MidnightInvincibleChildren

短篇『我が家のコーヒー、ほぼ水』

 

 

 

※下記はコンビニプリント用ZINE『Midnight Invincible Children Vol.Ⅲ』(2022.06.13~2023.06.21)に収録されたものです 

 

 

 

 

 最悪だれかを殺しちゃったらどうしよう? と頭をよぎったころには、わたしはすでにスタートを切っていた。ええい、ままよ! ってこういうときに使うはず。人生初ままよ。そういえばどういう意味? なんて考えてるんだか逃避してるんだかの状態で孝太朗に借りた自転車で我が家の門を通過、これまで何度もそうしてきたように庭に入ると、玄関先でバーベキューをしていた面々にまっすぐ突進。煙を上げる炭コンロに突っ込んで全部を台無しにする。Tシャツに黒のスキニーといういつもの格好をした姉が叫び、花城家のおじさんと、その息子こと正之がトレッキングチェアに座ったままわたしを見ていた。網がはねて焼けた炭が転がり、芝生の上には生焼けの肉とタマネギが散らばる。姉は缶ビールを握ったまま勢いよく立ち上がったので、跳ね上がったビールを腕に浴びていた。わたしは興奮している。薄ら笑いすら浮かべていた気もする。バーベキュー終了! 瞬時に充満する殺気を察して叫ぶことはできなかったわたしは、自転車を乗り捨ててそのまま庭を走り抜け、背後からなお三人の沈黙が届くその状況に気持ちを昂ぶらせていた。そのくせ、血は冷えていた。強めに地面を蹴りながら、背中で大きく上下するリュックサック越しにちらりと振り返るが、誰の姿も確認できない。あれ? キレた花城正之が追ってくる想定でいたのに。これはこれで安堵している自分がいる。いやいや、安堵て。俯瞰しろ俯瞰。いまこの瞬間は台風の目みたいなもんだ。とはいえ、向こうだってまさか今日こんなふうにわたしが戻ってくるとは思わなかったはずだ。不意を衝いてやれたはずなのだ。リードできるとこはどんどんしてこ。興奮のあまり、走りながら手を二回叩いた。

 家の外周をぐるっとまわって台所側にある勝手口のドアを引いたが、腕が突っ張りちょっとよろける。鍵かかってんじゃん。即プランB。わたしはまた走って角を曲がり、両親の寝室前に立つと、考えるよりも先にプランターの下に敷かれていたコンクリートブロックを持ちあげ窓戸に叩きつける。ガラスの砕け散る音は想像以上で、ひー! 思わずコンクリートブロックを放りそうになるが自分の足を潰しそうなので地面にそっと置いた。割ってから気づく。鍵あいてた。ファックだわ。とりあえず破片があるので土足のままお邪魔します。いや、ただいまじゃない? わたしはいま、だれにお邪魔したというんだ? うっかり気を使って気分が悪かった。いいさどうせ、この気持ちもなにもかも、全部をエネルギーに変えてやろうと思う。手のひらを拳で二度打った。

 わたしの部屋は二階にあるので、ダイニング&リビングを突っ切って階段まで向かわなければならない。両親の部屋を抜けたらいよいよ危険だろう。玄関から先回りした誰かが控えている可能性があるし、わたしはそういう可能性を無視できない。スマホを取り出して用意しておいたメッセージを送信する。

《!!!!!!!》

 震えながらベッド脇においてあるスプレータイプの殺虫剤を手にとった。わたしはこの家になにがあるのかを知っている。利点その一だった。その二は、わたしが襲撃する側であるという点だ。

 意を決してダイニングに飛び出ると、案の定、左手側に花城正之が立っていたので悲鳴を上げながらスプレー噴射。が、花城正之がわたしを突き飛ばすタイミングのほうがちょっとだけ早かった。キッチンのカウンターにこめかみのところを打ちつけちゃって脳内が無音。スプレーはフローリングの上を転がっていく。やばい、リュックを使え、急げ。そう思って顔をあげると花城正之はわたしの手首を掴む。引っ張り上げる。無理に伸ばされ二の腕がビビッと痺れるし、手首にかかる圧も強すぎるしううううう痛い! 痛いっての! ふん! おい! やめろ! おいって! 放せバカ! アホ! アホすぎ! キモい! とそこで花城正之が「キモい」をトリガーとする魔法にかかったみたいに勢いよく横に飛んでいく。

 魔法なんかじゃない。

 駆けつけた孝太朗だ。

 花城正之に飛びついた孝太朗はそのまま床の上でくんずほぐれつ、各々手足をバタつかせるので周囲のテーブルや椅子が音を立てて弾かれていく。加勢しなきゃ! と興奮するわたしも重なり合う二人に飛びつく。孝太朗が「いや、いい! 離れて!」というので、なんで? 邪魔みたいにいわないでよと思っていると、花城正之の足がわたしのお腹を強く押して身体が一瞬宙に浮く。

 あ。

 テーブルの上にお母さんのマグカップがある。

 あれ使ったの誰?

 フローリングに尻餅をついたわたしの背中にリュックの中身がめり込んでゴリッと音がした。いまの聞こえた? って聞きたいくらい鳴った気がした。つうううう……あそうそう、リュック。わたしは胸のところにリュックを回すと、中から消火器を取り出す。何度もイメージしたように安全ピンを抜いてみる。できた。顔をあげるといつのまにか花城正之が孝太朗の上にまたがっている、後ろ姿なので顔は見えないが、運動と興奮であったまった全身の血が急速に冷めていく。手足の感覚も遠のく。それが気体のように全身から漏れ出て、ダイニングに満ちていくのがわかる。

 わたしの後を追って両親の寝室から現れた姉の叫び声が聞こえた。

「美桜! やめて!」

 それが合図となった。

「ちがう!」

 とわたしも叫び返す。そう、違う。

 違えだろ。

 止める相手はわたしじゃないはずなのに。

 レバーを渾身の力で握ると、構えたホースの口から消化剤が勢いよく噴き出す。しゅぼおおおおおっ! こっ! しゅぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお! こおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、ここ……おおおおお……こっ? ぼぼぼ……しゅしゅしゅ……。

 ひえ~こいつはいいぜ……と思っていると視界を覆う粉塵を割って目だけ赤く浮かび上がった花城正之が飛びだしてくる。わたしは悲鳴を上げてその顔を消火器で薙ぐ。花城正之はふらつき、続いて孝太朗が姿を現す。

 ダイニング&リビングが真っ白に染まっていた。ソファーもクッションもテレビもカーテンもラグも誰のものかもわからないゴルフバッグも花城正之も真っ白だ。なのに孝太朗だけ半分以上色が残った状態なので、わたしはそこに勝算……わずかな希望のようなものを、そのときはっきり感じたのだ。孝太朗が花城正之をソファーめがけて蹴り飛ばすと、消化剤が派手に舞い上がった。

「美桜!」

 孝太朗の声が響く。視線だけで会話できちゃう。消火器決まったな。そっちも登場のタイミング完璧。いや結構ギリじゃなかった? 結果オーライでしょ。まだ終わってない終わってない。えー? へへ。ここはいいから早く行きなよ。大丈夫そ? わかんないけどさっさと行けって止まんなよ。あんたも気をつけて……あと直接これいうとウザがるだろうけど、こんなんに巻き込んでごめんね。孝太朗と同じ高校でよかった。孝太朗が卒業後フリーターになってすぐバイト辞めちゃって「いまはなにもしたくない」とかいいつつ世界一やさしいままでよかった。職業欄には「優しい人」って書いていいよ。わたしがフローリングの上をダッシュで進むその横で、孝太朗は花城正之を引きずっていく。消化剤がよく滑るので運びやすいな、そんなふうに孝太朗は玄関の外に正之を蹴り出して施錠した。階段を駆け上がるわたしは二階にある自分の部屋へ。そこにはわたしの知らない服が脱ぎ捨てられている。邪魔なので蹴飛ばす。机の引き出しを開け、重なったクリアファイルを次々と放り出していく。大丈夫。大丈夫。特に漁られた形跡もない。

 気がつくと部屋の入り口には姉が立っていて、スマホの画面をこちらに向けている。

「警察呼ぶ。呼ぶから」

 わたしはもう悲しむことすらできない。

「いいけど、重複になるよ」

「は?」

「もう呼んでるから」

 姉が黙る。なので質問する。

「お父さんの病院ってどこ?」

 

 

 

 お見舞いに行かなきゃ。入院先の病院は、ずっと教えてもらえずにいた。

 わたしが家出している間に、父は花城家の人間にいわれるがまま土日も配送のアルバイトを入れていた。週七労働、休みなしの生活が続いたうえ、一家の大黒柱としての自覚を問うテストを毎日やらされていた。学校で出されるような小テストだ。設問に対して父がどんな回答をしても、自覚がないとか、誠意が足りないとか、そういう言葉を毎日のように浴びせられ、罰として食事を減らされたり、暴力をふるわれたりしていた。

 花城家暴力担当の花城正之こと本名・儀間一嘉は、我が家から追い出された直後に勘をはたらかせて逃亡。全身真っ白のまま数百メートル先のアパートの敷地内に逃げ込んでそのまま三階まで上がり、隣の民家の屋根に飛び降りた際に大腿骨を骨折して捕まった。別件の傷害事件で執行猶予中だったらしい。

花城家のおじさんこと花城信雄は行方不明だ。わたしが炭コンロに突っ込んだ時点ではまだ庭にいたのに……でも時間が経つにつれ、わたしはあのとき本当に花城信雄を見たのか、あのおじさんが本物の花城信雄なのか、確信がもてなくなる。花城信雄は過去に何件も詐欺行為を行っていて、もっとひどいこともたくさんしていたようで、全国に指名手配される。

 この一件もニュースになる。

 姉は再度、母にかわるような存在を召喚することで我が家をなんとかしようと思ったのかもしれないし、それはわたしごときの安易な読みかもしれない。姉の気持ちを何度も想像してきた。可能な限り正解に近づきたかった。変に距離をとりたくなかった。

母が死んだとき、人生がそれでも続くことに愕然とした。なのにそれを誰にも伝えなかった。

 つまり、耳を傾けることもしなかったのだ。

 警察が到着するまでの間、わたしはかつてそうしていたようにお湯を沸かして、インスタントコーヒーを入れる。それを飲みながら母の位牌を眺めている。空になった消火器のやり場に困っている。

 姉は真っ白なソファーに腰掛けて、ついていないテレビをずっと眺めていた。それからふと、「疲れたあ」と漏らし、わたしの入れたコーヒーをすすった。そんでしばらくすると「ちょっと寝る」といい、本当に寝息を立て始めた。どこかで期待していたのに、わたしはもう姉と取っ組み合うことすらできなかった。お互いが思うことをぶつけ合い、一度くらいちゃんと悲しむことができたのなら、なにかしら区切りがつくもんだと思っていた。

 到着した警察に儀間一喜が逃亡した方角を伝えたのは孝太朗だ。湯気の立つコーヒーを飲んで「いてー」とつぶやく彼の唇はパンパンに腫れていた。二発殴られたらしい。やっぱちゃんと伝えなきゃ。そう思って、ごめんなさあい、といったら、本当に思ってんのかよと孝太朗が笑うので、わたしも笑った。高校のときみたいでちょっと楽しかった。

 仕事中であろう棚原明里さんにもメッセージを送っておく。家出したわたしを部屋に上げ、夢中になれることがほしいなら勉強しろといい、わたしの目標になってくれた。消火剤にまみれてぼろぼろになった自撮りをいっしょに送ると、めちゃくちゃだ、とすぐに返事がきた。ほんとですね。送った写真を見返していると、遺影にするならこれがいいな、と思った。依然として手はめちゃくちゃ震えていたが、ちゃんと動いている。だからわたしはポケットの中から年金手帳を取り出し、ちょっと気取って弄んでみせる。無事、回収しました。掲げて思い切り叫ぼうかと思ったが、声にならなかった。

 これでわたしは正式にこの家を出る。

 これでよかったの? みたいな問いは尽きない。

 それでもわたしが想定していたよりも、ずっとずっとマシな結果で拍子抜けしている。いまのところは。もっともっと最悪な結果だってあり得た。

 腹立たしいが、こんなふうに人生は続いていくのだろう。

 というわけで、これからわたしは警察に事情を話さなければならない。しかるべき処分を受けなければならない。勉強もたくさんしなければならないし、試験を受けてはたらいてお金を稼いで、選択肢を増やしていかなければならない。居場所を増やしていかなければ……ってまあまあ、あまり興奮すんなって。

 笑うとカップの湯気が散る。

 あなたがいなくて寂しいのは事実だけど、悲しいとはやっぱり違うし、余計な心配もかけたくないので、死というものが完全な無であることをずっと願っています。