※下記はコンビニプリント用ZINE『Midnight Invincible Children Vol.Ⅱ』(2022.12.29~2023.01.05)に収録されたものです
きっかけは夏野さんがくれたテーラードジャケットだった。古着屋さんで衝動買いしたなかの一着で、気に入ってはいるんだけどサイズがちょっと大きすぎるからと僕にくれたのだ。当然のように遠慮していると「古着はいやだった?」と確認してくれるところが夏野さんの素敵なところだ。そういうんじゃないよ、高かっただろうにというと「古着の安いやつだよ」と即答しつつも値段をいわないところも彼なりの優しさだったのかもしれない。
「こういうことよくやるんだ。服買うことそのものが好きだから、どうしても着ない服とか出てくるんだよね。せっかくだったら、着てほしい人にあげようかと思って」
「え、これおれに着てほしいの?」
「ぜったい似合うと思うんだけど。ちょっといい?」
そういってジャケットを広げると、僕の背後に回って腕を通させてくれる。肩にかかる、想像よりも軽い着心地に「おー」と僕が漏らすと、「安藤くん、いいじゃんいいじゃん。似合っている」とすごく低い声で夏野さんはいった。それは茶色のジャケットでちょっとくたっとした感じがおじさんくさい気もしたが、こどもっぽいよりはマシなのかもしれない。もともと老け顔だとよくいわれる。
「安藤くんはね、トラッドなスタイルも似合うと思う」と、夏野さんは銀色のタンブラーを傾けながらいう。氷のみずみずしい音が響いたが、夏野さんの部屋は暖房がついていないのでちょっと寒かった。「なるほど、トラッドか~」と復唱することで説明を期待したが、夏野さんはうんうんうなずくだけで結局その意味はわからずじまいだった。
夏野さんは細くて色が白く、いつも黒い服ばかり着ていておしゃれで実際かなりモテている……し、違う学部の高梨美海さんと付き合っている。僕も初めて高梨さんのことを構内で見かけたときにうわーと思った側の人間なので、夏野さん本人からその名前を出されたときはかなりドキッとして、なぜだか高梨さんのことをまったく知らないかのようにふるまってしまった。同じ学部の【戦車】によれば付き合うきっかけは高梨さんからの猛アプローチとのことだった。僕は夏野さんのことを好きだというひとを何人も知っている。彼のラインアカウントをグループ経由でこっそり友だち追加したものの結局何も送れずにいる女子の話も聞いたことがあった。そんな夏野さんからもらったテーラードジャケットなのだ。僕は朝方になって夏野さんの部屋から自分のアパートまで帰る道中もずっとそれを着て歩いた。しんと冷たい朝の空気がジャケットの表面をしっとりさせ、その内側に包まれている僕との境目をぼやかすような感覚があった。カーブミラーに映る自分の姿が妙に新鮮で、なんだか歌を歌いたくなり、『涙くんさよなら』のサビ以外を小さな声で繰り返した。部屋に戻り洗面台で手洗いとうがいを済ませたあとも、鏡に映る自分をしばらく見ていた。いいねいいね、と小さくつぶやきながら左右からの雰囲気も確認してみる。へー。茶色か。渋いな。そう思ってハンガーにかけて風呂に入って寝た。昼すぎに目覚めてもう一度手に取ると、夏野さんの部屋にはないタイプの甘いにおいが、ほのかにジャケットから香った。
トラッドスタイルとは。
和製英語。
要は「トラディショナル」=「伝統的」なということで、「トラッド」なスタイルとは英国紳士風の……的なニュアンスで夏野さんは使っていたようだ。ジャケットについてだし、まあなるほどね。僕は服をあまり持っていないので、こういうジャケットをどう着ていいのかいまいちわからない。併せてコーデも調べてみると、セットアップという概念を知る。上と下がおそろいになっている服のこと。要はスーツもそうか。興奮してきたな。でも僕はジャケットしかもらっていない。茶色のズボンも必要だったりするのか? でもジャケットとズボンの色が異なったコーデもたくさんあるみたいだし、そうなると無限すぎる……
という話を学食で【戦車】にすると、彼は目が半分以上あいたままの笑顔を見せた。
「なんだよその悩み。なんだっていいだろ」
「そりゃないぜ」
「まあだからこそ難しいって話か。悪かった」
野武士のような見た目で、日によって長めの太い毛髪を結わえたり下ろしたり横に流していたりする【戦車】は、僕にとってのファッションアイコンだった。その日も柄の入った攻撃力高めのシャツを、大きな身体に品良くまとい、新築の家のような香りを漂わせている。
「ここにきて服に興味持っちゃうのってやばいかな? 面倒くさそうだから避けてたとこあるんだけど」
椅子に深くもたれかかる僕を見て微笑む【戦車】はブラックコーヒーを静かにすすった。
「やばいってなによ。そんなの好きになったが吉日でしょ。あとものは考えようで、答えがない系のものは全部答えみたいなことでもあるし」
僕が黙ると、【戦車】はあらためてコーヒーをすすりながら上目遣いで僕を見た。なにかを話そうとするように口を開いた途端、学食の奥のテーブルにいた数名が大きな声で笑う。司会者のように、トークを回しているやつもいた。全員声が大きかった。僕と【戦車】はしばらくその方向をじっと見つめたあと、再度向かい合う。
「安藤、引き続き理論も学びつつ。そのうえで自分がしたいと思った方を常に選択し続けろよ。繰り返して、どんどん洗練させていくことで、やがては、おまえという、スタイルに」
なる! と【戦車】はテーブルを叩いた。大きな音に驚いたこともあって頭の中にはあまり残らなかったが、僕は午後の講義終わりにさっそく古着屋に向かった。【戦車】におすすめされたその店は店員があまり話しかけてこないため、僕でも難なく買い物ができる。見つけたのは茶色の長ズボン……いや、スラックス。いままで僕がスーツ(下)と呼んでいた類のものだ。その軽さと見た目のトラッド感に興奮する。ウエストや丈もちょうどよくて、運命だと思った。家に帰ってテーラードジャケットとセットアップ風に着用し、洗面台の鏡に太ももまで映るよう壁ギリギリまで下がった僕は、慌てて部屋中を探し回り、とりあえず見つけたマグカップを持って鏡のまえに戻ると、コーヒーを飲むまねをゆっくり続ける。この感覚を寝て忘れるようなことには絶対にしたくない。五枚ほど自撮りした。
これを着て人に会いたかった。
学部の先輩が友達や後輩をどんどん呼んで膨れ上がったその飲み会に【カルテル】から呼び出された僕は、あのジャケットを着て向かうことを決意する。午後八時過ぎ。到着したときにはすでにできあがった大学生で居酒屋が揺れており、通されたテーブルにとりあえずつくと、そこには高梨美海さんがいた。彼女は名乗った僕を見てちょっと固まったかと思うと、夏野から聞いてます! みたいな顔をし、「よかったら」と嬉しそうに笑って、テーブルのあちこちから食べ物ののった皿を集めてくれる。細かいチェック柄の入った薄オレンジ色ワンピースの上から、柴犬の毛くらいのボリュームがある妙に丈のない白カーディガンを羽織っていた。高梨さんのほかには同じ学部の新木健という男子もいて、きれいなネイビーの詰襟シャツを着ている。僕が来る前にどういう流れがあったのかは知らないが、彼は「大手に就職した先輩」や「芸能活動をしている友人」系の話ばかりするのでちょっとむずがゆく、僕は新たな人物が登場するたびに枝豆を一さや食べた。しばらくして、ああ、このまえ学食でトークを回してたのは彼だったかと気づいた。高梨さんはどんな話にも真摯なリアクションをする真面目な人みたいだから、新木のほうもちょっと調子に乗っているんだろう。僕は枝豆の皮が皿に七つ溜まったタイミングでトイレに立つと、そのまま【カルテル】を探すことにした。
店内をふらふら歩きまわっていると、何度か目の合った女子が「忙しそうですね」と声をかけてくる。その女子は二人掛けのテーブルに一人でいて、肘を立て、スマホを持った手首から先をだらんとさせていた。「そちらこそ」と僕が答えると、その子はちょっとだけ笑い、自身の正面にあった椅子を足で押し出してくれるので、腰かけることにした。彼女はマスタードみたいな色の薄手のタートルネックセーターを着ており、その上から紺色のテーラードジャケットを羽織っていたので、一つのテーブルにジャケットがそろっていいのだろうかと不安になる。
「すみません。軽部って人知ってます?」
「かるべ?」
「はい。その人に呼ばれたんですけど全然見当たらなくて」
「男の子ですか?」
「あ、そうです」
「わかんないです。まあ、座ってたら現れるんじゃないですか」
そういってその女子は、運ばれてきたビールを僕の前においてくれる。これ頼んでないんですけどいいんですか? と僕が尋ねると、彼女は質問には答えず「二年生?」と顔をやや傾ける。
「そうです」
「いっしょだ。ビールは飲める?」
「飲めます。ありがたい」
「ありがたいんだ。じゃあ乾杯だ」
その女子は名前を寺本ゆわといった。
「ゆあ?」
「ゆ、わ。わをんのわ」
「ゆわさん?」
「それです」
「ゆわさんはひとりで飲んでるんですか?」
「うん。さっきまで別のテーブルにいたけど、なんか自慢系男子がいて逃げてきた」
僕はいっきに興奮する。「新木さんだ」
「いや、もっと違う名前だった気がする」
そんなやつばっかりか。
続けてビールを二杯飲んでも【カルテル】は現れない。連絡を入れても反応がないので、割り切ってどんぶりの飯をしっかり食べていると、寺本さんがトイレに立ち、そのすぐあとに【鎖鎌】が通りかかる。【鎖鎌】は別のテーブルで「オートマ限定の免許証は認めない」という話をしてしまったらしく、ある女子に激しく嫌われて移動を余儀なくされたとのことだった。
「でもよかれと思っていったんだもんな」と僕が冗談でいうとやつは「よかれとは思ってないし、ひとに嫌われたいとも思ってないよ」と笑いながら僕の膝の上に座ってくる。
「もうしょっちゅう怒られてるからなあ。でも最近思うのよ。なんか子供だからだなって。いや、いまもそうだけど。いまよりひどかったなって。去年とか」
「みんなそんなもんじゃないの」
「でもマジで思うんだ最近。おれどんどん大人になっていると思う。ちょっと前まで我慢できなかったことが我慢できるようになったし」
「ああ、でもそれはある。ちょっと前なんてひとの相槌にすらぜんぶ否定から入ってたもんな」
「いや、否定っていうか」
「それそれ」
「これかあ」
そういって【鎖鎌】は僕の膝からゆっくり立ち上がると、ごめんね、重かったでしょ、と小さい声でいいながら僕のふとももを手で払った。その瞳は揺れるように光っている。なんで泣いてんだよ、と笑おうかと思ったが、どんな反応が返ってくるかわからなかったのでやめた。とりあえず立ったまま震えている【鎖鎌】の二の腕をさすっていると、「さっき知らない女子に怒られたの、けっこうこわかったぜ」と小さく漏らした。
「ああ」
「理路整然としていて」
おまえが悪いんだけどな。
「寺本さんて知ってる?」と【鎖鎌】がいって、僕は急速に頭が回転するのを感じた。
「寺本?」
「経済学部の同い年で」
「はー」
「いや、おれが怒られた女子。知ってるかなって」
僕はトイレの方角を見る。
その日の【鎖鎌】は編目のざっくりしたベージュのセーターに深緑のカーゴパンツとグレーのニューバランスを合わせていて、力の抜けた魅力があった。新木さんたちのテーブルに腰かけるやつの後ろ姿を眺め、改めてそう思う。なおさら、慣れないジャケットを着ている反動みたいなものをみぞおちに感じるが。
席に戻り、仕切り直しとしてジョッキを空にしたところで寺本さんが姿を現した。【鎖鎌】のことを聞こうと思ったが、彼女は戻ってくるなり「面倒くさいことになった」という。話によれば違うテーブルのお客さんの中に、前に一瞬だけ付き合ってあまりいい別れ方をしなかった男の人がいたらしく、「ばれないように隠してほしい」というので、「一回外に出る?」というとうなずいて荷物をまとめはじめた。とりあえずと渡されたトートバッグを受け取り、見送るつもりでいっしょに外に出たら、急に彼女が「逃げよう」といい出して、「お金は?」「いったんここは大丈夫」「大丈夫じゃなくない?」「あとでわたしが払っとく」と話しながら並んでの小走りがスタートする。冷気というには若干なまぬるい夜風のにおいを胸いっぱいに吸い込みながら大通りまで出ると、寺本さんはようやく走るのをやめた。何度も後ろを振り返る僕の隣で「いやーあぶなかったー」と低い声で笑っているが、僕は走ったことにより、酔いがおでこのあたりまで回ってしまったのを感じていた。いつにもまして明るい夜だった。
改めて自己紹介をすると、寺本さんは「よく古着屋行くの?」と聞いてくる。このまえ初めて行ったと伝えれば、その向かいにあるケーキ屋でアルバイトをしていて、見たよといった。
「よく覚えてますね」
「なんか安藤くん、よく見かけるかも」
「え?」
「あとわたし、人の顔とかは割と覚えられるんで」
「いい特技」
「ありがとう」寺本さんは僕の首から足下までをさっと指さしながら「男子のお弁当、って感じの色でかわいいよね」といってくれる。
「なんですかそれ。でもありがたい」
「ありがたいってよく使うね」
「ああ、今日はちょっと多いかもしれないです」
「さっきもいってたもんね」
「そうかも。ちなみにこれは友達がくれた」と僕はジャケットの襟を両手で引っ張り、肩のあたりをパンと鳴らした。
「へー。ジャケットを?」
「そうそう。一応遠慮したんだけど」
「いい友達。ありがたいだね」
それから僕らは昼間のように明るい外灯の下で立ち止まる。道が二手に分かれていて、お互いの体の向きからそれぞれ行く先が別ということに気づいた。そもそも家の方向などをなにも確認しないままここまで歩いてきたけど大丈夫か? と急に思うが、寺本さんは何事もなく「わたしこっち」といって、そのまま振り返ることなく歩いて行ってしまった。独り言のような鼻歌がかすかに聞こえてきたが、それが何の曲だったか、喉元のあたりまで出てきているのにわからなかった。
部屋に戻った僕は改めて洗面台の前に立つ。
「男子のお弁当」か。
今日行ってよかったな。
昼過ぎに目覚めると、分厚い雲に覆われた寒々しい空が鬱陶しく映った。散歩がてら外食でもしてくるかと思い、着の身着のまま家を出て大学周りを歩いていると、前から【カルテル】が歩いてくる。
「おつかれ」
声をかけるずっと前からこちらに気づいていたようで、やつは挨拶もなしに開口一番こういった。
「カラーボックスに詳しい?」
「カラーボックス? って棚でしょ?」
「買いに行こうかと思って」
「どうぞ」
「いや手伝って」
「はは、うそうそ。いいよ」
上下スウェットの僕らはそのまま近くのホームセンターに向かう。【カルテル】はカラーボックスコーナーでふらふらしながら「飲み会のときはごめん」といった。
「連絡返せなかったわ」
「いいよ別に。【鎖鎌】には会えたよ」
「ああ、あいつさあマジで……ゲロ吐いてんだよ」
「うおー。お店で?」
「いや帰り道」
「……まあでもけっこう酔ってたか」
「そうそう。で、高梨さんが怒りながら水買ってきてくれて」
「え、高梨さんもその場にいたんだ」
「うん。向こうは二次会いく途中だったかな」
「なるほど。怒りながらってところがいいね。水も買ってくれてるし」
「そうそう。いい人だった」
【カルテル】はパステルグリーンの三段あるカラーボックスを買った。僕らは梱包する段ボールの両端を担架のように持って歩道を進んでいく。なにを収納するのか尋ねると、「漫画~」と苦々しい感じの声が返ってくる。
【カルテル】はもともと高梨さんのことが好きだった。でも彼女が夏野さんと付き合ってしまったため、一週間ほど失踪したことがある。【戦車】によればバイトで貯めたお金で京都か三重のどちらかに行って目的も決めずただふらふらと過ごしたらしい。そこで【カルテル】は恋の弾むような気持ちと追随する苦しみすべてがどうでもよくなって、帰ってくるなり読んだことのない漫画を手当たり次第に買うようになった。ある程度読んだら、今度は漫画を描いてみようかなともいっている。打ちのめされるほど人を好きになれるのは誰にでもできることではないみたいなので、【カルテル】の描く漫画にはちょっと興味があった。
寮の【カルテル】部屋に着くと【カルテル】はお礼にと冷えていないレッドブルをくれた。それを飲みながらふたりでダラダラしていると、伏し目がち【カルテル】が「いきなりでキモいかもしれないけど」と前置きする。
「最近高梨さんが幸せならいいやって、ようやく思えるようになってきたぜ」
「おー」
「えらい?」
「えらいよ。キモくもない」
「やった。でも安藤、すぐてきとうなこというからな」
「なにそれ。状況次第だから」
「ははは。ごめん。本当は嬉しいけど、なんか嬉しいっていうのが恥ずかしいときない?」
「あるよ」
「でもおれは嬉しい」
「うん」
「高梨さんが幸せで嬉しい」
「うん」
「高梨さんがいい人で嬉しい」
「いいねえ」
「ただ夏野もいいやつなのが、なんかたまに苦しくなるんだよな」
「ほう」
「嫌なやつだったら憎めるのにな」
「なるほど。まあそういう気持ちもわかるな」
「安藤ってなんでもわかるよな」
「そんなことはないけどな」
「皮肉とかじゃないんだ。念のため。本当にそう思ってる」
「いや、わかってる。ありがたい」
「つまりそれって、安藤もこういう気持ちになったことがあるってことだと思うんだよ。いろんなこと感じていまここにいて、おれの話聞いてくれてるんだと思う」
僕は小さくうなずくだけにとどめる。
「安藤もつらかったかもしれないけど。でも。よく頑張った」
やっと【カルテル】は僕の目を見てくれる。そして「えらい」と、少しだけ我に返ったような、遠慮がちな声色でいった。僕はいつ笑おうかなとタイミングを見ていたところがあったのだが、やめる。
こうして高梨&夏野ペアに対する第三者委員会が発足された。
僕らは冬休みに入る。
お金がないからと帰省しない旨を実家に連絡し、特に予定もないまま部屋で寝て過ごす。急になにもかもが億劫になった僕は、みんなからの連絡に返事はするものの、会いに出かけたりはしない。定期的に訪れるコンディションだから、深く考え込んだりはしない。
僕はその夜も本屋に行った帰りに『ときわ』へと向かう。大学から十分ほど離れた住宅街にある定食屋で、老夫婦がふたりで回している。ラーメンセットについているライスに、ふりかけがかかっていることがなんかいいなと思っているんだけど、それを誰かに伝えたことはなかった。
食後のコーヒーを飲みながらコンビニ本の『範馬刃牙』を読んでいると、来店を告げるドアベルの音が響いた。僕の隣のテーブルに腰掛けたその人は、グレーのマフラーと、襟がコーデュロイ生地になった頑丈そうなオリーブ色のジャケットを脱ぐと、大きく息を吐き、こちらに向かって「どうも」という。
寺本さんだ。
「こんばんは」
彼女と話すのはあの夜以来で、僕はふと鼻歌のことを思い出す。
「鼻歌?」
「うたってなかった? 帰り道」
「あー……」と彼女は宙を仰いだ。「あんま覚えてないや。ごめんなさい」
「いや全然。なんか知ってる曲だったんだよな」
「あ、まって思い出した。でもわたしタイトル知らない。だって安藤くんがうたってた歌だし」
「どういうこと?」
「そうそうそう。あの飲み会よりもちょっと前かな。夜中、というか早朝か。あの最悪だった日、安藤くん見たんだよね」と遠い目のまま彼女は笑う。
「どこで?」
「道で。安藤くんの後ろ歩いてた」
混乱がまじって思考がいまひとつだった。
「あの茶色の服着て、歌ってなかった?」
思い当たるのは夏野さん家からの帰り道だ。ド早朝だと思って油断していたあの日の匂いがちょっとだけ蘇ってくる。
「恥ずかし」
「あはは」
「もっと早く教えてよ」
「あ、でも」と寺本さん。「だからわたし、あの飲み会の日初めましてっていわなかった」
僕はちょっとだけ考える。「いってなかったっけ」
「いってないよ」
「そうだっけ」
「全然覚えてないじゃん」
「そんな気もしてきた」
「てきとうだな」
僕の頭は、あの朝の匂いで満ち始めている。
本当はもっと長居したかったけど、邪魔になることがちょっと怖くて、彼女の味噌ラーメンが届いたタイミングで僕は会計に立つ。レジに立つおばあちゃんはレシートといっしょに手作りの割引券をくれる。僕はそれを財布に仕舞い、寺本さんのほうに会釈する。麵から立ち上る湯気の向こうで、彼女も小さくうなずいてくれた。
明日は雪が降るとの予報通り、一層深くなった冷たさが頬にかかった。なにもしたくないとか、面倒くさいとか、なにかいいことありますようにとか、そういうことばかりを考えて歩く。たぶんこれからもずっとこんな感じなのかもしれない。嬉しいとか怖いとか、いまは特にない。
部屋についてすぐにクローゼットを開け、夏野さんからもらったジャケットを取り出して腕を通した。下もスラックスに穿き替える。それから寺本さんにタイトルを伝え忘れたあの歌を口ずさみながら、台所の蛇口を少しだけひねる。シンク内には皿が溜まっていて、油の浮いた水にきれいな水道水が注がれ、澄んでいく様を、じっと眺めている。