環奈が風呂から上がってくるのでおれはその髪にドライヤーをかけた。

 

 ああ、しまった。しまったしまった。しまってしまいました。おれはそのまま咀嚼を再開する。一度口に含んだものを出すわけにもいかないのだ。親はおれをそんな風には育てなかったから。

 きちんと飲み下したあと、コーヒーでもってサーッと喉を流したおれは、ああ、でもやっぱりこれはダメなやつだろうなあと思う。環奈悲しんじゃう。博多通りもんってそのへんに売ってたっけ? おれは駅前のスーパーまで自転車を飛ばす。時折、他県の物産展なんかを催しているからだ。

 フードコートの給水器で喉を満たして適当な椅子に腰掛けた。物産展などやっていなかった。おいおいおい。おれはひさしぶりになにかを考えなければならないと思い、考え、部屋に戻った。ネットでどこに売っているのかを検索しようと思ったのだ。が、そもそもネットで売っているじゃないか。注文しちゃえば早いのでは? そう思いかけたがダメだ。環奈が帰ってくるまでに用意できなければ意味がない。

 窓を開けて部屋の換気をした。

ベランダに出て腕を組んでみる。

 おれにはクレジットカードがない。なのでネット注文するとなれば、代引きで支払わなければならない。が、いま手持ちが十円玉三枚と五円玉二枚に一円玉五枚……玉ばっかりだ。そこに金玉も足してやりたいほどだ。くそったれめ。ベーシックインカムを導入しろ。

 万策尽きてリビング中央で不貞寝しているとガチ寝に転じてしまったおれ。気が付くと午後三時前でちょっと小腹も空いている。

 環奈の帰りは八時ごろだ。

 ううむ。

 腕を枕にして唸っていると、隣室で物音がする。

 え、なに。なんだろう。

 環奈が帰ってきているとでも? 

 それはあまりにものんきな思考である気がした。侵入者だ。我々の財産を脅かそうとする不届き者だ。ここはひとつ、ふだんの憂さ晴らしも兼ねてぶっ殺してやろう。

 

 だが隣の部屋にいたのはおれの想像をはるかに超えた人物だった。

 

 おれだ。

 

 

 

 いや、本当におれなのだろうか。

 おれは目の前に立つ〈おれ〉を見て呆然としているのに、向こうはちっともそんな気配を見せずに「よう」とか言う。低くくぐもった響きだが、声までおれだ。でもやっぱり同じってわけでもない。まず着ている服が違う。いまのおれのようにスウェットにTシャツといったラフな姿ではなく、厚手のネルシャツに黒のズボンと季節感の若干のズレを感じる。おれは夏のそれだが、〈おれ〉のは秋っぽい。あと、〈おれ〉のほうが妙に体ががっしりしているし、顔もシュッとしている。我ながら精悍だ。どこか獣じみた殺気すら漂わせている。

「大丈夫。説明なら慣れている。でも面倒くさいから端折って先に質問したい」

「は?」

「見た感じひとり暮らしではなさそうだけど、誰かと一緒に住んでる?」

「え、いま?」

「個人情報保護のこととか考えてるだろ。じゃあ俺がいくつか名前を言うから該当したらリアクションして」

「はあ」

「いくぞ。すず、りほ、あやみ、ティナ、かすみ」

「……」

「はるな、かんな、ひなこ」

「あ」

「え? いた? だれ?」

「環奈」

 目の前の〈おれ〉が静かになる。「マジ?」

「うん。いちおういま仕事行ってますけど」

「敬語はいいよ。どうせおれなんだし」

「マジでおれなの?」

「見りゃわかるだろ」

「見てすぐわかるレベルだから困ってんだろ」

「わかる。おれも最初はそう思ったよ」

 とまあなんとも変な感じだ。

 さらに変なのは〈おれ〉が小さく息を吐いたかと思えば、うっすらと目に涙を溜めていた点だ。なにがどうなっているのかまだひとつもわからない。

聞いてみよう、どうせおれなんだし。

「どうしたの?」

「なにが?」

「泣いてる理由」

〈おれ〉は深く息を吐いた。「ちょっと」その声は震えている。

「こいよ」

 おれが両手を広げて迎え入れると、〈おれ〉は素直にしなだれてくる。回した手で背中をさすると〈おれ〉の鼻をすする音が聞こえたので、ついおれも鼻をすすってしまった。

 ハグしながら間近で見てもやっぱりこいつはおれだった。普段目にしないような耳やうなじの様子は新鮮だったが、でもたぶんおれで間違いないのだ。

「ありがとう」とおれから離れる〈おれ〉。

「気にすんなよ」

「ちょっと長い話をしてもいいかな? 時間大丈夫?」

「ああ、いいよ。せっかくなんだし」

 おれはコーヒーを淹れる。やつのぶんは……環奈のマグカップに注いだ。環奈のマグカップを手にした〈おれ〉は、それをじっと眺めたまま、どこか遠い目をしている。

「ぜんぶを完璧に理解しろとは言わない。信じろとも言わない。ただ、おれの認知している範囲でのことを説明するよ。聞いてほしい」

 

 話はこうだった。

 まず宇宙というものは何本もの紐が束になって出来ているらしい。その紐一本ずつにそれぞれの時間が流れている。そしてこの瞬間もまた新たな紐=時間が生まれ続けているというのだ。

 おれは話を遮断しない。もうちょっと聞いてみて耐え切れなくなったら質問をはさもうという狙いだ。

 目の前の〈おれ〉は、元々こことは違う時間紐で生きていたらしいが、そこにも環奈は存在し、〈おれ〉と一緒に暮らしていたそうだ。

 ふむ。

 そんなある日のことだった。

 一緒に道を歩いている最中、〈おれ〉と環奈が互いに歩道側を譲り合ってグルグルしていると、そこに一台の軽ワゴンが猛スピードでやってきた。そのときちょうど車道側に立っていたのは環奈の方で、〈おれ〉は迫り来る車から彼女を守ろうと、その手を強く握ったらしい。

 だが手遅れだった。

 どこからともなく彼女のサンダルが降ってきて、アスファルトの上で跳ねるのが見えた。握ったはずの手は、〈おれ〉の手の中には残っていなかった。なにも信じられなかった。その場に立ち尽くし、すべてから目を逸らそうと逡巡する自分に気がついて、愕然としたという。

 犯人は脇見運転の大学生だった。

「おれは自殺したんだ」と〈おれ〉は言った。

「犯人を殺して」

 言葉もない。

 不思議な出来事はそのときに起こった。

 死んだはずの〈おれ〉が目を覚ますと、永遠とも思える落下の最中にいた。そこは一切の光も射さない真っ暗な空間で、上下左右も定かではなく、ただただ落下しているという感覚だけが続いているという。そんな中〈おれ〉は一匹の柴犬に出会う。落下しながら出会うってなんだ。質問しようか迷っているおれを意に介さずに〈おれ〉は続けた。

「そいつは高校まで飼っていた愛犬のハッシュだったんだ。おまえは犬飼ってた?」

「いや、飼ったことない。ハムスターはいた。プリンとゼリー」

「そうか。まあいい。ハッシュはおれに言ったんだ」

「待って。犬だろ?」

「喋ったんだ。ここまででも充分信じがたい話してるのは承知だし、義務みたいにいちいち質問しなくてもいい」

「そうか。わるい」

 ハッシュは〈おれ〉に

 

愛をとりもどせ

 

 と言ったそうだ。なんじゃそりゃ。そして〈おれ〉はその言葉に「そうする」と即答。このやりとりもすべては落下の最中に行われているのだろうか。もうおれは質問しない。

 意思を示したとたん、目の前のハッシュがまばゆい光を放った。その光に包まれた〈おれ〉。全身を謎の倦怠感に襲われ、意識が遠のいたかと思うとそこは見知らぬ部屋の一室だったという。

 

「あ、それがここ?」

「まあそんな感じだ。正しくはここで五十六万八千二百十番目」

 ははは。

 

〈おれ〉はハッシュの謎のパワーと「愛をとりもどせ」という使命に突き動かされ、あらゆる時間紐を渡り歩き、環奈を探し続けたという。それぞれの時間紐に存在する「おれ」や『おれ』や【おれ】に接触し、環奈を失わせないための啓蒙をはかってきた。

 

「実はこの時間紐で二百十二回ぶり、九十七人目の環奈なんだ。この場合の環奈は『おれと出会って』『いっしょに暮らしている』環奈のことだ。あとの時間紐でのおれはそれぞれ違う女や男や動物や物と愛し合っていた」

「そんな」

おれの頭はとっくにキャパオーバーだ。なので目先の言葉に飛びついてしまう。「動物や物って……?」

「本当に知りたいわけじゃないだろ」

「いや、わからない」

「とにかくこの時間は久々の環奈紐なんだ。最近になってようやくコツのようなものが掴めるようになってきた。まあ、何万回と繰り返すことなんてそうそうないもんな。普通に生きてるときなんか」

「まばたきくらいかな」

「それとはまた勝手が違う」

「ごめん」

「そんなことどうでもいいんだ。要はおれの一番の目的はおまえと環奈が平穏に暮らすこと、ただそれだけ」

 その物言いに面食らってしまう。「いや、なんかありがとう」

「いやありがとうじゃねえんだよ。おまえの力で死ぬ気でもってそれを実現しろ。同じ過ちを犯すことを回避しろ」

 そう言う〈おれ〉の表情は鬼気迫るものだったが、いかんせんあまりにも自分なので鏡でキメ顔をつくっているときのような居心地の悪さがある。くそ。いまは真剣に取り合うべきなのだ、とおれの直感は言っているが。

「ということはつまり……おれが車道側を歩けばいいってこと?」

「いや、それは場合による」

「なんで?」

「いまも含めた過去九十七つのうち、すでに手遅れだったパターンがその大半を占めていた。おれの場合は事故だったけど、通り魔、火事、病気、自殺。いろいろあるよ。おれの方が先に死んでる場合もあったし」

 ザーッと血の気が引く。ある程度可能性を意識したことのある事象の数々が、実際に起こってしまった世界があって、それぞれのおれはその事象がもたらした結果を受け入れてきたというのだ。いまここにいるおれには関係なくとも、広い意味で言えばおれの話ってことでもあるので、やっぱり一応肝はしっかり冷えてくる。

「みんながみんな受け入れたわけじゃない」と〈おれ〉は続ける。

「おれこそそうだろ。おれは受け入れないほうを選んだ。だからこんなことになっている」

 

 こんなこととはなんだろう? 別の時間紐を生きるおれに会いにきていること?

 

「とにかくおれは引き受けることにしちゃったから。業を」

「業?」

「うん。ぜんぶ」

「なにそれ。どういうこと?」

「違う時間紐の復讐をおれが横取りするんだよ。別のおれから」

 

 横取りという言い方からは、〈おれ〉自身抱いているのであろういくらかの罪悪感を垣間見た気がした。

ある時間紐でおれと一緒に暮らしていた環奈は、アパートの隣室で起こった爆発に巻き込まれて死んだ。隣室の住人が爆弾を作製していて、ちょっとしたミスから誤爆したのだ。ということは犯人も一緒にその爆発で死んでいる。それじゃあいったいだれに復讐するというんだ?

 そこで〈おれ〉は爆弾の作製を援助した人物を特定する。そこから芋づる式に、誤爆死した男と同じ思想を持つ過激派組織の存在が浮かび上がる。〈おれ〉は長い時間をかけ、ついにはその組織を壊滅にまで追い込んだという。

 壊滅って、そんな馬鹿な。

「そういうこともあったって話だ」と〈おれ〉はつぶやいた。「他にもある。臓器売買をしているバカどものときが一番最悪だった。でもこれ以上話す必要性を感じないし、おれも話したくない」

聞きながら、つい先ほどハグをした〈おれ〉の感触を思い出す。

〈おれ〉は続ける。

「おれが現れて説得して、それでも彼女の死を止められなかった場合に関して言えば、おれがその時間紐を引き取る。具体的には食べる」

「んんん?」

「できるんだよ。おれはふだん時間紐の外にいるからペロンて。素麺みたいに」

「食べてどうなるんだよ」

「よくわからない。ハッシュも教えてくれない」

「ごめん」とおれは自然と謝っていた。「ふさわしいリアクションがずっと見つからないや。さっぱりわからない」

「こればかりはおれ自身の感覚的な話だから」

「業ね」よくわからないなりにひっかかる言葉だと思っておれがつぶやく。ほつれた糸を目の前に置かれたような収まりの悪さが残る。

 不意に強烈な不安に襲われたおれは、スマホで環奈にラインを送った。

 

『晩ご飯どうしようか?』

 

〈おれ〉も画面をのぞきこんでいる。おれたちはコーヒーをすすりながらミニテーブルに置かれたスマホの画面を何度も確認した。なかなか反応がない。

 不意に〈おれ〉が穏やかな口調でつぶやいた。

「きょう仕事は休みなの?」

「あ、おれ? してないよ」

「ん」

「無職だよ」

「え」と〈おれ〉。「環奈は働いてるんだろ?」

 おれは〈おれ〉に責められるのが急に怖くなる。

「まあ、まあそうなんだけど、いまの時点でおまえはヒモなんだ」

「おれじゃねえよ」と〈おれ〉。「おまえだろ」

「同じ“おれ”じゃないか」

「都合のいいときだけ重ねやがって。おまえは違うおれだ」

 それもそうだ。分が悪いのでいますぐ話題を変えてやろうと考えるが、さっきからぶち込まれるちんぷんかんぷんな情報のせいでちっとも頭が回らない。しょうがないので、壁を眺め、窓の外を見て、それから〈おれ〉を見る。

「そういやこれからどうするの?」

「ん? おれ?」

〈おれ〉はそうつぶやいたっきり動かなくなった。手元の環奈マグカップをまじまじと眺め、小さく呼吸を繰り返している。それから不意に、床に落ちていた一本の長い髪の毛を拾い上げる。

「これおまえの?」

「なわけあるかい」

「もらってっていいかな?」

「え?」

 つい反射的に、いわゆるつっこみというものをしかけるが、いまのおれには突飛に思えることが、だれかの切実な願いかもしれないという可能性が意識をかすめる。蔑ろにはできない。ようやく心がこの状況に追いついた気がした。とたんに涙までこぼれそうになるのでちょっと不思議だ。

「いいよ。掃除しちゃうとただ捨てるだけだし」

「ありがとう」そう言って〈おれ〉は履いているズボンのポケットに小さな輪っか状にした髪の毛をしまう。ああ。もっとなにか持ってってほしいな。そう思っておれは考える。とそこで思い立つ。

「環奈に会ってくだろ?」

「いやそれはしない」

〈おれ〉は即答した。

「なんで」

「向こうがびっくりするだろ」

「え? 二人いるから? だったらおれのふりすればいいじゃん」

「え?」と〈おれ〉はちょっとだけ考え出す。「いいの?」だって。

「いや知らないけど。やったことないのか」

「過去九十六回……の中の彼女が生きていた時間紐ではやってこなかった。環奈自体には何万回も会っているけど」とモゴモゴ言っている。

「へえ」

「いろんな環奈がいるんだよ」

「どんな」

「一番ビビったのはあれだ。アイドルやってたとき」

「え!」

 おれが笑うと〈おれ〉も笑った。

「千年に一人……とかいうすごいコピーまであったぜ」

「冗談だろ」

「いやいや。おれなんてわざわざ握手会にまで行って会ってきたし。号泣しちゃってさ。みんなドン引きしてんだけど、環奈はぜんぜん。神対応だったね」

 そう言う〈おれ〉の目はまた潤みだしている。おれはスマホを手に取るとさっき送ったメッセージを確認する。

「あ!」

「なんだよ」

「既読ついた」

「マジ?」

 スマホ画面を覗き込む〈おれ〉の顔をこっそり覗いてみる。泣いたりするのかなと思ったが、意外と冷めたツラをしてやがる。安堵ととるにはあまりにも途方もない表情だ。そう感じるおれの心がしくしくいってる。

 おれは約束する。ってことをこのときに誓う。

 彼女を絶対に死なせない。

 彼女の幸せを考え、足したり引いたりを繰り返そう。

 こちらに視線を移した〈おれ〉は、「仕事をしろ」と言った。うん。それもひとつの手だ。〈おれ〉は穏やかな口調で続ける。

「仕事でもなんでもして、おまえはおまえ、環奈は環奈でたのしくやれよ。それが一番なんだ。彼女が幸せであるためにはおまえの幸せだって必要だろ。あとそうだ。これも言っておかなきゃ」

「え、なに。ちょっとこわいな」

「ってことはある程度察しがついていることだろうと思うけど、おまえと一緒にいること以外にも彼女の幸せはあるんだよ」

 やっぱそういう話か~。

 まあでも、いまのおれはクソファッキンニートのヒモ野郎なのだ。彼女の生死、という話の大きさに勝手に息巻いているところがあるが、もっと細かなところで戦わなければならないことが山積みだ。ああ、恐ろしい。とはいえ宇宙をまたにかける〈おれ〉がこうやって目の前にいるんだから、この一回分の人生における諸々の課題なんて大したことないような気もしてくる。いまは興奮があって色々なことを見落としている状態なのかもしれないが。でもこの熱だけはもうしばらく冷めないでほしい。例えばおれが仕事を見つけるまでとか。

 どうか。

 どうか。

 

 おれは〈おれ〉に服を貸し、ふたりで環奈の帰宅を待つ。

 ラインに返事が来る。

 

『職場でもらった弁当があるからそれ食べよう!』

 

「緊張するな」

 そう漏らす〈おれ〉の肩をおれは抱いた。

「だいじょうぶ。環奈が帰ってきたら、ちゃんとおれの言ったとおりに伝えればいい」

 夜になる。

 おれは押し入れに身を隠し、わずかな隙間から〈おれ〉を見守る。落ち着かない様子で深呼吸を繰り返す姿は我ながら笑っちゃうが、その背に滲む何十万分の慕情を思うと胸を突くものがある。

 やがて玄関のドアが開き、環奈の「ただいま~」が聞こえてきた。

 ひとつに凝縮されたすべての希望が、自らの非凡さに遠慮しているような、あまりにもいじらしい響きだった。

「おかえり」

 そう言う〈おれ〉の声は震えている。

 震えたままの声で、〈おれ〉は言う。

「ごめん環奈。ちょっと話があって」

「んー。なに」

博多通りもん、食べちゃった」

 死角となっているので、おれからは環奈の姿が見えない。確かなのは、不穏な沈黙が続いているということだけだ。

「はあ?」

「マジで、マジでごめんなさい」

「いや、なんしよーとやー!」

「ごめん。マジでごめん」

「マジってつければいいと思ってもー! ひどい!」

「本当にごめん」

「いやいやいや~」

「ごめんな」

「わ、どうした。ちょっと泣きすぎ」

「ごめん」

「どうした? だいじょうぶ?」

「ごめん、マジで。へへへ」

「いいよもうわかったって」

「うう」

「ちょっとちょっと。情緒がわからん。そんなに?」

「うん、ごべん」

「泣いてんのか笑ってんのか」

「両方」

「ははは。なんかあったと?」

 あったんだぜ環奈。と思うおれは押し入れのわずかな隙間も閉めて寝転がる。これ以上はもう見てられない。

 

 トイレに入ったのを最後に〈おれ〉は姿を消した。

 貸した服も一緒に消えた。代わりに、やつの着ていたネルシャツとズボンはちゃんと押入れの中に残ったままだった。こういうところはおれっぽい。秋頃になったら着ちゃおう、なんて思う一方で、あ!

 ズボンのポケットには環奈の髪の毛が入ったままだった。

 すまねえ。

「ねえ、ほんと今日はどうしたの? なにかあったっしょ?」

 と弁当をつつきながら尋ねる環奈をおれは見つめ、返事に頭を悩ませる。

「だから博多通りもんを食べてごめん。ってことなんだよ。ほんとうにごめんなさい」

「それはもういい。また今度実家から送ってもらえばええし」

「うーん? その手があったな」

「にしてもあんな泣くことかね」

 おれは仕事をさがすだろう。

 なんにせよ収入を得ておいしいものをたくさん食べたい。博多通りもんだって山ほど食わせてやる。そんでいつか南の島にでも行って、ビーチでトロピカルドリンクを飲もう。絶対にそうしよう。おれの熱はまだ覚めていない。同じ布団に入り、隣で寝息を立てている彼女の、その脚の温もりと立ちのぼる髪の匂いに包まれていると次第にまどろんでくる。

 たぶん今ごろ、どこかのおれは笑っているかもしれない。怒っているのかもしれない。泣いているのかもしれない。

 布団の中にいるのかもしれない。

 なにかを食べているのかもしれない。

 なにも考えていないのかもしれない。

 本を読んでいるかもしれない。

 なにかを忘れているかもしれない。

 映画を観ているかもしれない。

 居眠りしているかもしれない。

 陽の光を、風を浴びているかもしれない。

 道を歩いているかもしれない。

 買い物をしているかもしれない。

 車道側から彼女をずらしているかもしれない。

〈おれ〉はおれの短パンに入った博多通りもんのゴミを見つけているかもしれない。

 違う時間紐で悲しむおれを慰めているかもしれない。

 あの意味不明な説明を繰り返しているかもしれない。

 死への怒りをぶつけているかもしれない。

 終わりのない落下の中で、ハッシュという謎の柴犬とまどろんでいるかもしれない。

 何千何万何億何兆もの環奈に出会い、何千何万何億何兆もの時間のなか、すり減ることすらできずに、業を背負うという言葉に縛られているかもしれない。

 たぶん今ごろ、どこかで〈環奈〉がそうしているように。

 無数の可能性が存在するのだ。最悪が無限に芽吹くように、奇跡と呼べる出来事も無限に芽吹いていたっていいはずだ。

 彼女は歌い踊り、地面を蹴る。

〈おれ〉がそうしているように。

 いつかどこかで〈おれ〉は出会うかもしれない。

 いつかどこかで〈環奈〉は出会うかもしれない。

 歩道側を譲り合うふたりのそのグルグルが、蝶の羽ばたきのようにいくつもの次元を超えてまた新たな時間を生んだりもするのかもしれない。

 

 

 

 そんな夢をみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書き下ろし短編:『歓待』

 

 部屋を一通り掃除して疲れて横になったところに発作がきて、俺はまた壁に穴を開ける。情けなくて嫌になる。薬を切らしたばかりだからだ。粘着ローラーで毛やほこりを巻き取ったばかりのカーペットに仰向けになった俺の眺める天井はやけに高くて、それこそ十メートルくらいあるんじゃないか? でもそんなことはありえないし、さっと手を伸ばしてみると今度は急にいつもどおりの高さに見える。はっ。ん? あれ? いやいやいや。そんな感じで遠のいては戻り遠のいては戻りを繰り返す天井が俺の症状のひとつだった。
 先生に聞いたところによると、こういう発作は「脳神経系の機能異常」が原因らしかった。「脳神経系の機能異常」という言葉から俺の頭の中に浮かぶのは絡まる網のような神経の隙間という隙間に銀色の仁丹を液体すら通り抜けられないほどびっしり敷き詰めなきゃならないということだったりする。おえ。情けなくて嫌になるのも当然で、そばにあったクッションに顔を押しつけて叫ぶのは、言葉にならないくぐもった呪詛ばかりだ。

 今朝も六時に起床して真っ先にカーテンを開け朝日を浴びた。快晴だった。俺の発作を抑えるにはセロトニンが必要らしいので、天気のいい日は必ず日光を浴びるようにしている。生活習慣から正していくことが大切だと先生は言った。暖房を切ったあとベランダに出て乾いたタオルで手すりを拭き、布団一式をそこに干す。それから軽いストレッチとスクワットをすませるとダイニングを経由してリビングに向かい、片手サイズの鉢から生えている観葉植物に水をやる。なんて名前の草なのかは知らない。でもかわいい。俺は「脳みそ」と呼んでいる。天気のいい日に一日中窓辺に置いてやると、葉がつやをもち上向くからだ。
 テレビをつけて天気予報を確認した。今日の最低気温は七度。最高は十二度。湿度は三十パーセントで乾燥している。あとで加湿器に水を入れておこう。朝食は食パン二枚をトーストにしてピーナツバターを塗ったやつとゆで卵二個を食べる。パンも卵もそろそろ切れるころだからまた注文しておこうと皿をまとめたおれは引き戸を足のつま先で開けて台所のシンクに食器を置き水で適当に濡らしてから冷蔵庫に貼り付けたB5サイズのホワイトボードに「パン」「卵」と書く。あとなんだ。……「ペニス」と自動筆記してしまった俺は、マーカーの蓋についた綿みたいなやつで最後の文字だけを消す。大きな独り言と並行して、まったく関係のない言葉(しかもだいたい品のない)を無意識に書いてしまうことも増えてきたような。これも症状のひとつなのだろうか? あとで先生に聞いてみよう。
 顔を洗い、髭を剃ろうか迷うもやめて、服を着替え、安物買いの運動靴を履いた。ドアを開けると朝の冷気が鼻腔をいっきに乾かすのがわかる。毛糸の手袋を両手にはめて、踊り場を含めて十五段ある階段を降り、またのぼる。これを五回繰り返してようやく狭い駐輪場を抜け道路に出た俺だけど、でも遠くには行かない。発作が面倒だからだ。なのでアパート前にある古い自販機で缶コーヒーを買ってその場で日光浴をしながら飲むのが日課となっていた(雨天決行)。このアパートは周囲を畑に囲まれたなにもない平野にぽつんと建っていて、最寄りのコンビニまで歩いて三十分だし、歩いている人が居ればそれは近くの畑の持ち主かもうちょっと行ったところにある生コン工場の関係者だ。俺はそう思っているが、たまに俺の様子を見に来た誰かなのかもしれない、ということも考えたりする。暇なのだ。部屋に一日中こもるのも良くないらしい。確かにこもってばかりいると俺もだんだんじっとしていられなくなるのでこういう息抜きの必要性は日々実感している。どんな小さなことだっていいから、やることがあるのはいいことだ。
 部屋に戻ると七時半で、リビング→ダイニング→浴室トイレ前→寝室→書斎の順にフローリング用ワイパーで床を拭く。リビングに敷いたカーペットに粘着ローラーをかけ電気ケトルでお湯を沸かしながら浴槽の残り湯を使って洗濯機を回す。
 八時。ワイドショーを眺めながらインスタントコーヒーを飲む。洗濯物を干し、映画を一本観る。だらだらネットを見て過ごす日もある。まあなんでもいいのだ。ただしいまだに本は読めない。文字が頭で像を結ばないからだ。
 十時半。リビングのミニテーブルの上にアロマキャンドルを置いて火を点け、それをまえにファッション雑誌の写真だけを眺めて過ごす。そのまま十二時を迎えた俺はスマホでラジオを再生しながらスパゲッティを茹でる。朝食分の洗い物をすませ、濡れたシンクをきれいに拭き、新しい食器を用意する。茹で上がったスパゲッティはお湯を切ったあとにオリーブオイルで和え、納豆と味噌とめんつゆとみりんを混ぜたものを上にのせてその場で食べる。食べ始めてからふと思い立ち、フォークを左手に持ち替える。食べ終わると、食器をすぐに洗って伏せておく。なにもないシンクを見ていると落ち着く。冷蔵庫のホワイトボードに「納豆」と書き加える。頭のどこかが重い気がしたので、冷やしておいた冷却シートをおでこに貼った。「でこシート」と書き加える。
 十二時半。歯を磨き、雑誌の続きを読もうかとリビングで横になると、雑誌を開くこともせずに床に頬を押し付け地上十センチほどの視界をぼんやりと眺めたまま動けなくなる。そのまま眠る。肌寒さで起きたのは一時十五分で、ベランダから布団を取り込むとそれを敷いて再び眠る。二時前と三時ちょい過ぎにそれぞれ目を覚ますが、布団の温もりが俺を離さない。三時半。尿意で腹部が重い。布団から抜け出してトイレに向かった。洗面台で手を洗ったあたりからそれは始まっていて、リビングに戻って布団をたたもうか逡巡しているうちに発作に見舞われたのだった。この生活もかれこれ一ヶ月を迎えようとしている。
「それはトゥレット症候群みたいなものかなあ」
 発作の最中、俺は無我夢中で電話をかけていて、先生が出る。俺がこの部屋に住むようになるちょっと前から、主治医である先生から専用の携帯電話を渡されていた。これは俺と先生のためだけの電話らしい。何を話しても外に漏れることはないし、医者である自分にも守秘義務があるので、安心してすべてを話してほしいと、そう言われた。だから今日も先生は俺の支離滅裂な泣き言を傾聴し、落ち着きが戻るころには簡単な雑談をはさんでくれる。呼吸を整えた俺は涙と鼻水をティッシュで拭いながら、今朝無意識のうちに書いていた「ペニス」について聞いてみたのだ。
「トゥレット症候群?」
「チック症の一種でね。チック症は前話したかな?」
 チック症でチックショーという言葉が浮かんできた。以前聞いたときにそうやって覚えたのだ。「覚えています。ビートたけしごっこのときでしたっけ?」
「そうそうそう。それでさっき言ったトゥレット症候群もチックを伴うものでね。汚言症と言って、攻撃的だったり卑猥だったりする言葉を無意識に発しちゃう症状が出ることもあるの」
「おげんしょう?」
「うん。汚い言葉で汚言。四文字言葉とか」
「四文字言葉」
「知らない? 例えばおまんことかきんたまとか、あるでしょ?」
「ひどいですね」
「説明の一環ですよ。いま周りに誰もいないので」
「なるほど」
「言葉を書いちゃった件に関しては、特に問題ないと思います。ある程度なら誰にでもあることですし。舌打ちは割と多くの人がしちゃうでしょう? だから気にしなくとも大丈夫です。最近も、きちんとしたリズムの生活は遅れていますか?」
「そうですね。ちゃんと早寝早起きはするようにしています。あと、運動も最低限するようにしています。朝日も浴びて。そうだ、朝日っていいですよね。朝日を浴びながら飲むコーヒーは美味しいですよ」
「あれ、東條さんコーヒー飲まれるんでした?」
「そういえば飲みますね」
「カフェインはパニックの原因になったりもするので、できるだけ控えたほうがいいかなと思います。カフェインが入った飲み物は、好き?」
「普通です」
「そうですか」
「今度から水にします」
「そうしたほうがいいと思います」
「あ、それと先生」
「なんでしょう」
「薬切れちゃって。ロラゼパム
「え、それはいつの話ですか?」
「三日前の夜だったと思います」
「どうしてもっと早く教えてくれないんですか。まさか自分で薬の量を減らそうと思ってません?」
「あー」
「薬ってのはこちらで処方したものをきちんと飲んでもらわないと、勝手に減らしたり増やしたりされると場合によっては治療が長引くこともあるんです。まあロラゼパムは発作時に服用するものですけど、手元にないとなると予期不安が出やすくなっちゃいますよ」
「そうなんですよ。まさに」
「すぐ送りますのでね。明日の午前中には届くと思うんですが、今日はできるだけ深い考え事などは控えて、リラックスをこころがけるようにしてください」
「リラックス。そうします。すみませんでした」
「怒っていませんよ」
「こんな生活、いつまでも続けていいとは思ってないですけど」
 吐息の音で、先生が笑ったことがわかる。「東條さん、大丈夫ですよ。いまはそういうこと、あまり考えないでください。体調をよくすることが最優先ですし、それは無理をすることで達成できるものでもありません。ゆっくり時間をかけて。それが健康への最短ルートなんです」
「はい。静養します」
 引き続き先生がなにかを喋る気配はあったが、俺はなにも気づかないふりをして通話を切った。カーペットの上に携帯を滑らせ目を閉じる。何も考えない。なかなか難しい。俺はその場で仰向けになり、ゆっくりとした呼吸を続ける。引き戸の向こうにある冷蔵庫の低音が聞こえなくなるまでそうする。俺はトーストの上のバターだ。ここはとても温かいから、溶けて染み込んでいく。
 布団を寝室の押し入れに仕舞い、洗面台で顔を洗った。鏡に映る自分を見ると、朝よりも頬がこけて見える。発作が起きるたび、俺の中の何かが漏れ出ているんじゃないかと考える癖があったが、そういう文脈を見出す必要などないと以前先生に言われている。必要がない、じゃまだ足りない。はっきりと禁止してもらったほうがずっといい。

 台所をはさんでリビングの向かいに位置する四畳半の書斎に入った俺はワークチェアに腰掛けると足元の電気ストーブのひねりをつまんで四百ワットに合わせる。作業机が面する壁には無数の付箋が貼ってあり、その中のひとつであるフルーツゼリーのレシピを眺めた。負担となる思考を封じるには、手を使う作業が適しているのだ。夜になり、不安や孤独に目が向きがちになったら、タッパーいっぱいのゼリーをつくり、ひとりで全部食べてしまおう。この生活を孤独ととるか自由ととるかだと俺は思う。
 午後四時半になる。氷を入れたビールグラスを用意し、韓国焼酎とエナジードリンクを注いでシンクに置く。気だるい夜を迎え、眠たくなったら眠るだけの生活にもハリがいる。
 午後五時。半分まで水を入れた鍋に、沸騰前から生の鶏胸肉を投入し弱火で茹でる。そこでふと思い出すのは「パン」と「卵」と「納豆」と「でこシート」だ。スマホで注文を済ませ、また先生に電話しようかなと思う俺はアルコールでちょっとだけ気分が上向いているのかもしれない。さっきとはまた違う、どうでもいい話を三十分ほどできたら、俺はより快方へと向かう気がする。
 午後五時半。台所に湯気が立ち込めているので換気扇を回した。俺はフォークで鶏胸肉を突き刺し茹で具合を確認。焼酎の瓶とエナジードリンクの缶と氷の入ったコップ、ラップをかけた鶏胸肉の入った皿をいっしょにバスケットケースに入れる。ケースには三メートルほどの紐を結びつけてあるので、その先端を持った俺は玄関を出てすぐの手すりから屋根へと登り、ゆっくり紐を引いてケースを回収する。屋上には折りたたみ式のレジャーチェアーがひとつだけ置いてある。俺はそこで夕陽を見ながら夕飯を食べることを、ここ一週間ほど楽しんでいた。
 俺の発作の原因のひとつには、広場恐怖症というものがあるらしい。そのせいで俺は一定の距離以上外出することができない。このアパートから離れ、いつ誰と遭遇するかもわからない場所なんかを歩いていると、決まって冷たいシャワーを頭から浴びたように呼吸が浅くなり、それは大海原に浮かぶ悪夢であり、気を失うほどの億劫に襲われるのだ。でも屋上にて、この埃っぽいギシギシした椅子に尻を沈めながら、夕間暮れのオレンジと紫が溶け合うところの、その真っ白な境界を眺めている分には、俺の心は平穏そのものなのだ。ここにこそ快方へのヒントが隠されている。俺はそう思っている。
 三つの棟から成るコの字型の我が城には、俺以外の人間は住んでいない。こんなふうに赤く染まる様を眺めているぶんには愛着のひとつも抱いたりはするが、落日とともにそそくさと夜の一部と化しやがるところは好きじゃない。そのそっけなさが、いまの俺にはやけにこたえる。世界から音が消えたように感じられ、静寂に耐えかねたこの頭が、自ら音を生み出そうと暴走することだってあった。夜は基本ろくでもない。薬がないとなおさらだ。
 だから俺は太陽との別れを毎日惜しむ。こうやって覚悟を固めてる。俺は俺の生み出す幾千の音に耳を傾けることはしないし、無視に努めることもしない。ただそこにあるものとして受容することに成功した日なんかは、不思議とよく眠れるのだ。よくある話なんだろう。百とか零とか、近すぎたり遠すぎたりしても物事はうまくいかないようにできているらしい。発作時に見る遠近感の狂った天井だって、脳が必死にその中間を探っている状態なのかもしれない。不安定なオートチューニング機能。いじらしいぜまったく。この脳みそを抱きしめながらぐっすり布団で眠りたい。

 西陽にまどろみつつスマホから伸びたイヤホンで音楽を聴いていると、途端に音が中断され、振動がくる。
 画面を確認すると「福祉課」の文字。
 まず俺は出ない。それから酒を一口飲み下し、椅子から立ち上がって背筋を伸ばした。深呼吸をゆっくりと三回。かけ直す。
「もしもし」
「あ、東條さん?」
 低くよく通る声だった。俺はその主を知っている。
「そうです」
「福祉課の三宅です。どうもお世話になっております」
「ご無沙汰しております」
「ははは。そうね。元気?」
「ええ、まあ」
「そうかそうか。あ、突然で申し訳ないんですけどね? 今日これからそっち伺っても大丈夫?」
「というと、部屋にですか?」
 自分がゆっくりと端の方まで歩いていることに俺は気づいた。
「そうそう。新年度に向けて備品やらなんやらのチェックが必要でさ。ちょっとばかり急ぎなんだよね」
「そうですか。構いませんよ」
 本当にそうだろうか。
「悪いね。すぐ済むから」
「今日っていうと、何時頃になります?」
「実を言うともう向かってるんだよね。あと十五分くらいかな? いまなにしてた?」
「夕飯を食べてました」
「ああ、そうか。ごめんね。ほんとすぐ終わるから」
「別に大丈夫です」
「そういや東條くん、いま号室にいるんだっけ? Bの一〇二号室?」
「いえ、僕はA棟の二〇五号室です」
 通話を切ると、遠く市内放送用のスピーカーから『七つの子』が流れているのが聞こえた。まだ外は明るい。日が長くなってきているのは個人的にも嬉しい限りだ。
 バスケットケースを先に下ろして、自分も廊下へと飛び降りる。人と会うのは久しぶりだ。俺はこの一ヶ月、まともに人と会っていないし、先生以外とはろくに会話もしてこなかった。不安がないといえば嘘になる。軽い散歩さえままならないのに。どうせなら福祉課の人ら、ついでに薬も持ってきてくれると助かるんだけどなあ、なんて思う。
 とはいえせっかくの来客なのでコーヒーでも振舞ってやろうとリビングのケトルを台所まで運んでお湯を沸かす。部屋を見回しながら掃除を日課にしていて良かったと実感した。そういや俺の格好はどうだろう? 屋根に出ていたこともあって上はカーキ色の上着を羽織っているが、下はスウェットのまんまだ。髭も剃ったほうがいいのか? 迷う俺がクローゼットに向かう途中、ミニテーブルの上に置きっぱなしにしてあった先生用電話が振動していたので手に取る。いつのまにか着信が二件入っている。かけ直そうとした矢先、携帯は忙しなく振動を始める。
「あ、先生? すみませんなんか電話」
「東條さん、切らないで聞いてね」
 と言う先生の口調は一時間ほど前とはうって変わって直線的な鋭さを孕んでいた。俺に負担をかけまいとする遠回りな態度ではない。
「なんでしょうか」
 しかしそこで不思議に思うのが、俺は先生のそういう態度に頭のどこかが冷たくなるのを感じている点だ。まるで役割を交換したみたいに、俺は先生の言葉に耳を傾けている。そんな俺に先生は言う。
「落ち着いて聞いてほしいの」
「はい」
「福祉課の人間がそちらに向かっています」
「さっき電話が来ましたよ」と答えると、先生はいつものリズムなら言葉が返ってくるであろうタイミングに沈黙を挟む。
「僕なにかしましたっけ」
 と言ってすぐになにもしてないからか? と思う俺に先生は潜めた声を出した。
「気になる点として、私には一切連絡がきていないんです。それはとても瑣末なことかもしれませんが、一応、念のためと言ったほうがいいですね、伝えておこうと思います。ここまでは大丈夫ですか?」
 何がどう大丈夫かも判断がつかないが、俺は「はい」と答えている。
「こちらの方でも事情を確認しようと思うんですけど、それまでに福祉課の人間が東條さんの部屋を訪ねることになるかもしれないので、それはそれとして覚えておいてください」
 もう着いてるんじゃないか? 俺は窓から駐車場を見下ろす。車はない。「わかりました。ところで先生」
「なんでしょう?」
「それ僕に伝えて大丈夫なやつですか?」
 先生は「わかりません」と言った。正直にそう答えただけなのかもしれない。俺は自分の脈拍に意識を向けてみる。どうだろう。はっきりと身体の揺れを感じる。引き戸が音を立てていないので、地震ではないみたいだ。
「ちょっとすみません」
 俺は携帯を握ったまま仰向けに寝そべった。深呼吸をしながらイメージする。バター、バター、バター。なかなか溶けてくれない。どれくらい繰り返したか、再度携帯を耳に当て「もしもし」と話しかけても、通話はつながっていなかった。じっと画面を眺めていると、台所の方からお湯の沸騰をしらせるカチッという音が聞こえた。

 不意に俺はいますぐこの部屋から飛び出して外に隠れていようかなと思い立ち、着替えようとクローゼットを漁る。と、窓の外からエンジン音とアスファルトの上をタイヤが転がるザラザラとした音が聞こえた。カーテンを開け放したままだったので半分ほど閉めると布を握って揺れを止める。隙間から駐車場を見下ろせば、グレーのコンパクトカーが中央に停車し、中から二人の男が降りてくる。運転席から出てきた方は暗緑色のジャケットを着た黒縁メガネで脚が長い。まだ二十代くらいかもしれない。助手席から降りてきたのは白髪頭で同じくメガネでスーツの上から黒のダウンジャケットを羽織っている。三宅係長だ。三宅係長は真っ先に俺のいる部屋を見上げてくるので目が合う。俺はカーテンを開き、会釈した。これでもう居留守は使えない。
 なにも考えるな、と言い聞かせる自分に懐疑的な気持ちが勝ってしまう。台所に戻り、来客用のコーヒーカップを二つ並べた俺は、壁、天井の順に視線を這わせ、それから背後にある玄関の向こう、階段を上がってくるふたり分の足音に神経が総動員されていることに気づいて深呼吸を始める。鳴り響くインターホンに全身が強張りかけるが呼吸は絶対にやめない。そうしている限りは、俺はまだ生活を続けられるはずなのだ。
 出しっぱなしになっていた韓国焼酎を棚の一番奥に隠してから玄関に向かった。ドアの横に取り付けられたモニターには先ほどのふたりが映っている。「どうも、こんばんは」と若いメガネが言う。「福祉課の者ですけど突然すみません。部屋の備品について確認させていただきたく本日は参りました」
 俺はドアノブに手をかけ、鍵のつまみをひねる。めくるめく逡巡に頭が変になりそうだったが、深呼吸だけに集中し続けた。
「東條さん?」
「ああ、はい」
 としゃがれた声で返事をしながら俺がドアを開けると、二人はその場から動くことはせず、「どうもすみません突然お邪魔しちゃって」と、まずは若い方が笑う。「ちょっと確認させてください。書類にまとめて今日中に報告しなくちゃならないんで、すみません。いいですか?」
 咳払い。「どうぞ」
「失礼します」と若い方がドアを押さえてくれるので、俺はふたり分のスリッパを並べることができる。後に続く三宅係長は「ご無沙汰です。すぐすむから」と俺に言った。そうですか。

 でもそうはならなかった。

 俺の前には無数の選択肢があった。まず差し入れとして渡された缶コーヒーを飲まなかった。手のひらの上で弄びながら近況報告をしていたが、三宅係長の目はなかなか俺の手元には向かなかった。一度だけ、こちらの目を盗むように動いた程度だ。なんらかの意識が働いている気がしたし、そうとることにした。胸がねじれるような気持ちの悪い感覚に襲われた俺がシンクに手をついたときも、また気になることが起こった。三宅係長はいま思い出したかのように、ダウンジャケットの内ポケットから薬袋を取り出したのだ。
 もしや愛しのロラゼパムだろうか?
 渡されたそいつを口に含む俺は、そこで最後の選択をした。

 

 午後六時半。日が落ち、部屋がどっと暗くなったので台所の蛍光灯を点灯させた。
 なにかをやらかした記憶はない。
 一方で、なにもしていない人間にここまで労力を費やすとも思わない。
 水で口を何度もゆすいだあと、コップいっぱいの牛乳を飲む。洗浄目的だったけど、久々に激しい運動をしたこともあって体が補給を喜んでいるような感覚がある。三宅係長にもらった缶コーヒーは、水で血を洗い流したあと冷蔵庫に入れておいた。すべての部屋の戸締りを確認し、カーテンを閉めると、ふたりの持ち物を漁った。若い方の男は月村という名前の二十五歳。尻ポケットからS&Wと刻印された折りたたみナイフが出てくる。三宅係長からはジッポライター。いただきます。ふたりを浴槽まで運び、床の汚れをいらないTシャツで簡単に拭き取る。その最中に先生からの電話が入って、俺は福祉課の人間が来たこと、発作用の薬としてよくわからない薬物を飲まされそうになったことを伝えた。
「福祉課の職員はどうしていますか?」
 嘘をつこうかな、と考える。だがどう時間を稼ごうと俺はここから離れることができない。いまだってこんなふうに手を動かし続けることで精神の均衡を保とうとしているのだ。
「東條さん、なにがあったんですか」
「先生。可能な限り最も早く、薬を届けてもらえる方法はありませんか」

 口内の水を薬ごと三宅係長の顔面に向けて噴き出した俺は、白い無精髭の生えるその口元めがけて缶の底を何度も叩きつけた。足元のキッチンラグに足を滑らせた三宅係長は尻餅をつくので、俺はその上にケトルを落とす。まだ熱湯と呼べる温度の液体を全身に浴びた三宅係長は悲鳴を上げ、湯気が天井あたりまでいっきに立ち上る。振り返ればベルトから抜いた特殊警棒をひと振りで伸長させた男が向かってくるが、振り下ろされた腕を肘で受け脇に挟みこむと、頭突きで鼻を潰した。曇ったメガネがずり落ちるのがわかり、反射的にそれをキャッチする。選択に次ぐ選択だ。メガネを力強く握りしめると柄がへし折れたので、その断面を男の左目に突き立てた。叫び声とともに開かれたその口に手のひらを突っ込むと、下の歯に指をかけ、腕を勢いよく引く。フローリングに顎から叩きつけられた男の首は派手にねじれた。それから俺は三宅係長の頬骨を肘で砕き、足首を踏み潰す。約七十キロの体がフローリングを鳴らす。苦痛と焦燥に歪む顔が俺を見上げている。頭の中には相変わらず膨大な量の情報が飛び交っている。どれを選んだって三宅係長は死ぬ。真上から首の骨を踏み抜けば、俺の呼吸する音だけが残った。

 これがどれほどの事態なのかを考え、受け入れ、戦き、態勢を整えるべきだろうか?
 そういう手もあるだろうねと俺は思うが、必要とまでは思わない。

 駐車場から音が聞こえる。
 すぐさまカーテンの隙間から覗くと、白のバンが二台停車するところで、スライドドアが開き、中から男たちが降りてくる。十名以上いる。襟ボアのついた作業用ブルゾンを着て各々道具を持っている。道具というのは、金槌や手斧やナイフのことだ。
 到着があまりにも早いのでおそらく近場で待機していたのだろうけど、だとするとやはり初めから事は大袈裟で、俺の頭は混乱を増すばかりだ。まあなにもしていなくても毎日混乱しているも同然なので、多少の混乱にも耐性が付いてきている気はする。気のせいかもしれない。俺には結局薬が必要なんだ。
「すみませんちょっと離れます」
 つながったままの携帯をリビングのミニテーブルの上に置くと服を着替える。玄関のドアをはじめとして鍵はかかっている。まだそれほど焦ることはないはずだった。クローゼットにある服のうち最も厚手の枯葉迷彩柄ジャケットを羽織って黒のワークパンツを穿き、ニット帽とネックウォーマーを身に付け、置いてあった「脳みそ」をクローゼットの中に仕舞うと急いで玄関まで向かう。階段を上がってくる無数の足音が轟いているが、ガチャっと開いてこんにちはなんてことはないはずなのでいまは無視。靴箱から鉄板入りのワークブーツを取り出して片足ずつ履いているあいだにドアがガチャガチャドンドンガンガンガンとやかましいので俺もブーツを先に履いた方の足で内側から蹴り返す。ドン! バンバンバン! とやっているうちにさっきからベランダの手すりがカーンガリガリ、コーンという音を立てているような気がして、あ、まさかと思う俺は直後、ガラスの割れる音に全身が粟立つ。それはベランダの窓ではなく、トイレか風呂場の小さな小窓からした音で、ドアの向こうのやつらが我先にと暴れているのだ。縦面格子の隙間から硬いもので誰かが殴ったのかもしれない。あるいは格子が外されたか。あの小窓から大の大人が入ってこれるものだろうか? などと考えながら玄関→台所→リビングと移動してカーテンを引く。ベランダの手すりに、脚を全開にした脚立が二つもかけられていて、駐車場から続々と人が登ってくる。数が多い。即ち、できるだけ殺傷力の高い武器を使わないと体力がもたない。そもそも俺は療養中なのに。
 解錠した引窓を開けると、まず目の前の脚立をのぼってくる茶色い坊主頭の若いクソの顔面を逆手に持ったナイフで浅く素早く突き刺すこと三回。悲鳴を上げて顔を押さえるが片手はしっかり脚立を握ったままだったので並んだ指を真一文字に切りつけると落ちていき、下で待機中の仲間が慌てて受け止める。さらに脚立を押し返してざまあみろと思う俺だったが、もう片方の脚立からは坊主頭のオッサンがベランダに一番乗りしていて、手斧がわずかに腕をかすめるがお返しに正面から喉を突き刺し、血が顔に飛んでこないよう斜め下に引いた。その見開かれた目は一瞬だけ自らの死への哀悼を望んでいるようにも見えたが、俺は手斧を奪いとると右のナイフと持つ手を交換して、二つ目の脚立も(別の男が登り始めようとしていたところで)押し返す。ガソリンがあれば一気に火でもつけてやりたかったが、いまできる最善を尽くすしかない。その積み重ねこそが俺の命を永らえさせる最大の策となるはずだ。
 リビングに戻って窓の鍵もしっかりかけ直した俺は、玄関の様子を見に行く。トイレの他に浴室の小窓もガラスが割られているが、格子はまだ外せていないようだ。とそこで鍵の解除される音が響き、チェーンロックが勢いよく張り詰める。隙間から無数の顔や手足が見えるので俺はすぐさまドアノブを引いて閉めようとするが、男のひとりが腕を差し込んで隙間を作り、「切れ! 切れ!」と叫んでいる。別の男がボルトカッターでチェーンを切断しようとしているのが見えて、おいバカ、ふざけんなと俺は差し込まれた腕を追い返すように手斧で滅多打ちにする。一打目で甲の骨が露出し、三打目で複数の指が同時にひしゃげる。そいつが悲鳴を上げて暴れているせいもあってボルトカッターも狙いが上手く定まらない様子だったから、俺はなんとかドアを閉め切ってもう一度鍵をかけなおす。
 よし。
 とはいえ一度は開けられたのだ。ちょっとの時間稼ぎにしかならない。
 ベランダのガラスを破って男がリビングに上がってくる。もちろん土足で、俺も土足のはずなのに気になってしまう。寝室の方でもガラスの割れる音がする。俺は靴箱の上から消火器を取るとピンを抜いて噴射しながら前進、そのままリビングではなく寝室に入って同じように窓から入ってくる最中だった男の顔面を消火器の底で殴り、続けてベランダに出ると手すりをまたごうとしていたもうひとりにも一撃。そいつはあーっと落ちていく。月明かりの綺麗な夜だった。鼻が潰れた男の元に戻った俺は頚動脈にナイフの刃を当てて勢いよく引く。ブシュー、ブシュ、ブシュとリズムをもって血が噴き出す。それは白い壁を染める。俺のつくったくぼみにも溜まる。白い消火剤にまみれた男が寝室に入ってくる。その背後からさらに複数名の気配がする。玄関のドアが破られたようだ。手斧を投げつけると男の胸に直撃して粉が飛び散るが突き刺さった様子はないので飛びかかって引き倒して馬乗りになり、その胸元を何度もナイフで突き刺す。その間にも寝室のドアに男どもが押し寄せるので俺は死体の襟元を掴んだまま仰向けになり、手斧や特殊警棒の攻撃を防ぐ。死体が揺れるたびに俺のつくった刺傷から血が垂れてきて顔にかかる。鼻にも入ってくる。脇に放ってフローリングを転がった俺は落ちていた手斧を拾い上げ、向かってくる腕という腕を次々と薙いだ。顔に飛んでくる血を呼吸とともに噴き出しながら顎を砕き、首を裂き、目を潰す。血で足が滑り、ひとりに覆い被さられる。脇腹を何度も刺し、近くの爪先をたたき潰す。いまの時点で何人殺しているのかを考えるのはもうやめる。俺の頭はバグりやすいので酷使できない。
 それよりも奪い取った金鎚が軽くて振り回しやすいことに感動した。刃がめり込む心配もないのがよかった。部屋を移動しながら次々襲ってくる連中の頭を叩き割っていき、気が付くと顔に生々しい切り傷のある男がでかいナイフを持って立っていた。もしや最初の男か? 向かってくるので腕をとって背後に放り投げると、窓を突き破ってベランダの柵に頭をぶつけ、そのまま動かなくなる。どうせ死んだふりだ。俺は倒れるその男の頭に金槌を振り下ろし、頭蓋がぶよぶよになったところでやめる。
 次はどいつだ?
 振り返るも、俺の呼吸音しか聞こえなかった。
 各部屋をまわり、横たわる男たちの頭も確認のために一発ずつ殴っていく。ぜんぶで十二名もいた。ここにきて俺はちょっと怖くなる。一ダースのドカタ軍団。
 ニット帽とジャケットを脱いでリビングの姿見で全身を確認する。切り傷や痣が山ほどある。ふと足元に無事なままの携帯を見つけたので、拾い上げるとまだ通話がつながったままだった。
「もしもし先生」
「東條さん?」
「お。よかった。先生、さっきの薬の件なんですけど、なんとかなりませんか。この場所を出なきゃまずいんですよ。そのためには薬がないと」
「落ち着いてください、まず、いまはなにしてるんですか? だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶではないです」
 十二人も来たのだ。
「もう危険はないのでしょうか?」
「いちおう確認しましたけど。土木課でしょうか」
「東條さん、聞いてください。薬を最短で届けるには、私がそちらに向かう必要がありそうです」
「大丈夫なんですかそれは」
「わかりません」
「到着が早いんですよ。みんなさっきから。たぶん周りで待機してると思います。次もどうせすぐですよ」
「急ぎたいのは山々ですが、車で向かっても、そちらまで数時間はかかると思います」
「まあ、そうですね」
「すみません。あとあの、東條さん、その音はなんですか?」
 俺はフローリングにうつぶせになった男の頭を何度も金鎚で殴っているところだった。じっとしているのが嫌だった。
「あ、すみません」
「電話、つないだままがいいですか?」
「できればそうしてもらえるとありがたいです」
 自分の声が震えていることに気づいた。嬉しかったのだ。

 

 先生はいまから飛ばしてくると言った。
 俺は死体をまたいで戸締りを済ませたあと部屋を見渡し、バリケードが必要だなと思う。死体は浴槽に二つ。ダイニングに三つ。寝室に五つ。リビングに四つ。ガラスもあちこち割られて冷たい夜の空気が吹きすさんでくるのが後々こたえそうなので、カーテンでもつくろうかな。第三陣がいつくるかもわからないが善は急げと俺も思う。
 ダイニングに窓はないので、そっちの三つを書斎に移す。クローゼットから麻紐のロールを持ってくると、死体の脇や首に巻きつけ、カーテンロールに結びつけて吊るす。かなりの重労働だが、ただじっと待つより精神衛生的に好ましいはずだ。俺はお腹が空いてくる。
 携帯に耳を当ててみた。ガサゴソと音がしているので、先生はいま移動中なのかもしれない。
 洗面台まで行って顔を洗い、洗濯機の上の棚にあるバスタオルをとって軽く全身を拭いたあと、ダイニングの向かいフローリングの上にそれを敷いた。ダイニング→リビング→ダイニング→寝室の順に移動して手斧や金鎚やナイフを回収してくる。バスタオルの上に並べていく。金鎚二本。手斧五本。警棒三本。ナイフ四本。これだけの武器があると思うと、体は一つのままなのに、どこか心強く思えてくる。数に絶望しかけたのなら、数に励ましてもらうしかない。使い物にならなくなったやつはそのまま放っておくことにした。どうせすぐ汚されるので掃除は最後にしよう。
 俺は台所の電気ケトルでまたお湯を沸かす。冷たいものじゃ落ち着かないから白湯を飲もうと思ったのだ。血の臭気が満ちていることが気になって、アロマキャンドルも持ってくると、三宅係長のジッポで火をつけた。蓋の軽快な音が気持ちいいので、開いては閉じを何度もくり返す。それから改めて係長の持っていたスマホを調べる。しっかりロックが掛かっている。係長の免許証に記された誕生日では開かない。子供がいるのならその誕生日をパスにしている可能性があると考え、さらに財布を漁ってみるが、必要なものは特に出てこない。ここしばらくの生活で思考の衰えは予感していた。こうやって闇雲にただ殺すだけの自分を振り返ると、改めて痛感せざるをえない。三宅係長を殺すことはなかったのだ。
 沸騰前にケトルを持ち上げ、白湯をカップに注いだ。二杯飲んだ。割れた親指の爪が痛むので、書斎の机から薬箱を取る。消毒液をふりかけ絆創膏を巻いたその上からさらに二枚目を巻く。不安なのでもう一枚。念のためさらに一枚。厚ぼったくなった親指で目の下をこすった。どこかに手袋があったはずだ。死体の一つが持っていた革のやつをもらうことにした。
 相変わらず静かな夜だった。街灯も少ないので車が来たらどうしたって目立つ。もちろん向こうだってそれを承知のはずで、ライトを消すか、あるいは離れたところで停車し、徒歩で向かってくるかもしれない。考えたくはないが、悩みの種を無視することにだって負担はある。
 薬箱をもとの位置に戻すと、空の薬袋が目に入った。ロラゼパムの1g錠。あまりがあればいいのにとひっくり返すし中も覗く。握りつぶした薬袋を机下のゴミ箱に投げ込む。電話を耳に当てると通話が切れていて、あれ? と思う俺は画面を確認する。電池切れを示す表示が出ている。やっちまった。充電器に挿してから、肩を回した。
 ふと、肩の関節が鳴る音に重なって物音が聞こえる。
 そんな気がした。窓の外からだろうか?
 俺はその場に腰を落とし、口を開いたまま、静かに首を傾ける。
 気のせいだ、と胸をなで下ろす材料さえない。
 なるほど。この時間は猛毒だ。

 午後八時。魚肉ソーセージを食べていると、アロマキャンドルが消えた。俺は書斎にあった十キロのダンベルを持ち上げたりして過ごすが、あまり気は紛れない。

 午後九時。トイレに入る。頭の位置にある小窓は、雑誌をガムテープで固定して塞いでおく。消臭スプレーが目に入ったので、それを各部屋に噴射して回ることにした。先生に電話をしたが出ないので折り返しを待つことにする。車を飛ばしすぎて事故を起こしていなきゃいいなと思う。

 午後九時半。こうなると体力勝負だ。そして俺にはもう大した体力が残されていない。待つことによる疲弊は甚大だった。むこうはそれを狙っている可能性もある。また別の可能性として、もしかしてもしかすると、今夜はもうこのまま誰もやってこないのかもしれない。その二つの間を感情が行き来している。これをドツボにハマると言うのだろう。血を拭いたあとの生臭いフローリングの上で仰向けになった。何を見るでもなく深呼吸をくり返す。

 午後十時。電子レンジで冷凍チャーハンを温めて食べた。シャツを着替え、ジャケットにトイレ用の消臭スプレーを吹きかける。それからクローゼットの中に避難させていた「脳みそ」を取り出し、腹のところで鉢を抱えてみると、不思議と体が温かくなる気がした。俺はもうこの部屋に住むことはできないようだが、どうなろうとおまえは必ず連れて行くつもりだ。そう言い聞かせる。

 午後十一時。
 寝落ちしていた。飛び起きると心臓が痛いほど脈打っているが、不思議と気分は悪くない。いつもなら寝ている時間だから、気が緩んでしまうと朝までだって眠れそうだ。携帯を確認しても電話は入っていないのでとりあえずラジオ体操第一を行う。

 午前0時。
 いよいよ無視できないレベルで悪臭が立ち込め始めた。死体なんかを吊るしちゃったもんだから重力で体内の物が漏れ出ているのだ。おまけにそれら全部が窓辺にあるせいで、入り込んでくる風に臭気が乗ってくる。文字通りのくそったれ。ネックウォーマーを鼻の頭まで引っぱり上げ、自分の周囲にだけ消臭スプレーを振り撒いた。消臭スプレーのストックは山ほどあるのだ。先生が到着するまでどうとでもなる。

 午前一時十分ごろ。
 書斎でうとうとしていると、遠くで物音がして幻聴かなにかだろうかと考えている矢先、ゴツゴツという足音に変わる。振動だってちゃんと伝わってくる。室内のどこかからだ。おいおい、あまりに急だし堂々としているしでちょっと待ってよと思う俺はナイフと金鎚を両手に持ち、壁に背をつけてじっとする。これは一人だ。鈍い足音の合間に細かい咳払いが挟まるし、ぴゅんぴゅんとなにかが風を切っているような音も聞こえる。俺がこっそり顔を出し、ダイニングと引き戸の向こうのリビングを覗いていると、いた。リビング中央には人影があり、こちらに背を向け窓辺に並ぶ死体を眺めている。と思いきやそいつは振り返り、俺は慌てて顔を引っ込めるが、勇壮なリズムがこちらに近づいてくるので嫌な予感に壁を離れればドン! と背後の壁をなにかが破って飛び出してくる。それは平べったくも鋭利な刃先で、ナイフよりも全然でかい。そいつは大仰なゴーグルとどこにでも売ってそうな白いガーゼマスクをしていた。俺が金鎚を持った方の手を挙げて挨拶すると、そいつも壁に突き刺していない方の刃渡り六十センチほどはありそうなマチェーテを、ひょいと挙げた。顔のあれはナイトビジョンゴーグルっぽい。
 俺もあれがほしい。
 壁のマチェーテをゴリゴリと引き抜いたそいつは、埃でも払うように二本の刃をこすり合わせながら書斎の入口に立つ。両手には白の軍手。着ているMA-1のチャックを一番上まで上げ切り、デニムパンツに黄土色のブーツを召している。露出する素肌は首元と、妙にぼこぼこした坊主頭だけだ。
「あんたひとり?」
 俺が尋ねると、なんと返事がくる。
「そうだお」
 マスクでくぐもっているせいかそう聞こえた。その声は低いとも高いとも、もっと言ってしまえば男か女か、若いのか老いているのかも曖昧で、俺は夜中に小便をしたときみたいに震える。
「そとに仲間いる?」
「いるお」
 ふーん。これは信じてもいいのかな。
「本当?」
「うん」
 じゃあついでにこれも聞いちゃおう。
「なんで俺を殺すの?」
「しーやない。ぷい」
 ぷいってなんだ?
「いまなんていった?」
「うゆたい」
 と言いながらそいつは片方の腕を振った。すぐ脇を飛んでいくマチェーテが背後にぶら下がる死体に突き立ったので、こちらも同じように右に持った金槌をぶん投げる。そいつは体を反ることなくマチェーテで金槌を弾いたかと思うと、間髪入れずに踏み込んでくる。俺はフローリングを蹴って後方に飛び上がると揃えたワークブーツの分厚い底でMA-1の胸元を迎え打った。互いにひっくり返った俺たちだが、こっちはフローリング、やつは碁盤目状にガラスの張られた引き戸に突っ込んで、振り注ぐ細かい破片を浴びている。俺は即座に立ち上がると、死体からマチェーテを引き抜く。同じく跳ねるようにして起き上がったそいつに近づきながら、ナイフを投げつけ、やつがまた同じように弾くそのタイミングでマチェーテを振り下ろした。カッ、という硬い音がして刃がやつの左肩にめり込み、遅れて左耳のついた顔の一部とナイトビジョンゴーグルが地面に落ちた。青白く光る肌に、マーカーかなにかで描かれたらしき波線がいくつも交差している。
「いたいいたいいたい」
 下から上へ振り上げようと動くやつの手をワークブーツで蹴りつける俺は、そのまま下腹部に靴底を押し付け、めり込んだままのマチェーテを勢いよく手前に引き抜いた。真上に跳ねた血が天井を叩く音が聞こえる。マチェーテをバットのように構えると、耳に刺さるような叫び声をあげて仰け反るそいつのむき出しになった首めがけてフルスイング。真っ二つにしてやるつもりだったが、咄嗟に背中を反らせたそいつの首は前半分だけがパカッと開き、MA-1が一瞬にして黒く染まった。ぶらりとひっくり返った頭を背中のあたりで揺らしながら、そいつは崩れ落ちることなく、たどたどしい足取りで後退していく。人間の命は時として信じられないほどの可能性を掴みとるものだ。追いかける俺もマチェーテを振りかざしはするが、そのいびつな奇跡に気圧されてなかなか振り下ろせず、ついにはリビングの窓際の死体にそいつがぶつかるまで、じっと見届けてしまった。
 午後一時十五分。
 MA-1の頭が破裂してその破片が飛んでくる。

 

 

 

 先生からの連絡がこないままどれだけの時間が経ったのかを考えても意味がない。

 そもそもいまの俺にとって先生はすがるべき希望なのだろうか?

 

 背中から壁に張りついた俺の耳に届くのは空高くのぼる銃声だ。
 銃声なのだ。
 弾はおそらく向かいのC棟から飛んできた。真っ先に考えるのは向こうの人数だ。
 吊るされた死体の胸元が飛び散るのと同時に再度銃声が響いた。俺は考える。銃声が先ほどのものと同じようにも思えたが、定かじゃない。
 吊るしていた紐が衝撃で切れ、死体がドサリと落ちてくる。骨ばった顔の、まだ若い男だった。差し込む月明かりの幅が広がって、汚れたカーペットを照らしている。
 弾はいまのところ、間隔をあけ単発で飛んできている。慎重に狙っているだけかもしれないが、例えばそれがライフルでボルトアクション式なら、次弾発射までの時間はある程度空くとみていいだろう。
 なんにせよ、ライフル弾を使われてしまったら、こんな築年数の古いアパートの壁に、果たして意味などあるのだろうか。
 そう考えていると別方向からも銃声がするがあまりにも近すぎて俺の鼓動は一気にそのペースを上げる。玄関だ。煙が舞い上がってドアが開き、長い棒のようなものを持った男が入ってくる。イヤーマフとナイトビジョンゴーグルをつけた誰か。テキパキと肩にストックを当て銃口を正面に構えれば、部屋全体の空気が膨張するような轟音。すぐ横の壁から飛び散った破片が肩を叩くが、俺はワークブーツで死体の破片もろもろを踏み潰しながら全力疾走。マチェーテを持たない方の手で折りたたみ式ナイフを開いておく。動きに反応したらしきC棟からの弾丸が吊るされた死体を貫通して引き戸のガラスを砕くのも無視。実のところ、はっきりとは見えなかったのでこれは賭けなのだが、その白髪のジジイが持っているのは上下二連式の散弾銃で、ドアに一発、壁に一発で残弾ゼロ、排莢と装填が必要のはずだ。玄関のジジイの動きは驚くほど堂に入っており、俺の接近に焦りも見せず、新たな一発を込めると折れた銃身を元に戻して構えた。実にシームレスな動きで気持ちがいい。一方の俺はマチェーテを放り投げると、ダイニングの床めがけて滑り込み大量の血の上を滑走。ジジイの足元に突っ込んでその太腿に刃先を突き刺す。捻る。痰がからんだような声を上げるジジイが発砲、至近距離で銃声が炸裂して破片が降ってくる。ジジイを倣って割れるような頭の痛みに俺は構わない。立ち上がりながら拳で顎を砕き、熱を持った銃身を掴むと背後の靴箱までジジイを押し込む。ゴーグルのまんまるいレンズ。その顔面を殴りつけ、ゴーグルだって引き剥がす。鼻も潰す。股間を蹴り上げれば肋骨も叩き折る。耳が完全に麻痺していて、手応えがいつもの半分ほどにしか感じられず、やめどころがわからない。グニャグニャになったジジイが玄関に尻をつくので、最後に靴底で顔面を踏み潰すと、猟銃とイヤーマフを拝借。腰の弾薬入れに入っていた実包をひと掴み分ジャケットのポケットに突っ込む。ドアの鍵は完全に吹き飛ばされているから、俺はその威力を有するスラッグ弾がほしい。グリップのすぐ上にあるレバーを押すと、銃身が折れて使用済みの薬莢がひとつカポンと飛び出した。上下に並ぶ空洞に親指くらいある種類も定かじゃない実包を二発同時に突っ込んだ俺は、ジジイのナイトビジョンも装着。
 頭が重い。
 頼むぜ俺の視覚。
 元々台所以外の明かりはつけていなかったが、玄関にあるブレーカーを落としておく。真っ暗な部屋の中を、ナイトビジョン越しの視界でゆっくり前進。リビング手前でしばらくじっとする。C棟にいる相手の位置がわからない。俺はダイニングに並べてある鈍器から警棒を選び取ると、まだぶら下がっている窓辺の死体に投げつけてみた。死体が揺れた次の瞬間、銃声とともにそいつの腕が千切れ飛んでカーペットの上に落ちる。なるほど。同じ手を繰り返すしかないか。そう思った俺は、今度は鈍器ではなく奪った散弾銃を構え、死体ひとつぶん空いた窓の向こう目掛けて銃撃する。銃全体が後退しストックが肩にめり込むのでちょっと痛い。いまのは散弾だろうか? 即座に銃身を折ると、一発排莢。新しく実包を込めておく。
 銃声の返事が来て、また新たに死体がドサリと落ちる。月明かりの幅が広がる。ナイトビジョン越しでは眩しいので寝室に移動。その最中にもう一度銃声が響き、俺の動きを読んだように寝室にある死体がドサリと落ちた。なるほど、向こうも狙いを定めるため、死体カーテンの排除を試みているのだ。ライフルの装弾数を俺は知らない。いまのところ、むこうはぜんぶで五発使っている。俺の知りえないところで装弾した可能性だってあるし、二人がかりで交互に銃撃している可能性だってある。どれを選ぶべきか。あまり考えてもらちがあかない気がして、位置の特定にだけ集中することにした。
 C棟からこの部屋の窓までの距離を十メートルとしよう。リビングに撃ち込まれた弾丸は引き戸の中央部にあるガラスを破壊した。窓から引き戸までは三メートルくらいある。角度からして、比較的平行な位置に狙撃手はいるはずだった。C棟二階の廊下か、屋上。俺は寝室の死体を撃ち抜いたと思しき銃弾のあとも探してみる。でも見つけられない。まあいい。
 作戦を変え、ある実験を試みる。俺は玄関にあるジジイの死体を抱き挙げて引きずり、筒抜けになった窓のむこうを意識しながらリビングにそれを投げ入れてみる。
 銃声が鳴り響く。弾丸がジジイの死体を貫いたかどうかに用はない。
 少なくとも向こうには、真っ暗なこの部屋の中が見えている。
 銃声は続く。窓辺の死体がまた落ちる。
 俺はリビングの壁にある電気のスイッチを手探りでオンにしておく。寝室も同じようにする。成功するかはわからないが、結局相手のことはわからない。このあとどちらかが死ぬってだけの、ざっくばらんとした関係性でしかないのだ。俺は玄関に向かうと、ブレーカーを上げた。
 C棟側に面する部屋の明かりが一斉に灯る。俺は猟銃を抱えて玄関を飛び出すと、手すりを伝って屋上へ。音を立てないよう中腰で半分ほど進み、残りは匍匐前進。俺の緑色の視界には、C棟二階の廊下でライフルを構えている人影が映る。ナイトビジョンゴーグルを外して目を細めているのは若い女だった。
 どこかで見たような顔だ。たぶん、よくいる顔なんだろう。
 ようやくこちらに気づくが、死ね。

 

 午前三時になった。俺は荷物をまとめる。

 

 午前三時半。各部屋を回って手を合わせた。

 

 午前四時。クローゼットから「脳みそ」を取り出す。


 
 午前四時半。俺の耳はまだ治らない。
 すこしずつ、朝の匂いが立ち込める。
 もしかすると鳥が鳴いているのかもしれない。
 はやく会いたいよ。

 

 五時。
 遠くの空が紫色に染まる。空に浮かぶ雲がその輪郭をくっきりと浮かべだす。
 明かりが見えた気がした。もしやと観察していると、その明かりはこちらに近づいて来る。車だ。駐車場に入ってくるのは黒塗りのベンツ二台。放置されたコンパクトカーやバンの後方にゆっくりと近づいていき、縦に並んで停車した。
 俺は十キロのダンベルを持ち上げると、それを前方のベンツめがけて放り投げる。特に回転も見せず落下したダンベルは、そのままフロントガラスに直撃し、真っ白なヒビを一面に走らせた。
 前後のベンツから男たちが一斉に飛び出す。スーツを着ていたり、高そうなジャージ姿だったり、外国人だったりしたが、動きの鈍い順にライフルで撃ち殺した。まず三人。
 俺はボストンバッグを肩にかけると、B棟の屋上からA棟の屋上に飛び移り、置いてあった散弾銃を拾い上げて、再度駐車場に構える。二人撃ち殺す。排莢と装填。地平線が白んできた。屋上から自室前に降り立つと表に出しておいた「脳みそ」を回収し、十五段の階段を降りる。もうここを上ることもないのでしょう。寂しいかどうかは時間が教えてくれるだろう。駐輪場を抜けて自販機のある通りに出た俺は、そこから駐車場入口に回り込む。停車するベンツのリアウィンドウ内には、ふたりぶんの頭が見える。左の人物が振り返る。銃口を振って指示すれば、その人物は自ら車を降りてくれた。実にゆっくりと。
 先生だ。
 続いて右に座っていた人物も自らドアを開け、落ち着いた様子で降りてくる。グレーのスーツを着て、そのすそを手で直すオールバックのメガネジジイ。
 総務部長。
 先生がなにかをしゃべっているが、いまの俺にとっちゃ遥か遠くで響くだけの、意味を成さないただの音でしかなかった。俺は猟銃の引鉄を絞る。無数の散弾を浴びた総務部長は、砕け散った窓ガラスとともにアスファルトに崩れ落ちた。
 肩をこわばらせたまま固まる先生が俺を見ている。安心させるために猟銃を下げた俺は、耳の穴に指を突っ込んで笑った。
「やっと来てくれましたね」
 やや声を張りすぎたかもしれない。先生はなにかをつぶやいたあと、後部座席に左手を伸ばす。右手は正面につき出したままで、俺が発砲しないよう制しているようだ。先生を撃つわけがない。俺はちゃんとそう伝える。
 先生の手には薬袋が握られていた。俺は笑う。先生もひきつりつつも、笑い返してくれる。ああついに。俺は深呼吸をする。もう夜の匂いはどこにもなかった。ろくでもない夜。先生から薬を受け取る。
 先生の口が「東條さん」と動くのがわかった。
「だいじょうぶですか」と。
 だから俺は伝える。
「おかげさまで」
 それから俺はポケットに入れておいた缶コーヒーを先生に渡す。
 三宅係長が俺に渡してきたものだ。
「先生。朝日を浴びながら飲むコーヒーは美味しいですよ」
 缶コーヒーを見つめる先生が微笑むことをちょっとだけ期待したが、見届けることはせずにその横を通り過ぎる。一番奥の、ありふれたコンパクトカーに乗り込んで、猟銃と「脳みそ」を助手席に起き、持ってきたキーでエンジンをかけた。座ったとたんに強烈な眠気がよぎったが、俺はもう眠らない。これまでたくさん眠ってきたのだ。もうすぐ朝日が昇る。日の光を浴びれば、体も目を覚ますだろう。
 バックミラーを調整し、シートの隙間から後ろを確認する。先生はまだ同じ所に立っている。先生はさっき、俺になんと言ったのだろう。なにを言わなかったのだろう。ギアを「R」に合わせて発進し、横たわる男たちの死体を踏み越えて、先生のそばで一時停止する。窓を下げた。
 やはり俺の中には山のように選択肢があった。なにを伝え、なにを伝えないか。だが、俺が先生に感謝しているというのは、紛れもない事実だった。
「確かにコーヒーは控えたほうがいいかもしれませんね」
 そのまま表の道路まで出た俺は、改めてクラクションを一度だけ鳴らす。先生は手すら振ってくれないが、逆の立場で考えたら、たぶん俺でも振らない。カーナビに入力する目的地を考え、その中の一つを選択する。アクセルを踏み、両サイドを畑に挟まれた侘しい道路を進んでいく。法定速度は遵守する。ラジオの音量を最大にすれば、パーソナリティーが「今日も一日、いってらっしゃい」と言った。
 午前五時半。
 閉め忘れたままの窓から、薬を投げ捨てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書き下ろし短編:『白濁を耳に』

 

「う、ゥウッ……グッ……アッ……!」

 

 その少年の放った声は、講義室の静寂にいとも簡単に飲み込まれてしまった。おれはすぐさま言葉を添えることはせず、肌を刺すようなこの沈黙をもって、彼自身に感じてもらうことにする。少年はひどい猫背姿で立ち尽くしたまま、浅い呼吸を繰り返しているが……。

「うん、ありがとう。みんなはどうだったかな? いまの彼の演技を聞いて、どう感じた?」

 いくつも並ぶ白の長机には、大勢の生徒が敷き詰めるように座っている。みながみな、自らの中にある感想を咀嚼するように口をつぐんだり、俯いたりしていた。中にはまじまじとおれの顔を見つめる者もいる。いい顔だ。おれはさりげない微笑みでもって応える。

「そこの君」

 鳴らした指でそのまま指し示すと、その女生徒は小さな声で「ふぇ……」と漏らし、横断歩道を渡る前のように、左右を確認してみせる。

「そう、そこの君です。ポニーテールでメガネの君。お名前は?」

「ひゃ、ひゃい、あのう……渡辺美莉亜と言います。あ! わ、わたし宮崎先生の大ファンで! 大宮ソニックシティのライブにも行って……」

 先程までとは打って変わって、生徒たちからはあたたかな笑い声が沸き起こった。少女は饒舌になっている自分から、はたと我に返り、頬を赤らめ俯いてしまった。

「ありがとう美莉亜ちゃん。とても光栄です。そんな美莉亜ちゃんに質問をひとついいかな。緊張しないでね? いまの彼の演技を聞いて、どんな状況が頭に浮かんだかな?」

「うう……じょうきょう……ですか?」

「うん。なんでもいいんだ。自由に、感じたままを答えてほしいんです」

 彼女はあごの先に指を当て、天井を仰ぐ。伸びた前髪の隙間から覗く眼鏡のレンズが、鈍い光を放った。

「ええっと……えー、なんだろ……戦場?」

 再びあたたかな笑いが起こる。どうやら美莉亜ちゃんは、このクラスの人気者のようだ。おれはついつい、この空間にいるかつての自分を想像してみた。

「なるほど! いいですよいいですよ。戦場?」

「は、はい……若い兵士がいて……そこは戦場で……お腹を怪我してる? そんな姿が浮かびました……」

「あ~。なるほどなるほど。彼は若い兵士で、お腹を負傷している。それで漏れた声がさっきの田中くんの演技、ということだね?」

「は、はい……!」

 おれは手に持っていたメモ【勝気なヒロインに論破され、たじろぐ主人公】を教卓の上にそっと伏せる。

「いいですね~美莉亜ちゃん。まずね、想像力が豊か! これはとっても大切なことでね、豊かな想像力というものは演技にも活きてきます。いいですよ、ありがとう! じゃあ他には? 他にこんな情景が浮かんできたよ~というひと、いたら挙手をお願いします!」

 互いに顔を見合わせ、はにかむ生徒たち。その中の数名が遠慮がちに手を挙げる。素晴らしい。おれは長机の間を縫って歩きながら、「いいですね~いいですよ~、先生とてもやりがいがあります」と笑いを誘った。「じゃあそこの君! お名前と、浮かんだ情景!」

 

「えーと、花村拓人です。浮かんだ情景は……学園ですね。高校というか、そういう感じの。それで制服はブレザーで……あ、これも浮かんで……そのキャラの髪は黒でツンツンしていて、たぶんヒロインからはウニとかそんな感じのあだ名で呼ばれているキャラで――」

 

「石田輝留と申します。わたしも学園が浮かんできました。あとはそうですね、わたしの場合この主人公にはドSな親友がいてたぶん小学校のときからの関係で、あ、関係っていっても変な意味じゃなくいや変な意味でもいいんですけど――」

 

「リドル昌也っす~。あ、そうっす、一応ハーフっす~。自分の場合はアレっすね~。一応最初は学園ものなんすけど、一応ヒロインをかばって事故で死んで異世界に転生したばかりの一応主人公なんすけど、実は意外と一応適応力のあるキャラで――」

 

 気がつくと浮かんだ情景ではなくキャラ設定の妄想を発表する時間となっていた。おそらく一人目の渡辺美莉亜を褒める際に「想像力」というワードを意識して使用したがために、その言葉がみんなの頭の中でひとり歩きしてしまったのだろう。

 未だ教卓の横で猫背のまま立ち尽くし、自分の演技への感想はおろか、各々の勝手な妄想を聞かされている田中くんの気持ちを思うと、不憫で仕方がない。ここで一旦空気をリセットしなければ。特別講師としての腕が試されるときだと思った。

「はい! みんなありがとう! 今年の新入生は想像力が豊かな人ばかりなんだね。はっきり言って先生、驚いてます。先生が通っていた時よりもすごいです。はい。それはそうと! 先ほど田中くんに演じてもらった演技のお題なんですが、ここで改めてね、答えを発表しようと思います。じゃあここは田中くん本人の口から、与えられていたお題の発表、お願いできるかな?」

「え……あ、はい! お題? は、はい!」

「じゃあ……お願いします!」

「う、ゥウッ……グッ……アッ……?」

 再び静まり返る講義室の中心で、おれはかつて監督に何度もリテイクを求められた在りし日を思い出していた。

 

 

 

『劣悪少女隊ぱぴぷ@ぺぽ』の主人公・道明寺タカシ役での大ブレイクをきっかけに業界のメインストリームに躍り出たおれは、その後も勢いを落とすことなく若手声優界を牽引した。声優雑誌の表紙を飾り、メインパーソナリティーを務めたラジオ番組も大好評。デビュー当時からお世話になっていた先輩声優、冨樫桃華に気に入られていたこともあって、声優同士の交流を深める飲みの席にもよく呼んでもらっていた。

「ほんと、優翔くん、大物になったよねえ」

 ピクサー映画のメインキャラクターを演じることが決まった冨樫桃華が銀座のバーで開いた祝いの席にて、おれは彼女からそう言われた。周りにいる誰もが彼女の言葉に賛同し、おれの謙遜は瞬く間にかき消される。

「そんなことないですよ桃華さん。桃華さんの足元にも及びません」

「また~。前もそんなこと言ってたけど、すごいんでしょう? 若手男性声優と言ったら、いまや誰もが優翔くんの名前を口にする時代だもんねえ」

「いやいやいやいや。そうは言いますけどね桃華さん。今度のピクサーだって、メインどころはどうせ芸能人枠だからって誰もが思っていたところの大抜擢じゃないですか。天下のピクサーですよ。ぼく大好きですもん。『シュレック』とか」

「あはは~ほら~! すっかり口も上手くなってるし~! そりゃラジオも人気でるよね、わたしも大好きだもん」

「え! 桃華さん、ラジオ聴いてくださってるんですか?」

「実はヘビーリスナーなんです。うふふ。ラジオネーム【処女膜からやまびこ】。あれはわたしなんだよ」

「ま、マジで……え! うっわ、ちょ、待ってくださいよ、本当ですか桃華さん! まいったなあ……今後メール読むとき緊張しちゃいますよ~ははは」

「ねえ」

「あ、はい」

「桃華って呼んでよ」

「え?」

「桃華」

「…………桃華」

 その晩、おれと桃華はキスをした。

 だがそれっきりだった。

 その数日後、彼女のニャンニャン写真が流出したのだ。相手は、どっかのバンドのベーシストだった。

 

 おれは何日も酒に溺れた。あのキスは一体なんだったんだ。

 女とは。

 頭の中で渦巻く疑問の答えがそれであるかのように酒を煽り、店のトイレを汚し、ほかの客から顰蹙を買った。己の傷を見つめれば見つめるほど、自分がどれだけ冨樫桃華を尊敬していたのかを痛感した。たった一度のキス……その先に待っていたはずの……。おれは彼女相手なら、喉を生業道具とする声優にとって禁忌であるはずのオーラル・セックスだってしたはずだった。喜んでしたに違いない。いまだってしたい。したくてたまらない。オーラル・セックスがしたい。オーラル・セックスをすると、きっと楽しい。オーラル・セックスという救い。オーラル・セックスという秩序。オーラル・セックスという倫理。オーラル・セックスという茫漠。オーラル・セックスというなにがし。オーラル・セックスという……オーラル・セックスとは? スマホで調べてみる。「性器接吻」。オーラル・セックスとは性器接吻。オーラル・セックスこそ性器接吻。オーラル・セックスという性器接吻。

 性器オーラル・接吻セックス……。

 死すら覚悟していた。そんなおれを支えてくれたのは、同じラジオ番組でパーソナリティを務める新垣大輔だった。おれより五年ほど後輩だが、歳は三つしか違わず、人当たりのいい好青年。一人っ子のおれは、彼のことをまるで弟のように思い、接した。彼もまたこんなおれを慕ってくれた。

「宮崎さん、元気出してくださいよ」

 まだ出禁を食らっていない新宿のバーで彼と飲む。こんな場末で、ふたりの人気声優が酒を飲んでいるとは誰も思うまい。思う存分語らった。

「写真が流出……おれはね、大輔くん。この件に関してひとつ思うところがあるんだ」

「なんです?」

「なんでそんなものを撮るのだろう?」

「わかりますよ。ああいう人らは結局見てほしいんすよ。普通出て困るもの撮らないっすもん」

「やっぱり? まさか新垣くんも、撮ったりしてないよな?」

「撮るわけないです」

「彼女はいるの?」

「彼女はいます。これですけど」

 口の前で両手の人差し指を交差させる新垣大輔。なにはともあれ、人と会話をするだけでも、心の風通しは良くなった。

「大輔くん、ありがとう。乱暴に酒を飲むのも、今日で最後にする」

 しかしそうはならなかった。

 おれがやけ酒に溺れている間にも、着実に仕事をこなし、きちんと成果を出していた新垣大輔の人気は、瞬く間に手の届かない高みへとのぼってしまっていたのだ。

 

 

 

「みんな、実は先生、今日のために用意してきたものがあります」

 田中くんを席に戻したおれは一枚のCDをカバンから取り出す。

 みんながおれを見ている。

 おれも生徒ひとりひとりの顔を見つめ返した。

 呼吸は浅い。緊張している? この宮崎優翔が? 

 面白い。

 おれのすべてをかけたプロジェクト。

 その狼煙は、今日この場所で上がるのだ。

 

 

 

 新垣大輔の人気に疑問はない。甘いルックス。芯のある声。表現力豊かな演技。軽妙なトークに、時折出る地元関西の訛り。実際会って接していても、清潔感があり、いつもいい香りがする。肌だって綺麗だ。ヒゲなんて月に数回剃る程度なのだろう。ラジオの収録中に、トークのノリに乗じて抱きついたことがあるが……おっ勃った。男のおれでそうなのだ。彼と絡んだ女性声優に、女性ファンからの殺害予告が届くのも仕方がないと思えよう。それくらい、新垣大輔の人気に疑問はない。でも不満はある。おれだって人間なのだ。並べられた事実を、常に飲み下せるわけではない。そんな不満はラジオ番組中の態度に露骨に現れてしまった。ネットやSNSではおれの不機嫌そうな声色への批判が溢れ、大して年齢も離れていないというのに「老害」とまで言われる始末。

「おれが……老害……?」

 再び酒に溺れた。もうなにもかもをかなぐり捨てたくなった。

 そんなときだった。

 

「君、このまえもここで飲んでいたよね。オーラルセックスがどうのってずっとぶつぶつと言っていたから覚えているよ。悪い酒の飲み方をしている若者がいるな。そう思ったもんでね。いやなに、怪しい者じゃない。いまから名刺を渡すよ、ちょっとまってね、あれどこにやったかな、あったあった、ははは、しまった場所を忘れるとは……私はこういう者だ。話を聞いておいても損はないと思うよ」

 

 その初老の男は、栗原哲哉といった。プロデュースをしている、と言った。ぜひ仕事の話がしたい。栗原は微笑んだ。

「どうだい、宮崎くん。興味はあるかい」

 おれはバーボンを一気に飲み下し、グラスをカウンターに叩きつけるのと寸分違わぬ動きで首肯した。

 

 数ヶ月ぶりに、実家の両親へ電話。

「優翔? 元気かい? すごく活躍してるそうじゃない。母さん、もう年寄りだからさあ、あなたが出てる漫画とか……あ、ごめんなさい、アニメって言うのよね。ほんとうに疎くてねえ。でも頑張ってるんだってねえ。お隣のけっちゃん、もう高校生なんだけどね? あなたの活躍知ってるって。すごい人だって言ってたわよも~泣いちゃって私。あんたが定期預金を勝手に解約したときから母さん思ってたわよ。この子は大物になるって」

 母さん……。

「ほら、お父さんもちょっとは話しなさい。せっかく優翔が忙しい中電話くれてるんだから」

「ああ、はいはい。もしもし……優翔か? 母さんはああ言ってるけどな、父さんはあの日、お前のことぶん殴ってやろうかとも思ったんだ。ははは。でも父さんあまりにもショックでな、動けなくなったんだぞ。ははは。しかしそれがいまや……ああ、そうそう。この前のハワイな……良かったよ。ありゃいい場所だ」

 親父……。

 

 久しぶりに声優専門学校時代の友人、出川との食事。

「おれらの中じゃ、優翔が一番の出世頭だな。アニメも吹き替えも全部チェックしているぜ」

 出川は現在、製薬会社の営業をしているという。

「ところで覚えてるか、優翔。島崎純恋。いたろ、あのヤリマンだよ。あいつ結婚したらしいぜ。相手は戸塚だよ。講師の戸塚。子供が出来たんだってさ」

 おれは言葉を失った。

 今度、そこで特別講師をするよ。力なくそう伝えると、出川は自分のことのように喜んだ。

 

 真夜中にふと目を覚ますと、傍らには愛犬のアチャモがいた。

「あちゃもたん、パパですよ~。パパにちゅーは? ちゅー」

 普段からハウスキーパーに世話を任せっぱなしだったためか、顔のすぐ近くで激しく吠えられてしまう。なんて畜生だ。小型犬の鳴き声は、神経に障る。

「おまえだけは味方でいてくれよ!」

 ウィスキーグラスをフローリングの上に叩きつける。意外と頑丈なもので、割れやしない。ベッドから抜け出したおれは再びウィスキーグラスを手に取ると、改めてフローリングの上に叩きつける。ウィスキーグラスは甲高い音を立てながらフローリングの上を滑り、部屋の隅にそっと盛られてあった、出したてと思しきアチャモの柔らかな糞便にめり込んで音もなく止まった。おれはトランクス姿のままその場に崩れ落ちた。冷たいフローリング。言葉がない。漏れる嗚咽。

「ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……ウッ……グウウ、クッ……ハッ……、ヌッ、グググ……ギイ……アッ、ンンッ……スウウウウウ、ヌハァ……アッ、ヌウウオッ、カッ……ハッ……」

 ふと、自らの嗚咽がある一定のリズムでもって繰り返されていることに気がついた。これも職業病というやつだろうか。悲しむことさえ演じてしまっているとでもいうのか。おれは自らの首を両手で掴むと、渾身の力で握り締めた。やめろ。やめてくれ。おれの本当の悲しみを返してくれ。おれはおれの悲しみを悲しみたいだけなんだ。

 気がつくと、ハウスキーパーのジョイさんがすぐそばにしゃがみこみ、その豊満な肉体で小さくなったおれの身体を包み込んでいた。

「Easy……easy……」

 耳元で囁かれる聖母のアンセムにおれは声を上げて泣き、やがて気を失った。

 気がつくと、閉め忘れていたカーテンの隙間から朝日が入り込み、泣き濡れた顔を照らしていた。

 おれはすぐさま栗原プロデューサーに電話をかける。

 

「ひとつ、企画案があるんですが」

 

 おれの反撃が始まる。

 

 

 

 

 

 

 学務担当者が用意してくれたラジカセに焼きたてのCDをセットする。

「これ、実はまだどこでもかけてないやつなんです。本邦初公開、ってやつですね」

 講義室内にどよめきが起こった。生徒たちは隣同士で顔を見合わせ、その興奮を共有している。

「といってもですね、これは曲――というわけではありません。みなさんがこれから学んでいく、プロの声優としての演技。その参考になるいわば教材というか、力になれるようなものを真剣に考えて作られたものなんです。ぼく自身、この専門学校であらゆることを学びました。当時の講師に言われたことは、今でもはっきりと覚えています。そんなぼくから、当時の自分に伝えたいこと。それを念頭において作りました」

 おれは再生ボタンに指をのせる。

 この音源の制作は難航した。自分にウソをつかない。それがなによりも譲れないルールだった。栗原プロデューサーとは何度も話し合った。時には衝突することもあったが、おれのこの熱意でもって納得させた。

「顔つきが変わったよ」

 徹夜続きの栗原プロデューサーは、濃いブラックコーヒーを飲みながらそう言った。

 過去の自分に戻れるうちは、人は変われない。

 

 そう信じてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 宮崎優翔の! 

『かんたんな感嘆』! 

 みなさんこんにちは。声優の、宮崎優翔です。今日は私宮崎が、声優を志す皆さんのために、様々な感情表現、いわゆる感嘆――の技術を、かんたんに紹介していきたいと思います(笑)。キャラクターに命を吹き込むのがぼくたち声優の、なによりの役割です。様々な感情を理解して、それを表現する術を身につけることで、アニメや映画、ナレーションなど、声優としてのお仕事で活躍することができるようになる……のかも(笑)?

 明日の主人公はテメエ自身!(©『劣悪少女隊ぱぴぷ@ぺぽ』)

  ってなわけで(笑)

 早速いってみましょう!

 

 

 生徒たちからは、自然と拍手が沸き起こった。

 

 

レッスン1 《基礎編》

 【驚き】

  「ンッなァ……?」

 【悲しみ】

  「グッ、うう、つうう……!」

 【喜び】

  「ンッフッ……」

 【怒り】

  「ックゥ……!」

 【後悔】

  「アッ……」

 

 

 みな、息を呑むように音声に聴き入っていた。おれは腕を組み、いまの地位に身を置いてもなお学びに貪欲であるかのような体で、音声が流れるラジカセを細めた目で見つめ続ける。

 

 

レッスン2 《応用編》

 【ヒロインが急に着替え出したとき】

  「なッ……!」

 【屋上から望む街並みが燃え盛っていたとき】

  「な……ッ!」

 【父親が黒幕だったとき】

  「ナッ……!」

 【通学途中に見かけた美少女が転校生として教室に現れたとき】

  「ンッ……ぁ……?」

 【背後の写真立てが突然倒れたとき】

  「ンッ……?」

 【犬の糞を踏んだとき】

  「ヌぅッ……?」

 【腹を殴られたとき】

  「カッ……アハァッ、ハァ……!」

 【顔を蹴られたとき】

  「ヌハアッ! ッカァ……!」

 【腹部への攻撃で吐血したとき】

  「ッ……ポゥあ……カァッ!」

 【惨劇を目の当たりにして嘔吐するとき】

  「んグゥッ……ボロロロロロロロロロロ!」

 【拷問されているとき(我慢編)】

  「グッ……ウウウウッ! ヌウゥウッ!」

 【拷問されているとき(絶叫編)】

  「グァ、がああああああああああああああああああああああああああ!」

 【そのまま覚醒したとき】

  「あああああああああぁぁぁァァァアアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 

 誰かが唾を飲み下す音が聞こえた気がした。いや、幻聴などではない。おれのプロとしての技術――そのレパートリーの豊富さや繊細な表現力に、誰もが荒肝を抜かれたような顔をしていた。

 そして内容はいよいよ、おれが最後まで決して譲らなかった、執念の賜物とでも言うべき領域へと突入しようとしていた。

 

 

レッスン3 《成人向け編》

 

 

 ざわめきが起こった。

「すげえ」

 誰かの漏らす声が聞こえる。

 

 

 【乳首を責められているとき】

  「ハッ……なアァ……!」

 【局部を触れられたとき】

  「クゥッ……!」

 【オーラル・セックスをされているとき】

  「アァッ……! アア! ハアッ……!」

 【オーラル・セックスをしているとき】

  「じゅるるるるるるるるるるるる!」

 【オーラル・セックスをしぶられたとき】

  「ンッ! ンーッ!」

 【初めての挿入】

  「アッ……ハァ……ァッタ……カイ……!」

 【ピストン中】

  「んはァ! んはァ! んはあッ……ウウウギモチィッ!」

 【絶頂

  「あ、やばい! やばいやばいやばい!」

 【絶頂

  「ゴメンナサッ……ッッッ……!」

 【絶頂③】

  「スッ、スゴィうわっ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ、ワッ」

 

 収録した内容とは異なる音声に、おれは我が耳を疑った。たいへんだ。CDにキズが入っている? あるいはこのラジカセが古いのか。おれは平静を装いながら、しかし迅速にラジカセを小突いた。

 

「ワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッワッ」

 

 音の細かな反復はさらなる加速を見せる。今更ながら、なぜ用意できるものがラジカセだったのか、データファイルではなくCDなのかという疑問が噴出する。しかしここで焦りを見せれば、この状況が招かれざるものであることが生徒たちに周知されてしまう。彼らの神聖な学びの場において、その熱意に水を差す真似は許されるはずもない。

 再度、小突いた。

 

「ワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワア、ア、ア、ア、ア、ア、ウワウワウワウワウワウワウワウワウワウワウワウワWOWOWWOWOWWOWOWWOWOWWOWOWWOWOWWOWOWWOWOWワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワワウワウワウワウワウワウワウワウワウワウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ、ウ、ウ、ウ、ウ、ウワウワウワワワウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウワウワ…………

 

 

 講義室は、幾重もの声に包まれた。

 椅子から転げ落ちる男子。出口に向かって走っていた女生徒が彼にぶつかって転倒した。耳を押さえ悲鳴を上げる女生徒もいる。かばうようにして抱きしめる男子の姿も。絶頂時に漏れる声の断片が木霊するこの空間において、もはや平静を保てる者などだれもいなかった。まるで永遠に続くかのような……煉獄。そのリズムは限界まで加速していく。

 だが不思議なことに、おれの心は落ち着いていた。

 平穏、そのものだった。

 混沌に喘ぐ生徒たちのなか、自らの席に着いたまま、力強い眼差しでおれの顔を見つめている生徒がいた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいるようにも見える。おれも彼の目を、その魂を見つめ返す。

 田中くんだった。

 おれは鳴らした指でそのまま彼を指し示す。

 彼は喉を隆起させたあと、迷いなく口を開いた。

  

 始めよう。

 おれたちの反撃を。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書き下ろし短編:『水泡にキス』

「え? コスプレイヤーの陰毛?」
 ひなこの第一声に驚愕したぼくは、思わずその言葉を声に出して繰り返す。網の上で焼けていくカルビからは煙がもうもうと立ちのぼっているが、その向こう側で彼女が「うん」と頷く。ひなこはつい先日、駅前を歩いているときにコスプレイヤーを見かけた。その人物はセーラー服を身につけていたが、どこからどう見ても現役の女子高生には見えなかったそうだ。彼女いわく、化粧の仕方でだいたいわかるもの、らしい。遠巻きにその女の子を眺めていると、ひなこは不意に自分が何をしようとしていたのか思い出せなくなったという。
「駅前を歩いていたんだから電車に乗ろうとしていたんじゃないの」
 シーザーサラダを食べながら言うぼくだったが、その態度に自分が軽視されている雰囲気を勝手に感じ取ったひなこは、むっと膨れて首を振る。
「ちがうよ。そのときは駅から出てきたばっかりだったの。でね? なんだっけなあ、どうしよう、わかんないなあと思っていたら、ふとそのコスプレイヤーと目が合ったの。で、その瞬間、あれ? って思ったの。そういえばそのコスプレイヤー、さっきからずっとそこに突っ立ってるだけなの。なにかしてるってわけでもなく、近くにカメラ持ってる人が居るとかでもなくよ? そんでわたしこう思ってね、ああ、なんか魔法っぽいことされたのかもしれないって」
「ああ」
「魔法は言葉の綾だけども。だってよく考えてみてよ。そこは人ごみです。大勢の人が行き交っている中で、ひとり、違和感をまとった人物が立っています。それもみんながみんな気づく違和感じゃなくて、わかる人はわかるって程度のね。それにうっかり気づいてしまった人は、なんだろうって考えちゃうじゃない? 変だなって。何が変なんだろう。ああ、やっぱり変だって」
「うん」
「そうやって急にいろんなことを考えさせられるわけじゃん? そしたらね、脳がパニックを起こすと思うの。それでね、混乱したわたしの頭は、わたしが今からしようとしていたことを一旦どっかにやっちゃったのよ」
 トングでつまんだカルビを裏返した。「うん。それでそれで?」
「そういうことって、でもたまにない? 普段から冷蔵庫開けてあれ、なにとろうとしたんだっけ? ってなったり。まさにわたし、あんな感じだったんだけどね。でも気になったのはそのコスプレイヤーよ。わたし思ったの。そいつ、わたしに混乱を招くためにそこに立っていたんじゃないか、って」
 ぼくは眉間にシワを寄せる。「このカルビ食べていい?」
「うん。で、わたし慌てて周囲を見渡してみたの。そしたら、歩いている人たちの中にちらほらわたしみたいに狐に包まれたような顔をしている人がいたのよ。で、もう一回コスプレイヤーの方を見てみたの。そしたらね。いなくなってるの」
「ええ? まってまって、ちょ……ええ?」
「わたし、もしかしたらって思ったのね。これは、そういう実験だったんじゃないかって。わたし、なにかとんでもないものに巻き込まれたんじゃないかって」
「で、結局ひなこは何をしようとしていたのか思い出せた?」
「ああ、それはしばらくしてから思い出した。トイレに行こうとしてたのわたし。おしっこしたくて」
「ちょっと待った、生理現象を忘れてたってこと? だって尿意だぜ?」
 驚きを表明したかったので「ありえないよ!」と叫びながら両手を広げてみたら、テーブルの端の方に寄せていた紙ナプキンの束を吹き飛ばし、床の上に散乱させてしまった。
「だからこそだよ。やばくない? 政府とか関わってたりして。ほら、口裂け女の都市伝説ってCIAが情報の広がるスピードを調査するために流したって説あるじゃん? 一節では噂の広がる速度は時速四十キロくらいらしいけどね。まあいまはこれ関係ないんだけど、ちょっと陰謀史観入ってるかなあ?」
「え? 陰毛歯間?」
 床の上の紙ナプキンを拾っていたせいで最後のほうが上手く聞き取れなかった。つい聞き返してしまうぼくだったが、一通り話し終えて水を飲んでいる彼女にその声は届かなかったらしい。結局コスプレイヤーの陰毛がどういうことなのかもわからず終い。最後の方に関しては、陰毛で歯の隙間を掃除する話に着地したようにも聞き取れた。
「なんだか大変だったみたいね」
「うん、いやまあ、べつに大変ってほどではないけど」
「健忘症なんじゃない?」
「あ、ひどーい。違うわ」
「でも不思議な話だよなあ」そう言うぼくはすべての紙ナプキンを拾い終え、再びシートの上に戻る。ふと斜め前の四人がけの席にてひとりで食事をしている高齢男性が目に入った。焼けた肉を黙々と皿の上に盛り、山のようになったところで今度は黙々と食べ始める。ぼくの記憶が定かなら、ぼくらがこの店を訪れたときからあの席に座っていたはずだ。見た感じ太っているわけでもなく、強く押せば死んでしまうんじゃないかと思うくらいには平均的な高齢者に見える。しかし、肉を口に運ぶペースが一定で乱れがないうえ、皿が空くたびに新たな肉を調達しにバイキングコーナーへと向かう姿を見るに、相当の大食らいであることが想像できた。それともよほど空腹なのだろうか。高齢者が空腹ということは、家族から満足に食事も与えられていないのかもしれない、とぼくは思う。高齢者虐待は、我々が思っている以上に身近で深刻な問題だ。
「で、歯がなんだっけ?」
「んあ?」肉を頬張っていたひなこが目を見開いてみせる。
「だからほら、最後の方で歯の隙間を陰毛でどうのこうの言ってなかった? それがコスプレイヤーの陰毛ってこと?」
「え? 陰謀の話はしてたけど、ちょっとなに言ってるかわかんないな。歯ってなに? あ、待ってね、そういやわたし次の歯医者さんいつだっけ?」
「まさか……また忘れたとか?」
「あれ? 木曜? ちょっと待ってよ、あれ~? さっきあんな話をした矢先にこれじゃあちょっと怖くなるじゃん。あれえ?」
「健忘症だよ」
「だからやめてよ、たまたま物忘れに関する話題が連続しただけだって」
「なんだよ! そっちは政府がどうのこうの言ってたくせに、ぼくの言ってることは取り合わないのかよ! 健忘症の方がよっぽどリアルだぜ!」
「いや水曜だったかなあ? うーん。もう降参。スマホで確認しちゃお」
「普段から脳を甘やかしてるからだよ。政府のせいにする前にちょっとは自分で頑張ってみろってんだ」
「はいはい。あ、なんだやっぱ木曜じゃん」
「情けないね、まったく」
「うるさいなわかったから。あ、これ焼けたよ」
「ふん。ありがとう」
「ふふふ。ちゃんとありがとう言えたね、えらいねえ」
「育ちがいいからな」
 ぼくは皿にのせられたハラミを箸でつまんで口に運ぶ。咀嚼をしながらもう一度斜め前の席に座っている男性に目をやった。ひなこの健忘症から連想して、ぼくはその男性が認知症を患っているのではないかと考えてしまう。認知症の症状の一つとして徘徊が挙げられるが、男性は先程から皿に肉を盛って戻ってきたかと思うと、取りつかれたように再び新たな肉を調達に向かうのである。いくら大食らいであるとは言え、あの量を一人で食べられるとはとても思えない。彼自身の判断能力に任せることで自分が悪しき傍観者に成り下がってしまうかのような、居心地の悪い不穏さがその光景にはあった。
「そうそう。それでね。なんかわたし歯垢が多いんだって」
「恥垢?」
「うん。だから今度その除去に行くんだけどね」
「え、そうなんだ……がんばって……」
 現在、我が国における認知症患者数は約四六二万人だと言われている。
「歯はやっぱり大事だよ。8020運動って知ってる? 八十歳までに歯を二十本残そうって運動ね。歯がないとまず食べられるものが限られてくるでしょ? こうやってお肉を食べるのもままならなくなったりしてね。そしたら栄養も偏ってくるよね。何一ついいことないんだよ。あとね、脅すつもりはないんだけど、歯周病で死ぬこともあるんだってよ」
歯周病で? たまったもんじゃない!」
「でしょ? 歯周病が悪化すると歯周病菌が血管の中に入り込んじゃってそこに血栓を作るらしいの。そしたら血管が詰まって心筋梗塞になることもあるんだって」
 男性はまた黙々と肉を口に運んでいる。あの虚ろな目。周囲のことなどもはや意識の外にあるとでも言わんばかりだ。ぼくは頭を振って意識を目の前のひなこに向ける。彼女は先程からぺちゃくちゃぺちゃくちゃしゃべり続けているが、驚くほど頭に入ってこない。あの高齢者が次にどんな行動に移るのか、またその結果、店内にいる他の客がどのような反応を示すのか、ひなこでさえも黙るのか、すべてを同時に考えてしまっている。普段ならひなこが公共の場で下品な話を始めようものなら鋭く制止し、「ここは実家か」との強烈な一言で沈黙を強要してみせるのだが、今のぼくは明らかに動揺している。ぼくとしたことが……なんて思う一方で、先ほどひなこの話していたコスプレイヤーのことをふと思い出してしてしまう。

 まさかあのジジイ……。

「でね、一度歯を磨いたあとに、そのまま普通に生活するでしょ? そしたら九時間後、口内の虫歯菌は約三十倍にも増殖しているんだって。だから歯を磨き忘れるって、実はかなりやばいことなんだって。口臭の原因にもなるしね。口臭といえば、それは歯周病が進行しているというサインでもあるから、本当はちゃんと言ってあげたほうがいいんだよね? でも難しくない? あなた口臭いですよとは流石に言わないとしても、歯周病とかチェックしてみたらどうですか? って言われてもさ、あ、じゃあわたし口臭かったんだって遅れて気づくだけダメージでかい気がしない?」
「なるほど」
「なにがなるほどなのよ。よく考えてみてよ。だって遠まわしに言われた方がつらいことって世の中あるじゃん? 例えばそうだね、まあいまはなにも思いつかないけど、臭いに関しては全般きついよね。そうそう、わたしの高校のころの現文の先生がさ、キモイよりクサイの方が人を傷つけるんだって言ってたよ。なんかいまふと思い出しちゃったな」
「なあ、ひなこ」
「ん? この肉食べていいよ。わたしちょっと休憩」
「聞けって。ひなこの斜め後ろの席におじいさん座ってるのわかるだろ? あ、ばか、振り返るなよ」
「え、なになになに。なんなの。その人がなに?」
「いや、べつにこれといってどうって話でもないんだけど、もしかしてと思って」
「え、芸能人?」
「違うよ。さっきひなこ、駅前で見かけたコスプレイヤーの話してただろ? ほら陰毛がどうのこうのって」
「ああ、陰謀ね。それがどうした?」
「ぼくもね、あの話聞いてたときはいまいち想像できなかったんだけど、なんかちょっと分かる気がするんだ。というのも、あのおじいさんを見てるとちょっと変でさ。ずっと肉食ってるの」
「うちらもそうじゃん」
「もっとずっと食ってるの。もうずっと。ひなこがいろんな話してる間もおれずっとその食べっぷりに圧倒されててさ。ひなこの話ぜんぜん頭の中に入ってこないの。もうほんとうに集中できない。集中できないのにどんどんガーガー喋ってるから、しまいには殺したくなってきたんだけど」
「言ってよ」
「いや、男にはよくあることだよ。それで本題はここからなんだけど、あのおじいさん、もしかしてひなこの話していたような、実験を行っている人なのかもしれない」
 しばらく目を伏せて動かなくなったひなこが、はっとした表情をする。
「どうしよう」
「いや、どうせ害はないんだろうから、ほうっておけばいいんだろうけど」
「でもわたしに続いてタツヒコまで実験の対象になるって、やっぱりなにか理由があるんじゃない? どうしよう、なんかやばいことに巻き込まれてたら……」
「いいから落ち着けよ。気づいたことを勘付かれるのが一番危険な気がする」
 ぼくとひなこは静かに肉を焼き、静かに肉を食べた。さっきまでの饒舌さはどこへやら、ひなこはお葬式のような面持ちだ。お葬式といえば人の死だが、そもそも人の死とは、往々にして突拍子もない訪れを見せるものだ。ぼくらの生活とは、日々その可能性を孕みながら流れていくのである。こうやってひなことぼくが立て続けに奇怪な行動を見せる人物と遭遇している現状、思考の混乱、得体の知れない恐怖だって元をたどれば、ぼくらがいつ死に見舞われるかわからないという無邪気で残酷な可能性に喚起される至極原始的な感情なのかもしれない。ぼくはひなこを見つめる。ぷるぷると震えながら肉を食むその姿は、ぼくをより不安にさせる。それは逆説的に、彼女とのこの時間、この日々を奪われたくないという確固たる証左なのだ。ぼくは彼女と明日も明後日も楽しく、温かく、にこにこ笑い合って生きていきたい。同じ時間を共有したい。そう思った途端、ぼくは伏せた両の目が熱を帯びていくのを感じる。ああ、そうだ。ぼくはもっと彼女の話を真剣に聴いておけばよかったのだ。審判的態度をとらず、感情表現を意図的に促し、ふたりの時間をより心地のいい、かけがえのないものにするべきだったのだ。ごめんよ、ひなこ。ぼくは声を出さずに彼女に語りかける。彼女は肉を咀嚼する。ひなこ。君が肉を噛んで、ああ美味しいと思ってくれているのであれば、それ以上の幸せなんてない。余計な不安に晒されることなく、心地のいい場所で風に吹かれていてほしい。どうかこのぼくに、そのお供をさせてはくれないだろうか?
 ぼくはサラダ用に取っておいたフォークをズボンのポケットに忍ばせる。手は震えているが、声はなんとか抑えることができた。
「ひなこ、動揺せずに、聞いてほしいんだ」
 彼女は噛み切っている途中の肉を口にぶらさげながら肩をこわばらせる。
「んん……?」
「ひなこの言うとおりかもしれない」
「やめてよ、どういうこと? こわい、ちゃんと説明して」
「落ち着いて。動揺せずに」
 コスプレイヤーの陰毛。
 高齢者問題、認知症
 歯。
 愛。
 ひなこ。
 ぼくは微笑み、ひなこの震える手を握る。

「ひなこ。愛してる」

 ぼくは席から立ち上がり、依然として肉を口に運び続けている虚ろな目の高齢男性に歩み寄る。
 ポケットの中のフォークを強く握り締めながら。
「タツヒコ!」
 ひなこの呼ぶ声がする。でもぼくは振り返らない。
「あの、すみませんが」
 そう声をかけた瞬間、ぼくの声を合図としたように目の前の高齢男性が地獄の底から響くような声を漏らした。
 口から溢れる嘔吐物。
 網の上に降り注いだそれは、高熱により瞬く間に気化して立ちのぼり、その悪臭でもって店内にいるすべての者の嘔吐を誘発した。

 

 

 

 

書き下ろし短編:『上司を殺せ!』

 二杯目のビールがなくなるころになって、サカモトが「中嶋を殺しませんか?」と口に出したとき、カスガは「あ、それいいね」と間を置かずに返した。もちろん冗談だと思っていたからだったが、それは違ったし、カスガ自身、本気だといいなとも思っていた。
 サカモトはカスガの同期であったが、配属先が違った。どちらにせよ中嶋という上司との接点があった。中嶋は全体を総括する部署に在籍しており、日々あらゆる社員に罵声を浴びせていた。百歩譲るとして、そこに愛があるのならとカスガは思う。しかし中嶋のそれは衝動的な感情の暴投であり、増えるワカメに注がれる水と同じで、みんなのストレスを何倍にも膨らまし、神経を削り取っていた。
「尊敬できる人間だったら、ある程度は我慢できるんすけどね」
 サカモトは口の片端を持ち上げて力なく笑う。仕事を始めて十キロ太ったと言っていた。もともとふくよかな体型をしていたサカモトだが、ストレスの影響は明らかだった。
「あのクソ野郎、めちゃくちゃじゃないすか? 異常ですよ。おれこの前あいつが営業のアマミヤさんに話してんの聞いたっすよ。中嶋、休みの日パチンコしかやってないんすよ。あとキャバクラ。この二つしか趣味ないんですって。いやいや、あの人もう四十らしいんすよ。で、結婚もしてないし子供もいないじゃないですか。なんか若いころヤンチャしてたとかで、親ともほぼ勘当状態らしいですし、こんな話、自慢気にしますか? おまえ何歳なんだって。いつまで馬鹿な中学生みたいな精神で生きてんだって。もう絶対若い奴のこと妬んでるんすよ。いやわかんないすよ? でも潜在意識でとか、心のどこかでは絶対よくは思ってないじゃないですか? 自分には未来がないからあんなクソみたいな会社にしがみついて若い後輩怒鳴り散らしたりシカトするしかないんですよ。逆に哀れっすよ。いや、同情しないすけどね。おえ。あ、ほんとに吐きそう」
 サカモトは現在精神科に通院中の身であり、日付の箇所だけを空白にした手書きの退職届をお守りとして毎日鞄に忍ばせていると言った。カスガも中嶋のせいで、入社時より五キロほど痩せたクチだ。他のもろもろには慣れてきたというのに、中嶋に関しては一向に馴染めなかった。というのも、中嶋は罵倒による手応えを感じられなくなると、手を替え品を替え攻撃を継続する陰湿さを持っていた。こちらがうっかり麻痺した態度を見せるや否や、無闇矢鱈と机を叩いたり、椅子を蹴り上げるなどして、遠まわしな威嚇を始めたりした。
「周りも中嶋の横暴にはノータッチだもんなあ」
 カスガはジョッキの底に薄く残った黄色い液体を眺めながら、深い息を吐いた。中嶋の質の悪いところは、分け隔てなく部下を攻撃するわけではないところにあった。例えば事務のオカエという女性社員には気さくに声をかけていたし、自分を慕う者には(例えそれがまやかしの敬慕だとしても)理不尽な言動で接することはなかった。カスガもサカモトも、よりにもよって自分があんな人間に睨まれてしまったのだという事実に疲弊しているところがあった。周囲の人間との扱いの落差に打ちのめされていた。なんでおれなんだよ、ちょっと内気なだけじゃねえかとカスガは思っていたし、なんでおれなんだよ、ちょっとデブで要領悪くて汗っかきで気が弱いだけじゃねえかとサカモトは思っていた。ただでさえ拘束時間が長く激務続きの毎日だというのに、なぜあのような人間の近くで圧を感じなければならないのだという怒りと悲しみから、家具に当たったり、枕に顔をうずめて泣いたりすることも少なくなかった。
「はあ」
 サカモトの溜息を合図に、長い沈黙が訪れた。カスガはまた明日になれば中嶋に会わなければならないこと、様々な理不尽に耐えなければならないことなどを考えてうんざりしていた。サカモトは先月退職した営業のヤスダさんのこと、先々月退職したタカハシさんのことを思い出し、しんみりしていた。ヤスダさんはある日の朝、出社して早々に、会社の入口で嘔吐し倒れた。救急車で運ばれ、休職に入り、そのまま辞めてしまった。タカハシさんは神経症を発症し、休職に入り、そのまま辞めてしまった。ヤスダさんもタカハシさんも中嶋に目の敵にされていた人物だった。二人の休職を知った際の、中嶋のあの蔑むような顔を、サカモトはお風呂に入っている最中などに思い出しては、全身をこわばらせ唸り声を上げた。
 殺してやる。

 亡き二人のためにも。
 ビールをおかわりしたカスガとサカモトは、キャバクラ好きという中嶋の特性を活かして、飲みに誘い、泥酔にまで持ち込んだあと、近くを走る高速道路に高架から投げ入れ、大型トラックに轢き潰してもらう計画を訥々と話し合った。はじめこそ、酒の勢いで出た戯言のように捉えていたのだが、話が進むにつれ、ふたりはああ、これは本当に実行する他ないなあ、と思うようになっていた。

 

 実行日まではすぐだった。計画のようなものがぼんやり形づけられていくにつれ、ふたりともいてもたってもいられなくなったのだ。
 ふたりは会社の廊下やトイレで鉢合わせた際にも、会話をすることを避けて過ごした。シンプルな計画の内容などは、すべて頭の中に叩き込んであった。
 その日も中嶋は電話越しに相手を罵倒し、報告に現れたヒラヤマさんを慇懃無礼な態度で長時間に渡り“指導”した。ヒラヤマさんは先月の頭に中途採用で入ってきた初老の男性で、どう見ても中嶋より歳を召していたのだが、小刻みに頭を下げる態度や、声の小ささから、格好の餌食となっていたのだった。高齢者虐待だ、とサカモトは怒りを禁じ得なかったが、それもすべて計画実行へのモチベーションに転化した。
 その日は金曜で、中嶋がお気に入りの飲み屋に向かうことはリサーチ済みであった。カスガは作戦にあたり、自宅アパートを提供する算段となっていた。キャバクラ帰りの中嶋に偶然を装って声をかけ、飲みに誘い、タクシーに乗せて部屋まで誘い込むのだ。中嶋は後輩のそういうお誘いを自分への信奉としてごく当たり前のように捉えるであろうから、意外と有効な計画に思えた。普段からそうやって器用におべっかを使えていれば苦労しないのだが、これがなかなか難しいのであった。しかしいざ対象を殺害するとなると、人は大抵のことなら勢いでこなせてしまうようになるのだと、カスガは実感し、浮ついた。
 部屋に誘い込むことに成功すれば、あとはサカモトの出番である。大学時代に遭遇したという飲みの席での集団昏倒事件を参考に、大勢を意識不明にまで追い込んだというスペシャルサワーを中嶋に煽らせ、レンタカーに連れ込み高架まで運ぶのだ。
 すべては恐ろしいほど滞りなく進んだ。中嶋は暴力的なアルコール度数を誇るスペシャルサワーによってカスガ宅の真ん中で大の字になった。顔は部下を叱責する際と同じくらい赤くむくれ上がり、それがよりふたりを殺る気にさせた。ふと、ここまでの足取りを誰かに把握されていないかと不安に思ったカスガが、中嶋の携帯電話を取り出してあれこれ調べ始めた。そばで見守っていたサカモトだったが、カスガの顔が強張るのが見てとれた。


 中ちゃん @na_ka_chandesu 1時間前
偶然会った後輩に誘われて飲み。まさかの宅飲みという。天変地異でも起こるんじゃないか


「こいつ、Twitterなんてしてやがる!」
 カスガが叫べばサカモトも画面を覗く。「くそが……」
 アイコンは咥えタバコをした中嶋自身の横顔だった。加工までしてある。サカモトは歯を食いしばった。
「誰と会ったかまでは明言してないけど、これじゃあ計画に綻びが出てしまうな」
 不安げなカスガにサカモトはtweetの削除を提案した。確認するとフォロワーも二十名ちょっとしかおらず、彼女もおらず、家族とも疎遠なのであれば、この二十数名は会社のくだらないおべっか使いやキャバ嬢の類に違いない。いますぐ削除すれば、なにも起こらなかったことにできるはずだ。カスガは言われるまま削除をし、着ていた服で携帯をまんべんなく拭った。
「車、下まで回してきます」
 サカモトはこの日のために、三日前からレンタカーを借りていた。外に飛び出すと、眩い月が浮かんでいるだけで、表に人の気配はなかった。すべては滞りなく進む。まるでこれが神の与えたもうた使命であるかのように。世界一有名なテロリストを殺したネイビーシールズのように、おれたちが今夜中嶋を殺すのである。揺るぎのない大義に突き動かされている今、なにも怖いものはなかった。たとえ今ここで巡回中のパトカーに見つかったところで、警官たちは精悍な顔つきで敬礼をくれるはずだとすら思えた。
 ふたりで中嶋を運ぶ際も、あたかも介抱しているという体で、だいじょうぶですか、ははは、飲みすぎですよなどと、小声で囁き続けた。
「じゃあ、運転お願いね。おれ、飲んじゃってるから」
 助手席のカスガに促されるままサカモトは車を発進させる。目的地はここから十五分ほどのところだった。車内の沈黙に耐え兼ねて、ふたりは社歌を歌った。入社してすぐの研修で、喉が枯れるほど歌わされたものだ。月が綺麗だなと、カスガは思った。ふたりはどちらからともなく声を震わせ、やがて涙を流しながらも、社歌を歌い続けた。こんな歌、コブクロ以下だ! そう思っていた時期も遥か遠い。ふたりは歌いながら頭を左右に細かく振り、感情の昂ぶりを表現し続けた。あっというまに目的地の高架にたどり着く。道路脇に停車すると、ふたりはシートに頭を預け、静かに呼吸を繰り返したあと、互いに視線を交わし、後部座席に横たわる中嶋を担ぎ出すため車外に出る。会社にいるときの自分よりも、はるかに先を読めていた。はるかに能率的だった。そんな自分がとても誇らしかった。カスガが中嶋の足を引っ張り、滑り出てきた上体をサカモトが支えた。高架下では、とぎれとぎれではあるが大型のトラックが鈍い振動とともに往来している。ふたりは一旦中嶋を地面に置くと、これからこの男が有終の美を飾る道路を見下ろした。アスファルトはオレンジ色の該当に照らされ、どこか暖かな雰囲気さえある。
 ふたりしてしばらくじっとしていた。やがてカスガが「じゃあ、そろそろ」と言って腰をかがめ、中嶋の足を取る。しかし、サカモトは依然として動きを見せなかった。訝しく思ったカスガが声をかけると、サカモトは小さな声でつぶやくのだった。
「こんな時間に、みんなどこ行くんすかね」
 言葉をなくすカスガ。サカモトは迷いの滲む二つの眼でカスガを正視する。
「これ、轢いちゃったドライバーに悪くないですかね……」
「なにいってんのサカモトくん」
「だって、関係ないじゃないですか。こんな時間に運転して、頑張って働いて、家族とか養ってるんじゃないですかね」
「こんなときにやめてよ」
「人生めちゃくちゃになっちゃうじゃないですか」
 サカモトは泣いていた。鼻がつまり、ゴボッとむせた。おれたちはすでにめちゃくちゃじゃないか、とカスガは言った。毎朝起きて薬飲んで出社して、食欲もないのに冷たい弁当食べて、この男の言動に耐えて耐えて耐えて、なのに給料は雀の涙だしさ、忙しすぎて転職活動する暇もないよ、せめてほかの人間がよければとか思うけど、みんな自分が標的にならないように事なかれを貫いててさ、なんなら一緒になって陰口だって言うしさ、薬が切れれば精神科にまた行って、それをこれから先もずっと続けていくんだよ、身体が動かなくなるのを待ち続けるだけの日々なんだぜ、めちゃくちゃだよ、貯金も全然たまらないし、親は言うよ、人生設計をしっかりって、ちょっとまってくれよ、人生設計なんてさ、ある程度の土台がなきゃ考えようもないじゃん、ぶら下げられたまま殴られるサンドバッグだよ、自殺したってさ、こいつはじゃあどうなるっていうんだよ、お咎めなしじゃん、そんなの納得できないだろ、なあサカモトくん、おれたちはこいつを消すことで、ようやく次に進めるんじゃないかな、そう思ったから、今日はこうやって、ほら、もうここまできたんじゃん、いいじゃんもう、ほかの人のことなんて考えてられないよ、そんな余裕ないんだよ、もうどうるするんだよ、どうすればいいんだよじゃあ……。
 カスガもとめどなく溢れる涙に声をなくした。ふたりはそのまま昏倒した中嶋をはさんで、声を殺して泣き続けた。
「だめだできない」
 カスガの言葉にサカモトは跪いた。「ここじゃなきゃいいんですよ」サカモトは依然として嗚咽を繰り返しながら、言葉を絞り出した。
「ここで殺すのはやめましょうってことなんですよう」
 今度はバーベキューにでも誘って、大自然の力を借りましょう。泥酔させて川に放り込めばすぐですよ。サカモトの言葉に、最初からそうすればよかったねと、助手席のカスガが答えた。おれたち、仕事できねえからな。ふたりは泣きながら笑った。もうすぐ朝になる。中嶋を乗せたまま、しばらくドライブをした。サカモトは会社でのカラオケでいつか歌おうと練習していた『明日があるさ』のウルフルズバージョンを小さな声で歌い続けた。
 カスガは途中で寝てしまった。湿った瞳に、朝日が突き刺さるようだった。カスガはその後、ひどい二日酔いを訴える中嶋と丸一日自室で共に過ごした。水を与え、インスタントの味噌汁を出した。味噌汁を飲んだ中嶋は、腫れぼったい目をどろっと動かし、「なんもねえ部屋」と吐き捨てた。

 

 それから一週間も経たずにに中嶋は死んだ。
 ふたりがバーベキューに誘ったわけでも、大自然の力を借りたわけでもなかった。
 会社で、ヒラヤマさんの手によって殺されたのである。
 ヒラヤマさんは朝一で中嶋の罵声を浴びた直後、すみません、すみませんと繰り返しながら、中嶋の口に両手をねじ込み、力任せにこじ開けるとそのまま顎を上下に引き裂いてしまったのだ。オフィスは阿鼻叫喚。吹きこぼれる血がぼたぼたとタイルの上で跳ね、ハウリングするマイクのような声を上げていたかと思った中嶋も、やがてぴたりと静かになった。血を浴びたヒラヤマさんはその場に立つ尽くし、相変わらずすみませんと繰り返しながら、下顎がぼろりと垂れ下がった力のない中嶋をそっと地面に置いた。
 そこから先は誰も見ていない。避難や通報で忙しかったのである。
 カスガとサカモトは中嶋のいなくなった会社でその後もしばらく働いていたが、そもそも根本からしてずさんな労働環境であったため、ほどなくして退職。いまはそれぞれの未来を見つめて動き始めている。
 カスガは刑務所内のヒラヤマさんに何度か手紙を書いた。ヒラヤマさんのお陰で、平穏な日々が訪れました。お勤めが終わりましたら、一緒にお酒を飲みましょう。ヒラヤマさんから一度だけ、厚みのある封筒が返ってきた。そこには手紙への感謝の言葉や、ヒラヤマさんのこれまでの人生、自分の犯した罪への懺悔が、丁寧な文章で長々と綴られていた。カスガはその手紙を、久々に飲むこととなったサカモトにも読ませることにした。ヒラヤマさんはおれたちの恩人だな。感謝してもしきれないよ。そう呟いて焼き鳥を頬張るカスガだったが、サカモトがふとつぶやく。
「これ、縦読みじゃないですか?」
「え、うそ」
 カスガは身を乗り出して便箋を覗き込む。
「なんて書いてある?」

 




度、



































た。

























す。






































































す。







なっ









メッ













し、



































い。













 

 

 

 


 ふたりはしばらくじっとしたり、手紙を読み返したりして過ごした。カスガはジョッキを空にする。
「まあよくわかんないけど、ヒラヤマさんも新たな一歩を踏み出したってことだ。すごいなあ。おれたちも頑張らなきゃ」
「いやあ、ほんとそうすね」
「乾杯しようよ」
「しましょうか」
「中嶋の死に?」
「ヒラヤマさんの再就職に」
「すべての働く人々に」


 乾杯。


       ◆◆◆◆◆◆


【大阪・生野 コーヒーに農薬混入 派遣社員を逮捕】
【オフィス内で刃物振り回す 男女2名重傷 社員を逮捕】
【「部下数名に襲われた」三軒茶屋の路上で暴行 飲みの席での叱責が原因か】
【デスクにガソリン 重傷社員の遺書発見「覚悟を見せる」 三重県
【会議に猟銃 大手町発砲事件 役員2名死亡】
【逮捕社員「練馬の事件に影響を受けた」】
【特集「キレる部下・消される上司」】
【崩壊するブラック企業 増幅した殺意の発露】
【特集「伝染する暴力・オフィスアタックシンドローム」】
【社内暴力が多発 全国で1567件】
厚生労働大臣「労働環境の抜本的改善が必要」】

 

 

書き下ろし短編:『Good morning, everyone.』

 

 深夜四時を回っていた。煙草を一本手に取り、先端を眺め始めてから一体どれだけの時間が経ったのだろう。矢野は考えていた。特別気になる箇所がある訳ではなかったが、そうすることで落ちつくことができた。矢野はライターを持っていない。そもそも煙草を吸う習慣さえなかった。マッチならどこかにあるはずだったが、それより先にコンロが目に入った。ガスの元栓を開け、つまみを捻ると、真っ暗な部屋に青い炎が浮かび上がり、仄かに空気を焦がした。煙草を青い光に近付ければ先端が赤くなり、鼻孔をくすぐる甘い香りが漂ってくる。矢野はそのまま煙草の燃える様を眺めていようと思ったが、コンロから離した途端に赤い光はみるみる弱まり消えてしまった。同時に先ほどまで滾っていた「燃やしたい」という衝動さえも醒めてしまったため、矢野は煙草を流し台に放り投げて水で濡らした。漂う残り香さえ鬱陶しく思えた。窓へと向かいカーテンを引く。朝日はまだ昇っておらず、触れられそうな闇が広がっていた。しばらく目を凝らしてみれば、夜空に浮かぶ雲がぼんやりと確認できる。直に朝日を拝めるだろう。矢野は椅子に腰を下ろし、机の上に置いてあった包丁を手に取った。広げられた新聞紙の上には、皮と実が削り取られ、蝋燭のように細くなったりんごの芯がのっている。矢野は窓に向かったまま、新聞紙目がけて包丁の刃を振り下ろした。芯は二つに折れ、床の上に落ちて転がった。肘かけに肘を置き、重力に任せ、包丁を握る手を地面目がけて振り下ろした。包丁は雑誌の上に突き立つと、静かに角度を変え、床の上に倒れる。目の前の窓ガラスには何も映っていない。実際には映っているのだけれど見えていないだけなのかもしれない。矢野は顔を近づけ息を吹きかけた。曇りは霧散してしまうが、残された黒い窓ガラスには、微かに自分の輪郭が映っていたので安心した。僅かに開かれた窓からは湿った風が入りこみ、室内をじめじめと汚していくかのような気がしてならなかったが、矢野はそれを放っておくことにした。この部屋に住み始めてまだ二週間ほどだが、今となってはすっかり矢野の安住の地へと変化を遂げている。色、温度、匂い、全てが矢野を安堵させた。日中はほとんど外に出ることもなくこの部屋で本を読んだり、ごくたまにテレビを見たりして過ごしていた。矢野は定職に就いていない。以前薬局でアルバイトをしていたことがあったが、頭痛薬を購入した男性の後をつけ、自宅前でその両足の骨を踏み砕いて以来通わなくなった。その男性客と面識はなかった。怨恨など生まれる余地すらないほどの関係性だったが、矢野はそうしなければならないと感じたのだ。風の匂いはかつて嗅いだことのあるものだったが、妙な郷愁に浸るのは避けたいと窓を閉めることにした。時計の針は四時三十分を指している。ふと、矢野は窓ガラスに映る自分に話しかけたい衝動に駆られた。しかし何を話せばいいのかが思い浮かばず、そんな自分を情けないと苛んでいるうちに涙が溢れてきた。二時間前にコンビニに行った。アパートから歩いて五分の場所にあるそのコンビニに、矢野は週に二回ほど買い物に行く。時間は決まって深夜だ。店員は主に床を磨いている。大学生だと思われる目の細い青年で、店内には彼の姿しか見えなかった。矢野が自動ドアを抜けてその店員の横を過ぎる際、小さな声でいらっしゃいませと聞こえた。矢野はその日発売の週刊誌を手に取っては適当にめくり、元の場所へ戻した。客は矢野一人だけだった。五分ほど経って自動ドアが開き、二人の男が入ってきた。一人は四十代ほどの背の低い男で、色の薄いサングラスをかけ、頭を角刈りにしていた。その後ろに続く若い坊主頭はくっきりとした二重瞼で、頭が小さく、両耳の鈍い光沢を放つピアスがやけに目立っていた。再び店員の小さなあいさつが矢野には聞こえたが、果たしてあの二人には届いたのだろうか。二人の男は首や肩を回しながら栄養ドリンクを一人三本ずつ手に取り、他の商品には目もくれずレジへと向かう。床にモップをかけていた店員は小走りでレジの中へと入り清算を始めた。矢野はその様子をじっと眺めていた。店員が釣銭をうっかり落としてしまわないかと期待した。その時に二人の男がどういう反応を見せるのかが気になったのだ。結局店員は無事清算を終えてしまったので、矢野は週刊誌を棚に戻し、果物の缶を五つかごに入れてレジへと向かった。坊主頭が栄養ドリンクの入ったビニール袋を手に、自動ドアに近づく。しかし外には出ずに、先に角刈りを通してからその後に続いた。店員がか細い声で値段を告げる。彼の鼻の頭にはぬらぬらと光る脂が浮いていた。矢野は脇に抱えていた焦げ茶色の袋を店員の前に差し出す。それは底の方に大きな染みの付いた布製の袋で、色を合わせる意思の伺えない白や緑や赤や青の糸で所々縫合されていた。その薄汚い袋を見て店員は細い目の奥で真っ黒な瞳を左右に動かし「困惑」の色を一瞬、その顔に浮かべた。その様子がどうしても演技にしか見えなかった矢野は、この店員はどこか自分に似ていると思った。袋を手にコンビニを出て辺りを見回し、矢野は先ほどの二人を探した。すぐ前の横断歩道を渡っている人影が目に入った。信号は赤だったが矢野もその後を追い横断歩道を渡った。車のライトが遠くに確認できる程度で、道路は実に静かだった。距離を十メートルほど保ったまま、矢野は二人の後をつけた。どちらも矢野の存在に気付いている様子はなく一度も振り返らない。どこかで彼らが、彼らの居場所、例えば住居などの矢野の侵入できない領域に入ってしまったら、この尾行は終了させるつもりだった。先を歩く二人は何かを話している。矢野がかすかに足を速めると、夜の冷たい空気が頬を撫でる。矢野にはそれが、堪らなく鬱陶しかった。二人の男はテナント募集の張り紙が窓に貼られている、老朽化した建物の脇に入った。矢野の靴底がアスファルトを蹴る。袋がズボンに擦れ、缶がぶつかり合う小さな音が届いたのか、角刈りの男が音もなく振り返った。口には着火前の煙草が咥えられている。矢野はその煙草の先端を見つめたまま袋を振り上げると、その男の頭頂部目がけ、勢いよく振り下ろした。袋によって一つの塊と化した五つの缶は、男の頭皮を容易く裂いて骨を砕き、意識を遥か遠くへと一瞬で飛ばしたようだった。続いて膝を踏み潰そうと考えた矢野は足を持ち上げたが、角刈りの男は声一つ発さないまま、アスファルト目がけてうつ伏せに倒れ込んだ。坊主頭の男は、隣で肩をすくめたまま動かない。袋を手放すと、缶のぶつかり合う音がくぐもりながら響き渡った。矢野は角刈りの背中に跨り、その頭を両手で掴むと、顔面を地面に叩きつけた。角刈りの頭頂部の裂傷から血が跳ね、地面に無数の斑点を描いた。坊主頭が何かを叫び、矢野の肩を殴るように押した。矢野は崩れた体制を整えると、再び単調な動作に戻った。両腕を動かしたまま、坊主頭の方を見た。その男は瞬きをしていなかった。血で滑り、その手が角刈りの頭から離れると、矢野は立ち上がってポケットに入っていたスプーンの柄を握りしめる。坊主頭は必死で頭の中を整理している様子で、地面に横たわったまま髪の毛の隙間から血を噴き出している角刈りを、虚ろな目で眺めている。矢野は坊主頭の耳を鷲掴みにし、路地のさらに奥へと引きずり込んだ。坊主頭が声を上げたので、その喉に何度も拳を打ちつけた。坊主頭の真っ黒な瞳のみが、闇の中でぬらぬらと光っていた。手に握られたスプーンは、肌に張り付くかのようだった。坊主頭のくっきりした二重瞼にスプーンの先端をねじ込むと、時計の針と同じ向きに拳を回した。瞼のささやかな弾力に抗い、スプーンの先端は坊主頭の眼球を押し潰した。矢野の手が生温かい液体で濡れる。坊主頭が悲鳴を上げようとしたため、矢野はもう一度その喉に拳を叩きこんだ。咳き込むと同時に、坊主頭の口から唾液に交じった血が飛んだ。自らの顔に押し付けられる矢野の拳を、坊主頭は力強く掴み、退けようとするが、スプーンの先端は更に奥へと突き進み、遂には脳へと達した。力のない擦れた声を絞り出しながら、矢野の腕を掴む力を弱めていく坊主頭は、身体を震わせ地面に膝から崩れ落ちた。眼孔から抜けたスプーンの先には黒い塊が付着していて、矢野は虫を追い払うような仕草でそれを地面に振り落とす。坊主頭は顔を両手で押さえたままアスファルトの上で依然震え続けている。矢野はその様子を眺めながら、手に付いたあらゆる液体が不快だったので、着ている服の裾で拭った。生温かい鉄の臭気が漂っている。強烈な焦燥が矢野を襲った。しかしそれは不愉快なものではなかった。ふと足元に転がっている栄養ドリンクが目に入ったので矢野はそれを強く蹴飛ばした。静まり返った道路の真ん中でビンが軽快な音を立てて回り、夜の闇の中へと消えていった。角刈りの男は爪先で脇腹を突いても反応を見せなかったが、念のために血の噴き出している頭部を思い切り踏みつけると、五度目でその硬い骨が陥没し、更に大量の血が溢れ出て足元を広く濡らした。焦燥は少しずつ消失していった。矢野は血でじっとりと湿った袋を拾うと、破れていないか手でなぞった。無事だった。この頑丈さが気に入っており、これまでずっと使い続けていたのだ。袋の下に落ちていた一本の煙草。矢野はそれを拾ってポケットに入れる。坊主頭の耳に刺さったピアスが、男の揺れに合わせて外灯の光を反射し続け、矢野の目にはそれがストロボのように映った。先ほどの焦燥は、視覚の片端に入り込んだこの点滅を無意識に察知していたからなのかもしれない。血に塗れたスプーンはそのままポケットの中へ入れておいた。少し遠回りをして帰ろう。公園で手と靴を洗わなくては。矢野はふと、さっきの店員の顔を思い出した。しかしその理由が自分でもわからず、まあいいかと地面に靴底を擦りつけながら最寄りの公園へと向かった。遠くで連なるビルの隙間から、微かな光が漏れている。今日もまた朝がやってきたのだ。コンビニで買った缶の内、破れていない三つを次々と平らげた。帰ってきて鏡を見ると頬に糸くずのような黒い塊がついていた。しかし矢野にとってはそれ以上に、鏡に映る自分の顔が知らない誰かのように思え、しばらくの間、不安な気持ちのまま眺めていた。汚れた服と袋は、風呂場の浴槽に張った「スープ」に浸してある。生温かい臭気は未だ漂っていたが、もう気にならなかった。そろそろ布団に入ろう。椅子の上で窓を眺めるのにも飽きた矢野は欠伸をする。窓に映る自分の顔が、相変わらず疑わしく思えてならない。今日はきっと気持ちの良い日になるだろう。矢野は目を細め朝日をしばらく眺めていた。そういえばあの角刈りはうつ伏せに倒れたままだった。どうせなら仰向けにしてやればよかっただろうか。そうすれば朝日を拝むことができただろうに。布団の中に潜り込み目を閉じる。窓から差し込む陽光に顔を照らされていると、再び涙が溢れてきた。この涙がどの感情によって流れ出たものなのか皆目見当もつかなかった。それでも矢野は毎日、朝日を受ける度に泣いている。明日もまた泣いてしまうのだろうか。涙の止め方を矢野は知らない。

 
 
 
 

書き下ろし短編:『欝子の角栓』

 

 いろいろあるだろうとみんなは言うけど、別にみんなが思っているようなことはなにもないし、そのなにもなさこそ、わたしが部屋を出ない理由なのだ。朝~昼に起きてまずやることなんてなにもない。ああ起きてしまったんだと後悔して、また明日も目覚めてしまうんだと鬱々慄きながら夜を迎え、過ごし、ようやく眠る。眠っている間が一番まし。起きている間はずっと苦痛。例えば爪を切る。例えば鼻をかむ。例えば横になる。早く夜になれと思う。眠れないわたしは自分の顔を触る。しばらく鏡を見ていない。わたしはザラザラした鼻筋を撫でる。爪の先でこすればポロポロと表面が剥がれ落ちる。わたしは無心になる。ザラザラがあってポロポロとなって、わたしはわたしの一部だったものを眺める。そっと机の端におく。

 鼻を強くつまむと、たくさんの白いつぶつぶが浮き出てくる。それらをまた爪でこする。

 なにがどう間違ったなんて考えるのは変だと思う。わたしはずっとこうだ。ただしく現状に至っている。正直に生きている。

 向かいの家に住んでいたユウちゃんの弟が、最近バイクを買ったらしい。エンジンの唸る音が聞こえる。それは真夜中だろうと聞こえてくる。家族が文句を言っている声が聞こえてきたこともある。でもわたしはあの音が好きだ。眠れないわたしに寄り添ってくれている気がする。

 今日もわたしは眠れない。音が恋しい。

 ユウちゃんは今年結婚するらしい。子供ができたとか言っていた。わたしは部屋の窓から彼女の家を出入りする若い男を見たことがある。もしかするとわたしも知っている人かも知れない。

 最後に何かを楽しいと思ったのはいつだろう? 記憶を呼び起こそうとしても鈍い流れが渦巻くだけだ。煩わしい。有り余る時間の中でめぐり続けるこの思考をストップさせたい。地球の自転がピタッと止まればいいとわたしは思う。世界が一瞬にして粉々になれば、その実、みんな「まあいいか」と思うのかもしれない。

 さて、わたしはこんな毎日を終わらせようと思っている。どんな形であれ。

 わたしは鼻の頭を爪でこする。どうしようどうしよう。どうしようもないどうしようもない。

 その日は朝から窓を開けてみた。久しぶりの外気。その匂い。わたしは忘れていたいろいろを思い出す。楽しかったこと。寂しかったこと。向かいの家の前に、ユウちゃんが見える。赤ちゃんを抱いている。男の子か女の子かもわからない。でも小さな赤ちゃんが彼女の胸で眠っている。ユウちゃんがこっちを見て、ちょっとだけ笑った。わたしは思い出す。楽しかったこと。寂しかったこと。

 動けなかった。もっと楽しいことが欲しかった。寂しいことも。いろいろな気持ちが欲しかった。諦めることに慣れすぎた心を、綺麗に洗い流したかった。

 わたしは机の端に置いてある野球ボールほどのそれを手にとった。乾いて今にも崩れ落ちそうだ。急がなきゃ。

 わたしは窓の外目掛けて放り投げる。

 宙でほどけた無数の角栓は方々に舞って、照りつける陽光に鈍く透けゆく。風に乗って、煙のように昇っていく。ユウちゃんがわたしを見ている。口を開けたまま、やがて目を三日月型にする。懐かしい。わたしは今この瞬間を懐かしいと思っている。いつかとそっくりだ。でもそれがいつなのかは思い出せない。でも体が覚えている。喜んでいる?

「ユウちゃん!」

 わたしは叫ぶ。声が出る。わたしはこの声、意外と好きだったんだなと思う。

 そして轟音。粟立つわたしは道路を見る。わたしの角栓が風に乗って、こちらに向かっていたユウちゃんの弟に降り注いだのだ。驚いた彼は転倒してしまい、バイクはアスファルトの上を滑って電柱に激突した。遅れて転がり込んできた弟くんは、道の真ん中で停止し、かすかにだけど動いている。

「ごめんなさい!」

 わたしの言葉に目を見開いたままのユウちゃんが叫ぶ。

「大丈夫! 生きてるー!」

 全身がふざけるように震えていた。

 嬉しくてわたしは大きな声で泣いた。

 

 

書き下ろし短編:『赤文字自重』

 

 

 彼女がニコ生での顔出しを目論んでいる。

「かれこれ二年くらい動画を上げてきてるし、あたしの動画を楽しみにしてくれてるって人も増えてきたでしょ? そろそろ新しい試みが必要だと思うの」

「それで顔を!」

「そうなの。しかも今夜の金曜ロードショー、なにやるかわかる?」

「あ! あー、なんだっけ」

「『ラピュタ』!」

「そうだった!」

「みんなで【バルス!】ツイートするでしょ? その賑わいに乗じれば生配信でたくさん人が見てくれると思うから、そこで大々的に顔出ししようと思っているの!」

 彼女がそう計画するのにはわけがあった。彼女はニコニコ動画において【みむー☆】というHNで活動中の踊り手なのだが、ここ最近の踊り手ブームの低迷を憂いているらしく、自らが袖をまくって顔出しを敢行することにより踊り手界の復興に一役買おうとしているようなのだ。愛しているよ、みむー。

「じゃあ、今日は早く帰ってこなくちゃだね」

「うん! 一緒に伝説つくろ!」

 うっひょー! おれは満面の笑みで家を出る。一抹の不安を胸に抱きながら。

 

 おれがみむーと出会ったのは去年のニコニコ超会議でのこと。おれは元々ニコニコ動画漬けの日々を送っていたので、みむーのことももちろん知っていた。彼女は動画で何度も見ていたように、セーラー服を着てちびうさのお面を着けたままでんぱ組.incの曲を踊っていた。そんな彼女のパンチラを撮ろうとおれが血眼になっていたところ、同じポジションで一眼レフを構えていたオッサンと肩がぶつかり、トイレ脇に連れて行かれる。

「モグリが」

 お前ごときが彼女の聖域を撮影していいと思ってるのか、という旨の警告を突風のようにまくし立てられたおれは悔しさで泣いてしまう。おれはこんな最低な経験、二度としたくない、もしもう一度味わえというのなら、死んだほうがマシ。そう思いながら駅までの道を歩いた。しかし、このまま帰れないとも思った。そこでおれは駅で待ち伏せをして、小走りで現れた腐った油粘土風中年を見つけるやトイレに連れ込み、【得体の知れない現代っ子】として大暴れした。奴のカメラを奪って土下座させ、一枚一枚、どのような内容の写真かを実況しながら削除した。ひと通り胸のすく思いをしたおれがルンルン気分でトイレを出ると、柱の影からこちらを見つめる一人の女の子が。

「あの! ありがとうございます!」

 そこには素顔のみむーがいた。驚くことにあの油粘土の男は、みむーがニコニコを通じて知り合った男で、三十九歳で、フリーターで、長男で、右利きで、太り過ぎにより右足の神経がむき出しで、ツイッターのアイコンがフォロワーの絵師が描いた美男子風イラストで、人の話を聞くときはずっと腕を組む癖があって、インキンタムシで、みむーの元彼で、現ストーカーらしかった。法治国家とは名ばかりのこの国におれは辟易する。

「もう、大丈夫だよ」

 それは彼女内ピラミッドの上位に、おれが君臨した日の出来事。

 

 色々あってみむーと同棲することとなったおれは、彼女のニコ活も影で支えるようになる。彼女が踊っている動画を撮影している間は玄関の外に立ち、苦情を言いに来た下の階の新社会人と取っ組み合い、ツイッター上で彼女の悪口を書いたアカウントに対しては、特攻用アカウントでカミカゼ・アタックを敢行。

 

 

 ちむりー@道隆寺タカシLOVE @love_love_doryuji 9時間前

 ニコニコの踊ってみた見てるんだけどみむーとかいうやつ手足短すぎじゃね??

 てか踊りも微妙wwwたぶんブサイクwwwwwww

 意識の高いドローン @minmu_lovelovelovelove 1分前

 @love_love_doryuji スマホが収まる大陰唇乙。

 

 

 ゴンゾウ @gonzo_ninpho 2時間前

 みむーたぶんブス

 意識の高いドローン @minmu_lovelovelovelove 10秒前

 @gonzo_ninpho その<censored>と<censored><censored><censored>!!!

 

 

 

 

 

「ねえ今どこ? 『ラピュタ』始まってるよ!」

 おれが駅に着いたちょうどそのとき、まるで示し合わせたかのように彼女からの電話が入る。

「ごめんごめん! いま駅着いたとこ! ソッコーで帰るね!」

 おれは前のめりの全力疾走。アパートまでは歩きで十五分ほどだが、走れば五分程度。『ラピュタ』における【バルス!】シーンは本編開始から一時間五十五分頃とほぼ終盤なので間に合わないはずはないんだが、中途半端な参加はみむーの機嫌を損ねる最大要因なのだ。

「みむーただいま! ごめんね、おみやげ買う暇なくて……」

「んもう! いいから、早く座って!」

 二人で『ラピュタ』鑑賞会。幸せなひととき。彼女はすでに顔出しの予告をしておいたようで、【バルス】祭りの直前から生配信を開始する予定のようだ。

 劇中の登場人物が三分待つという旨の言葉を吐く。「あ、くるよ!」みむーは立ち上がってパソコンの前に立つ。彼女はすでにいつものセーラー服姿に黒のニーソックスを着用済み。

「みなさん『ラピュタ』観てますかー! いよいよきますよ!」

 おれはカメラに映らない寝室に移動してスマホで彼女の配信を観覧。彼女の動画には無数のコメントが流れている。

 残り十秒。

 

 くるぞ…  くるぞ…      kるぞ…      くるぞ   くるぞ

       くるぞ…    くる・・・    くるぞ   くるぞ…

 kuruzo            くるぞ… くるお。。。      くるぞ…

 

 

みむー。

君が伝説になる瞬間だ。

 

 

  くるぞ…   くるぞ… 

                     くるぞ…  くるぞ…

       kるぞ くるぞ…                   くるぞ…

              くるぞ…  くるぞ…くるぞ…

くるぞ…    

          くるぞ… くるぞ…くるぞ…くるぞ…

    くるぞ…            くるぞ…  くるぞ…  くるぞ…

 

    o(*゚▽゚*)oo(*゚▽゚*)oo(*゚▽゚*)o 

 

     

   くる!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……そもそも【バルス】とはラピュタ崩壊の呪文であり、かつて実況スレに書き込まれた膨大な【バルス】の負荷で2ちゃんねるのサーバが落ちたという事例はあまりにも有名だ。

 

 おれはみむーを強く抱きしめる。彼女の傍らにはグシャグシャに踏み砕かれたちびうさのお面。パソコンはひっくり返され、薄明かりが壁を照らしている。おれは彼女を抱きしめながら、絶えず声をかける

「大丈夫だよ」「大丈夫」「大丈夫だから」「ここは安全だよ」「気にしないでいいんだよ」「あいつらみんなクズなんだよ」「なにも怖くないよ」「ぼくがついているよ」「ぼくがついてるんだよ」「ぼくだよ」「ぼくがついているんだよ」

 おれは彼女の背中に回した手で握るスマホの画面を眺め続ける。

 そこには未だ無数のコメントが流れ続けている。

 

 

              バルス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!   最近彼女が油臭いw

  油粘土のような臭いw  バルス! バルス!!!!!バルス

         バルスバルス  寝る直前までラインしてw

    バルス    バルス       相手を聞いても有耶無耶でw

         だから勝手に調査したw バルスバルス

四十迎えたあのオヤジw  バルス!!!!!!!!!!!!!!

               バルス    未だにみむーをつけていたw

 みむーもそのこと気づいていたw  バルスバルス バルス! バルス

                  バルス    なし崩し的に会っていたw

     バルス!!!!!!!!!   なし崩し的にヤっていたw  バルス

       バルスバルス  かれこれ半年ヤっていたw

     コスプレしたままヤっていたw バルスバルス

 バルスバルスバルスバルスバルス    カメラの前でもヤっていたw

生理のすぐあとヤっていたw  バルス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! バルス! バルス

      生理中でもヤっていたw     バルス! 

        友引の昼にヤっていたw

   バルス     バ ル ス ! ! !   おれの留守中ヤっていたw

    バルス       バルス! バルスw  オッサンの家池袋w

     わざわざ出向いて片付けたw   バルスバルス バルス

    おっさんの家よく萌えたw     www バwルwスwwwww

 そもそもみむーはただのブスw   バルスバルス 調子に乗ったただのブスw

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プレデター              プレデターwww

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 大草原不可避    www

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     なんて醜い顔だ・・・(赤文字)

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書き下ろし短編:『処女膜からやまびこ』

 

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

 喉をきゅっと絞り、腹から押し出すように放ったその言葉は虚空を漂って誰にも承認されず消滅した。

「一回ちょっと止めます」

 監督の指示が入る。おれが唇を噛むのと同時に、だれかの溜息が聞こえた。

「いまのとこもう一回お願い」

「あ、はい。……やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「もう一回」

「やっべえ!」

「ストップ。続く『おれ』との間に、気持ち間をおいてやってみて」

「あ、はい。やっべえ! …おれもっこりしちまった!」

「うーん……うん。うん。なるほどね。いまのどう思う?」

 監督が意見を求めたのはヒロインの声を演じる冨樫桃華。歳はおれと同じ二十一だが、いまじゃ飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍し、業界内、ネット共に評価の高い声優界のスーパーノヴァ。その卓越した演技力のみならず、本業のアイドルたちにも引けを取らないルックスがその人気の証左。そんな彼女演じるヒロインのパンチラを見て思わず陰茎に血が溜まってしまったクラスメイトBの声を、無名のおれが担当することになったことを思えば、人生って面白い。冨樫桃華は言う。

「うーんそうですね。わたしは、間はあけないほうがいいと思います。ここは勢いよく言っちゃったほうが、内容が内容ですし。変にもたついて下品が過ぎる印象を与えちゃダメな気がして」

「なるほど」

 監督はおれを指差すと「じゃあそういう感じで」と言って椅子の背もたれに深くもたれかかり頭上に両手を置いた。おれは冨樫桃華の顔を見て会釈をしたが、彼女はこちらを一瞥することもなく、マイクに向き直っている。パンツスタイルが印象的。その締まった上向きのヒップがよく映える。

「はいじゃあいきます」

 監督の声が届く。おれは目を閉じ、小さく息を吸う。

「やっべえおれもっこりしちまった!」

 

 おれは宮崎優翔。声優の卵で、親からは金食い虫と呼ばれている。円谷プロカネゴンかっつの。わはは。おれは高校でニコ動にはまりゲームの実況やアニソンの歌い手などを経て本格的に声優を目指そうと思った。高二の三者面談の場で初めてその意を親や先生に宣誓したわけだが、家に帰るやいなや親父に「大学に行け」と言われた。いまどき大学なんて時代遅れだっつの。専門学校で技術を身につけたほうがいいに決まっている。おれは折れなかったが、それは親父の血なのかもしれない。親父は絶対に金を出さないと言い出した。おれはニコ生の配信があったのでバイトをする時間がない。なんとか親に金を出して欲しかった。そこでおれはニコニコのイベントで出会ったポンチーさんに相談する。ポンチーさんはあらゆる手を提案してくれた。おれはその中の一つであった、親の定期預金の解約を行い、学費をゲット。どのみち大学への進学資金として貯めておいたものがあったのだから、おれへの投資という意味では変わりない。待っていてくれ親父に母さん。絶対超人気声優になって、出世払いするからさ。

 

「休憩入れますか」

 監督の声におれが「あ、はい」と言うのに重ねて「続けましょう」と冨樫桃華が言った。ほかの共演者さんたちも「ここまでは終わらせておきたいなあ」と口々に。

「新人さんもここで休憩入れるより、いま掴んでいる手応えの勢い、殺さないほうがいいと思うなあ」

 そう言ったのは男性声優人気ナンバーワンの小野寺HIROSHIさん。十八で神戸より上京し、下北沢の小劇団に所属していた演技派。くすぐるような掛け合いの上手さに定評があり、アニメのみならず、映画の吹き替えにも引っ張りだこの売れっ子だ。そんな彼らと同じアニメで声を担当できた時点でおれは現実味を喪失していた。おれはいま小野寺さんに声をかけてもらっているという、その現実に頭が追いつかない。

 だから本当は休みたいって言えない。

「監督、やらせてください。お願いします!」

 

 専門学校での日々はあっという間だった。おれは真面目に授業を受け、多くのノウハウの習得に努めた。講師は豊富な人生経験を積めといった。キャラクターに命を吹き込むには、多くの感情を理解しなくてはならない。

 そしておれは恋をした。

 埼玉から通っているという島崎純恋はみんなから「姫」と呼ばれる可憐な女の子だった。色が白く顔が小さく首が細長かった。背も低く手も小さく胸も小さく貧血持ちでやや腐っていた。好きなアニメがおれと同じだった。おれの配信を見たことがあると言っていた。おれみたいな男が好きだと言っていた。仲間でご飯を食べに行くときなど、何度か隣に座ってきたこともあった。一緒に駅まで歩いたりした。彼女はいい匂いがした。普段は舌足らずなのに、声を当てるときや歌うときには、芯のある凛々しい声を出した。純恋は周囲から一目置かれていた。おれも一目置いていた。講師も高く評価した。みんな彼女が好きだった。もちろん一部に敵もいた。そいつら全員ブスだった。ブスが陰口叩いてた。だれも気にせず無視してた。純恋は毎日笑ってた。そんな笑顔に癒された。彼女はおそらく処女だった。しゃべると処女膜響いてた。響く処女膜好きだった。みんなで純恋の噂した。みんな胸中踊ってた。姫はいったい誰好きだ。おれは当然姫好きだ。踏み出せないまま時過ぎた。やがてすべての嘘バレた。彼女は講師に抱かれてた。講師の他にも抱かれてた。とっくに処女膜剥がれてた。忘れようと頑張った。毎晩枕を濡らしてた。やがて心が落ち着いた。たくさん傷つきタフなった。いろんな感情理解した。悲しい感情多かった。それでも夢を見たかった。まだまだ前進したかった。そうしてここまでやってきた。

 

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「もう一回」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「もう、一回」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「なんか違う」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「どこか惜しい」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「もうすこし」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「なるほど」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「なるほど」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「全然ダメ」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「才能ゼロ」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「殺したい」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「鬱陶しい」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「悪寒が酷い」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「田舎に帰れ」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「両親に謝れ」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「家業を継げ」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「勃起したことある?」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「絶対モテない」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「生理的に嫌われるタイプ」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「資源の無駄」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

生活習慣病

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「原因不明の頭痛」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「不快な肉塊」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「金払うから殴りたい」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「ノイローゼの原因」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「いますぐ遺書をしたためたい」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」 

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

「やっべえ! おれもっこりしちまった!」

 

 

 

 

 

 この五年間は、本当に瞬く間だった。

 あの日都内某所のスタジオで経験したすべての出来事が、いまのおれの血肉となり、絶えず響き続けている。いまのおれを「奇跡」と称する人々も少なくない。勝手にすればいい。おれのスケジュール帳は真っ黒で、マネージャーはすでに二人倒れている。

 今日もおれは自宅マンションで飼うアチャモ(チワワのメス二歳)に別れを告げてハウスキーパーのジョイさんに鍵を渡しハイヤーでスタジオへ。すれ違うスタッフたちと挨拶。そして。

「おはようございます! 今日はよろしくお願いします!」

 新人の新垣大輔くんが頭を下げる。

「おはよう。今日はよろしくね」

「はい! よろしくおねがいします! あの、ぼく宮崎さんの大ファンで! 今日はご一緒できてすごく光栄です!」

「こちらこそ。期待してるよ」

 サブ室のドアの前で監督と話していた冨樫桃華がおれを見る。

「あ、優翔くん。おはよう。今日もよろしくね!」

「おー桃華さん、よろしくおねがいします」

「そうだ、あれよかったよ~、『劣悪少女隊ぱぴぷ@ぺぽ』の道隆寺タカシ」

「観てくれたんだ! ありがとう!」

「いますごい人気だよね~。今度大宮ソニックシティでライブやるんでしょ?」

「おかげさまで。といっても桃華さんの足元にも及ばないけど」

「まあね。なーんて」

「ははは!」

「今日の新人クン、どう?」

「いい感じだと思う。特に声がいい」

「なんかわたし思い出すんだよね~」

「え? なにを?」

「あの日の優翔くん」

 おれたちは顔を見合わせて微笑む。やがてスタッフのひとりが現れ、「それではみなさん、本日もよろしくお願いします」と言っておれたちをスタジオへと招き入れる。

 さあ始めよう。

「それじゃあ本番行きまーす!」

 おれは目を閉じ、深く息を吐いた。

 

「うわああああ! 処女膜からやまびこが! うわあああうわあああうわあああしょじょまくからやまびこがやまびこがやまびこが……(小声)」