書き下ろし掌編:『歓迎』

 

 

 

はい、雨。

 

六月の二周目辺りから続く雨が急に止んで真夏のような晴天が広がったのが昨日で、慌てて洗濯をした。あっという間に乾いた衣類をとりこみながら、いよいよ迎えるであろう梅雨明けを期待したってのに、早朝の雨音で気分が死んで、睡魔も長く居座る羽目となった。ばかやろう。もう知らない。どうせ今日は休みだし。

 

昼になって、ようやく湿気った布団から抜けだした私は、冷蔵庫に何もないことを思い出し、でもお腹は空いている、なのに雨が降っていて、ついでに昨日はシャワーすら浴びずに寝てしまっていたことも振りかえり、部屋の真ん中で立ち呆ける。とりあえずスマホを手にとってアパレルメーカー系の配信メールを削除していき、LINEのニュースアカウントの見出しだけを流し見て、テレビにするかラジオにするかで迷う。テレビをつけてしまうともうしばらく動くことをやめてしまうだろう。決めることすら後回しにしてシャワーを浴びる。顔を押し付けたバスタオルからは、くっさ、部屋中の湿気を吸ったような重いにおいがする。

 

ここのところ、人からの連絡が減った。もちろん仕事関係の連絡ならたま~に入ってくることもあるが、わたし個人への連絡はない。ちょっと前までやっていたマッチングアプリも退会した途端、自分の本来持つあらゆる面での気のなさが可視化されたように余白が増えた。他者の存在が生活から遠のくことで、わたしの怠惰の自由度も増したというわけだ。そりゃこの部屋も汚えわ。掃除しよ。

 

ラジオを流し、洗濯機を回した。食器も洗う。時間にするとひとつひとつが五分とかからないのに、そんな五分のために数日億劫な景色を拝むことを受け入れているのだ。目覚めてから時間が経ったことによって少しずつ頭が冴えてくる。わたしは思う。過去の自分に、このおばかさん。フローリングをワイパーで拭いた。積まれたままの服もハンガーにかけていく。ラジオからは二度目の交通情報が流れた。そうだよ、お腹空いていたんだ。ちょっとだけ息の切れたわたしは腰を反らせてから、最寄りのコンビニまで歩くことを決める。

 

もうひとりで外を歩くのも平気になった。とはいえ、雨の日は緊張が蘇る。雨音のせいで周囲の物音がかき消されてしまうから、何度も足を早めたり、振り返ったり、道を外れたりを繰り返す。もうそろそろこの名残だって消えていくのかもしれない。わたしは、恐怖を抱くことで気持ちの均衡を保っていた。均衡が安定しつつあるいま、わたしがあの経験に対して思うのは、ささやかながら、懐かしさとすら言えそうだ。

 

掃除のさなか、決まってわたしはあの手紙が通帳らと一緒に抽斗の中に収まっているかを確認する。勝手に動くはずがないのに、いつかふっと消えてしまうんじゃないかという疑念がつきまとっている。ボールペンをサッと走らせただけの文字で「先生、ありがとうございました。」とだけ、名前すらなかったが、わたしはそれが誰からのものなのかすぐにわかった。

 

いくらわたしとて、初めは変な人だなと思っていた。しばらく連絡を取り合ってわかったのは、彼が精神的な疾患に苦しんでいること、社会生活への復帰を強く望んでいるが、実現へのハードルがいくつも存在すること。彼はなんらかの理由から、どうしても部屋から出ることができないでいた。わたしがプロフィール欄に「精神保健福祉士」の資格を掲げていたことからコンタクトをとったのだろうなと半ば白けつつ、その切迫した物言いを無下にもできなかったので、メールでのやり取りを続けた。そこからLINEを交換して、電話もするようになった。声は、カサカサ。思っていたよりも饒舌だったけど、かといってこちらを詮索する様子もなく、今日あったこと、感じたことを軽く話し、わたしの漠然とした愚痴に耳を傾け、最後には必ず「おつかれさまです」と言った。他者を心から労うというよりも、その言葉しか知らないというような、妙なぎこちなさがあった。エロい写真も要求してこなかったし、電話でそういうムードに誘導しようという気配もなかった。懸命に生活を維持しよう、そのためには他者の存在が必要で、選ばれたのがたまたまわたしで、というふうにわたしは解釈していて、だから自然と力むこともなくなった。こちらが返信せずとも、電話をとれなくても、そのことを責めるようなことはしない。

 

コンビニで週刊誌を読む。それから冷凍食品とお酒を買って、再び雨の道を進む。

 

ある日、彼がいつもの発作が出たことを電話で話したその数時間後、なんの脈略もなく自分の命が狙われていると言い出した。これから大勢がやってくる。どうするべきか迷っていると、彼は言った。以前にも何度か、盗聴されている可能性があるとか、監視されているかもしれないとか、そういったことをほのめかすことがあった。規則正しい生活と、栄養のある食事、軽い運動を勧めていたが、結局のところ、家からほとんど出ることのない生活を送っていたのだ。社会資源の活用も拒否。いずれはこうなることだって予想できた。わたしのなあなあにしていた時間のつけがここに回ってきたのかとちょっとだけ憂鬱になったが、それは結局わたし自身、彼との距離をうまく取れていないことの証左でもある。まずはどうでもいいと思おう。それから頭を落ち着けて、できることをしてみよう。

 

電子レンジでパスタを解凍しながら、薄暗い部屋に明かりをつけた。もう一日が終わろうとしていた。なんもしてねえや。まあ、掃除しただけ合格としよう。

 

電子レンジが甲高い音を立てる。わたしは電子レンジの前に立つ。ふと後ろを振り返る。

 

クローゼットが開きっぱになっている。

 

さっきの掃除で?

 

思い出せない。でも、違和感はある。恐る恐る近づき、わたしが迷わず手を伸ばしたのは例の抽斗た。

 

あの日以来、彼とは連絡がつかなくなった。わたしが寝ているあいだに、不在着信が何度か入っていたが、朝かけ直したところで誰も出なかった。寝る直前の通話で、わたしは彼に伝えたのだ。どんな相手であろうと、あなたにはなにも手出しできませんとか、安心して、温かいものをとってとか、好きな音楽でも流し、どうか朝を迎えてくださいとか、もうすっかり夜も更けていて、わたしも眠かったこともあって、そんな感じの言葉を並べ立てて、それで、どうなったんだっけ? たしか彼の、「そうしてみます」という言葉が返ってきた気がする。不安げな、なにかを諦めたような、その一方で、なにかを決意したようにもとれるあの声だけが、ありありと蘇ってくる。

 

わたしは抽斗を引く。ない。あの手紙が。

 

さっきわたし、どっかに持ってっちゃったっけ?

 

さすがにそれくらいなら憶えている。わたしは手紙をもとの位置に戻して抽斗を閉めた。すっかり真っ暗になった窓の外では、いまだ雨粒が水たまりを叩いている。雨の日は証拠が残りにくい、みたいな話を、映画かなにかで観たような気がする。は? やば。警察呼ばなきゃ、と慌てたわたしは、一旦冷静になろうと深呼吸を五回繰り返してから、もうちょっと探してみるかと思う。で、見つける。手紙じゃなくて、ミニテーブルの上に無造作に置かれた札束。ぜんぶ一万円で、分厚くて、たぶん百枚以上ある。

 

「こんばんは」

 

比較的おさえたつもりだったのに、わたしの声は部屋中に響いてバツが悪い。

 

「まだいますか?」

 

電子レンジの中にあるパスタがすっかり冷たくなるまでわたしはぼーっと突っ立ったままでいた。再度加熱するためにボタンを押して、オレンジ色の明かりに照らされながら、ちょっとだけ明日の仕事のこととか、さっきシャワーを浴びたので今日もまたそのまま寝ようかなとかを考えていた。

 

コーヒーくらい淹れたのに。

 

それにしてもどうすんのこれ。

税金とか。

 

 

 

 

 

 

 

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