MidnightInvincibleChildren

短篇『そこから先のあなたの自由』

 

※下記はコンビニプリント用ZINE『Midnight Invincible Children Vol.Ⅳ』(2023.12.29~2024.01.05)に収録されたものです 

 

 

 

 

 

 結婚指輪に何種類かある? みたいなことをマジで知らなくて話についていけなかったことがある。職場関係の飲み会で。いや、ついていけなかったって、そんな卑下することでもないか。どうでもよかったし。

 わたしは調剤薬局に勤めていて、年末なので病院さんの忘年会に誘ってもらったのだった。先生のおごりでフランス料理のコースを食べた。飲み物も頼み放題なので、シャンパンを頼んでみる。ほそいグラスで飲むからか、とても美味しかった。同じテーブルには看護師の横田さんがいて、その薬指にキラキラした指輪があったので結婚指輪ですか? とわたしがきいたら、エンゲージリングだといわれた。エンゲージリングってなに。婚約指輪のことらしい。婚約指輪と結婚指輪ってちがうんですか。ちがうらしい。へえ、そうなんだ。そのままわたしは黙った。不用意なことをいって、しらけさせちゃったらまずいだろうなと思ったからだ。

 

 このあいだも優子から結婚式へのお誘いがあって、断ったばかりだった。報せを受けたところで、おめでたいのかもわからない。だって……結婚って結構グロいことも多いし……わたしのおめでとうが誰かの絶望の一端を担うことになるかもしれない。一応おめでとうとは伝えた。幸せであるなら、それ以上のことはないわけだし。命の恩人がこないなんてさあ……と優子はかなり粘っていたが、わたしがそういうのに屈しないってのもたぶんわかってくれていて、また今度飲もうねといってくれる。今度飲むにしても地元に帰る気はない。優子が東京に遊びに来るんであればいいけど、結婚すると、そういうのもやっぱしづらくなるもんかい。

 

 わたしは払わなかったご祝儀分散財してもいいことにして、日比谷に映画を観に行って、その日見つけたコートを買い、ファミレスの四人席でひとり、ワインをデカンタで飲む。ふと思い立ってご祝儀について調べてみたら、出席できなくても渡すべきみたいな記事が出てくる。醒めるわ。コート買っちゃった。しかしよくよく調べてみれば、不参加での相場は一万円だとも出てくる。なんだ一万か。えーでも一万か。百円の百倍か。一円玉だと十キロ分。まてよ。そもそもこういうのって誰が決めたんだろう。

 わたしは以前勤めていた会社でマナー研修会というものに参加させられたことがある。いまになって思えばあのとき教えられたことは全部嘘で、よくわからないマナーを生み出し、それを押しつけるというマッチポンプで生活している人たちがこの世にはいて、そのくせ妙にハイというか、威丈高だということを学んだ。むなしくなった。そもそもマッチポンプという言葉の意味を理解したきっかけもマナー講師だった。この社会はこんなしょうもなさを放置しているのか。叩き潰せよ。やってるほうも、叩き潰されるまでもなくそんなしょうもないことするなよ。笑えることしろよ。人に恐怖を植えつけてもてあそぶなよ。世間の無関心につけ込むなよ。

 

 高校のころ学校で大規模な事件があって、生徒の半数以上が病院に運ばれた。ふたりの生徒のささいな喧嘩がそれぞれの派閥を巻き込んでの衝突となり、文化祭準備期間のゆるっとした空気に殺気がふわっと広がってそれははじまった。一部の生徒が敵対グループの子を襲って大けがをさせ、その反撃にと関係ない生徒まで加勢して事態がエスカレートし、あちこちで物が壊され、襲われた先生たちは日頃の過重労働も祟ってか職員室内にバリケードをつくって籠城してしまい、警察が駆けつけるまでの数十分間、学校は無法地帯となった。わたしも違うクラスの男子を突き飛ばして窓に突っ込ませて大けがを負わせた。優子の髪をつかんで引き倒そうとする後輩女子の手首を落ちていた文鎮で叩き折った。混乱に乗じて誰彼かまわず殴って楽しんでいた先輩を背後から襲って静かになるまで蹴り続けた。わたしはその先輩のことをずっといい人だと思っていた。実際、いい人だった時間はあったのだと思う。あの空間での選択が、その根拠となる認知がそれぞれ異なっていただけで。だけ? わたしはいつもそこに引っかかる。わたしはこうやって、諦めながら振り返っている。

 事件のきっかけとなった二人のうち、片方は親友だった。

 親友。

 当時はなんの抵抗もなく使えていた言葉だ。

 安全圏となっていた屋上のドア越しに、彼女はいった。

 

「わたしの勝ちだから」

 

 それがみっちーと交わした最後の言葉だった。

 わたしは「あっそ」とだけ伝え、階段をおりた。

 

 刺すように冷たい風を浴びながら買ったばかりのコートを羽織る。タグは切ろうか? いまはそのままでいい。スーツを着た若い男の人たちがビルを背に大声で笑っている。道に広がっていてすぐそばを通るのが億劫で、そんなに車通りもなかったから車道に出て、歩道との境界線を綱渡りみたいに進む。

 

 わたしと優子はアルミのシートを羽織って運動場のすみっこで温かいココアを飲んでいた。西日さすなか、グラウンドには何台もの救急車やパトカーが停まっていて、教職員用駐車場からは黒煙が上がっていた。ずいぶん前から、報道ヘリの分厚い音が肌を叩き続けている。震えが止まらないと優子がいうので、こっちに入る? といってわたしと優子はくっついて、そのうえから一枚のシートでくるまった。優子の体は本当に震えていて、なんかわたしまで震えているみたい、といって笑ったら、優子はわたしに密着していた体をちょっとだけ離し、どん、と体当たりした。紙コップのなかのココアはもう少なかったので、波打つだけですんだ。ぶつかり優子だ、とわたしがいうと、優子の震えのリズムがちょっとだけ変わって、彼女は顔をクシャクシャにして泣いていた。いや、笑っていたのだ。両方だった。

「みっちー、駅でぶつかりおじさんにぶつかられて転んだって」

「いってたね」

「嫌なことばっかりだったんだと思う。ずっと怒ってたんだよ」

「うん」

「それが今回の原因だっていいたいわけじゃないけど」

「わかってる」

「でも無関係じゃないよね。無関係でいられるものなんてないよ」

「うん」

「疲れたね」

「ね」

「たぶんこれ文化祭無理だよね」

「たぶんね。誰も気分じゃないよ」

「打ち上げのお店予約してたんだけど」

「あ、そうなの?」

「電話しなきゃ」

「ありがとう」

「いや、キャンセルするの」

「ううん。予約してくれてたこと。ありがとう」

「そっちね」

「そっち」

「ねえ。これおかわりありかな?」

「あ、いいよ。もらってこようか」

「わたしもいく。おー腰いってえ」

「うおー立ちくらみ」

「誰も死んでないといいな」

「ね。切に願う」

 そこに他のクラスの子が走ってくる。屋上からなかなかおりてこないみっちーに呼びかけるため、警察が仲のいい生徒を探しているとのことだった。優子は反射的に走り出した。それからふと立ち止まって、一歩も動いていないわたしのほうを振り返った。西日が強くて、優子はもう半分消えているみたいだった。わたしが小さく首をふると、彼女はうなずいて、騒がしさの残る校舎のほうへと消えていった。

 どっちが無意味なんだろう。

 いまはなにを優先すべきなんだろう。

 やっぱりまだ間に合ったりするのだろうか。

 強い鼓動にふらつきながら、わたしは考えている。

 

 十年経っても考え続けている。

 

 風に吹かれるたびに、肌の熱を自覚する。

 おなかも温かい。

 幸せだ。ずっと後ろめたい。

 でもこの後ろめたさの純度には疑念があり、本来なくてもいい押しつけも混じっている気がするのだ。そんな濁りと闘って、純度の高い後ろめたさをわたしは手に入れてみせる。ちょっとずつ透き通って見えてくるもの、それはたぶん、この世界での日々を心から楽しむことはないってことかもしれない。別にそれでいい。これから先も、理不尽にでかい顔させる気は毛頭ない。もう二度と「あっそ」なんていわない。