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書き下ろし短編:『欝子の角栓』

創作

 

 いろいろあるだろうとみんなは言うけど、別にみんなが思っているようなことはなにもないし、そのなにもなさこそ、わたしが部屋を出ない理由なのだ。朝~昼に起きてまずやることなんてなにもない。ああ起きてしまったんだと後悔して、また明日も目覚めてしまうんだと鬱々慄きながら夜を迎え、過ごし、ようやく眠る。眠っている間が一番まし。起きている間はずっと苦痛。例えば爪を切る。例えば鼻をかむ。例えば横になる。早く夜になれと思う。眠れないわたしは自分の顔を触る。しばらく鏡を見ていない。わたしはザラザラした鼻筋を撫でる。爪の先でこすればポロポロと表面が剥がれ落ちる。わたしは無心になる。ザラザラがあってポロポロとなって、わたしはわたしの一部だったものを眺める。そっと机の端におく。

 鼻を強くつまむと、たくさんの白いつぶつぶが浮き出てくる。それらをまた爪でこする。

 なにがどう間違ったなんて考えるのは変だと思う。わたしはずっとこうだ。ただしく現状に至っている。正直に生きている。

 向かいの家に住んでいたユウちゃんの弟が、最近バイクを買ったらしい。エンジンの唸る音が聞こえる。それは真夜中だろうと聴こえてくる。家族が文句を言っている声が聞こえてきたこともある。でもわたしはあの音が好きだ。眠れないわたしに寄り添ってくれている気がする。

 今日もわたしは眠れない。音が恋しい。

 ユウちゃんは今年結婚するらしい。子供ができたとか言っていた。わたしは部屋の窓から彼女の家を出入りする若い男を見たことがある。もしかするとわたしも知っている人かも知れない。

 何かを楽しいと思ったのはいつだろう? 最後の記憶を呼び起こそうとしても鈍い流れが渦巻くだけだ。煩わしい。有り余る時間の中でめぐり続けるこの思考をストップさせたい。地球の自転がピタッと止まればいいとわたしは思う。世界が一瞬にして粉々になれば、その実、みんな「まあいいか」と思うのかもしれない。

 さて、わたしはこんな毎日を終わらせようと思っている。どんな形であれ。

 わたしは鼻の頭を爪でこする。どうしようどうしよう。どうしようもないどうしようもない。

 その日は朝から窓を開けてみた。久しぶりの外気。その匂い。わたしは忘れていたいろいろを思い出す。楽しかったこと。寂しかったこと。向かいの家の前に、ユウちゃんが見える。赤ちゃんを抱いている。男の子か女の子かもわからない。でも小さな赤ちゃんが彼女の胸で眠っている。ユウちゃんがこっちを見て、ちょっとだけ笑った。わたしは思い出す。楽しかったこと。寂しかったこと。

 動けなかった。もっと楽しいことが欲しかった。寂しいことも。いろいろな気持ちが欲しかった。諦めることに慣れすぎた心を、綺麗に洗い流したかった。

 わたしは机の端に置いてある野球ボールほどのそれを手にとった。乾いて今にも崩れ落ちそうだ。急がなきゃ。

 わたしは窓の外目掛けて放り投げる。

 宙でほどけた無数の角栓は方々に舞って、照りつける陽光に鈍く透けゆく。風に乗って、煙のように昇っていく。ユウちゃんがわたしを見ている。口を開けたまま、やがて目を三日月型にする。懐かしい。わたしは今この瞬間を懐かしいと思っている。いつかとそっくりだ。でもそれがいつなのかは思い出せない。でも体が覚えている。喜んでいる?

「ユウちゃん!」

 わたしは叫ぶ。声が出る。わたしはこの声、意外と好きだったんだなと思う。

 そして轟音。粟立つわたしは道路を見る。わたしの角栓が風に乗って、こちらに向かっていたユウちゃんの弟に降り注いだのだ。驚いた彼は転倒してしまい、バイクはアスファルトの上を滑って電柱に激突した。遅れて転がり込んできた弟くんは、道の真ん中で停止し、かすかにだけど動いている。

「ご、ごめんなさい!」

 わたしの言葉に目を見開いたままのユウちゃんが叫ぶ。

「大丈夫―! 生きてるー!」

 全身がふざけるように震えていた。

 嬉しくてわたしは大きな声で泣いた。