MidnightInvincibleChildren

短篇『絶職』

 

 

 

 

※下記はコンビニプリント用ZINE『Midnight Invincible Children Vol.Ⅱ』(2022.12.29~2023.01.05)に収録されたものです

 

 

 

 

「ごめんおれいま絶職してるんだ。そうそう、だからこの仕事は、うん、お気持ちだけ」

 そういって坂本は目を細めながら手を合わせてきた。なにいってんだこいつ、と感情にはあっても、言葉にできるほど処理はすすんでいなくて、とりあえず「ああ」だけで一旦持ち帰ってしまう。

 毎日「とりあえず」ばかりでいやになる。

 それから「ぜっしょく」が「絶職」と変換されるまでに十分ほどかかった。トイレでおしっこをしながらあれ? と思ったのだ。そういう意味? あいつなめてんな。でも羨ましいとも思った。羨ましいからこれだけ腹が立っているのかもしれない。事務所に戻って、スマホを見ていた坂本の背後から近づき、左肩を叩きつつ右の方へ逃げた。キョロキョロする坂本の気配を背中に感じながら僕も絶職しようかなと思った。日々に喜びがないからだ。

 下半期の上長との面談でキャリアアップという言葉が出てきたので苦笑した。苦笑でも一応笑っているぶん言い訳がきくので便利だ。給料も上がらないのに今以上の仕事を率先して引き受けてなんになる。どうにもならねえだろ。おまえら休日はゴルフにでもいってるのかしらないけど、こっちは自宅でNetflixか昼寝かオナニーだ。数年前なら筋トレだってやってみたりはしたけど、続けることが億劫で、続けないと効果が出ない。昇給の話を先に提示しない時点で、こっちも強硬姿勢を貫くしかなかった。なんの意味もない面談は数十分で終わり、僕は喫煙所にいた坂本のケツをひっぱたいてそのまま休憩に入った。

 夏の炎天に、まどろみを覚えていた。なにもしたくなかった。誰とも話したくなかった。さきのことも考えたくなかった。

 事務所に戻って、バイトの学生がミスったレジ会計の修正処理に思ったよりも時間がかかって、消耗もして、なにも手につかなくなった。たまにこういう日がある。いや、こういう日のほうが多くて、たまに調子がいい。僕はタバコを吸わないので、休憩以外だと席を外すにも用事をとりつけなくてはならない空気がある。たまの息抜きに用があるのであって、タバコを始める気はない。ちょっと機械の確認をしてきますと伝えて、窓のないフロアに移動し、放置されていたダンボールを革靴でめちゃくちゃに踏み潰した。

 

 どおりゃああ! ぶっ殺すぞ!

 

 だれを?

 神を。

 観ていてくれてますか?

 

 だったら雷でも落としてみろよ。

 

 

 言霊なんて信じていないが、この言葉のもつ利便性には唸らされる。実際に雷が落ちて職場周辺の地域一帯が瞬間停電し、営業に必要なすべての機器が落ちてしまったときに、ああ、バチが当たったのかなみたいな気持ちで誰よりも冷静でいることができた。僕は真っ暗になった事務所でまずインカムのボタンを押してフロアに居る全員に向けてわかりきったことをいう。そのうちの誰かから返事がくる。各シアターに入ってお客様に説明をお願いします。了解しました。終わったらインカムください。そこで明かりが戻る。これがスタートの合図だ。僕は指示を出しながら機械室へ向かった。こうなったら焦っても同じだ。余裕のあるふりをするぞ。

 窓のない部屋ではアルバイトの田所さんが完全にパニクっていたので復旧の進捗を確認し、のこり半分の作業を引き取るかわりに、すでに復旧させた機器での上映再開を指示する。落ち着いてやっていいからね、どうせ人が死ぬようなトラブルじゃないんだから。フロアスタッフは各シアター内に入ってお客様にアナウンスをお願いします。アナウンスが終了したシアターは共有してください。順次、再開します。インカムからはひっきりなしに共有が飛んでくる。そのたび僕はお礼を伝える。僕に理性があることを示す。そうすることでインカムの向こうにいるみんなも理性を意識する。理性ってなんだっけ? ああ、理性か。理性は大事だ。理性を保とう。聞き分けのない客にも理性を見せてあげよう。ごちゃっとした気持ちは、落ち着いてから処理しよう。事務所に残っている坂本からPOS復旧の共有が飛ぶ。以降、チケットをお求めにいらっしゃったお客様にはスケジュールと開始時刻が変更になった旨をお伝えして、ご了承いただいた場合のみ販売してください。手の空いているスタッフはフロアスタッフのヘルプもお願い致します。機器の復旧が続々と完了する。フロアスタッフは各シアター内に入ってお客様にアナウンスをお願いします。アナウンスが完了したシアターから順次上映を再開します……

 そうやって数日分のエネルギーを凝縮したような二十分間が終わった。

 

 

 事務所に戻ると坂本が僕のぶんの缶コーヒーまで買ってくれていた。支配人ならびに本社への報告も済んだとのことだった。絶職してたんじゃないんですか、と尋ねると、してますよ、現場の調整もほとんどあなたに任せました、おれは座って電話かけたりしただけなので……。

 今日坂本さんといっしょの日で良かったです。

 僕がいうと、それはおれもです。と坂本は笑う。続々と休憩を取り出すアルバイトスタッフの出入りを眺めていると、現場が落ち着いたことがようやく実感としてこみ上げてきた。僕はもらった缶コーヒーを開けて一気に三分の二ほど飲んだ。

 坂本は来月末で退職する。

 先を越されちゃったなという思いは、まだ残っている。

 大学生の夏野くんがホテルマンのような動きで事務所に入ってきた。僕がお礼をいうと「大したことはなにもしていませんので」と謙遜する。ドゥシ、といいながら脇腹にパンチするふりをして、みんなでキャァ~ハハハと笑った。