書き下ろし短編:『式では泣かないタイプです』【後編】

 

 

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 我が文芸部の部室のドアには、星のカービィのシールが貼られている。ボロボロになって腐敗の進んだゾンビみたいなやつで、一年のころに先輩に聞いたところ、先輩の先輩の先輩の代からずっとあったものらしい。ドアに貼られているので毎日目にしているはずだけど、僕は改めて目の前に立ったとき、そいつと偶然出くわしたような妙に懐かしい気分になった。廊下では吹奏楽部の他に軽音楽部の練習する音が響き渡っていて、立ち止まればビリビリと肌が振動するのがわかるが、その中でまたしても僕はぼーっとしている。なにかを掴みそこねている感覚がずっと付きまとっていて、もどかしいし億劫だった。
 不思議。

 重いドアなので表面に肩を押し当てながらノブをひねりかけた僕だが、隙間ができるか否かのその瞬間、扉の奥から微かに人の声が聞こえたかと思うと、無意識のうちに身体を硬直させ、耳をすませていた。なんだか盛り上がっている。会話? そう思ったけど違う。なにかを歌っているのだ。僕はその邪魔をしたくなくて、ドアを開ける次のタイミングを待っていて、せっかくだからとドアに両手と耳を当ててみる。この声はなっちゃんのものか? 桐子もいるのかもしれない。手拍子まで聞こえる気がした。なにかの合唱曲か歌謡曲いきものがかり西野カナっぽいメロディが続き、やがてわー! と拍手が沸くので、僕はそのどさくさにまぎれてドアを勢いよく開ける。
 八重子教諭が卒倒しそうなほどの熱気が漏れ出してきて、いっきに僕の体の前半分を湿らせるように撫でていった。
 僕はようやく気づいた。
 なんかちょっとビビっているのだ。

 

 部室には予想した通りなっちゃんと桐子、その他に久留米と、なんと照本肇までいて、彼は部室に常備してある安物のサングラスをかけ、カーディガンをディレクター巻きしている。坂本の姿はなかった。僕がなにかをしゃべりだすよりも先に「なんだよその格好」と言ってきたのは久留米だった。相も変わらず真っ黒で動きの乏しい目をしている。声の抑揚も乏しいが、合唱の直後だからか、どことなく紅潮しているようにも見える。
 照本肇がサングラスを外しながら「まだ見つかってないのか!」と満面の笑みを見せるなか、僕は腰に手を当て、俯き、考える。学ランもない。肝心の坂本もいない。全身に力が入っているので妙に緊張しているような気分だったが、単純に寒いのだった。
「ほらほらドア閉めてくださいよ」
 桐子に促されるまま扉を閉め、しばらくその場に立ち尽くしていた。じゃあ僕はこれからどうするべきなんだっけ?
「泣けてきた」となっちゃんがなんらかの文脈で突然つぶやいた。奇遇にも僕もまったく同じことを思っていた。彼女はペンをもち、その尻でおでこをかいている。今日はコンタクトの日だ。
 横で落ち着きなく腕を組んだりおろしたりしていた照本が、とつぜん「あ、そうだ」と言い、肩にかけていたカーディガンをするりと外す。
「安藤、これを着たらいいよ」
「え? 大丈夫だよ別に」
「いいから。からから。学ラン見つかったら返してね」
「照本、寒くないの?」
「いや。おれには学ランあるし」
「あそうか。ありがてえ。いつまで借りてていい?」
「明日とか? どうでもいいよ。そういやこのマフラーは自分の?」
 明日は土曜だよ、と思う僕が「これは加藤が貸してくれた。ほら、知ってる? 二組の」と言うと照本肇はパン! と顔の前で手を叩くのでちょっとびっくりする。
「もしかしてあのハンサム?」
「そう」
「あ、それ加藤くんのなの?」となっちゃんがパイプ椅子の背にもたれ、ギュイイイ、と鈍い音を立てた。「厳密には、加藤の妹のだけどね」と僕が言うと、「加藤の妹ってあの?」と久留米。スマホを触っている。「そうそう」と答える僕は改めて照本肇にお礼を言い、「二つの意味で恩に着ます!」と言いながらカーディガンを羽織った。意味があまり伝わらなかったようで一瞬固まった照本は「構いません!」と敬礼。そんな僕らを見てなんだそれ、という顔をしていた桐子だったが、「加藤さんって妹いたんですか?」と机に肘を立てながら訊ねる。
「うん」
「へー」
「美少女中学生なんだ」
「えーうそ。でもぽいぽい。加藤さんも女装似合いそうですもんね。だってほら」
「ん?」
「見た目がこう……なんだっけ。フェ……フェフェフェフェフェ」
「どうしたんだよ」
「フェから始まる言葉」
フェラチオ?」
「死ね」
「もしかしてフェミニン?」となっちゃんが言うと
「あ~それ! フェミニンな感じありますもんね」
「それめっちゃわかるかもー」
「ああそっちか」フェミニンの意味を僕はよく知らなかった。
「なんかね、ユニセックスというか」と桐子が続けるので「今度こそ下ネタじゃん」と僕が言うと、彼女は「下ネタじゃねえよ馬鹿」と眉と眉の間に大きなしわをつくった。
「学ランもねえくせに」
「あんなもん、ふたつもいらないのにな」と言いながらソファーの久留米が脇によってくれるので、僕は敷き詰めるようにその隣に座る。「盗まれたかどうかも謎なんだ。謎が謎を呼ぶよ」
「坂本に聞けば?」
「ああ、そうそう。それなんだけど、あいつ今日きてないの?」
「きてない」
 だよね。
 一息つこうとの思いは満々なのだけど、空のペットボトルや借りっぱなしの本、落書きだらけのルーズリーフやA4サイズのコピー用紙で埋め尽くされた机の上を眺めていると、渡部先生の声が蘇ってくるので僕はちっとも落ち着かない。掃除か~。掃除もしなきゃならないんだったな~。もしこれで坂本が学ラン持ってなかったらどうすんだ、と僕はどんどん心的ぬかるみにはまっていくのだった。
 ずっと考えないようにしていたけど、サッカー部でもないのなら、本当にまだ進路が決まっていない誰かが僕を攻撃していることになってしまう。となると容疑者は三年生の半数以上だ。今夜は眠れなくなるだろう。そうなると日中眠くなる。自習時間に僕がウトウトしていようもんなら、あいつは進路が決まってるからいい気なもんだね、死ねばいいのに、とか思われるんだろうし、そういうのって思っている以上に空気にのって肌を刺してくるものだ。でも明日は土曜日か。あ、よかったよかったと一瞬僕は思うけど、まだ安心に足るほどではないのだ。たとえ明日が土曜日だとしても、土日の夜ふかしはいつものことで、月曜まで寝不足を引きずる可能性は充分にある。
 オナ禁しようかな。
 なんて自ら不安がることで免罪符を得ようとしているしみったれた逃避に興醒めした僕だが、とはいえこれまでの抑圧からくる反動を理由に最後の最後で仕返しの意味も込めて意図的にはしゃいで見せるんじゃなかった、と心から思い始める。どう考えたって悪手だった。そんな自分の浅ましさにはもう涙すら出ないが、ひどく思いつめてるかといえば実のところそこまで本気にもなれなくて、もうどんな理由で、犯人がだれであろうとかまわないから、学ラン返してくれないかなあ、なんて僕は思う。神様。
「安藤、図書館いって『火の鳥』読まねえ?」
 唐突に隣の久留米がそう言うが、まったくもって気分じゃなかったので、「いまからか」と発したっきり黙っていると「そこまで嫌がられると逆に新鮮だな」とやつは呟いた。いや、嫌ではないんだよ。今じゃないだけで。と口に出せばいいのに、僕は笑うだけでなにも言わない。久留米は「おれひとりで行くわ」と独り言を漏らした。みんなは「そういや桐子ちゃん久々に部室いるね」という話をしている。
「練習の順番待ってるんですよ。軽音の」
 頬杖をついた桐子が満更でもなさそうに言う。
「ああ、それでか」
 僕がつぶやくと、「え?」と桐子が椅子を回転させこっちを向いた。
「いやほら、みんなで歌ってたじゃん」
「ああ、うん。聴いてたんですか?」
「外まで聞こえてたよ」
「えー! ずっと聴いてたんですか?」
「まあ途中からだけど」
「ドアの前で?」
「そう」
「変質者じゃん」
「遠慮したんだよ」
「安藤くん、入ってこればよかったのに」となっちゃんが本当にそう思っている感じの口調で言うので、桐子が笑う。僕は腰を浮かせると机の上のティッシュを一枚手に取り、鼻をかむ。
 ブ、ズボー! 
 で、思い出す。
「あ」
「え?」
「そういやなんか桐子に言わなきゃならないことがあったような」と僕が言うと「え、なになに」と彼女はみんなの顔を見る。みんなも彼女のことを見て僕を見る。
「いやいや、そう構えることじゃないよ」
「はい」
「最後にまた文集つくるんだ。これはごめん、もう決定事項なんだけど」
「ん?」
「卒業文集ね」
 そう口にした瞬間、隣の久留米と目が合った。なぜか久留米も「え?」という顔をしている。
「そりゃまあ、時期ですもんね」という桐子は、拍子抜けしたように口角だけを持ち上げる。「でもそういうのはもっと早く、ねえ。言ったりするもんじゃないんですか」
「ごめん、一昨日くらいに決めたからさ」
「いやいや、例年の流れってやつがあるんじゃないんですか」
「まさにそうなんだけど、それを思い出したのが一昨日で」
「だったらせめて一昨日の時点で言うとか」
 ぐうの音もでず。
「安藤さんしっかりしてくださいよ」
 あれ、なんか今日はそんなことばっかり言われてるなあと思っていると、隣の久留米が「あ、くそ」と言ってスマホを自分の腿に放り投げる。「電池切れた」
「充電器使えば」
「つなぎっぱなしにしてないとすぐ切れるんだけど、このソファーコンセントから遠いんだもん」
「だもん、じゃないよ。もう機種変しろよ」
「うん。四月になる前までには」
 僕らの会話を黙って聞いていた桐子が急に「あ、てことは後藤先輩も書く?」と言う。なっちゃんはしばらくなにかにペンを走らせたあと、「ん?」と顔を上げて辺りを見回した。そういやなっちゃんはさっきからなにを書いているんだろう。スプリングのいかれたこのソファーからじゃ彼女の手元が見えない。
「なにか書くのかって」照本が改めて伝えてやると「ああ、書く書く」となっちゃん
「おー! 後藤さんの小説また読めるんだ。超いいじゃん」
「え、そう? へへへ。そんなに?」
「後藤さんのが一番好きですよ」
 微笑むなっちゃんは目を細めたまま腰をねじりだした。以前にも、照れると体操を始める癖があると本人から聞いたことがある。
「ありがとう。がんばるね。や、いつも手を抜いているわけじゃないんだけどね」
「ところでなに書くとかは決まってます?」
「いや全然」
 む。ここは部長としてひとこと言わなければ、と思った僕が「過去作の続編書けば?」と提案してみる。そのくせ肝心の名前が出てこない。自分のこういうところが嫌いだ。「例えばあれとか。えっとなんだっけ……ちょっと待ってね」
「『毒婦』?」
「そうそう、あと、もうひとつまえの」
「『でかいちわわ』?」
「それ!」
「ええ、難しくない?」
「まあ、あくまで提案なんだし、そっちが決めてよ」
「えー適当」
「これ、みんな間に合うのかよ?」と久留米が固い目元をそのままに笑ったので、「浅野はもう書いてるんだよ」と僕はポケットからルーズリーフの筒を取り出してみせる。照本以外のみんなが漏れる声に各々の感情をのせた。
「出たよ、浅野のやろう」
「はやすぎでしょ」
「やめろやめろ、正しい人を責めるな」と言う僕は僕で、部長のくせしてなにも書いていなければ案もない。言わなくてもいいことは言わない。
「だから桐子ちゃんには急で悪いんだけど、もしストックとかあれば出してほしいんでさあ。もちろんこれから新しいやつ書いてくれても大歓迎だし」
 桐子は椅子の背にもたれて腕を組む。それから首をかしげ、自慢のボブヘアーを揺らしてみせた。いちいち溜めるところが面倒なやつだ。
「がんばります」
「さすが」
「ふふふ。わたしも一応部員ですから」
「軽音のスパイなんじゃないの?」
 僕と久留米は彼女のことを影でゼニア・オナトップと呼んでいた。『007/ゴールデン・アイ』に出てくる股の力がすごい悪女だ。深い意味はない。
「まだ言いますかそれ。かけもちでもいいって言ったの安藤さんですよ」
「まあね。校則でもそうなってるし」
「加藤は喜んでたけどな、桐子の設定。峰不二子っぽいから」と久留米が言うので、ああ、それもあったわ、と僕は笑う。「いいね。いや、やっぱうぜえな」
「え。峰不二子ってだれ?」と顔をしかめる桐子に、「でも桐子ちゃん、忙しくないのかい」となっちゃん、ペンを置いて背伸びする。セーラー服の裾が上がって、キャミソールの薄い生地が覗いた。
「いや全然ですって。わたし受験生じゃないですし」
「でも軽音部の練習はあるんでしょ?」と僕。「あ、これはぜんぜん皮肉とかじゃなくてさ」
「あるけど家帰ってから書けばいいじゃないですか」
「ええ、マジで? 過労死すんなよ」
「思った。おれには無理」と久留米も続く。
「でもわたし、んな大したもの書かないですもん」
 ピュ~。言ってくれるぜ。僕と久留米が肩をすくめると桐子はそっぽを向いてしまう。
「そうだ桐子ちゃんさ、ちなみに小説じゃなくて、詩とかでもいいからね。大歓迎だから」
「ならストックもありますし、絶対死なないっすね」
「いいね。日記とかでもいいし」
「それは書いてないです」
「ほんとは?」
「書いてねえよ」
「なんかいいなおまえら」腕を組んだまま突っ立っていた照本が、とつぜん口を開く。
「おれ正直なにやってるか知らなかったんだけど、めっちゃ楽しそうじゃん」
 みんなが黙った。褒められた際のリアクションをきちんと用意することなく生きてきたからだ。野球部である照本にそう言ってもらえたその幸甚と、同時に押し寄せてくる「本当にそこまでだろうか?」という非現実感に戸惑っている。
 一足先にまあいいやという脳内麻薬を分泌させたなっちゃんが照れを滲ませ「ありがとう」と低い声で笑うと、その声に便乗して久留米も笑った。僕も久留米に倣って顔面を弛緩させながら、それでいて妙な焦りを覚えつつ、ソファーから立ち上がる。
「照本氏ってなにかつくったりするの、興味ある?」
「いや、どうなんだろ。考えたこともない。でも楽しそうだなとは思う」
「じゃあ、文芸部、入る?」
 僕の言葉に照本が目を見開いた。
「マジか!」
「どうよ」
「あ、マジで? マジで言ってる?」
 ここで久留米が「ふきだまりだけどな」などと言い出さないか、僕は内心不安だった。それは桐子が入部する際に発された一言で、「上等ですよ」と答えた桐子は、たまたまそういう煽りを楽しめる人間だっただけかもしれないじゃないか。僕は喋り続ける。
「超、歓迎するけど。卒業まであとちょっとだけど」
「いいじゃん入っちゃいなよ照本先輩」と桐子が拍手をする。「歓迎、歓迎」となっちゃんも続く。「去年入ればよかったのに」と久留米も拍手をするので、照本はいきなり天井を仰ぎ見たかと思うと、強く目をつぶる。そして開く。
「なんだよおまえら。おれだってもっと早く仲間になりたかったぜ!」
 胸に込み上げるものがあった。その熱はついには頬を染め、頭頂部からスポン! と抜けていった。僕は腐っても部長ということで、照本と熱くハグを交わし握手する。桐子がスマホを構えているので、僕と照本は握手したまま体を斜めにし、シャッター音を待った。画面を確認してうなずく彼女は、ふいに口をひらく。
「ふきだまりへようこそー!」
 僕が桐子をどんぐり眼で見つめていると、軽やかな口調で「あ、ごめん、ふきだまりってなに?」と照本が言った。彼がそういう言葉と無縁で良かったし、これからもそうあればいいなと思った。
「いい、いい。気にしないで。ようこそ照本氏!」
「あは、あははは。よろしくお願いしますです」
「残りちょっとだけど思い出たくさんつくろうな」
「つくるぜマジで~。あ、てことはおれもなにか書いたほうがいいかな?」
 真剣な目で尋ねる照本。この目を見てごらんなさい。僕は久留米にそう言ってやりたかった。
「そうだね。小説に限定せず、エッセイでも詩でもなんでもいいよ。一番大事なことは、照本氏の思いを表現するってことだから。なんにせよ、気を張らず気を遣わず、楽しんで書いてよ」
「おお……」
 照本は意を決した様子で喉を鳴らしたあと、言った。
「実はおれ日記書いてんだ」

 

 日は暮れかけていた。
 あと十分もしないうちに夜に飲まれてしまうようなそんな気配が窓から忍び込んでくる中、照本に過去の文集一式を渡していると、不意にドアがノックされる。あれ、いまなんか音した? とみんなで固まっていると、ドアが勝手に開き、その隙間から知らない女子が顔をのぞかせる。
「失礼します。島崎さん、います?」
「あ、はーい」と桐子が応えると、その女子は「あ、もうちょっとで部室空くみたいよ」と言ったあと、「失礼しました~」と静かにドアを閉めた。視線を移せば、桐子がその細い腕に荷物を次々とかけている。
「じゃあわたし行ってきますねー。ありがとうございました」
 誰もなにも言わなかったが、なぜかみんなで立ち上がる。我が校きっての英国紳士たちだ。彼女は最後のカバンを肩にかけると「先輩たちの新作、楽しみにしてますからね」と部室内のみんなに向けて言った。そんなこと言われたのは初めてだった。桐子は人の作品に本気で蹴りを入れられる人間だったし、僕も何度か痛い目を見ていたので、どちらかといえば、みんなを身構えさせることが多かった。
 例えば僕が去年の文化祭用の文集に載せた『てんてこ舞のすっとこどっ恋』は、ウラジミール・ソローキンの短編集『愛』の真似をして変なことをやりたい一心で書き殴った魂なき一作で、何行にも渡る単語の羅列や三点リーダの多様を用いて主人公「舞」の恋煩いを描いたのち、脈略のない猟銃自殺で幕を閉じるだけの短編だったのだけど、自分でも三度読み返すのが限界で、普段はもっぱら忘れて過ごしていたというのに、後日部室で鉢合わせた桐子が
「なんか、そう、あれはなんだろう。『おふざけ』だけで『遊び』はなかった感じでしたね。いや、わかんないですけど。でもふざけて書くのって正直誰にでもできるじゃないですか。まあなんというか『おどけ』っていうんですか? まあいいんですけど、今度はちゃんと『おどけ』とか『おふざけ』を『遊び』にまで昇華させてるやつか、それかもう本気で、安藤先輩の強く思っていること、感じてることを注ぎ込んだ、熱とにおいのあるやつを読みたいですよね」
 と言ってきたので、え! なにいまの! どうしようリアクションできない、くそ~桐子め、という気持ちになり、まあ実際はソファーに沈み込んだまま目を伏せて「熱とにおい……なるほどね」とつぶやくことしかできなかったのだけど、それ以来自分の得意技であった「猟銃自殺」を封印せざるをえなくなった。
 怖くなったのだ。
 桐子の揺れるボブヘアーを眺めながら、だからこそ今回はなにを書こうかな、と僕は考える。これまであまりにもぼーっと過ごしていたが、途端にいま考えなきゃならないことが山ほどあるような気がしてならない。いや、なにも考えなくていいときなんてそもそもあるのか? これはやばい状況なのだ。僕は羅列してみる。
 学ランを見つけること。
 帰って小説を書くこと。
 卒業までのこと。
 四月までのこと。
 四月からのこと。
 ……。
「あ、そうだ安藤先輩」
 ドアの向こうに消えたはずの桐子が、その僅かな隙間をこじあけ、上半身だけを覗かせている。
「なに? あ、締切?」
「あ、そうそう。いつ?」
「そんなに部数刷るわけじゃないし、二月の中旬なんてどうでしょうか」
 僕が視線を向けると久留米も肯く。なっちゃんも。照本は「お~中旬か~」と言いながらひとりはにかんでいる。
「了解です。それじゃあ、書いてきます」
「よろしくお願いします。メールでもいいし、おれに直接持ってきてもいいから」
「了解です」
 扉が閉まり、僕はみんなの顔を見回して、「というわけだから、よろしくおねがいします」と言った。
 それからついでに渡部先生から掃除を命じられたことも伝えた。
「ああ、たしかに」
 と机の上を見つめるなっちゃんの手元に広げられている数枚のはがきが目に入った。よく見るとそれは年賀状で、僕は混乱する。
「え、なっちゃんもしかして年賀状書いてた?」
「え、そうそう。お返しのやつを」
「一月終わるけど?」
「ね~。もっとはやく書けたらよかったんだけど……進路のこととかでバタバタしてたし」
 ふうん、そんな感じね。とりあえず肯くと、なっちゃんも肯いた。
 照本は過去の文集を捲っていたし、久留米はようやくソファーから離れ、スマホに充電器を挿している。
 そんなみんなを見て、いや、厳密にはさっき桐子が椅子から立ち上がって、みんなも立ち上がったそのときから、僕はかすかな立ちくらみに併せて、まどろみのような、意識の中で曖昧にゆらめく部分が気になり始めていた。
 そのときの僕はふと強烈に予感していたのだ。
 いずれこの瞬間のことを懐かしむ時が訪れることを。
 これまでのあらゆる過去にそうしてきたように。
 反射的にその直感を誤魔化そうと、無意識に手を伸ばした先には図書館の本がいくつもあって、その一番上がジョン・ミルトンの『失楽園』で、教養をつけようと借りたままとうとう読破できなかったなと思う僕はその返却日がとっくに過ぎていることにも気づく。ほかに積まれている本も、坂本とか久留米とか浅野とか加藤とかなっちゃんとか桐子とかが適当に借りてきたまま放置しているもので、いい加減返却しなきゃ、図書室の舞先生は絶対僕らのことをブラックリストに入れてるし、なにか言われちゃうんだろうけど、でもこれ以上の先延ばしはもうやめなきゃならない。部室のすみに転がっていたダンボールを手に取った僕は、その中に一冊ずつ本を入れていく。
「あ、返しに行くの?」となっちゃんが言う。僕は彼女の手元に広げられた年賀状のお返しの中に、自分宛てのものがあることがちょっと嬉しい。
「わたしが返しとこうか」
「いやいや、いいよ。いつもこういうの、なっちゃんやってくれてるじゃん。おれ教室にかばん取りに行くし、ついでだから」
「あ、じゃあおれも途中まで行こうかな」と照本が言った。今日はもうそのまま帰るつもりらしい。久留米は再びソファーに沈んだあと、二人いれば十分でしょ、と言った。いやおまえさっき『火の鳥』読みに行こうとか言ってたじゃねえかよ。でもこういうとき、久留米は本当についてこない。テスト前に「全然勉強してねえわ」と言って、後日赤点をとった問題用紙を堂々掲げるような男なのだ。
「よろしくな」
 そんな久留米になっちゃんが笑う。
 陽はとっくに沈んでいて、夜を背にした窓に部室内が鮮明に映っていた。

 

 浅野の原稿の最後の一枚には「あとがき」と称された文章が載っていた。三年間の活動に対する感慨から始まり、糧となったもの、反省点、今後の目標などが抜かりなく記されていた。それを読み、さすがは中学の頃より読書感想文で外したことのない男だ、と僕は思うのだが、最後の最後で出てくる一文だけはやや趣が違った。

 そこにはこう書いてある。

 

『これからもくだらないこと大袈裟にしながらクソッたれな大人になっていこうぜ』

 

 図書館前まで付き合ってくれた照本に僕は礼を言う。
 カーディガンと、部員になってくれたことも含めて。照本は改めて「学ラン見つかるといいな」と言ってくれる。
「見つけてみせるぜ。卒業式で恥かきたくないし」
「あー、そうか卒業式かー。ほんとすぐだな」
「はやいよなあ」
「あ、安藤は今日、塾いかないでしょ?」
「あー。うん。でも来週は行こうかな。またマックで……そうだよマックで小説書こうぜ」
「お! お! それいいな!」
「じゃあ来週はそれだから!」わははと笑う僕と照本のスキンシップはエスカレートする。肩、腕、腰、腿、お尻。
「それじゃあおれは帰るぜ! 今日はマジでありがとう、安藤部長」
「よせやい、こちらこそありがとうだぜ」
 気をつけて、と手を掲げる僕に、照本は角を曲がるまで独特なステップを踏み続けてみせた。
「なにそれ!」
 僕が大きな声でたずねると、角の向こうから「オリジナル!」という彼の声が響いてきた。

 

 僕は足元に置いたダンボールを再び抱えて図書室へと入っていく。
 舞先生がカウンターの中でパソコンを打っている。目が合うと、その太めの眉が持ち上がった。
 カウンターにダンボールを載せて、すみませんが……と事情を説明する僕に、舞先生は「ちょっと部長さん、頼みますよ」と苦笑してみせ、本を一冊ずつ取り出してはバーコードを読み取っていく。
「あ、『失楽園』ある。これちゃんと読んだ?」
「一応、冒頭くらいは」
「えー? そこは頑張ろうよ。面白いのに」
渡辺淳一の方は読みましたけど」
「ははは。どっちも安藤くんしか借りてないんじゃない?」
 思っていたよりも怒られなかったことに安心している自分がいた。これじゃいかんと最後に改めて「申し訳ありませんでした」と頭を下げる。舞先生は「許しません」と断言した。
「今後はちゃんと返すなり延長手続きするなりしにきなさい」
「はい」
「そんな安藤くんももう卒業か」
「そうなんです」
「はやいね」
「まだ実感はありません」
「そんなもんだよ。もう文集作んないの?」
「あ、作ります。これからなんですけど」
「えーこれからは遅くない? 間に合います?」
「あー、もう、それはご心配なく。みんな優秀なんで」
「ははは。そういや安藤くん、大学決まったんだってね」
「おかげさまで」
「おめでとう。大学でも書くの?」
「んー……どうですかね。やるやらないってあんまり考えたことないんですよ」
「へえ、そうなんだ」
「書きたきゃ勝手に書くって感じなんで、わかんないですけど」
「そっか。登山家みたいだね」
「え? あ、山があるからのぼる的な?」
「そうそうそう」
「でも確かに書きたいことがあるからってのが一番の理由でしょうね。口じゃ言えないようなことでも、おおらかなんで。話って。嘘だし」
「先生もそう思う。ある程度はね」
「ある程度?」
「うん。でもまあ、いずれわかるよ。あ、別に不自由なもののことを言ってるんじゃないから、そう身構えないでね。もしかしたらもうとっくに気づいているのかもしれないし。とにかく安藤くんは、楽しむといいよ」
「あはい、ありがとうございます」
 舞先生の視線が僕の背後に移り、振り返ると本を手にした一年っぽい男子が立っている。僕は「ありがとうございました。失礼します」と頭を下げ、カウンターを離れたが、出口には向かわなかった。なんとなく図書室内を見て回りたかったからだ。
 でもすぐにやめる。

 並べられた長机の一番奥に、町山りおの姿を見つけた。

 

 ピュ~。

 

 僕がダンボールを抱えたまま振り返ると、出口のところに坂本がいて、なぜか中腰で、こいこいと手招きをしている。数年ぶりに会ったみたいな気分だ。僕が近寄ると、「まったくおまえは捜すと見つからないリモコンのような男だよ」と坂本は言った。やつは僕のスマホに大量のラインを飛ばしてその返信を待っていたのだが、充電の持ちが悪いために諦め、たまたま見かけた町山さんを張ることにしたらしい。
「なんでだよ、普通に部室こいよ。確率的に考えても」
「まあな。でも町山さん張ってた方が確実だと思って」
「なんだこいつ、馬鹿にしやがって」
 僕らはダンボールをバキバキと潰して購買裏の焼却炉まで持っていく。結局坂本は学ランを持っていなかったし、なくなったことも知らなかった。僕はサッカー部の犯行説を話してはみたがたぶんそれはないみたいだし、消去法でおまえが犯人だと思っていたことを正直に伝える。坂本は、おまえの学ランなんていらねえよ、なっちゃんの制服ならネットで出品できるけど、と言った。オタサーの姫は確立されたひとつのブランドらしい。それいいな。お願いしたら卒業後譲ってくれないかな、でもうちはオタサーじゃなくてふきだまりだからな、そうだな、と話す僕らが中庭を歩いていると、図書室の窓から明かりが漏れていて、ついつい視線が誘われる。町山さんの姿が、まだそこにはあった。
「塾行くまではここで勉強してるんだってよ」
 と、僕の隣で同じように腰をかがめる坂本が言った。
「は? なんで知ってるんだよ」
「さっき聞いた」
「話したの?」
「ちょっとだけ。おまえ現れるまで暇だから」
「すごいなおまえ」
「おれはそういうのできるタイプだから」
「そういうタイプだもんな」
 僕は膝に手を置いたまましばらく黙って、「なに話したの?」と聞いてみた。本当なら勝手にどんどんしゃべってくれた方がありがたいのだけど、こういうときの坂本は本当に気が利かないのだ。
「なにってべつに、世間話。進路の話とか」
「おまえが進路の話って」
「町山さん、東京の女子大いくから一浪覚悟してるみたいなこと言ってたよ」
 なんだよそれ。
 僕はそんなことまったく知らなかった。妙に親密な会話なのも気になる。打ちひしがれる僕は、坂本をさらに促す。
「ほかには?」
「なんだよ。もうないよ。あ、でも町山さんおまえのこと話してたよ」
「おい、ちょっと! ちょっとまてよ」
「マジで」
「うそだろ」
「うそじゃねえよ。文芸部のみんな、進路決まってるのすごいよねって。おまえも含めて、文芸部のみんな」坂本は円を描くように、人差し指を大きく回した。
「うわなんだそういうことか。いやでもすごいよ。くそーマジかよ」
「話しかけてこいよ」と坂本。
 ん? と思う僕はまた黙り、坂本も黙り、ふたりで暗がりから町山さんの後ろ姿をじっと眺める。
 どうしようかな。
 僕はこの三年間で総計しても、かれこれ一分程度しか町山さんと言葉を交わしたことがない。「あ」とか「うん」とか「そうです」「わかりません」くらいだ。彼女の瞳は色素が薄く、虹彩がくっきり見えることにも最近になって気がついた。なにをどういう風に話していいのかがわからないという点で言えば、町山さんもサッカー部の清なんかと大して変わらないんじゃないかとすら思う。
「いや、やめとこう」
 僕は言った。
「安藤それはないよ、話しかければ意外としゃべってくれるって」
「そうかもしれないけど」と言う僕の気持は、意外と揺らいだりはしていない。
「ビビるなよ。どうせもう卒業なんだからいくらでも恥かき放題だろ。一組の川谷なんて今年に入って五人に告ってるらしいし、そんなのに比べたら話しかけるくらいなんてことないじゃん」
「え、川谷マジで?」
「マジらしいよ」
「今年に入って?」
「今年に入って」
「やば。まだ一ヶ月も経ってないじゃん。でもそういうことじゃないんだよ。だって、おれなんかが邪魔しちゃダメでしょ」
 町山さん相手ならすぐわかることなのになあ、と僕はしみじみ思っていた。
「ああ」とつぶやいた坂本は、しばらくの沈黙をはさんで「なるほどね」と言った。
 さっさと教室行こうぜ。そんで部室。僕が促せば坂本もついてきてくれる。
 校舎内に入ってすぐに坂本が
「じゃあさっきおまえが言ってたこと、おれが今度町山さんに伝えればいいんじゃない?」
 と言った。
「んん? それはどういうこと?」
「だからおまえが人知れずカッコつけてたことを、おれ経由で伝えたら町山さんおまえのこと好きになるかもよ」
「ばか! そんなわけあるか! 絶対やめろよ。言うなよ絶対」
「これもダメなのか」
「ダメだよ」
「もったいない。それくらい別にいいと思うけどな」
「ありがとう。でもそういうんじゃないよ。おれがめちゃくちゃカッコよかったって事実はおまえがずっと覚えておいてくれりゃ、それで充分だよ。それが本物だろ。違うか」
 ぴゅ~と口笛を吹きながらウインクをする坂本。とんだ生き物がいたもんだ、と僕は思う。

 

 教室に戻って荷物をとる。
 山之内の姿はもうないけど、まだ何人かが残って机に向かっている。もう二度と邪魔だけはしないぞ。そう思った直後、参考書から顔を上げた女子バレー部の若本紅愛が「あ、安藤くん」と言うのでビビる。
「はい?」
「学ラン見つかった?」
「あー。実はまだなんだ」
 すると彼女は立てた指を壁の方に向けながら、「なんかさっきね、安藤くんのこと探している人がいたよ。学ラン持ってた」
「え、うそ、どんな人?」
「誰だっけ。何組の人かは忘れたけど」
「男子?」
「そうそう、色白の」
「色白? もしかしてあの、すごい猫背の?」
「そうそう!」
 福地じゃん。
 お礼を言う僕に、よかったじゃん、と若本紅愛が表情を大きく崩すことなく小さく呟いてくれた。ひー、やべえ。僕はそのときの若本の遠のく顔、こちらを向く髪を束ねて露出したうなじに対して、体が震えるくらいの勢いで謝りたいと感じていた。「感謝」って字そのままの気持ちだ。若本の器に、僕は完全に飲まれてしまっていた。
「ありがとう」
 こういうときの僕の声は小さくていけないのだが、若本紅愛は顔を上げ、ん? という顔をしたあと、ふわっと片手を上げた。とても律儀な感じのする、甲斐甲斐しい所作だったので、僕も同じようにした。

 

 坂本と七組へと向かう。
 福地の姿はない。
 坂本も自分の荷物をとり、そのまま部室へと向かうことにした。
 渡り廊下に出ると、空には月が浮かんでいた。照明塔の明かりに照らされた運動場は、夕日に染められていたときよりもずっと鮮明だ。
 さみ~と言い合いながら部室棟へと駆け込む僕らは、卒業文集の話をする。浅野はもう出したぜ、と僕が言うと、坂本は「でしょうね」と言った。
「あとで読んでみ」
「はいはい」
「いや、よかったよ」
 これはマジで。

 

 部室の机には、僕の学ランが無造作に置かれていた。
 感動から両手を合わせ膝をついていると、脚を組んだなっちゃんが「よかったね」と言った。「みんな優しくて」
 ほんとにね。
「これは福地が?」
 そう尋ねる僕に「ああ、あいつだよ」と久留米。帰ったのだろうか? 僕は加藤のマフラーと照本のカーディガンを丁寧にたたみ、リュックにしまったあと、久しく会った学ランに袖を通す。ポケットにはスマホがちゃんと入っていて、確認すると坂本の他に、中川からもラインが入っていた。

『見つかった?』

 僕は早速返信する。

『お返事遅れました!学ランが無事見つかったことを報告いたします。ご協力ありがとうございました!』

 もう後回しにはしない。ぼーっとするのもやめにする。この瞬間をできる限り覚えておかなければならない。

 

 物事は更新されていく。

 

 今日のあれこれも過去になる。

 

 残るものも限られてくる。

 

 みんなにも学ランが見つかった報告を入れていく。ああ、僕はちょっとだけ寂しい。嬉しいはずなのに、それを上回る喪失感に手を伸ばしそうになる。
 僕はいまなにを失った? わからない。とにかく今日はもう終わる。終わるに足る理由を、僕は受け止めてしまった。あ、そのせいか?
 しまった。

 

 福地はまだそのへんにいるかもしれないとのことで、僕たちはみんなで部室をあとにする。月曜日は掃除しような! と念を押しながら。渡部先生が来るぞ。渡部先生が来る。バリトンボイスは憂鬱の調べだ。僕らはみんなで渡部先生のモノマネをした。久留米が一番うまかった。声の質が似ているのだ。
 校舎の静寂を挑発するように軽音楽部の音だけがはつらつと反響する廊下を歩いていると、なっちゃんが「安藤くん、遅れたけど」と言って、さっきの年賀状をくれる。あ、ありがとう。いま読んだほうがいい? 僕が尋ねると「あ、いや、帰ってから読んで。お互いのためにも」とのこと。
 了解。
 僕らは階段を降りる。ドアを開ける。強く冷たい風に吹かれ口々にさびーさびー言い合い、ちょっとだけ走ったり、立ち止まって誰かを待ったりする。ピロティーの太い柱を蹴り、白い息をチョップで割る。
「帰ったら書くか」
 僕はそう呟くけど、マフラーに顔をうずめたなっちゃんがちらりと一瞥しただけで、坂本も久留米も反応をくれない。え、なんだよ。おまえらだってちゃんと書けよ。最後の文集なんだから、そこんところはよろしく頼むよ。
 ポケットの中でスマホが振動する。取り出してみれば戸田セリナからで、『よかったね!』の一言。返信しなきゃ。中川とは違う言葉で。そう考えていると、校門へと続く道にある花壇のそばを歩いていたひとりの男子を見つける。ひどい猫背なのはいつものことだ。僕らに気づいたそいつは、胸の前まで手を挙げてみせる。
「福地!」
 僕は声を張る。学ランありがとう! どこにあったの? 向こうはなにかを答えたけど、声量と、あと風のせいで、たったの一文字も届かなかった。それがなんだか楽しいような、名残惜しいような、とにかくじっとしていられない気持ちを喚起するので、僕はやつの声が届く距離まで小走りした。


   まあ。

   こんなもんでしょう。

 

 それは、僕らが一緒に過ごした最後の金曜日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ~18:00

 

 

 

 

 

書き下ろし短編:『式では泣かないタイプです』【前編】

 

16:00~

 

 

 ホームルーム終了後に現れた加藤たちと教室の後ろの方でまんこからピーナッツを飛ばすおばさんの話をしていたら、すぐ近くを女子バレー部の若本紅愛が通りかかったので違う話に変えた。僕の学ランが消えた話だ。もともとはこちらが本題だった。


 学ランが消えたのは全国的にインフルエンザが猛威を振るう真冬のある日のことで、にしてはまあまあ気温が高かった。僕は体育のサッカーでゴール前を守りながら、浅野とふたりでオナニーするときどんなリズムでしごくのかという話をしていた。
「コンプレックスのビーマイベイベーと同じリズムだよ」と僕が言うと、「ビーマイベイベーで一往復?」と浅野はジェスチャー付きで尋ねる。
「ちがう、ビーマイで一。ベイベーで二、いやもうちょっと早いかも。ビーマイベイベービーマイベイベー……ああ、違うなやっぱ。ビーマイベイベー忘れて」
「ちなみにどっちの手でしてる? おれ右」
「あ、それはおれ左」
「でも右利きだろ?」
「だけど、左」
「なんで? やっぱりいいの?」
「ていうか右手でスマホ持ってやるから左手しか空いてない」
「おけばよくない?」
「寝そべるのが好きなんだ」
「あ、横になるタイプか」
「そうそう。仰臥位だけど」
「なにそれ、ギョウガイって」
「あ、あおむけのこと」
「じゃあそう言えばいいのに」
「そうだけど、いや、そうだね。ごめん」
「なんでわざわざ難しい言葉使うんだよ」
「や、そうなんだよ。自分でもよくそのことについて考えるんだけど、そういうところがあるんだおれ」
 とそこで不意にボールが転がってきて、反射的に動けた僕は思いきり蹴り返すことに成功した。風は肌寒かったが空からは暖かな日が射していて、砂埃とともに宙で軌道を変える頼りないボールを細めた目で追った。ずりーなあと浅野は漏らし、僕は僕のついカッとなって、といった衝動をちょっとだけ誇らしく思った。素早い蹴りとその手応え。及び浅野の羨望も手伝ってか、気が大きくなっていたのかもしれない。
 僕は最後に学ランを脱いだのがいつどこでどんな状況だったのか、なにも覚えていないのだ。

 

「がんばれ」と浅野は言う。なんでい、捜すの手伝ってくれないのか、と思う僕にやつは「おれ教習所」と続けて言った。
 ピロティーのベンチに腰掛ける僕らは、冷たい風に吹かれながら冷たいエナジードリンクを飲み、さっむ~と繰り返していた。免許どう、取れそう? 尋ねる僕に浅野は「まあまあ。大阪行くまでにはなんとか」と、遠くを眺めながら、下唇をとがらせていた。かわいこぶっているわけではないと思う。一方で寒さに腕を組む僕は、教習所にはいつごろから通おうかなと考えていた。いまから通い始めたところで四月に間に合うかはわからない。それに今はどちらかというと免許よりも遊ぶ時間がほしいので、ギリギリまで通うのも気分じゃないのだった。という結論は昨年末から何度も出ているが、同じことをまた一から何度も考えてしまうのだ。
 そういう病気ってなにかあったっけ?
「あ、そうだ」と浅野がリュックに手を入れ、筒状に丸められたルーズリーフの束を取り出す。
「書いてきたぜ」
 僕は初め、なんだこれは、と思った。受け取って開いてそこにタイトルが記されているのを見てようやく納得する。それはあまりにも早すぎる提出だった。
 文集用原稿の募集をかけたのは一昨日のことだ。僕が部室で坂本と直立のまま向き合って、互いの隙を突いて股間を攻撃し合っていたのだが、坂本から強烈な一撃をもらって膝をついたその瞬間にふと、例年行ってきた「卒業文集」を今年も作らなければならないことを思い出した。昨年の卒業文集のあまったやつが、ソファーの脇に積まれているのが目に入ったからだ。
「お、戯曲?」
 そう聞くと浅野はやや遠慮がちに肯いた。戯曲という言葉にまだ親しみがないからだ。僕も一年のころまではそもそも戯曲という言葉を知らなかったし、いまでも油断すると「コント」と呼んでしまうのだが、それじゃ厳密じゃないしカッコがつかない。まずはカッコから入ろうと、戯曲、随筆、小説と大まかに分けて呼ぶようにしていた。
 僕がこの作品が一番乗りであることを伝えると、「おまえこそ真っ先に書いてなきゃダメだろ」と浅野は笑う。
「一応渡しといたから。誤字脱字ないか、チェック頼むね。まさかとは思うけどこれもなくすなよ」
 だいじょうぶ、もう脱ぐものないし、と答えると、浅野は深い疲労の滲む苦みばしった表情で小さく笑った。ただ息を吐いただけなのかもしれない。
「もし免許取れたらドライブ行こうぜ」
 冒頭部に軽く目を通していると、ふいに浅野はそんなことを言った。いつもならだれかから一方的に誘われて嫌々言いつつも、みたいなことが多い浅野だ。らしくなさを笑おうかとも思ったけど、ここで茶化すのはなしだなと思ったので「あはは、いいね」と僕。
「それよりも学ラン捜せば。いまはだいじょうぶてもすぐ寒くなるだろ」
「すでにじゅうぶん寒いけどな」
「アホだ。夕日が沈むのはめちゃくちゃ早いんだぜ。高校の三年目があっという間だったみたいに」と急に浅野が言いだす。
「なにそれ先生たちのマネじゃん。一月は行く。二月は逃げる。三月は去る的なあれ」
「違う。本当にそう思ったからそう言っただけ」
「そうか。なら、ごめん」
「謝られることでもない気がする」
「そうか」
「いいから早く捜せや」
「冷たくしないでよう」と僕は中学のころ浅野に告白し、一週間で別れを告げたソフトボール部の女子が最初で最後のデートの帰り道に呟いた伝説的な一言の真似をした。表情を変えることなく僕の胸のあたりをグーで打ち付けた浅野は、じゃあな、と立ち上がり、小走りで校門に向かう。その背中に敬礼する僕は、とりあえずルーズリーフをズボンのポケットに押し込み、それからちょっとだけぼーっとしたあと、のっそり記憶をたどってみることにした。

 

 そもそも僕はスマホを捜していたのだ。普段からズボンの左ポケットに入れていた僕だったが、基本的にイヤホンをつけていることが多いため、冬場はもっぱら幅の広い学ランのポケットに入れていた。なのでスマホがないことをきっかけに学ランがないことにも気づき、教室にいた人たちにも尋ねてみたものの出てこず、じゃあラインでみんなに呼びかけようかとまたスマホを捜した。

 

 この体たらくの理由として、ひとつに僕がここのところ、ただでさえすぐ腰を下ろしがちなこの脳みそを放任していたせいもある。もちろん卒業間近という環境に甘えることなく、最低限、授業はまじめに聞いているつもりだったのに、自習時間というものが圧倒的に増え、いままで読もうと思っていた小説なんかを消化していると、学校にいながらにして日曜の午後みたいな気分になってくるのだ。日曜の午後といえばオナニーだ。このままじゃ僕は休み時間にトイレでオナニーでもしてしまうんじゃないか? そんな懸念なのか欲望なのかもよくわからないものを感知して、苛まれる中、僕はついに学ランをなくすまでに落ちぶれてしまったらしい。
 
 いや、寒。
 ひねり潰した空き缶をゴミ箱に投げ入れつつ校舎内にかけこんだ僕は、自らの過失のほかにもいくつか想定してみる。例えばここんとこの僕がずっと「こんな感じ」であることを快く思っていない人がいて、例えばそれはサッカー部の清とかその下っ端の池田とか永野のことなんだけど、そういう人が僕の脱いだ学ランを持ち去った可能性だってゼロじゃない。僕だって疑いたくはない。しかしどうも清は僕のことを殺そうとしているらしかった。つってもそれは坂本の言ったことでしかないし信憑性で言えば一笑に付すことだってできないわけじゃないが、ひとつだけ心当たりのようなものとして、僕はこのまえ体育館のギャラリーにて女子バレー部の練習をみんなで眺めていて、文化祭における三組の劇の話になったときに
「でもあれは超きつかったな~」
「そう?」
「うん」
「え、どこが?」
「だってサッカー部が前に出たいだけのクソじゃん」
「ひで~」
「クソだろ。なんだよあの初めっから女子ウケだけを狙った配役とだせえ演技は」
「ひで~」
「クソだよ! クソクソクソ! サッカー部はクソ!」
 と発言してしまい、それを坂本が別の場所でだれかに話し、三組の劇こと『ジャック・スパロウと愉快な仲間たち』の主演を張った清の耳に届いてしまったらしかった。僕は別にあの劇に携わった人たちを不快にさせたくて発言したわけじゃないし、本当に思っていたことをその場の空気とかでやや露悪的に盛って喋っただけなのでこれは完全に坂本が悪いと思っているのだが、とはいえ怒りの種を蒔いたことは事実なので、ああやだなあ、面倒くさいなあと僕は思うのだった。
 サッカー部が犯人じゃありませんように。僕はそう願うのは、もし仮に本当にそうだった場合、こちらにできることなんてなにもないからだし、実際その可能性がすこぶる高いことも承知の上だからだ。清に限らず、ここんとこのサッカー部は本当に僕のことを殺そうとしている節があった。つい最近だって放課後の廊下を一人で歩いていると、サッカー部の面々が通せんぼするように周囲を囲んだかと思うと、挨拶のように太ももに蹴りを入れながらラップのフリースタイルで言うところのサイファーを始めた。みんながみんな韻もフロウもなっちゃいないワックな三流フリースタイルだったが、その中の池田が最後の方で
「おいコラ安藤マジ言動、わきまえとけよその限度」
 と元々高めだった声を低く轟かせ、廊下を行き交う女子に色目を使いながらのそのパンチラインを締めにフリースタイルをなあなあに終わらせた。肝が冷えるとはあのことだ。僕を見かけたら囲んで襲撃する、という不文律のようなものが、知らないあいだにサッカー部内に確立されていて、それこそなんだっけ、これはあれにとても近い、あれあれ……ああ、またなにも浮かんでこないのでそれは置いとくとして、僕自身の普段の行いが悪いせいもあるんだろうけども、とは考える。でもそれが暴力を肯定する理由足り得るかといえば違うでしょう? 彼らの野蛮な血の疼きをどうやれば鎮められるのか、その方法を僕は知らなかった。そもそも僕は清なんかとはあまり喋ったことがない。もし清が僕の発言に怒っているとして、それが実際どの程度なのか、どういう姿勢で臨めば許してくれるのかがまったく見当もつかないし、いたずらに不安だけが膨れ上がってしまう。いやでもやっぱり一番おかしいのは坂本あの野郎。なに勝手に喋ってんだよ。

 

 僕はだんだん腹が立ってきて、まずは七組へと向かう。あのインターネット野郎に学ラン捜索への協力を強制しようと思ったのだ。そこには福地がいた。
「おっす。坂本いない?」
 黒板前にいた福地は嫌々ピアノの発表会に立たされた少年のような、右肩が脱臼しているのではないかと思えるいびつな立ち姿で首を振った。部室かな? 僕は学ランがなくなった旨を福地に、まあでもたかが学ランがなくなっただけだ、と半ば自分に言い聞かせるようにして伝えた。
 なくなった、というか見失った?
 そんな気もするなあ。
 そもそも学ランなんてものは学校にいる間ずっと目に入るようなものだし、家ですぐそこにあるリモコンを見つけられないとか、メガネを額にかけたままメガネメガネつぶやくような、後者はちょっと違う気もするけど、そんな感じで日常に訪れる魔の瞬間に飲まれただけなのかもしれないじゃん。それに学ランなんてものは拾ったところでラッキーとなる代物でもないので、たぶんふつうに返ってくるだろう。ポケットの中がコンビニのレシートだらけの他人の学ランなんて僕ならほしくない。最悪今日が無理でも明日、明日が無理でも明後日、明後日が無理でも……ってな感じで、譲歩に次ぐ譲歩で心に余裕ができた僕は、ふらふら校内を徘徊する。

 

 職員室前の廊下には掲示コーナーがあって、そこには先週催された球技大会a.k.a.三年生を追い出す会の写真が貼り出されている。まったく活躍しなかったどころか途中から部室のソファーで漫画を読んでいた僕だけど、だれか知ってる人の写真ないかなとまじまじ眺めてみる。例えば町山さんとか。浅野はいた。後藤のなっちゃんのもあった。そんで中川とエルヒガンテのニコイチ・ビッチーズの写真を見つけた僕は、そいつをまじまじ眺めてみる。中川がその白くて長い腕を高く突き上げなにかを叫び、その隣でエルヒガンテがギュッと圧縮したようなその体躯を地上十センチほどのところで滞空させている写真だった。ふたりの日に焼けた赤い髪の毛まで、空気に押し上げられて蛸の足みたいに波打っている。

 いい写真だなと思った。こういうやつこそ、卒業アルバムに載っているべきだとすら思う。ただでさえ大きな目をさらにでかく編集するような自意識の化物たちが、被写体である意識を持たず地面を蹴って跳ね上がっている、そんな一瞬を切り取られたという痛快さと、その痛快さにも勝る瑞々しさが交互に押し寄せ、僕はなんともエモい気持ちになった。
「おい」
 とつぜん声がして僕が短く声を上げると、呆れや蔑みの混じる鈍い色をその顔に浮かべた中川とエルヒガンテが背後に立っていた。ご本人登場をやられたのだ。
「もしかしてだけど、心霊写真とかさがしてる?」
「暇やな~」
 その態度の一方で、僕の周囲は一気に甘い香りに包まれた。部活をやっているがゆえに高い意識を持っている女子特有の、シーブリーズっぽい香りだった。僕は彼女たちから距離を取るように、一歩脇に寄る。「びっくりした。なわけあるかい」
「あ、そこに立たないで。並んでるの見られたら恥ずかしいから」と後から来たくせに中川が言う。冬場に学ランを着ていないからバカ、ということになったのだろうか? 僕が彼女たちに事情を説明すると、
「じゃあ早くさがせよ」
「見てて寒いんだよ」
「二つの意味で」
「ぶぶ、ほんと二つの意味で」
 とか言って自分らでニヤニヤしたかと思えば
「てかさ、たぶんあんたさ、やっぱ頭ちょっと変になってんじゃない?」
 とくる。懸念を突かれた動揺を隠しながら、やっぱってなんだよ、と僕が尋ねると、
「ここんとこずっと遊んでるでしょ」
「ね。まあいいんだけど別に」
「そうそう。たださ。まだ進路決まってない人の気持ちとか考えたことある?」
「だね。マジでそれ」
「あ、思い出した。そうそう、このまえこいつさ」
「え、なに」
「ベルトの後ろの方にトイレットペーパー挟んで廊下走ってた」
「は? きも、え、どういうこと?」
「わかんない……」
「きもー」
「しかもいつもの雑魚軍団とだし」
「ふきだまりの」
「安藤なにしてんの?」
 なにしてんの? じゃねえんだよ、と僕が思うのは、彼女らだって進路が決定して放課後を悠々過ごしている側だからだ。棚上げして説教垂れんじゃねえガッデム・ビッチどもと思う僕だが、これは売り言葉に買い言葉、言っていることの正しさは痛感しているし、胃も痛くなってきた。
 想像することは大事だ。
 例えば僕が進路未定組だったとしよう。不安と焦りで鬱々としているところで、廊下をバカが全力疾走しているのを見たら何を思うだろう? 殺したくなるのかもしれないし、さすがにそれは実行できなくとも、学ランくらいなら燃やしてやるかもしれない。僕は一年ほど前に軽音楽部との関係が悪化した際、文芸部の特攻野郎どもで大事な機材の破壊を試みかけたことがあった。実際は弁償のこととかを考えて二の足を踏んだ末に白けちゃったのだけど、学ランくらいならほどほど高くて、ほどほど賠償できる感じがある。だから学ランを盗むくらい誰にだってやれそうだ。そしてそうなると、容疑者は三年生全員、いや全校生徒ということにもなりかねないので、僕の胸はゴリゴリゴリと萎縮し、ついには呼吸さえ忘れさせる。
 なんて鬱々としている間にふたりは写真を眺め始めている。それから「あんたのはないね」と言い切った。いやなんでだよ、この後頭部は僕だ。指差す僕を無視し、冗談はさておき、みたいな抑揚のない声で中川が言った。
「でも安藤あんたさ」
「うん」
「学ランはないとヤバくない? 卒業式とか」
「それはなぜ?」
「だってそうでしょ。一人だけシャツで出席ってたぶん無理だよ」
「バカっぽいから?」
「いや、式だもん」とエルヒガンテ。
「最悪帰されると思う」
 急になんだよ。彼女らの説得力にたじろぐ僕はまた別の意味で泣きたくなるが、それを察したエルヒガンテが「だからいまちゃんとさがしときな」と言いながらあごをしゃくる。
「たしかにそうだわ。事の重大さにいま気づいた」
「今でよかったじゃん」と中川。
「ああ、うん。ありがとう」
「もしうちらもそれっぽいの見つけたら普通に教えるわ」とエルヒガンテ。
 僕は彼女の炊飯ジャーのような顔と向き合い「戸田さん」と言う。彼女の名前は、戸田セリナといったし、当然のようにエルヒガンテという呼称は本人に面と向かって言ったことはない。
 彼女は「ん?」と下唇を突き出し、わずかな隙間からやけに細かい下の前歯をのぞかせた。
「ありがとう」
「うん」
「中川も」
「いやわたしは教えないよ」
「教えろよ」
 僕は自分のラインIDを伝えようとする。すると中川が「そんなの知ってるわ」と制するので、まあそうかと思う。この三年間、同じ学び舎で過ごしてきたのだ。僕らの間には、ちゃんとそれだけの時間が流れている。
 僕はもう一度言う。
「ありがとう」
 そういえばスマホも一緒になくしたんだということは、黙っておいた。

 

 式に参加できないのはまずい。後々話のネタにできるとか、そういう風に思えないのは僕が今を生きているからにほかならない。後々のことは後々の僕のものでしかない。よって、いまは学ランの捜索に心血を注がなければならない。
 ということで職員室に向かい現文の渡部先生に学ランの落し物はありませんでしたかと馬鹿正直に聞いてしまった僕は、ここでもまた気のゆるみをブスブス突かれたあと、部室の掃除もちゃんとしろとバリトンボイスで命じられ、いそいそおいとまする羽目となった。どうも学ランの話は渡部先生には残らなかったみたいで、結果として説教を受けただけで終わってしまったわけだ。僕が腑に落ちなさを噛み締めながら職員室を出ると、そこで野球部の照本肇と鉢合わせた。その小脇には大学ノートが挟まれていて、話を聞くと提出物を遅れて提出にきた、と照本は敬礼した。僕もほぼ同じタイミングで敬礼していた。
 照本肇と僕は三年の頭から同じ予備校に通っていて、授業をサボって同じファストフード店に入り浸っているうちに仲良くなった。なので言葉を交わすようになったのもここ半年くらいの話なのだけど、
「学ランなくすやつ初めて見た!」
 と体をくの字に折って膝に手を付く照本を見ていると、僕はこの悲壮感のなさが好きなんだろうな、と思う。
「ことは結構深刻ですぞ照本氏」
「あ! そうだったのか! ごめんごめん!」
「いやいやぜんぜん。でもどっかで怪しい学ラン見つけたら教えてよ。といってもスマホも一緒になくしたんだけどさ」
「じゃあどうやって教えりゃいいんだ」
「おれの教室に持ってきてくれるとか、あと文芸部の部室とかしてくれたらありがたい! もしあったらでいいから! もしあったらで!」
「了解!」
「ありがとう!」
「了解!」
 執拗な敬礼の応酬を経て一通り満足したあと、僕は「それじゃまた」とあてもなく歩き出すが、「あ、そういえば安藤」と背後から照本の声。
「坂本が探してたぜ」

 

 物事がようやく動き始めた気がした。
 僕は早速自分のクラスに戻ってみる。そこには加藤と野球部の山之内がまだいて、僕の机でオセロをしていた。
「まだ見つからない?」
「だるいな」
 誰よりも僕がそう思っていることをふたりは言ってくれる。坂本がおれのことさがしてるって聞いたんだけど……そう言うと加藤は「そうなんだ」と言った。
 うん、そうらしいよ。
 スマホがないだけでこんなに不便なのかと思う僕は、加藤にお願いして坂本に連絡をとってもらうことにした。電話をかけても出ないらしいので、ラインでメッセージを残してもらう。あとは部室で待機でもしてりゃやつはくるだろう。ちょっとした安堵からすぐさま動く気にもなれずにいた僕が、ゴリラのように隆起した山之内の肩を揉んでいると
「あ、そうだ」
 加藤がかばんに手を入れ
「これ使う?」 
 差し出されたのは紺色のマフラーだった。
 受け取ったマフラーを首に巻くと、柔軟剤のようないい香りが顔のまわりに満ちたので「なんか女子っぽい匂いがするよ」とふざけて言うと、「それ妹のだから」と冗談ともつかない態度で加藤が答える。え? それはまじ? え? え? ほんとなの? あの? 加藤の妹といえば、妙に大人びた顔立ちをしていることから、坂本にジュニアアイドル呼ばわりされている美少女だった。加藤に似て目が大きく、やや浅黒かったが、鼻が高かった。ということはあの妹ちゃんと間接首タッチになるわけか。それがどう色っぽいのかはよくわからないけど、加藤のことをお義兄さんと呼びたい欲の高まりは感じる。
「恩に着ます」
「いいって」
「妹さんにも、ありがとうと」
「ああうん。いやそれいる?」
 いらないね、そんじゃ借りてきます、と踵を返し廊下に出ようとすると、教室の入口に立つ国生まりえが僕を見ながら笑っていた。「安藤くん~ふふふ」と体をくねらせていて、僕はその色香にむせ返りそうになる。
「どうしたの国生さん」
「そっちこそどうしたのそれ」と僕に向けた人差し指を上下に動かす彼女は帰り支度を済ませた格好で、暖かそうなカーディガンを着ているが、これまた妙にシルエットが浮き立つ生地のもので、なぜそれを買ったのか、色っぽいことにためらいを持つのは、やはり戦後西洋から持ち込まれた価値観なのか、と僕はつい考えてしまう。
「ずっと気になってたんだけど、もしかしていじめられてる?」
 冗談っぽく声を潜めた国生さんの言葉に、一瞬だけ清の顔が脳裏をかすめる。わかんないけど、学ランはたぶん自分でなくしたと思うから、いじめではないよ。たぶん。いや、たぶんだけど。
「えーなくしたんだ。寒そう」
「寒いね」
「ねー。ちなみに安藤くんの学ランってどんな感じのやつ?」
 どんな感じってああいう学ランだよ、と周囲の男子を示しながら答えると、国生さんは「そりゃそうか」と一人で五秒くらい笑った。もし見つけたら教えてよと頼みかけた僕だったが、あれ? もしかして加藤? と後ろを指させば
「そう、ごめん。いまからいっしょに帰るんだ」
 だろうね。
「加藤~」と僕が呼べば、わかってるといった態度で加藤が手を挙げ、山之内が勢いよく盤をひっくり返すのが見えた。
 やたらと換気をうたう社会科の八重子教諭の手によって、廊下の窓は一枚間隔で全開にされているのだが、マフラーによって首の動脈が守られたことにより、先程までの凍えは感じない。その温もりから改めて考えるに、当たり前のように優しいところが加藤のすごいところだと思う。山之内に盤をひっくり返されても、一番楽しそうに笑っているのが加藤だった。いろんなことにカラっとしている。たぶんみんな彼のことが好きだと思う。そもそも顔がよかった。それも人のよさが前に出ているタイプのイケメンでどこかぼんやりした印象があって、一緒にいても割を食うことがなかったし、普段は大人しいくせに口を開けば大好きなルパン三世の同人誌のラストシーン(死んだルパンを追って銭形が自殺するやつ)とか、サッカー部のキーパーを務める「タートルズの豚」こと森永拓司の言動についての話しか飛び出さないので、積極的にモテることもなかった。たしかに色っぽくはなりにくい感じはある。とはいえ、加藤のそういう顔のよさにかこつけて甘い汁を吸っていないところも僕らからすれば気持ちのいい男なのだ。たぶんこのマフラーに関してもそうなのだけど、異性のきょうだいがいる人特有の余裕なのかもしれない、なんて僕らは普段から分析しているが、本当のところはわからない。一時期はゲイなのかもしれないと思ったこともあったし、別にゲイでもいいとも思っていた。まあでも加藤はゲイじゃない。
 国生まりえと付き合っているからだ。昨年末から。
 このあとデート? と僕が聞けば、目を細めた国生さんは首を左右に振る。
「いっしょに帰るだけだよ」
「それはデートじゃないの?」
「安藤くん、デートはまた別なんだよ」
 ふーん。
 これまでの僕は放課後になると、加藤や山之内と一緒に無人の教室に忍び込んではみんなの体育館シューズを片方ずつシャッフルしたり、黒板に好きなアニソンの歌詞を書いては消したりを繰り返していたのだが、その一部始終をたまたま見ていた国生まりえはどういうわけか加藤に恋をした。そんで加藤もその想いを受け取った。加藤に聞いてみたところ、国生まりえは「話しやすい」とのことだった。彼女は理数系クラスの数少ない女子のひとりであり、普段の言動ががさつなせいで一見スルーされがちだったが、よくみりゃ眠そうな目をした色っぽい顔をしていると一部の男子の間では評判だった。ただし面食いなことでも有名だった。加藤はカッチリしていないところがあるとはいえ、告白したのが国生さんの方からだということは、たぶん卒業後も関係を継続しようとの目論見があったのではないかと有識者の間では囁かれていた。加藤みたいな男はどうせ卒業後もどんどん垢抜けていくのだから、先見の明がある人間からすれば逃がすには惜しい逸材のはずだ。たぶん。僕らにそう説いたのはなっちゃんだった。「女ってそういうとこクソだよな」と坂本が言っていたのを覚えている。
「マフラーは借りてていいよ」
 僕は加藤が最初からそう言ってくれることをあてにしていたものの、え! いいの? と大きな声で言った。加藤にはバレてた。並んで廊下を歩いていくふたりの後ろ姿を手を振って見送っていると、ふいに一人残された山之内が僕のすぐそばまで来て、「あのふたりもうやったのかな」と言った。やったってなにを? あ、セックスのことか、まだだろ。と答えはしたものの、もちろん根拠なんてなく、やってたらどうしようとちょっとだけ胸が騒いだ。やってても別にいいんだけど、妙な割り切れなさが残るのも確かで、この感情の名前を僕は知らない。
「ちなみに焼肉にいっしょにいくカップルはもう絶対やってるらしいよ」
 と前にも何度か聞いたことのある話を山之内がする。「じゃあ今度あのふたりに焼肉行ったか聞いてみようぜ」と僕は答えた。

 

 山之内と硬い握手を交わして別れたあと、部室棟へとつづく二階渡り廊下でたまたますれ違ったサッカー部の池田に腹を殴られた僕は、いろいろ考えた末にサッカー部の犯行説を取り消すことにした。というのも池田は、シャツにマフラー姿の僕を見てただのおどけたバカだと認識したっぽかったし、立ち去り際に「見つかるといいな」なんて舐めたこと言っていたからだ。
「なんならいっしょに捜すか?」
「いや、いいです」
「捜すわけねえだろザコ! 殺すぞ!」
 ギャハハ! と立ち去る池田の背中を睨みつけるのには理由がある。もちろん単純にされたことへの嫌悪憎悪殺意はもちろんとして、そのときの僕がなにより困ったのは、池田に絡まれへらへらやり過ごそうとするその様をあの町山りおに見られてしまったということだ。それこそ僕は犬のようにクンクン言いながらあの池田なんぞに愛想笑いをふりまき、あろうことか、ああ、何度も頭を下げたのだ。それは最も客観視したくない自分だった。
 町山さんは渡り廊下の手すりに両腕をのせながら運動場を眺めていたらしくて、茜色の空からは吹奏楽部の演奏する音が降り注いでいた。殴られた際の僕のうめき声は誰にも届かずかき消された点は幸いだったけど、結局池田は馬鹿なので声量が異常で、それが届いたのか、耳のイヤホンを外してコードを畳みながらゆっくり近づいてくる彼女を見た僕は、いや、ああいうコミュニケーションだから、しょっちゅうやられてるぶん腹筋鍛えられてるから、と自分でも無理があるのは承知な態度で目を伏せ背筋を伸ばしてみせた。馬鹿らしいね。彼女もやや俯きながら、僕のすぐそばを通り過ぎた。小さく会釈された気もしたけど、僕は振り返ることすらできずそのまま歩き続けた。
 この風はきっと北からのものだ。
 目を細めながら、さっきまで町山さんがいたあたりの手すりに両腕をのせて運動場を見やる。夕暮れどきの運動場を眺める時間は最高だと思う。特にこの部室棟から伸びる渡り廊下は吹奏楽部によるBGMつきということ、かつ部室からすぐの場所ということもあって、煮詰まった……じゃなくて行き詰まったときなんかは、僕もよく運動場を眺めたりしていた。風に目を細めながら思うのは、町山さんもなにかに行き詰まっていたのだろうか? ということだった。

 

 マフラーを巻き直し乱れたシャツの裾をベルトの内側に押し込んだ僕は、ポケットのなかでぐしゃぐしゃになった浅野の原稿に気づいて慌てて取り出した。風に飛ばされないよう、その場にしゃがみこんで広げ、なんとなく目に入った冒頭から再び読んでみる。文字を目で追っていると、目薬をさしたときのように頭の中が艶を帯びていく感覚になって、深い鼻息が漏れた。

 

 

 

 

 

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拳大のアダマンチウム/『LOGAN/ローガン』

 

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『ローガン』を観た。
 
メキシコ国境沿いのざらついた風景の中、ローガンはリムジンの運転手として働いている。アルツハイマーが進行するプロフェッサーXとともに余生を海上で過ごすべく、船を買う資金を稼いでいるのだ。そんな彼は片脚を重そうに引きずり、GTAチンピラにはたこ殴りにされる始末。ウルヴァリンと呼ばれていたころの猛々しさは感じられない。
月日は過ぎ行く。彼の再生能力は衰え、体内に仕込まれたアダマンチウムによって身体は蝕まれていた。それでもひとたび憤怒に至れば、鋭利な爪でいとも容易く人体を切り裂いていく。どれだけ歳をとろうとも、その生き方からは逃れられない。
 
今作は2029年という舞台設定にもかかわらず、発展した未来都市などは描かれない。乾いた風に舞う砂塵は暴力の粒子のようだ。この世界に対する深い絶望が少しずつ肺に蓄積していくような緩慢な死の気配に満ちている。
 
そんな世界を北に向かって突き進む彼らの逃亡劇は血にまみれている。死屍累々を築きながら、そこに勝者も敗者もいない。この殺伐とした徒労感、どこかで味わったことがあるなと思った。スタローンの『ランボー/最後の戦場』だ。
 
 
劇中には『X-MEN』のコミックが登場する。そこに描かれている物語を信じて行動するローラに、これはすべて絵空事だとローガンは吐き捨てる。彼はそのあまりにも長い人生の中で大勢の死に関わってきた。そうはいかない現実を嫌というほど知っている。
 
とはいえ今作は、それでも物語を信じ肯定する。当然のように残酷なこの世界で、指標となりうるものとして「物語」を据えている。例えそれが、視界の端にかすむ程度のささやかな希望であろうとも。
一方でこちらが食らうダメージもかなりでかいので、観終わって一週間ほど経ついまでも、僕は胸の奥に拳大のアダマンチウムをぶちこまれたような気持ちが続いている。R指定路線に軌道を変えた『X-MEN』シリーズで言えば去年の『デッドプール』も大好きだったが、まさかこうもベクトルの違う映画を叩きつけられるとは思ってもみなかった。『エクスペンダブルズ3』のアントニオ・バンデラスみたいに、寄る辺なき逃避行の協力者としてデップーが出てきてくれないかなと願ってしまったほどだ。寂寥感が強すぎる。
 
そのくせ僕はいますぐにでも『ローガン』を再鑑賞したい。劇場に行けば、いくらそこに映る姿がいたたまれないものであろうともローガンやプロフェッサーXに会える。ローラの力強い視線とそれが向く先を観ることができる。傷も癒えないうちから、もう一度、あともう一度と劇場に足を運ぼうと思う。ローガンだってそうしていたし。
 
 
P.S. ヒュー・ジャックマン、17年間お疲れ様でした!
 
 
 
 
 

 

 
 

2年前に書いた『X-MEN』シリーズ(F&Pまで)の感想です ↓ 

sakamoto-the-barbarian.hatenablog.com

 

 

X-MEN:アポカリプス』の感想です ↓

sakamoto-the-barbarian.hatenablog.com

 

自宅鑑賞映画(2017年5月編)

 
 
『親友のカミングアウト』(5/5) 

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Netflixで鑑賞。苦労は描くけど誰も敵にはしないスタンスが心地いい。幕切れのタイミングが好き。
 
 

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 Amazonプライムビデオで鑑賞。荒唐無稽を堂々とやってのけることで名を馳せたシリーズだけど、今作がターニングポイント的位置づけな気がする。無茶苦茶ながらその後のシリーズと比べるとほどよい塩梅でめちゃくちゃ楽しかった。
 
 
 『復讐 運命の訪問者』(5/12)

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レンタルDVDで鑑賞。面白い!!!シンプルなあらすじに、じめっと不穏な要素を詰め込んだ脚本がたまらない。直立不動での撃ち合いが強烈にカッコイイし六平直政演じる殺し屋がカナヅチを使うシーンもフレッシュ。最後までかっこいい映画だった。
  
 
 『百円の恋』(5/13)

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Netflixで鑑賞。安藤サクラがシャドーの動きにキレが出てくるのに併せて顔がシュッとしてくるところがいい。気高い。ただラブホのあれは要るでしょうか。逆に白々しくなってしまった気もします。
 
 

『復讐 消えない傷痕』(5/16)f:id:sakabar:20170517144947j:plain

レンタルDVDで鑑賞。奔放な映画でした。
 
 
 『ウォー・マシーン:戦争は話術だ!』(5/31)

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Netflixで鑑賞。落語っぽいお話でした。
 
 
 
 
 
以上、6本!
今月から画像もつけてみました!
 
 
 

 

 

ノルウェージャン・コック

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村上春樹を読み始めた。

 

これまで村上といえば龍だと思っていた僕は半ばネタ化した村上春樹像にしか触れてこなかったので、ほんとうにスパゲティを茹でながら射精するようなキザな話ばかり書いている人なのだろう、と思っていた。いざ読んでみるとまあそんなに違わないけど、さすがにそこまででもなかったので安心した。

 

彼のデビュー作である『風の歌を聴け』は「大学生帰省もの」だ。大学生が長期休みに地元に帰って、人に会ったり街を歩いたりする、そんな話はもともと大好きなので、個人的な入口としても最適な1冊だったように思う。「Chill out」なムードが、そこにはあった。

 

 久しぶりにiTunesを開いた。愛用のノートパソコンが今年で8年目に突入。大学時代から溜め込んだ音楽がぜんぶ入っている。村上春樹っぽい曲を探そうと思った僕は、ビートルズの『ラバー・ソウル』を再生した。奇しくも村上春樹の2作目『1973年のピンボール』にも登場するアルバムだ。かつて聴いていた音楽を久々に流してみると、その当時の記憶と匂いがおぼろげに蘇ってくる。

 

 

 

 

 

 

大学生のころ、僕はアパートで一人暮らしをしていた。大家さんが1階に居を構え、2階・3階が賃貸となっているタイプのアパートで、住人のほとんどが同じ大学の人間だった。大家さんは面倒見のいい人で、もらいものだからと鮮魚をくれたり、一年に二度くらいの頻度で手作りカレーをご馳走してくれた。入居時にご挨拶として紅いもタルトを持参したのは正解だったのだ。

 

大学1年のある夜、自室でひとり過ごしているとインターホンが鳴った。おそるおそる覗き穴を覗いてみると、そこにはお隣さんである大学院生と、知らないメガネの女が立っていた。

 

僕はお隣の大学院生にも入居時に紅いもタルトを渡していた。そのお返しとして塩コショウ(「いまこれしかないんだけど」と言って渡してきた)を受け取っていたので、その後も部屋に招いてもらったり、漫画の貸し借りをしたりするような仲になっていたのだが、その隣に立ってニコニコしている女のことはなにも知らない。警戒心の強かった当時の僕は、ドアをほんの少しだけ開け、「どうしました?」と蚊の鳴くような声で聞いた。僕が自閉傾向の強い人間であることを知っていた大学院生は「寝てた?」と確認を取ったあとでこう続けた。

 

「大家さんがカレーつくったけど、どうかって。〇〇ちゃん(僕のことです)もうご飯食べた?」

 

 「あ、まだ食べてないです」

 

「食べに行こうよ」

 

「いいですね」

 

「こんばんは」

 

女が会話に入ってきた。

 

「こんばんは」

 

大学院生の話では、その女は下の階に住んでおり、僕と同じ大学の1年生だった。大学に友達がひとりもいなかった当時の僕は、もちろんその女子とも面識がなく、はじめましてと挨拶を交わした。それから三人で大家さんの部屋に行き、カレーを食べた(この夜、おかわりをどうしても断りきれずに大盛り3杯を胃に詰め込んだ僕は、大家さんちのトイレで盛大に吐いた)。

 

その日を機に、大学構内で彼女と会えば挨拶をするようになった。同じアパートのよしみ、という概念がちょっと楽しかった。専攻は違ったけれどどちらも1年生だったため、でかい講義室で受けるような講義がいくつか被っていた。

 

その子はメガネで、色が白く、背が高く、めちゃくちゃおしゃべりだった。高田純次似のお父さんが大好きだと言っていたし、姉妹の中では自分が一番巨乳だとも話していた。たしかにおっぱいがでかかった。目を合わせて話すことが苦手なのに、おっぱいが大きい人が相手となると視線を下げることも憚られる。迷いに迷った末に、僕は彼女の目とおっぱいを4:6の割合で交互に見ることに決めた。二つ並んでいる、という点では大差ない。

 

しばらくして彼女は、僕の部屋にも遊びに来るようになった。「私は基本人と話してないとダメだから」というエクスキューズが向こうから提示されていたので、じゃあいいかと僕も思った。しまいには、女友達と連れ立って僕の部屋に来たこともある。その日はふたりの「同じ専攻のバカ女子軍団がガキ過ぎてつらい」という話を夜の十二時くらいまで聞いて帰したあと、頭の中でリフレインする「高校生かっつーの!」というパンチラインをノートの端にメモして寝た。

 

2年の夏のことだった。

真夜中、部屋で提出期限ギリギリのレポートをまとめていた僕の携帯に通話が入る。下の階の彼女だ。無視しようか迷って、電話に出た。

 

「飲みすぎて動けないから迎えに来てほしい」

 

なんじゃそりゃ!と思いはしたが、僕はビニール傘を武器がわりに夜の街へと飛び出した。このまえ彼女と話した時に、夜道を歩いていたら不審なワゴン車に横付けされ、ヤンキーっぽい男に声をかけられたという話を教えてもらったばかりだった。大学1年の前期、講義にも出席せず部屋で筋トレと読書と嗚咽を繰り返していたあの日々の成果が問われるときが、ついに訪れたのかもしれない。

指定された居酒屋の前に行くと、彼女と知らない女子が二人で待っていた。見た感じ、介抱役を任された友達らしかった。当の本人はほんとうにベロベロに酔っていてちょっとだけ引いた。友達から介抱を引き継ぎ、アパートまでの道を並んで歩く。ジョギングをしているおじさんが横を通り過ぎるだけで彼女は肩をこわばらせ、嘲るように笑った。

彼女は「最近ちょっとだけ痩せた」という話をした。7キロ痩せたらしかった。それってちょっとか?と思った僕は雑談の端々に見え隠れする彼女の不調に気づいた。大学がつらいらしい。厳密に言えば、専攻内での人間関係で気を揉んでいるらしかった。大学がつらい、という話なら得意分野だったので、ひたすら同意を繰り返しているうちにアパートに到着。

階段を上がって部屋のまえまで送ると、彼女は「今日、〇〇ちゃん(僕です)の部屋泊まっていい?」と言った。最近眠れないので、部屋にいさせてもらうだけでいいとのことだった。よく意味がわからなかったが、当時童貞だった僕は人間がどんなふうに距離を詰めてくるものなのかまったく見当がつかなかったので、とりあえず承諾した。大家さんの出してくれるカレーを吐くまで断れないような人間であることも、理由の一つだった。

 

僕はタオルケットとクッションを彼女に渡し、自分はちゃっかりとベッドで爆睡した。

翌朝を迎えれば早々に彼女を起こし、二、三会話したあとで帰ってもらった。

 

 

 

 

いまでもたまにあの日のことを思い出す。

 

もしその気になれば絶対に抱けていただろう。 

 

とはいえあの日、僕が自分のベッドで先に寝入ってしまったことは決して間違ったことではなかった。その一件を彼女が友達に話したところ、誰もが「めっちゃ紳士」と感動してくれ、たいへんな評判を呼んだらしいのだ。僕はめっちゃ紳士なのだ。

 

 

村上春樹をきっかけに、そんなことを思い出した。ちなみに彼女はその後、一学年上の先輩と付き合う。その先輩は回らない寿司屋でアルバイトしていて、卒論に集中すべく後釜を探していた。そこで彼女に相談する。彼女はある紳士を思い出す。僕の携帯が振動する。

 

僕は大家さんの3杯目のカレーも、女の子の申し出も断れない。

 

 

 

彼女はとんでもないファムファタールだったわけだ。

 僕のイングロリアス・マザーファッカーとしての日々の始まり。そのきっかけをつくった張本人だ。

 

 

ふざけやがって。

 

 

泣きながらシコる日々。

 

 

 

(now playing くるり-『リバー』)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書き下ろし漫画『初デート』

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ジェームズ・ガンにありがとう/『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』

 

 

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僕はジェームズ・ガン監督が2010年に撮った『SUPER!』という映画が大好き。オールタイムベストを聞かれるとまずこの映画が浮かんでくる。

 

「人生で完璧だった瞬間が2つある」という冴えない中年男が、そのうちの1つである最愛の妻を地元のドラッグディーラーに寝取られたことから自警行為(という名の暴力行為)に乗り出すというヒーロー映画だ。この作品から、「完璧な瞬間」というのは漫画における「コマとコマの間」にだって山ほど詰まっているというメッセージを受け取った当時大学生の僕は、三日三晩泣き続け、バイトを辞めた。バイトを辞めたのはかねてからの予定通りだったけど、この映画のことを思い出すとき、決まってバイトのことが脳裏をよぎる。当時の一番の悩みだったからだ。あらゆることに見て見ぬふりを続けるあのころの僕の痛みに、この映画は寄り添ってくれた。

 

そんな『SUPER!』を撮ったジェームズ・ガン監督が、あのMCUに参加するというニュースを耳にしたときは、もう飛び上がるくらい嬉しかった。MCUはリアルタイムで追っていたし、そこにあのジェームズ・ガンが!彼の出世が嬉しくて仕方がない。ということで2014年に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が公開。映画は見事大ヒットを収めた。僕はサントラも買って毎日聴いていた。どうしても働きたくなかった当時の僕が重い足を引きずりながら派遣アルバイトに行ったり行かなかったりをしていた時期だ。『Awesome Mix vol.1』を聴きながら集合場所である知らない街の駅前に向かい、挨拶もそこそこに距離をとり合うバイト・スクワッドたちと一緒にいると、「まるで銀河のならず者集団だな」と思えた。

 

そしてその続編である『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』がついに公開された。今回もオープニングが最高で泣いてしまった。でもなにより、ジェームズ・ガンは今作でもやっぱり優しかった。その優しさに触れ、泣いて、僕は劇場を後にした。

 

今作はべらぼうにいい。ジェームズ・ガン監督の、孤独や傷を負った者たちに対する優しい目線が満ちていた。本当に欲しかったものは、とっくに手に入れていたなにかかもしれない。痛みの先を一緒に眺めてくれる、そんな確かな温度がこの映画にはあった。

 

悩みも欲望も尽きない、なんでもない人間のひとりとして、僕はこの映画を愛するし、引いてはこの映画を作り、発信したジェームズ・ガン監督に感謝してやまない。ほんとうにありがとう。どうせこれからも最低な気分に何度も沈むであろうこの僕を、また助けてください。どんどん遠慮なく助けてください。助けられ慣れてますので、どうぞまたよろしくお願いいたします。

 

 

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『GGG』計画

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 不労所得のことばかり考えているのは根っからの荒くれ者だからだ。この傲慢さを保ち続けなければ、そのまま朽ち果ててしまう。
 
何かを残せさえすれば、何かを残さなければという気色悪い焦燥から解放されるかもしれない。
 
最近、部屋にある10キロのダンベルを7キロに変えたら筋トレが続くようになってきた。それは本当に正しい厳しさなのか?という問いを常に持ち続けていたい。
 
いびつな厳しさで得るものがゼロになるなら、小銭でもいい、自分にできる範囲で動き続けたいと僕は思う。 
 
 
 
ということで…… 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 

 HOP!

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STEP!

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FUCK!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 

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 って感じの小説を書きます。案が浮かんだのは大学2年のころ。かれこれ7年温めている(ほったらかした)話なので、すっかり冷えて硬くなった鉄を力尽くで打ちます。
 
 
 
 
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「身内」と「マルチ」で韻が踏める

 

GWが終わり、外はすっかり夏の空気に満ち始めている。僕の頭は不労所得のことでいっぱいだ。なんて素敵な言葉だろう。字面は地味なのに、意味は最高。こういう女の人がタイプだ。不労所得といえば、僕の親類も一時期「ぜったい詐欺です」って感じのマルチにハマっていた。血は争えないとはこのことかもしれない。

 

一時期は僕も頻繁に誘いを受けていたし、外食を餌に下手くそなプレゼンを聞かされたこともある。二度ほどセミナーにも参加した。そういえば最近そういうお誘いがくることもなくなった。ふと気になった僕はその会社について調べてみた。

 

 

 

すると……

 

 

 

 

 

連鎖販売業者【(株)e-win】に対する業務停止命令について(中央省庁からの情報)_国民生活センター

 

 

 

 

 

 

 

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matome.naver.jp

 

 

 

 

 

 

 

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anti-multi-committee.xrea.jp

 

 

 

 

 

 

 

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sagihigai-sokuho.com

 

 

 

 

 

 

 

 

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他にもいろいろ調べてみるとこの会社、マークされるたびに何度もトンズラこいて新しい社名&事業で似たようなことを繰り返しているっぽい。現在のホームページに飛ぶと某格闘家が画面いっぱいに表示される。矢沢心もしっかりしてくれよ。

 

ちなみに僕が参加したセミナーでは「芸能人や社長などが相談に訪れるという瞑想の講師」とかいうメガネのおっさんが登場し、「この話に乗ることを家族が反対したら僕なら縁を切りますね。本当の家族ってのはその人が一生懸命に取り組んでいることを否定しない」、「このプロジェクトへの参加を躊躇してごねるようなやつはバカだし死ねと思う」と言い出すほど明らかに変なテンションだったのに、みんな背筋を伸ばしてうんうんと頷いていた。

更には講師に呼ばれて前に立った20代の営業マンが「みなさんは社員のために泣いてくれる経営者を見たことがありますか?〇〇さんは泣いてくれました」とマルチの代表について思いを語り、涙を流す。もう滅茶苦茶。

 

 このまえ読んだ精神科医の本で、第一印象で感じた違和感は実はかなり重要だ、的なことが書いてあったのだけど、まさにそれが当てはまる。きな臭いと感じたら絶対にお金を出してはいけないのだ。「二十代以上で数十万をぽんと出せないひとははっきり言ってその人生詰んでます」と瞑想ペテン師は言っていた。そうやって発破をかけるのだ。アホたれめ。思い出すだけで湯が沸きそうだ。あんなやつらに1円もくれてやるな。どうせクソみたいなタワマンや日焼けマシンに使う。だったらそのお金でチューハイとかを買って路上で飲もう。クソみたいなタワマンや日焼けマシンに費やされるはずだったお金がいまこうやって自分の胃に流し込まれていることを誇ろう。本当にえらい。悪と戦っている。正しくあろうとして何が悪い?

 

 

 

 

本当に嫌なことを思い出した。GWも終わったのに。ということでみなさんも悪徳マルチ商法には気をつけてください。身近でハマっている人がいたら、ちょっとでいい、気にかけてあげてください。だってその人の大事なお金がクソ野郎のタワマンや日焼けマシン代に消えてしまうなんて、これほど悲しいことはありません。

 

僕は僕で不労所得計画を水面下で進行させることにした。

少なくとも、マルチのようなおままごとには絶対に関わりません。

 

マルチのバカ!馬鹿!莫迦!地獄の業火で肌を焼きなさい!!!

 

 

 

 

自宅鑑賞映画(2017年4月編)

 

 

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甘い人生』(4/4)

Netflixで鑑賞。キム・ジウンはやっぱりアクションシーンがカッコイイ。イ・ビョンホンが痛めつけられ復讐するまでの話を妙にふわーっとしたナレーションで煙に巻く変な映画。楽しかった。

 

『バッド・チューニング』(4/13)

Netflixで鑑賞。風が気持ちよさそうにみえる青春映画はその時点で成功していると感じた。たったひと晩の物語。大した成長も要らない。不毛な時間を不毛な時間なりに楽しむことこそ青春だ。持ってたTシャツにプリントされている外国人が、この映画のマシュー・マコノヒーだと知ったのは最近の話。

 

『キス&キル』(4/16)

Netflixで鑑賞。とっても軽いアクションコメディ。『ナイト&デイ』の方が好き。

 

『バット・ボーイズ』(4/16)

Netflixで鑑賞。去年の末に前半だけを鑑賞したままずっとほったらかしにしておいていた。意外と長いし、そんなに弾けた感じもない。やっぱり『2』は異常ですね。

 

マネー・ショート 華麗なる大逆転』(4/16)

Netflixで鑑賞。難しい話のようでいて、観ていてちゃんと面白いのは作り手の腕だと思います。クソッタレな現実だけがゴロンと残るのはノンフィクションなので仕方がないけど、ラストで人のいないオフィスに上がった若者二人が漏らす言葉はやけに響く。

 

エクス・マキナ』(4/23)

Amazonプライムビデオで鑑賞。観入っちゃった。AI vs 童貞。次はサイコパスと衝突させたいね。

 

ディープ・ブルー』(4/25)

Amazonプライムビデオで鑑賞。レニー・ハーリン最高。お約束を外しつつ、ツボやユーモアは忘れない傑作鮫映画。リアルタイムで見たときはあまりの怖さに怯えたけど、いまみるとCGがちゃっちくて楽しむ余裕が生まれる。とはいえスカルスガルドの一連のシークエンスはあまりにも無慈悲で今でもドン引き。

 

『アンフレンデッド』(4/27)

Amazonプライムビデオで鑑賞。パソコンのデスクトップ画面で進む映画なのでパソコンで再生。面白い!!!自殺した女が「大人しい子」などではなく恥を拡散されたイケイケ女ってところも現代っぽい。通知音で怯え、ダウンロード中の画面で息を殺しちゃうようなあの感覚はこの映画の発明だと思う。またパソコンの画面に食い入るように見ちゃってるから、とにかく後ろが怖い。


ワイルド・スピード/SKY  MISSION』(4/29)

Blu-rayで鑑賞。最高!一番好き。




以上、9本!!!

書き下ろし短編:『ばりくそ慕情』

 

 仕事に向かう環奈を玄関まで見送ったあとでコーヒーを淹れ、ミニテーブルの上にあった博多通りもんを口に放り込んで、あ! しまったと、おれは咀嚼をやめる。

これは彼女が最後の一つとして大事にとっておいたものなのだ。

 

 日曜日。

 久しぶりの友人に会ってきたという環奈が博多通りもんをもって帰ってきた。包装紙を丁寧に開ける彼女が嬉しそうに話していたのを、おれはぼんやり眺めていた。

「わたしがこれ好きなの覚えててくれたみたい」

 その友人こと高橋ちゃんは環奈の福岡時代の親友で、つい最近上京したという。これからも定期的に会えるね、とおれが言うと「ねー」と環奈は歯をみせて笑った。

「あ、ついてる」

「え?」

「通りもんが」

 口元を手で覆いながら目を細める彼女のマグカップに新たなコーヒーを注ぎながらおれは考える。いや、本当はなにも考えていない。基本的に、なにかを考えることはない。

「もう一個食べていい?」というおれに環奈は快諾。連続で二個食べると彼女は言う。

「一個じゃないの?」

「え?」

「いま二個食べたじゃん」

「うわ。ほんとだ」

「うわ、じゃないよ。自分でしたことでしょ」

「無意識だったかも」

「無意識だったでなんでも許されると思って」

「ごめんごめん」

「うそうそ、怒ってないよ」

「あ、ほんと?」

「でも念のためこの一個はとっておくね。絶対食べちゃダメだよ? 返事は?」

「わん!」

「英語!」

「英語? あ、バウ!」

 よーしよしよし、かわいいんですね~喜んでるんですね~とムツゴロウのモノマネをする彼女に頭や背中を撫でられるまま部屋中を四つん這いになってバウワウ、バウワウ吠え回っているうちに疲れて横になって天井を眺めていると、いつのまに入ったのやら、環奈が風呂から上がってくるのでおれはその髪にドライヤーをかけた。

 

 ああ、しまった。しまったしまった。しまってしまいました。おれはそのまま咀嚼を再開する。一度口に含んだものを出すわけにもいかないのだ。親はおれをそんな風には育てなかったから。

 きちんと飲み下したあと、コーヒーでもってサーッと喉を流したおれは、ああ、でもやっぱりこれはダメなやつだろうなあと思う。環奈悲しんじゃう。博多通りもんってそのへんに売ってたっけ? おれは駅前のスーパーまで自転車を飛ばす。時折、他県の物産展なんかを催しているからだ。

 フードコートの給水器で喉を満たして適当な椅子に腰掛けた。物産展などやっていなかった。おいおいおい。おれはひさしぶりになにかを考えなければならないと思い、考え、部屋に戻った。ネットでどこに売っているのかを検索しようと思ったのだ。が、そもそもネットで売っているじゃないか。注文しちゃえば早いのでは? そう思いかけたがダメだ。環奈が帰ってくるまでに用意できなければ意味がない。

 窓を開けて部屋の換気をした。

ベランダに出て腕を組んでみる。

 おれにはクレジットカードがない。なのでネット注文するとなれば、代引きで支払わなければならない。が、いま手持ちが十円玉三枚と五円玉二枚に一円玉五枚……玉ばっかりだ。そこに金玉も足してやりたいほどだ。くそったれめ。ベーシックインカムを導入しろ。

 万策尽きてリビング中央で不貞寝しているとガチ寝に転じてしまったおれ。気が付くと午後三時前でちょっと小腹も空いている。

 環奈の帰りは八時ごろだ。

 ううむ。

 腕を枕にして唸っていると、隣室で物音がする。

 え、なに。なんだろう。

 環奈が帰ってきているとでも? 

 それはあまりにものんきな思考である気がした。侵入者だ。我々の財産を脅かそうとする不届き者だ。ここはひとつ、ふだんの憂さ晴らしも兼ねてぶっ殺してやろう。

 

 だが隣の部屋にいたのはおれの想像をはるかに超えた人物だった。

 

 おれだ。

 

 

 

 いや、本当におれなのだろうか。

 おれは目の前に立つ〈おれ〉を見て呆然としているのに、向こうはちっともそんな気配を見せずに「よう」とか言う。低くくぐもった響きだが、声までおれだ。でもやっぱり同じってわけでもない。まず着ている服が違う。いまのおれのようにスウェットにTシャツといったラフな姿ではなく、厚手のネルシャツに黒のズボンと季節感の若干のズレを感じる。おれは夏のそれだが、〈おれ〉のは秋っぽい。あと、〈おれ〉のほうが妙に体ががっしりしているし、顔もシュッとしている。我ながら精悍だ。どこか獣じみた殺気すら漂わせている。

「大丈夫。説明なら慣れている。でも面倒くさいから端折って先に質問したい」

「は?」

「見た感じひとり暮らしではなさそうだけど、誰かと一緒に住んでる?」

「え、いま?」

「個人情報保護のこととか考えてるだろ。じゃあ俺がいくつか名前を言うから該当したらリアクションして」

「はあ」

「いくぞ。すず、りほ、あやみ、ティナ、かすみ」

「……」

「はるな、かんな、ひなこ」

「あ」

「え? いた? だれ?」

「環奈」

 目の前の〈おれ〉が静かになる。「マジ?」

「うん。いちおういま仕事行ってますけど」

「敬語はいいよ。どうせおれなんだし」

「マジでおれなの?」

「見りゃわかるだろ」

「見てすぐわかるレベルだから困ってんだろ」

「わかる。おれも最初はそう思ったよ」

 とまあなんとも変な感じだ。

 さらに変なのは〈おれ〉が小さく息を吐いたかと思えば、うっすらと目に涙を溜めていた点だ。なにがどうなっているのかまだひとつもわからない。

聞いてみよう、どうせおれなんだし。

「どうしたの?」

「なにが?」

「泣いてる理由」

〈おれ〉は深く息を吐いた。「ちょっと」その声は震えている。

「こいよ」

 おれが両手を広げて迎え入れると、〈おれ〉は素直にしなだれてくる。回した手で背中をさすると〈おれ〉の鼻をすする音が聞こえたので、ついおれも鼻をすすってしまった。

 ハグしながら間近で見てもやっぱりこいつはおれだった。普段目にしないような耳やうなじの様子は新鮮だったが、でもたぶんおれで間違いないのだ。

「ありがとう」とおれから離れる〈おれ〉。

「気にすんなよ」

「ちょっと長い話をしてもいいかな? 時間大丈夫?」

「ああ、いいよ。せっかくなんだし」

 おれはコーヒーを淹れる。やつのぶんは……環奈のマグカップに注いだ。環奈のマグカップを手にした〈おれ〉は、それをじっと眺めたまま、どこか遠い目をしている。

「ぜんぶを完璧に理解しろとは言わない。信じろとも言わない。ただ、おれの認知している範囲でのことを説明するよ。聞いてほしい」

 

 話はこうだった。

 まず宇宙というものは何本もの紐が束になって出来ているらしい。その紐一本ずつにそれぞれの時間が流れている。そしてこの瞬間もまた新たな紐=時間が生まれ続けているというのだ。

 おれは話を遮断しない。もうちょっと聞いてみて耐え切れなくなったら質問をはさもうという狙いだ。

 目の前の〈おれ〉は、元々こことは違う時間紐で生きていたらしいが、そこにも環奈は存在し、〈おれ〉と一緒に暮らしていたそうだ。

 ふむ。

 そんなある日のことだった。

 一緒に道を歩いている最中、〈おれ〉と環奈が互いに歩道側を譲り合ってグルグルしていると、そこに一台の軽ワゴンが猛スピードでやってきた。そのときちょうど車道側に立っていたのは環奈の方で、〈おれ〉は迫り来る車から彼女を守ろうと、その手を強く握ったらしい。

 だが手遅れだった。

 どこからともなく彼女のサンダルが降ってきて、アスファルトの上で跳ねるのが見えた。握ったはずの手は、〈おれ〉の手の中には残っていなかった。なにも信じられなかった。その場に立ち尽くし、すべてから目を逸らそうと逡巡する自分に気がついて、愕然としたという。

 犯人は脇見運転の大学生だった。

「おれは自殺したんだ」と〈おれ〉は言った。

「犯人を殺して」

 言葉もない。

 不思議な出来事はそのときに起こった。

 死んだはずの〈おれ〉が目を覚ますと、永遠とも思える落下の最中にいた。そこは一切の光も射さない真っ暗な空間で、上下左右も定かではなく、ただただ落下しているという感覚だけが続いているという。そんな中〈おれ〉は一匹の柴犬に出会う。落下しながら出会うってなんだ。質問しようか迷っているおれを意に介さずに〈おれ〉は続けた。

「そいつは高校まで飼っていた愛犬のハッシュだったんだ。おまえは犬飼ってた?」

「いや、飼ったことない。ハムスターはいた。プリンとゼリー」

「そうか。まあいい。ハッシュはおれに言ったんだ」

「待って。犬だろ?」

「喋ったんだ。ここまででも充分信じがたい話してるのは承知だし、義務みたいにいちいち質問しなくてもいい」

「そうか。わるい」

 ハッシュは〈おれ〉に

 

愛をとりもどせ

 

 と言ったそうだ。なんじゃそりゃ。そして〈おれ〉はその言葉に「そうする」と即答。このやりとりもすべては落下の最中に行われているのだろうか。もうおれは質問しない。

 意思を示したとたん、目の前のハッシュがまばゆい光を放った。その光に包まれた〈おれ〉。全身を謎の倦怠感に襲われ、意識が遠のいたかと思うとそこは見知らぬ部屋の一室だったという。

 

「あ、それがここ?」

「まあそんな感じだ。正しくはここで五十六万八千二百十番目」

 ははは。

 

〈おれ〉はハッシュの謎のパワーと「愛をとりもどせ」という使命に突き動かされ、あらゆる時間紐を渡り歩き、環奈を探し続けたという。それぞれの時間紐に存在する「おれ」や『おれ』や【おれ】に接触し、環奈を失わせないための啓蒙をはかってきた。

 

「実はこの時間紐で二百十二回ぶり、九十七人目の環奈なんだ。この場合の環奈は『おれと出会って』『いっしょに暮らしている』環奈のことだ。あとの時間紐でのおれはそれぞれ違う女や男や動物や物と愛し合っていた」

「そんな」

おれの頭はとっくにキャパオーバーだ。なので目先の言葉に飛びついてしまう。「動物や物って……?」

「本当に知りたいわけじゃないだろ」

「いや、わからない」

「とにかくこの時間は久々の環奈紐なんだ。最近になってようやくコツのようなものが掴めるようになってきた。まあ、何万回と繰り返すことなんてそうそうないもんな。普通に生きてるときなんか」

「まばたきくらいかな」

「それとはまた勝手が違う」

「ごめん」

「そんなことどうでもいいんだ。要はおれの一番の目的はおまえと環奈が平穏に暮らすこと、ただそれだけ」

 その物言いに面食らってしまう。「いや、なんかありがとう」

「いやありがとうじゃねえんだよ。おまえの力で死ぬ気でもってそれを実現しろ。同じ過ちを犯すことを回避しろ」

 そう言う〈おれ〉の表情は鬼気迫るものだったが、いかんせんあまりにも自分なので鏡でキメ顔をつくっているときのような居心地の悪さがある。くそ。いまは真剣に取り合うべきなのだ、とおれの直感は言っているが。

「ということはつまり……おれが車道側を歩けばいいってこと?」

「いや、それは場合による」

「なんで?」

「いまも含めた過去九十七つのうち、すでに手遅れだったパターンがその大半を占めていた。おれの場合は事故だったけど、通り魔、火事、病気、自殺。いろいろあるよ。おれの方が先に死んでる場合もあったし」

 ザーッと血の気が引く。ある程度可能性を意識したことのある事象の数々が、実際に起こってしまった世界があって、それぞれのおれはその事象がもたらした結果を受け入れてきたというのだ。いまここにいるおれには関係なくとも、広い意味で言えばおれの話ってことでもあるので、やっぱり一応肝はしっかり冷えてくる。

「みんながみんな受け入れたわけじゃない」と〈おれ〉は続ける。

「おれこそそうだろ。おれは受け入れないほうを選んだ。だからこんなことになっている」

 

 こんなこととはなんだろう? 別の時間紐を生きるおれに会いにきていること?

 

「とにかくおれは引き受けることにしちゃったから。業を」

「業?」

「うん。ぜんぶ」

「なにそれ。どういうこと?」

「違う時間紐の復讐をおれが横取りするんだよ。別のおれから」

 

 横取りという言い方からは、〈おれ〉自身抱いているのであろういくらかの罪悪感を垣間見た気がした。

ある時間紐でおれと一緒に暮らしていた環奈は、アパートの隣室で起こった爆発に巻き込まれて死んだ。隣室の住人が爆弾を作製していて、ちょっとしたミスから誤爆したのだ。ということは犯人も一緒にその爆発で死んでいる。それじゃあいったいだれに復讐するというんだ?

 そこで〈おれ〉は爆弾の作製を援助した人物を特定する。そこから芋づる式に、誤爆死した男と同じ思想を持つ過激派組織の存在が浮かび上がる。〈おれ〉は長い時間をかけ、ついにはその組織を壊滅にまで追い込んだという。

 壊滅って、そんな馬鹿な。

「そういうこともあったって話だ」と〈おれ〉はつぶやいた。「他にもある。臓器売買をしているバカどものときが一番最悪だった。でもこれ以上話す必要性を感じないし、おれも話したくない」

聞きながら、つい先ほどハグをした〈おれ〉の感触を思い出す。

〈おれ〉は続ける。

「おれが現れて説得して、それでも彼女の死を止められなかった場合に関して言えば、おれがその時間紐を引き取る。具体的には食べる」

「んんん?」

「できるんだよ。おれはふだん時間紐の外にいるからペロンて。素麺みたいに」

「食べてどうなるんだよ」

「よくわからない。ハッシュも教えてくれない」

「ごめん」とおれは自然と謝っていた。「ふさわしいリアクションがずっと見つからないや。さっぱりわからない」

「こればかりはおれ自身の感覚的な話だから」

「業ね」よくわからないなりにひっかかる言葉だと思っておれがつぶやく。ほつれた糸を目の前に置かれたような収まりの悪さが残る。

 不意に強烈な不安に襲われたおれは、スマホで環奈にラインを送った。

 

『晩ご飯どうしようか?』

 

〈おれ〉も画面をのぞきこんでいる。おれたちはコーヒーをすすりながらミニテーブルに置かれたスマホの画面を何度も確認した。なかなか反応がない。

 不意に〈おれ〉が穏やかな口調でつぶやいた。

「きょう仕事は休みなの?」

「あ、おれ? してないよ」

「ん」

「無職だよ」

「え」と〈おれ〉。「環奈は働いてるんだろ?」

 おれは〈おれ〉に責められるのが急に怖くなる。

「まあ、まあそうなんだけど、いまの時点でおまえはヒモなんだ」

「おれじゃねえよ」と〈おれ〉。「おまえだろ」

「同じ“おれ”じゃないか」

「都合のいいときだけ重ねやがって。おまえは違うおれだ」

 それもそうだ。分が悪いのでいますぐ話題を変えてやろうと考えるが、さっきからぶち込まれるちんぷんかんぷんな情報のせいでちっとも頭が回らない。しょうがないので、壁を眺め、窓の外を見て、それから〈おれ〉を見る。

「そういやこれからどうするの?」

「ん? おれ?」

〈おれ〉はそうつぶやいたっきり動かなくなった。手元の環奈マグカップをまじまじと眺め、小さく呼吸を繰り返している。それから不意に、床に落ちていた一本の長い髪の毛を拾い上げる。

「これおまえの?」

「なわけあるかい」

「もらってっていいかな?」

「え?」

 つい反射的に、いわゆるつっこみというものをしかけるが、いまのおれには突飛に思えることが、だれかの切実な願いかもしれないという可能性が意識をかすめる。蔑ろにはできない。ようやく心がこの状況に追いついた気がした。とたんに涙までこぼれそうになるのでちょっと不思議だ。

「いいよ。掃除しちゃうとただ捨てるだけだし」

「ありがとう」そう言って〈おれ〉は履いているズボンのポケットに小さな輪っか状にした髪の毛をしまう。ああ。もっとなにか持ってってほしいな。そう思っておれは考える。とそこで思い立つ。

「環奈に会ってくだろ?」

「いやそれはしない」

〈おれ〉は即答した。

「なんで」

「向こうがびっくりするだろ」

「え? 二人いるから? だったらおれのふりすればいいじゃん」

「え?」と〈おれ〉はちょっとだけ考え出す。「いいの?」だって。

「いや知らないけど。やったことないのか」

「過去九十六回……の中の彼女が生きていた時間紐ではやってこなかった。環奈自体には何万回も会っているけど」とモゴモゴ言っている。

「へえ」

「いろんな環奈がいるんだよ」

「どんな」

「一番ビビったのはあれだ。アイドルやってたとき」

「え!」

 おれが笑うと〈おれ〉も笑った。

「千年に一人……とかいうすごいコピーまであったぜ」

「冗談だろ」

「いやいや。おれなんてわざわざ握手会にまで行って会ってきたし。号泣しちゃってさ。みんなドン引きしてんだけど、環奈はぜんぜん。神対応だったね」

 そう言う〈おれ〉の目はまた潤みだしている。おれはスマホを手に取るとさっき送ったメッセージを確認する。

「あ!」

「なんだよ」

「既読ついた」

「マジ?」

 スマホ画面を覗き込む〈おれ〉の顔をこっそり覗いてみる。泣いたりするのかなと思ったが、意外と冷めたツラをしてやがる。安堵ととるにはあまりにも途方もない表情だ。そう感じるおれの心がしくしくいってる。

 おれは約束する。ってことをこのときに誓う。

 彼女を絶対に死なせない。

 彼女の幸せを考え、足したり引いたりを繰り返そう。

 こちらに視線を移した〈おれ〉は、「仕事をしろ」と言った。うん。それもひとつの手だ。〈おれ〉は穏やかな口調で続ける。

「仕事でもなんでもして、おまえはおまえ、環奈は環奈でたのしくやれよ。それが一番なんだ。彼女が幸せであるためにはおまえの幸せだって必要だろ。あとそうだ。これも言っておかなきゃ」

「え、なに。ちょっとこわいな」

「ってことはある程度察しがついていることだろうと思うけど、おまえと一緒にいること以外にも彼女の幸せはあるんだよ」

 やっぱそういう話か~。

 まあでも、いまのおれはクソファッキンニートのヒモ野郎なのだ。彼女の生死、という話の大きさに勝手に息巻いているところがあるが、もっと細かなところで戦わなければならないことが山積みだ。ああ、恐ろしい。とはいえ宇宙をまたにかける〈おれ〉がこうやって目の前にいるんだから、この一回分の人生における諸々の課題なんて大したことないような気もしてくる。いまは興奮があって色々なことを見落としている状態なのかもしれないが。でもこの熱だけはもうしばらく冷めないでほしい。例えばおれが仕事を見つけるまでとか。

 どうか。

 どうか。

 

 おれは〈おれ〉に服を貸し、ふたりで環奈の帰宅を待つ。

 ラインに返事が来る。

 

『職場でもらった弁当があるからそれ食べよう!』

 

「緊張するな」

 そう漏らす〈おれ〉の肩をおれは抱いた。

「だいじょうぶ。環奈が帰ってきたら、ちゃんとおれの言ったとおりに伝えればいい」

 夜になる。

 おれは押し入れに身を隠し、わずかな隙間から〈おれ〉を見守る。落ち着かない様子で深呼吸を繰り返す姿は我ながら笑っちゃうが、その背に滲む何十万分の慕情を思うと胸を突くものがある。

 やがて玄関のドアが開き、環奈の「ただいま~」が聞こえてきた。

 ひとつに凝縮されたすべての希望が、自らの非凡さに遠慮しているような、あまりにもいじらしい響きだった。

「おかえり」

 そう言う〈おれ〉の声は震えている。

 震えたままの声で、〈おれ〉は言う。

「ごめん環奈。ちょっと話があって」

「んー。なに」

博多通りもん、食べちゃった」

 死角となっているので、おれからは環奈の姿が見えない。確かなのは、不穏な沈黙が続いているということだけだ。

「はあ?」

「マジで、マジでごめんなさい」

「いや、なんしよーとやー!」

「ごめん。マジでごめん」

「マジってつければいいと思ってもー! ひどい!」

「本当にごめん」

「いやいやいや~」

「ごめんな」

「わ、どうした。ちょっと泣きすぎ」

「ごめん」

「どうした? だいじょうぶ?」

「ごめん、マジで。へへへ」

「いいよもうわかったって」

「うう」

「ちょっとちょっと。情緒がわからん。そんなに?」

「うん、ごべん」

「泣いてんのか笑ってんのか」

「両方」

「ははは。なんかあったと?」

 あったんだぜ環奈。と思うおれは押し入れのわずかな隙間も閉めて寝転がる。これ以上はもう見てられない。

 

 トイレに入ったのを最後に〈おれ〉は姿を消した。

 貸した服も一緒に消えた。代わりに、やつの着ていたネルシャツとズボンはちゃんと押入れの中に残ったままだった。こういうところはおれっぽい。秋頃になったら着ちゃおう、なんて思う一方で、あ!

 ズボンのポケットには環奈の髪の毛が入ったままだった。

 すまねえ。

「ねえ、ほんと今日はどうしたの? なにかあったっしょ?」

 と弁当をつつきながら尋ねる環奈をおれは見つめ、返事に頭を悩ませる。

「だから博多通りもんを食べてごめん。ってことなんだよ。ほんとうにごめんなさい」

「それはもういい。また今度実家から送ってもらえばええし」

「うーん? その手があったな」

「にしてもあんな泣くことかね」

 おれは仕事をさがすだろう。

 なんにせよ収入を得ておいしいものをたくさん食べたい。博多通りもんだって山ほど食わせてやる。そんでいつか南の島にでも行って、ビーチでトロピカルドリンクを飲もう。絶対にそうしよう。おれの熱はまだ覚めていない。同じ布団に入り、隣で寝息を立てている彼女の、その脚の温もりと立ちのぼる髪の匂いに包まれていると次第にまどろんでくる。

 たぶん今ごろ、どこかのおれは笑っているかもしれない。怒っているのかもしれない。泣いているのかもしれない。

 布団の中にいるのかもしれない。

 なにかを食べているのかもしれない。

 なにも考えていないのかもしれない。

 本を読んでいるかもしれない。

 なにかを忘れているかもしれない。

 映画を観ているかもしれない。

 居眠りしているかもしれない。

 陽の光を、風を浴びているかもしれない。

 道を歩いているかもしれない。

 買い物をしているかもしれない。

 車道側から彼女をずらしているかもしれない。

〈おれ〉はおれの短パンに入った博多通りもんのゴミを見つけているかもしれない。

 違う時間紐で悲しむおれを慰めているかもしれない。

 あの意味不明な説明を繰り返しているかもしれない。

 死への怒りをぶつけているかもしれない。

 終わりのない落下の中で、ハッシュという謎の柴犬とまどろんでいるかもしれない。

 何千何万何億何兆もの環奈に出会い、何千何万何億何兆もの時間のなか、すり減ることすらできずに、業を背負うという言葉に縛られているかもしれない。

 たぶん今ごろ、どこかで〈環奈〉がそうしているように。

 無数の可能性が存在するのだ。最悪が無限に芽吹くように、奇跡と呼べる出来事も無限に芽吹いていたっていいはずだ。

 彼女は歌い踊り、地面を蹴る。

〈おれ〉がそうしているように。

 いつかどこかで〈おれ〉は出会うかもしれない。

 いつかどこかで〈環奈〉は出会うかもしれない。

 歩道側を譲り合うふたりのそのグルグルが、蝶の羽ばたきのようにいくつもの次元を超えてまた新たな時間を生んだりもするのかもしれない。

 

 

 

 そんな夢をみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書き下ろし短編:『歓待』

 

 部屋を一通り掃除して疲れて横になったところに発作がきて、俺はまた壁に穴を開ける。情けなくて嫌になる。薬を切らしたばかりだからだ。粘着ローラーで毛やほこりを巻き取ったばかりのカーペットに仰向けになった俺の眺める天井はやけに高くて、それこそ十メートルくらいあるんじゃないか? でもそんなことはありえないし、さっと手を伸ばしてみると今度は急にいつもどおりの高さに見える。はっ。ん? あれ? いやいやいや。そんな感じで遠のいては戻り遠のいては戻りを繰り返す天井が俺の症状のひとつだった。
 先生に聞いたところによると、こういう発作は「脳神経系の機能異常」が原因らしかった。「脳神経系の機能異常」という言葉から俺の頭の中に浮かぶのは絡まる網のような神経の隙間という隙間に銀色の仁丹を液体すら通り抜けられないほどびっしり敷き詰めなきゃならないということだったりする。おえ。情けなくて嫌になるのも当然で、そばにあったクッションに顔を押しつけて叫ぶのは、言葉にならないくぐもった呪詛ばかりだ。

 今朝も六時に起床して真っ先にカーテンを開け朝日を浴びた。快晴だった。俺の発作を抑えるにはセロトニンが必要らしいので、天気のいい日は必ず日光を浴びるようにしている。生活習慣から正していくことが大切だと先生は言った。暖房を切ったあとベランダに出て乾いたタオルで手すりを拭き、布団一式をそこに干す。それから軽いストレッチとスクワットをすませるとダイニングを経由してリビングに向かい、片手サイズの鉢から生えている観葉植物に水をやる。なんて名前の草なのかは知らない。でもかわいい。俺は「脳みそ」と呼んでいる。天気のいい日に一日中窓辺に置いてやると、葉がつやをもち上向くからだ。
 テレビをつけて天気予報を確認した。今日の最低気温は七度。最高は十二度。湿度は三十パーセントで乾燥している。あとで加湿器に水を入れておこう。朝食は食パン二枚をトーストにしてピーナツバターを塗ったやつとゆで卵二個を食べる。パンも卵もそろそろ切れるころだからまた注文しておこうと皿をまとめたおれは引き戸を足のつま先で開けて台所のシンクに食器を置き水で適当に濡らしてから冷蔵庫に貼り付けたB5サイズのホワイトボードに「パン」「卵」と書く。あとなんだ。……「ペニス」と自動筆記してしまった俺は、マーカーの蓋についた綿みたいなやつで最後の文字だけを消す。大きな独り言と並行して、まったく関係のない言葉(しかもだいたい品のない)を無意識に書いてしまうことも増えてきたような。これも症状のひとつなのだろうか? あとで先生に聞いてみよう。
 顔を洗い、髭を剃ろうか迷うもやめて、服を着替え、安物買いの運動靴を履いた。ドアを開けると朝の冷気が鼻腔をいっきに乾かすのがわかる。毛糸の手袋を両手にはめて、踊り場を含めて十五段ある階段を降り、またのぼる。これを五回繰り返してようやく狭い駐輪場を抜け道路に出た俺だけど、でも遠くには行かない。発作が面倒だからだ。なのでアパート前にある古い自販機で缶コーヒーを買ってその場で日光浴をしながら飲むのが日課となっていた(雨天決行)。このアパートは周囲を畑に囲まれたなにもない平野にぽつんと建っていて、最寄りのコンビニまで歩いて三十分だし、歩いている人が居ればそれは近くの畑の持ち主かもうちょっと行ったところにある生コン工場の関係者だ。俺はそう思っているが、たまに俺の様子を見に来た誰かなのかもしれない、ということも考えたりする。暇なのだ。部屋に一日中こもるのも良くないらしい。確かにこもってばかりいると俺もだんだんじっとしていられなくなるのでこういう息抜きの必要性は日々実感している。どんな小さなことだっていいから、やることがあるのはいいことだ。
 部屋に戻ると七時半で、リビング→ダイニング→浴室トイレ前→寝室→書斎の順にフローリング用ワイパーで床を拭く。リビングに敷いたカーペットに粘着ローラーをかけ電気ケトルでお湯を沸かしながら浴槽の残り湯を使って洗濯機を回す。
 八時。ワイドショーを眺めながらインスタントコーヒーを飲む。洗濯物を干し、映画を一本観る。だらだらネットを見て過ごす日もある。まあなんでもいいのだ。ただしいまだに本は読めない。文字が頭で像を結ばないからだ。
 十時半。リビングのミニテーブルの上にアロマキャンドルを置いて火を点け、それをまえにファッション雑誌の写真だけを眺めて過ごす。そのまま十二時を迎えた俺はスマホでラジオを再生しながらスパゲッティを茹でる。朝食分の洗い物をすませ、濡れたシンクをきれいに拭き、新しい食器を用意する。茹で上がったスパゲッティはお湯を切ったあとにオリーブオイルで和え、納豆と味噌とめんつゆとみりんを混ぜたものを上にのせてその場で食べる。食べ始めてからふと思い立ち、フォークを左手に持ち替える。食べ終わると、食器をすぐに洗って伏せておく。なにもないシンクを見ていると落ち着く。冷蔵庫のホワイトボードに「納豆」と書き加える。頭のどこかが重い気がしたので、冷やしておいた冷却シートをおでこに貼った。「でこシート」と書き加える。
 十二時半。歯を磨き、雑誌の続きを読もうかとリビングで横になると、雑誌を開くこともせずに床に頬を押し付け地上十センチほどの視界をぼんやりと眺めたまま動けなくなる。そのまま眠る。肌寒さで起きたのは一時十五分で、ベランダから布団を取り込むとそれを敷いて再び眠る。二時前と三時ちょい過ぎにそれぞれ目を覚ますが、布団の温もりが俺を離さない。三時半。尿意で腹部が重い。布団から抜け出してトイレに向かった。洗面台で手を洗ったあたりからそれは始まっていて、リビングに戻って布団をたたもうか逡巡しているうちに発作に見舞われたのだった。この生活もかれこれ一ヶ月を迎えようとしている。
「それはトゥレット症候群みたいなものかなあ」
 発作の最中、俺は無我夢中で電話をかけていて、先生が出る。俺がこの部屋に住むようになるちょっと前から、主治医である先生から専用の携帯電話を渡されていた。これは俺と先生のためだけの電話らしい。何を話しても外に漏れることはないし、医者である自分にも守秘義務があるので、安心してすべてを話してほしいと、そう言われた。だから今日も先生は俺の支離滅裂な泣き言を傾聴し、落ち着きが戻るころには簡単な雑談をはさんでくれる。呼吸を整えた俺は涙と鼻水をティッシュで拭いながら、今朝無意識のうちに書いていた「ペニス」について聞いてみたのだ。
「トゥレット症候群?」
「チック症の一種でね。チック症は前話したかな?」
 チック症でチックショーという言葉が浮かんできた。以前聞いたときにそうやって覚えたのだ。「覚えています。ビートたけしごっこのときでしたっけ?」
「そうそうそう。それでさっき言ったトゥレット症候群もチックを伴うものでね。汚言症と言って、攻撃的だったり卑猥だったりする言葉を無意識に発しちゃう症状が出ることもあるの」
「おげんしょう?」
「うん。汚い言葉で汚言。四文字言葉とか」
「四文字言葉」
「知らない? 例えばおまんことかきんたまとか、あるでしょ?」
「ひどいですね」
「説明の一環ですよ。いま周りに誰もいないので」
「なるほど」
「言葉を書いちゃった件に関しては、特に問題ないと思います。ある程度なら誰にでもあることですし。舌打ちは割と多くの人がしちゃうでしょう? だから気にしなくとも大丈夫です。最近も、きちんとしたリズムの生活は遅れていますか?」
「そうですね。ちゃんと早寝早起きはするようにしています。あと、運動も最低限するようにしています。朝日も浴びて。そうだ、朝日っていいですよね。朝日を浴びながら飲むコーヒーは美味しいですよ」
「あれ、東條さんコーヒー飲まれるんでした?」
「そういえば飲みますね」
「カフェインはパニックの原因になったりもするので、できるだけ控えたほうがいいかなと思います。カフェインが入った飲み物は、好き?」
「普通です」
「そうですか」
「今度から水にします」
「そうしたほうがいいと思います」
「あ、それと先生」
「なんでしょう」
「薬切れちゃって。ロラゼパム
「え、それはいつの話ですか?」
「三日前の夜だったと思います」
「どうしてもっと早く教えてくれないんですか。まさか自分で薬の量を減らそうと思ってません?」
「あー」
「薬ってのはこちらで処方したものをきちんと飲んでもらわないと、勝手に減らしたり増やしたりされると場合によっては治療が長引くこともあるんです。まあロラゼパムは発作時に服用するものですけど、手元にないとなると予期不安が出やすくなっちゃいますよ」
「そうなんですよ。まさに」
「すぐ送りますのでね。明日の午前中には届くと思うんですが、今日はできるだけ深い考え事などは控えて、リラックスをこころがけるようにしてください」
「リラックス。そうします。すみませんでした」
「怒っていませんよ」
「こんな生活、いつまでも続けていいとは思ってないですけど」
 吐息の音で、先生が笑ったことがわかる。「東條さん、大丈夫ですよ。いまはそういうこと、あまり考えないでください。体調をよくすることが最優先ですし、それは無理をすることで達成できるものでもありません。ゆっくり時間をかけて。それが健康への最短ルートなんです」
「はい。静養します」
 引き続き先生がなにかを喋る気配はあったが、俺はなにも気づかないふりをして通話を切った。カーペットの上に携帯を滑らせ目を閉じる。何も考えない。なかなか難しい。俺はその場で仰向けになり、ゆっくりとした呼吸を続ける。引き戸の向こうにある冷蔵庫の低音が聞こえなくなるまでそうする。俺はトーストの上のバターだ。ここはとても温かいから、溶けて染み込んでいく。
 布団を寝室の押し入れに仕舞い、洗面台で顔を洗った。鏡に映る自分を見ると、朝よりも頬がこけて見える。発作が起きるたび、俺の中の何かが漏れ出ているんじゃないかと考える癖があったが、そういう文脈を見出す必要などないと以前先生に言われている。必要がない、じゃまだ足りない。はっきりと禁止してもらったほうがずっといい。

 台所をはさんでリビングの向かいに位置する四畳半の書斎に入った俺はワークチェアに腰掛けると足元の電気ストーブのひねりをつまんで四百ワットに合わせる。作業机が面する壁には無数の付箋が貼ってあり、その中のひとつであるフルーツゼリーのレシピを眺めた。負担となる思考を封じるには、手を使う作業が適しているのだ。夜になり、不安や孤独に目が向きがちになったら、タッパーいっぱいのゼリーをつくり、ひとりで全部食べてしまおう。この生活を孤独ととるか自由ととるかだと俺は思う。
 午後四時半になる。氷を入れたビールグラスを用意し、韓国焼酎とエナジードリンクを注いでシンクに置く。気だるい夜を迎え、眠たくなったら眠るだけの生活にもハリがいる。
 午後五時。半分まで水を入れた鍋に、沸騰前から生の鶏胸肉を投入し弱火で茹でる。そこでふと思い出すのは「パン」と「卵」と「納豆」と「でこシート」だ。スマホで注文を済ませ、また先生に電話しようかなと思う俺はアルコールでちょっとだけ気分が上向いているのかもしれない。さっきとはまた違う、どうでもいい話を三十分ほどできたら、俺はより快方へと向かう気がする。
 午後五時半。台所に湯気が立ち込めているので換気扇を回した。俺はフォークで鶏胸肉を突き刺し茹で具合を確認。焼酎の瓶とエナジードリンクの缶と氷の入ったコップ、ラップをかけた鶏胸肉の入った皿をいっしょにバスケットケースに入れる。ケースには三メートルほどの紐を結びつけてあるので、その先端を持った俺は玄関を出てすぐの手すりから屋根へと登り、ゆっくり紐を引いてケースを回収する。屋上には折りたたみ式のレジャーチェアーがひとつだけ置いてある。俺はそこで夕陽を見ながら夕飯を食べることを、ここ一週間ほど楽しんでいた。
 俺の発作の原因のひとつには、広場恐怖症というものがあるらしい。そのせいで俺は一定の距離以上外出することができない。このアパートから離れ、いつ誰と遭遇するかもわからない場所なんかを歩いていると、決まって冷たいシャワーを頭から浴びたように呼吸が浅くなり、それは大海原に浮かぶ悪夢であり、気を失うほどの億劫に襲われるのだ。でも屋上にて、この埃っぽいギシギシした椅子に尻を沈めながら、夕間暮れのオレンジと紫が溶け合うところの、その真っ白な境界を眺めている分には、俺の心は平穏そのものなのだ。ここにこそ快方へのヒントが隠されている。俺はそう思っている。
 三つの棟から成るコの字型の我が城には、俺以外の人間は住んでいない。こんなふうに赤く染まる様を眺めているぶんには愛着のひとつも抱いたりはするが、落日とともにそそくさと夜の一部と化しやがるところは好きじゃない。そのそっけなさが、いまの俺にはやけにこたえる。世界から音が消えたように感じられ、静寂に耐えかねたこの頭が、自ら音を生み出そうと暴走することだってあった。夜は基本ろくでもない。薬がないとなおさらだ。
 だから俺は太陽との別れを毎日惜しむ。こうやって覚悟を固めてる。俺は俺の生み出す幾千の音に耳を傾けることはしないし、無視に努めることもしない。ただそこにあるものとして受容することに成功した日なんかは、不思議とよく眠れるのだ。よくある話なんだろう。百とか零とか、近すぎたり遠すぎたりしても物事はうまくいかないようにできているらしい。発作時に見る遠近感の狂った天井だって、脳が必死にその中間を探っている状態なのかもしれない。不安定なオートチューニング機能。いじらしいぜまったく。この脳みそを抱きしめながらぐっすり布団で眠りたい。

 西陽にまどろみつつスマホから伸びたイヤホンで音楽を聴いていると、途端に音が中断され、振動がくる。
 画面を確認すると「福祉課」の文字。
 まず俺は出ない。それから酒を一口飲み下し、椅子から立ち上がって背筋を伸ばした。深呼吸をゆっくりと三回。かけ直す。
「もしもし」
「あ、東條さん?」
 低くよく通る声だった。俺はその主を知っている。
「そうです」
「福祉課の三宅です。どうもお世話になっております」
「ご無沙汰しております」
「ははは。そうね。元気?」
「ええ、まあ」
「そうかそうか。あ、突然で申し訳ないんですけどね? 今日これからそっち伺っても大丈夫?」
「というと、部屋にですか?」
 自分がゆっくりと端の方まで歩いていることに俺は気づいた。
「そうそう。新年度に向けて備品やらなんやらのチェックが必要でさ。ちょっとばかり急ぎなんだよね」
「そうですか。構いませんよ」
 本当にそうだろうか。
「悪いね。すぐ済むから」
「今日っていうと、何時頃になります?」
「実を言うともう向かってるんだよね。あと十五分くらいかな? いまなにしてた?」
「夕飯を食べてました」
「ああ、そうか。ごめんね。ほんとすぐ終わるから」
「別に大丈夫です」
「そういや東條くん、いま号室にいるんだっけ? Bの一〇二号室?」
「いえ、僕はA棟の二〇五号室です」
 通話を切ると、遠く市内放送用のスピーカーから『七つの子』が流れているのが聞こえた。まだ外は明るい。日が長くなってきているのは個人的にも嬉しい限りだ。
 バスケットケースを先に下ろして、自分も廊下へと飛び降りる。人と会うのは久しぶりだ。俺はこの一ヶ月、まともに人と会っていないし、先生以外とはろくに会話もしてこなかった。不安がないといえば嘘になる。軽い散歩さえままならないのに。どうせなら福祉課の人ら、ついでに薬も持ってきてくれると助かるんだけどなあ、なんて思う。
 とはいえせっかくの来客なのでコーヒーでも振舞ってやろうとリビングのケトルを台所まで運んでお湯を沸かす。部屋を見回しながら掃除を日課にしていて良かったと実感した。そういや俺の格好はどうだろう? 屋根に出ていたこともあって上はカーキ色の上着を羽織っているが、下はスウェットのまんまだ。髭も剃ったほうがいいのか? 迷う俺がクローゼットに向かう途中、ミニテーブルの上に置きっぱなしにしてあった先生用電話が振動していたので手に取る。いつのまにか着信が二件入っている。かけ直そうとした矢先、携帯は忙しなく振動を始める。
「あ、先生? すみませんなんか電話」
「東條さん、切らないで聞いてね」
 と言う先生の口調は一時間ほど前とはうって変わって直線的な鋭さを孕んでいた。俺に負担をかけまいとする遠回りな態度ではない。
「なんでしょうか」
 しかしそこで不思議に思うのが、俺は先生のそういう態度に頭のどこかが冷たくなるのを感じている点だ。まるで役割を交換したみたいに、俺は先生の言葉に耳を傾けている。そんな俺に先生は言う。
「落ち着いて聞いてほしいの」
「はい」
「福祉課の人間がそちらに向かっています」
「さっき電話が来ましたよ」と答えると、先生はいつものリズムなら言葉が返ってくるであろうタイミングに沈黙を挟む。
「僕なにかしましたっけ」
 と言ってすぐになにもしてないからか? と思う俺に先生は潜めた声を出した。
「気になる点として、私には一切連絡がきていないんです。それはとても瑣末なことかもしれませんが、一応、念のためと言ったほうがいいですね、伝えておこうと思います。ここまでは大丈夫ですか?」
 何がどう大丈夫かも判断がつかないが、俺は「はい」と答えている。
「こちらの方でも事情を確認しようと思うんですけど、それまでに福祉課の人間が東條さんの部屋を訪ねることになるかもしれないので、それはそれとして覚えておいてください」
 もう着いてるんじゃないか? 俺は窓から駐車場を見下ろす。車はない。「わかりました。ところで先生」
「なんでしょう?」
「それ僕に伝えて大丈夫なやつですか?」
 先生は「わかりません」と言った。正直にそう答えただけなのかもしれない。俺は自分の脈拍に意識を向けてみる。どうだろう。はっきりと身体の揺れを感じる。引き戸が音を立てていないので、地震ではないみたいだ。
「ちょっとすみません」
 俺は携帯を握ったまま仰向けに寝そべった。深呼吸をしながらイメージする。バター、バター、バター。なかなか溶けてくれない。どれくらい繰り返したか、再度携帯を耳に当て「もしもし」と話しかけても、通話はつながっていなかった。じっと画面を眺めていると、台所の方からお湯の沸騰をしらせるカチッという音が聞こえた。

 不意に俺はいますぐこの部屋から飛び出して外に隠れていようかなと思い立ち、着替えようとクローゼットを漁る。と、窓の外からエンジン音とアスファルトの上をタイヤが転がるザラザラとした音が聞こえた。カーテンを開け放したままだったので半分ほど閉めると布を握って揺れを止める。隙間から駐車場を見下ろせば、グレーのコンパクトカーが中央に停車し、中から二人の男が降りてくる。運転席から出てきた方は暗緑色のジャケットを着た黒縁メガネで脚が長い。まだ二十代くらいかもしれない。助手席から降りてきたのは白髪頭で同じくメガネでスーツの上から黒のダウンジャケットを羽織っている。三宅係長だ。三宅係長は真っ先に俺のいる部屋を見上げてくるので目が合う。俺はカーテンを開き、会釈した。これでもう居留守は使えない。
 なにも考えるな、と言い聞かせる自分に懐疑的な気持ちが勝ってしまう。台所に戻り、来客用のコーヒーカップを二つ並べた俺は、壁、天井の順に視線を這わせ、それから背後にある玄関の向こう、階段を上がってくるふたり分の足音に神経が総動員されていることに気づいて深呼吸を始める。鳴り響くインターホンに全身が強張りかけるが呼吸は絶対にやめない。そうしている限りは、俺はまだ生活を続けられるはずなのだ。
 出しっぱなしになっていた韓国焼酎を棚の一番奥に隠してから玄関に向かった。ドアの横に取り付けられたモニターには先ほどのふたりが映っている。「どうも、こんばんは」と若いメガネが言う。「福祉課の者ですけど突然すみません。部屋の備品について確認させていただきたく本日は参りました」
 俺はドアノブに手をかけ、鍵のつまみをひねる。めくるめく逡巡に頭が変になりそうだったが、深呼吸だけに集中し続けた。
「東條さん?」
「ああ、はい」
 としゃがれた声で返事をしながら俺がドアを開けると、二人はその場から動くことはせず、「どうもすみません突然お邪魔しちゃって」と、まずは若い方が笑う。「ちょっと確認させてください。書類にまとめて今日中に報告しなくちゃならないんで、すみません。いいですか?」
 咳払い。「どうぞ」
「失礼します」と若い方がドアを押さえてくれるので、俺はふたり分のスリッパを並べることができる。後に続く三宅係長は「ご無沙汰です。すぐすむから」と俺に言った。そうですか。

 でもそうはならなかった。

 俺の前には無数の選択肢があった。まず差し入れとして渡された缶コーヒーを飲まなかった。手のひらの上で弄びながら近況報告をしていたが、三宅係長の目はなかなか俺の手元には向かなかった。一度だけ、こちらの目を盗むように動いた程度だ。なんらかの意識が働いている気がしたし、そうとることにした。胸がねじれるような気持ちの悪い感覚に襲われた俺がシンクに手をついたときも、また気になることが起こった。三宅係長はいま思い出したかのように、ダウンジャケットの内ポケットから薬袋を取り出したのだ。
 もしや愛しのロラゼパムだろうか?
 渡されたそいつを口に含む俺は、そこで最後の選択をした。

 

 午後六時半。日が落ち、部屋がどっと暗くなったので台所の蛍光灯を点灯させた。
 なにかをやらかした記憶はない。
 一方で、なにもしていない人間にここまで労力を費やすとも思わない。
 水で口を何度もゆすいだあと、コップいっぱいの牛乳を飲む。洗浄目的だったけど、久々に激しい運動をしたこともあって体が補給を喜んでいるような感覚がある。三宅係長にもらった缶コーヒーは、水で血を洗い流したあと冷蔵庫に入れておいた。すべての部屋の戸締りを確認し、カーテンを閉めると、ふたりの持ち物を漁った。若い方の男は月村という名前の二十五歳。尻ポケットからS&Wと刻印された折りたたみナイフが出てくる。三宅係長からはジッポライター。いただきます。ふたりを浴槽まで運び、床の汚れをいらないTシャツで簡単に拭き取る。その最中に先生からの電話が入って、俺は福祉課の人間が来たこと、発作用の薬としてよくわからない薬物を飲まされそうになったことを伝えた。
「福祉課の職員はどうしていますか?」
 嘘をつこうかな、と考える。だがどう時間を稼ごうと俺はここから離れることができない。いまだってこんなふうに手を動かし続けることで精神の均衡を保とうとしているのだ。
「東條さん、なにがあったんですか」
「先生。可能な限り最も早く、薬を届けてもらえる方法はありませんか」

 口内の水を薬ごと三宅係長の顔面に向けて噴き出した俺は、白い無精髭の生えるその口元めがけて缶の底を何度も叩きつけた。足元のキッチンラグに足を滑らせた三宅係長は尻餅をつくので、俺はその上にケトルを落とす。まだ熱湯と呼べる温度の液体を全身に浴びた三宅係長は悲鳴を上げ、湯気が天井あたりまでいっきに立ち上る。振り返ればベルトから抜いた特殊警棒をひと振りで伸長させた男が向かってくるが、振り下ろされた腕を肘で受け脇に挟みこむと、頭突きで鼻を潰した。曇ったメガネがずり落ちるのがわかり、反射的にそれをキャッチする。選択に次ぐ選択だ。メガネを力強く握りしめると柄がへし折れたので、その断面を男の左目に突き立てた。叫び声とともに開かれたその口に手のひらを突っ込むと、下の歯に指をかけ、腕を勢いよく引く。フローリングに顎から叩きつけられた男の首は派手にねじれた。それから俺は三宅係長の頬骨を肘で砕き、足首を踏み潰す。約七十キロの体がフローリングを鳴らす。苦痛と焦燥に歪む顔が俺を見上げている。頭の中には相変わらず膨大な量の情報が飛び交っている。どれを選んだって三宅係長は死ぬ。真上から首の骨を踏み抜けば、俺の呼吸する音だけが残った。

 これがどれほどの事態なのかを考え、受け入れ、戦き、態勢を整えるべきだろうか?
 そういう手もあるだろうねと俺は思うが、必要とまでは思わない。

 駐車場から音が聞こえる。
 すぐさまカーテンの隙間から覗くと、白のバンが二台停車するところで、スライドドアが開き、中から男たちが降りてくる。十名以上いる。襟ボアのついた作業用ブルゾンを着て各々道具を持っている。道具というのは、金槌や手斧やナイフのことだ。
 到着があまりにも早いのでおそらく近場で待機していたのだろうけど、だとするとやはり初めから事は大袈裟で、俺の頭は混乱を増すばかりだ。まあなにもしていなくても毎日混乱しているも同然なので、多少の混乱にも耐性が付いてきている気はする。気のせいかもしれない。俺には結局薬が必要なんだ。
「すみませんちょっと離れます」
 つながったままの携帯をリビングのミニテーブルの上に置くと服を着替える。玄関のドアをはじめとして鍵はかかっている。まだそれほど焦ることはないはずだった。クローゼットにある服のうち最も厚手の枯葉迷彩柄ジャケットを羽織って黒のワークパンツを穿き、ニット帽とネックウォーマーを身に付け、置いてあった「脳みそ」をクローゼットの中に仕舞うと急いで玄関まで向かう。階段を上がってくる無数の足音が轟いているが、ガチャっと開いてこんにちはなんてことはないはずなのでいまは無視。靴箱から鉄板入りのワークブーツを取り出して片足ずつ履いているあいだにドアがガチャガチャドンドンガンガンガンとやかましいので俺もブーツを先に履いた方の足で内側から蹴り返す。ドン! バンバンバン! とやっているうちにさっきからベランダの手すりがカーンガリガリ、コーンという音を立てているような気がして、あ、まさかと思う俺は直後、ガラスの割れる音に全身が粟立つ。それはベランダの窓ではなく、トイレか風呂場の小さな小窓からした音で、ドアの向こうのやつらが我先にと暴れているのだ。縦面格子の隙間から硬いもので誰かが殴ったのかもしれない。あるいは格子が外されたか。あの小窓から大の大人が入ってこれるものだろうか? などと考えながら玄関→台所→リビングと移動してカーテンを引く。ベランダの手すりに、脚を全開にした脚立が二つもかけられていて、駐車場から続々と人が登ってくる。数が多い。即ち、できるだけ殺傷力の高い武器を使わないと体力がもたない。そもそも俺は療養中なのに。
 解錠した引窓を開けると、まず目の前の脚立をのぼってくる茶色い坊主頭の若いクソの顔面を逆手に持ったナイフで浅く素早く突き刺すこと三回。悲鳴を上げて顔を押さえるが片手はしっかり脚立を握ったままだったので並んだ指を真一文字に切りつけると落ちていき、下で待機中の仲間が慌てて受け止める。さらに脚立を押し返してざまあみろと思う俺だったが、もう片方の脚立からは坊主頭のオッサンがベランダに一番乗りしていて、手斧がわずかに腕をかすめるがお返しに正面から喉を突き刺し、血が顔に飛んでこないよう斜め下に引いた。その見開かれた目は一瞬だけ自らの死への哀悼を望んでいるようにも見えたが、俺は手斧を奪いとると右のナイフと持つ手を交換して、二つ目の脚立も(別の男が登り始めようとしていたところで)押し返す。ガソリンがあれば一気に火でもつけてやりたかったが、いまできる最善を尽くすしかない。その積み重ねこそが俺の命を永らえさせる最大の策となるはずだ。
 リビングに戻って窓の鍵もしっかりかけ直した俺は、玄関の様子を見に行く。トイレの他に浴室の小窓もガラスが割られているが、格子はまだ外せていないようだ。とそこで鍵の解除される音が響き、チェーンロックが勢いよく張り詰める。隙間から無数の顔や手足が見えるので俺はすぐさまドアノブを引いて閉めようとするが、男のひとりが腕を差し込んで隙間を作り、「切れ! 切れ!」と叫んでいる。別の男がボルトカッターでチェーンを切断しようとしているのが見えて、おいバカ、ふざけんなと俺は差し込まれた腕を追い返すように手斧で滅多打ちにする。一打目で甲の骨が露出し、三打目で複数の指が同時にひしゃげる。そいつが悲鳴を上げて暴れているせいもあってボルトカッターも狙いが上手く定まらない様子だったから、俺はなんとかドアを閉め切ってもう一度鍵をかけなおす。
 よし。
 とはいえ一度は開けられたのだ。ちょっとの時間稼ぎにしかならない。
 ベランダのガラスを破って男がリビングに上がってくる。もちろん土足で、俺も土足のはずなのに気になってしまう。寝室の方でもガラスの割れる音がする。俺は靴箱の上から消火器を取るとピンを抜いて噴射しながら前進、そのままリビングではなく寝室に入って同じように窓から入ってくる最中だった男の顔面を消火器の底で殴り、続けてベランダに出ると手すりをまたごうとしていたもうひとりにも一撃。そいつはあーっと落ちていく。月明かりの綺麗な夜だった。鼻が潰れた男の元に戻った俺は頚動脈にナイフの刃を当てて勢いよく引く。ブシュー、ブシュ、ブシュとリズムをもって血が噴き出す。それは白い壁を染める。俺のつくったくぼみにも溜まる。白い消火剤にまみれた男が寝室に入ってくる。その背後からさらに複数名の気配がする。玄関のドアが破られたようだ。手斧を投げつけると男の胸に直撃して粉が飛び散るが突き刺さった様子はないので飛びかかって引き倒して馬乗りになり、その胸元を何度もナイフで突き刺す。その間にも寝室のドアに男どもが押し寄せるので俺は死体の襟元を掴んだまま仰向けになり、手斧や特殊警棒の攻撃を防ぐ。死体が揺れるたびに俺のつくった刺傷から血が垂れてきて顔にかかる。鼻にも入ってくる。脇に放ってフローリングを転がった俺は落ちていた手斧を拾い上げ、向かってくる腕という腕を次々と薙いだ。顔に飛んでくる血を呼吸とともに噴き出しながら顎を砕き、首を裂き、目を潰す。血で足が滑り、ひとりに覆い被さられる。脇腹を何度も刺し、近くの爪先をたたき潰す。いまの時点で何人殺しているのかを考えるのはもうやめる。俺の頭はバグりやすいので酷使できない。
 それよりも奪い取った金鎚が軽くて振り回しやすいことに感動した。刃がめり込む心配もないのがよかった。部屋を移動しながら次々襲ってくる連中の頭を叩き割っていき、気が付くと顔に生々しい切り傷のある男がでかいナイフを持って立っていた。もしや最初の男か? 向かってくるので腕をとって背後に放り投げると、窓を突き破ってベランダの柵に頭をぶつけ、そのまま動かなくなる。どうせ死んだふりだ。俺は倒れるその男の頭に金槌を振り下ろし、頭蓋がぶよぶよになったところでやめる。
 次はどいつだ?
 振り返るも、俺の呼吸音しか聞こえなかった。
 各部屋をまわり、横たわる男たちの頭も確認のために一発ずつ殴っていく。ぜんぶで十二名もいた。ここにきて俺はちょっと怖くなる。一ダースのドカタ軍団。
 ニット帽とジャケットを脱いでリビングの姿見で全身を確認する。切り傷や痣が山ほどある。ふと足元に無事なままの携帯を見つけたので、拾い上げるとまだ通話がつながったままだった。
「もしもし先生」
「東條さん?」
「お。よかった。先生、さっきの薬の件なんですけど、なんとかなりませんか。この場所を出なきゃまずいんですよ。そのためには薬がないと」
「落ち着いてください、まず、いまはなにしてるんですか? だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶではないです」
 十二人も来たのだ。
「もう危険はないのでしょうか?」
「いちおう確認しましたけど。土木課でしょうか」
「東條さん、聞いてください。薬を最短で届けるには、私がそちらに向かう必要がありそうです」
「大丈夫なんですかそれは」
「わかりません」
「到着が早いんですよ。みんなさっきから。たぶん周りで待機してると思います。次もどうせすぐですよ」
「急ぎたいのは山々ですが、車で向かっても、そちらまで数時間はかかると思います」
「まあ、そうですね」
「すみません。あとあの、東條さん、その音はなんですか?」
 俺はフローリングにうつぶせになった男の頭を何度も金鎚で殴っているところだった。じっとしているのが嫌だった。
「あ、すみません」
「電話、つないだままがいいですか?」
「できればそうしてもらえるとありがたいです」
 自分の声が震えていることに気づいた。嬉しかったのだ。

 

 先生はいまから飛ばしてくると言った。
 俺は死体をまたいで戸締りを済ませたあと部屋を見渡し、バリケードが必要だなと思う。死体は浴槽に二つ。ダイニングに三つ。寝室に五つ。リビングに四つ。ガラスもあちこち割られて冷たい夜の空気が吹きすさんでくるのが後々こたえそうなので、カーテンでもつくろうかな。第三陣がいつくるかもわからないが善は急げと俺も思う。
 ダイニングに窓はないので、そっちの三つを書斎に移す。クローゼットから麻紐のロールを持ってくると、死体の脇や首に巻きつけ、カーテンロールに結びつけて吊るす。かなりの重労働だが、ただじっと待つより精神衛生的に好ましいはずだ。俺はお腹が空いてくる。
 携帯に耳を当ててみた。ガサゴソと音がしているので、先生はいま移動中なのかもしれない。
 洗面台まで行って顔を洗い、洗濯機の上の棚にあるバスタオルをとって軽く全身を拭いたあと、ダイニングの向かいフローリングの上にそれを敷いた。ダイニング→リビング→ダイニング→寝室の順に移動して手斧や金鎚やナイフを回収してくる。バスタオルの上に並べていく。金鎚二本。手斧五本。警棒三本。ナイフ四本。これだけの武器があると思うと、体は一つのままなのに、どこか心強く思えてくる。数に絶望しかけたのなら、数に励ましてもらうしかない。使い物にならなくなったやつはそのまま放っておくことにした。どうせすぐ汚されるので掃除は最後にしよう。
 俺は台所の電気ケトルでまたお湯を沸かす。冷たいものじゃ落ち着かないから白湯を飲もうと思ったのだ。血の臭気が満ちていることが気になって、アロマキャンドルも持ってくると、三宅係長のジッポで火をつけた。蓋の軽快な音が気持ちいいので、開いては閉じを何度もくり返す。それから改めて係長の持っていたスマホを調べる。しっかりロックが掛かっている。係長の免許証に記された誕生日では開かない。子供がいるのならその誕生日をパスにしている可能性があると考え、さらに財布を漁ってみるが、必要なものは特に出てこない。ここしばらくの生活で思考の衰えは予感していた。こうやって闇雲にただ殺すだけの自分を振り返ると、改めて痛感せざるをえない。三宅係長を殺すことはなかったのだ。
 沸騰前にケトルを持ち上げ、白湯をカップに注いだ。二杯飲んだ。割れた親指の爪が痛むので、書斎の机から薬箱を取る。消毒液をふりかけ絆創膏を巻いたその上からさらに二枚目を巻く。不安なのでもう一枚。念のためさらに一枚。厚ぼったくなった親指で目の下をこすった。どこかに手袋があったはずだ。死体の一つが持っていた革のやつをもらうことにした。
 相変わらず静かな夜だった。街灯も少ないので車が来たらどうしたって目立つ。もちろん向こうだってそれを承知のはずで、ライトを消すか、あるいは離れたところで停車し、徒歩で向かってくるかもしれない。考えたくはないが、悩みの種を無視することにだって負担はある。
 薬箱をもとの位置に戻すと、空の薬袋が目に入った。ロラゼパムの1g錠。あまりがあればいいのにとひっくり返すし中も覗く。握りつぶした薬袋を机下のゴミ箱に投げ込む。電話を耳に当てると通話が切れていて、あれ? と思う俺は画面を確認する。電池切れを示す表示が出ている。やっちまった。充電器に挿してから、肩を回した。
 ふと、肩の関節が鳴る音に重なって物音が聞こえる。
 そんな気がした。窓の外からだろうか?
 俺はその場に腰を落とし、口を開いたまま、静かに首を傾ける。
 気のせいだ、と胸をなで下ろす材料さえない。
 なるほど。この時間は猛毒だ。

 午後八時。魚肉ソーセージを食べていると、アロマキャンドルが消えた。俺は書斎にあった十キロのダンベルを持ち上げたりして過ごすが、あまり気は紛れない。

 午後九時。トイレに入る。頭の位置にある小窓は、雑誌をガムテープで固定して塞いでおく。消臭スプレーが目に入ったので、それを各部屋に噴射して回ることにした。先生に電話をしたが出ないので折り返しを待つことにする。車を飛ばしすぎて事故を起こしていなきゃいいなと思う。

 午後九時半。こうなると体力勝負だ。そして俺にはもう大した体力が残されていない。待つことによる疲弊は甚大だった。むこうはそれを狙っている可能性もある。また別の可能性として、もしかしてもしかすると、今夜はもうこのまま誰もやってこないのかもしれない。その二つの間を感情が行き来している。これをドツボにハマると言うのだろう。血を拭いたあとの生臭いフローリングの上で仰向けになった。何を見るでもなく深呼吸をくり返す。

 午後十時。電子レンジで冷凍チャーハンを温めて食べた。シャツを着替え、ジャケットにトイレ用の消臭スプレーを吹きかける。それからクローゼットの中に避難させていた「脳みそ」を取り出し、腹のところで鉢を抱えてみると、不思議と体が温かくなる気がした。俺はもうこの部屋に住むことはできないようだが、どうなろうとおまえは必ず連れて行くつもりだ。そう言い聞かせる。

 午後十一時。
 寝落ちしていた。飛び起きると心臓が痛いほど脈打っているが、不思議と気分は悪くない。いつもなら寝ている時間だから、気が緩んでしまうと朝までだって眠れそうだ。携帯を確認しても電話は入っていないのでとりあえずラジオ体操第一を行う。

 午前0時。
 いよいよ無視できないレベルで悪臭が立ち込め始めた。死体なんかを吊るしちゃったもんだから重力で体内の物が漏れ出ているのだ。おまけにそれら全部が窓辺にあるせいで、入り込んでくる風に臭気が乗ってくる。文字通りのくそったれ。ネックウォーマーを鼻の頭まで引っぱり上げ、自分の周囲にだけ消臭スプレーを振り撒いた。消臭スプレーのストックは山ほどあるのだ。先生が到着するまでどうとでもなる。

 午前一時十分ごろ。
 書斎でうとうとしていると、遠くで物音がして幻聴かなにかだろうかと考えている矢先、ゴツゴツという足音に変わる。振動だってちゃんと伝わってくる。室内のどこかからだ。おいおい、あまりに急だし堂々としているしでちょっと待ってよと思う俺はナイフと金鎚を両手に持ち、壁に背をつけてじっとする。これは一人だ。鈍い足音の合間に細かい咳払いが挟まるし、ぴゅんぴゅんとなにかが風を切っているような音も聞こえる。俺がこっそり顔を出し、ダイニングと引き戸の向こうのリビングを覗いていると、いた。リビング中央には人影があり、こちらに背を向け窓辺に並ぶ死体を眺めている。と思いきやそいつは振り返り、俺は慌てて顔を引っ込めるが、勇壮なリズムがこちらに近づいてくるので嫌な予感に壁を離れればドン! と背後の壁をなにかが破って飛び出してくる。それは平べったくも鋭利な刃先で、ナイフよりも全然でかい。そいつは大仰なゴーグルとどこにでも売ってそうな白いガーゼマスクをしていた。俺が金鎚を持った方の手を挙げて挨拶すると、そいつも壁に突き刺していない方の刃渡り六十センチほどはありそうなマチェーテを、ひょいと挙げた。顔のあれはナイトビジョンゴーグルっぽい。
 俺もあれがほしい。
 壁のマチェーテをゴリゴリと引き抜いたそいつは、埃でも払うように二本の刃をこすり合わせながら書斎の入口に立つ。両手には白の軍手。着ているMA-1のチャックを一番上まで上げ切り、デニムパンツに黄土色のブーツを召している。露出する素肌は首元と、妙にぼこぼこした坊主頭だけだ。
「あんたひとり?」
 俺が尋ねると、なんと返事がくる。
「そうだお」
 マスクでくぐもっているせいかそう聞こえた。その声は低いとも高いとも、もっと言ってしまえば男か女か、若いのか老いているのかも曖昧で、俺は夜中に小便をしたときみたいに震える。
「そとに仲間いる?」
「いるお」
 ふーん。これは信じてもいいのかな。
「本当?」
「うん」
 じゃあついでにこれも聞いちゃおう。
「なんで俺を殺すの?」
「しーやない。ぷい」
 ぷいってなんだ?
「いまなんていった?」
「うゆたい」
 と言いながらそいつは片方の腕を振った。すぐ脇を飛んでいくマチェーテが背後にぶら下がる死体に突き立ったので、こちらも同じように右に持った金槌をぶん投げる。そいつは体を反ることなくマチェーテで金槌を弾いたかと思うと、間髪入れずに踏み込んでくる。俺はフローリングを蹴って後方に飛び上がると揃えたワークブーツの分厚い底でMA-1の胸元を迎え打った。互いにひっくり返った俺たちだが、こっちはフローリング、やつは碁盤目状にガラスの張られた引き戸に突っ込んで、振り注ぐ細かい破片を浴びている。俺は即座に立ち上がると、死体からマチェーテを引き抜く。同じく跳ねるようにして起き上がったそいつに近づきながら、ナイフを投げつけ、やつがまた同じように弾くそのタイミングでマチェーテを振り下ろした。カッ、という硬い音がして刃がやつの左肩にめり込み、遅れて左耳のついた顔の一部とナイトビジョンゴーグルが地面に落ちた。青白く光る肌に、マーカーかなにかで描かれたらしき波線がいくつも交差している。
「いたいいたいいたい」
 下から上へ振り上げようと動くやつの手をワークブーツで蹴りつける俺は、そのまま下腹部に靴底を押し付け、めり込んだままのマチェーテを勢いよく手前に引き抜いた。真上に跳ねた血が天井を叩く音が聞こえる。マチェーテをバットのように構えると、耳に刺さるような叫び声をあげて仰け反るそいつのむき出しになった首めがけてフルスイング。真っ二つにしてやるつもりだったが、咄嗟に背中を反らせたそいつの首は前半分だけがパカッと開き、MA-1が一瞬にして黒く染まった。ぶらりとひっくり返った頭を背中のあたりで揺らしながら、そいつは崩れ落ちることなく、たどたどしい足取りで後退していく。人間の命は時として信じられないほどの可能性を掴みとるものだ。追いかける俺もマチェーテを振りかざしはするが、そのいびつな奇跡に気圧されてなかなか振り下ろせず、ついにはリビングの窓際の死体にそいつがぶつかるまで、じっと見届けてしまった。
 午後一時十五分。
 MA-1の頭が破裂してその破片が飛んでくる。

 

 

 

 先生からの連絡がこないままどれだけの時間が経ったのかを考えても意味がない。

 そもそもいまの俺にとって先生はすがるべき希望なのだろうか?

 

 背中から壁に張りついた俺の耳に届くのは空高くのぼる銃声だ。
 銃声なのだ。
 弾はおそらく向かいのC棟から飛んできた。真っ先に考えるのは向こうの人数だ。
 吊るされた死体の胸元が飛び散るのと同時に再度銃声が響いた。俺は考える。銃声が先ほどのものと同じようにも思えたが、定かじゃない。
 吊るしていた紐が衝撃で切れ、死体がドサリと落ちてくる。骨ばった顔の、まだ若い男だった。差し込む月明かりの幅が広がって、汚れたカーペットを照らしている。
 弾はいまのところ、間隔をあけ単発で飛んできている。慎重に狙っているだけかもしれないが、例えばそれがライフルでボルトアクション式なら、次弾発射までの時間はある程度空くとみていいだろう。
 なんにせよ、ライフル弾を使われてしまったら、こんな築年数の古いアパートの壁に、果たして意味などあるのだろうか。
 そう考えていると別方向からも銃声がするがあまりにも近すぎて俺の鼓動は一気にそのペースを上げる。玄関だ。煙が舞い上がってドアが開き、長い棒のようなものを持った男が入ってくる。イヤーマフとナイトビジョンゴーグルをつけた誰か。テキパキと肩にストックを当て銃口を正面に構えれば、部屋全体の空気が膨張するような轟音。すぐ横の壁から飛び散った破片が肩を叩くが、俺はワークブーツで死体の破片もろもろを踏み潰しながら全力疾走。マチェーテを持たない方の手で折りたたみ式ナイフを開いておく。動きに反応したらしきC棟からの弾丸が吊るされた死体を貫通して引き戸のガラスを砕くのも無視。実のところ、はっきりとは見えなかったのでこれは賭けなのだが、その白髪のジジイが持っているのは上下二連式の散弾銃で、ドアに一発、壁に一発で残弾ゼロ、排莢と装填が必要のはずだ。玄関のジジイの動きは驚くほど堂に入っており、俺の接近に焦りも見せず、新たな一発を込めると折れた銃身を元に戻して構えた。実にシームレスな動きで気持ちがいい。一方の俺はマチェーテを放り投げると、ダイニングの床めがけて滑り込み大量の血の上を滑走。ジジイの足元に突っ込んでその太腿に刃先を突き刺す。捻る。痰がからんだような声を上げるジジイが発砲、至近距離で銃声が炸裂して破片が降ってくる。ジジイを倣って割れるような頭の痛みに俺は構わない。立ち上がりながら拳で顎を砕き、熱を持った銃身を掴むと背後の靴箱までジジイを押し込む。ゴーグルのまんまるいレンズ。その顔面を殴りつけ、ゴーグルだって引き剥がす。鼻も潰す。股間を蹴り上げれば肋骨も叩き折る。耳が完全に麻痺していて、手応えがいつもの半分ほどにしか感じられず、やめどころがわからない。グニャグニャになったジジイが玄関に尻をつくので、最後に靴底で顔面を踏み潰すと、猟銃とイヤーマフを拝借。腰の弾薬入れに入っていた実包をひと掴み分ジャケットのポケットに突っ込む。ドアの鍵は完全に吹き飛ばされているから、俺はその威力を有するスラッグ弾がほしい。グリップのすぐ上にあるレバーを押すと、銃身が折れて使用済みの薬莢がひとつカポンと飛び出した。上下に並ぶ空洞に親指くらいある種類も定かじゃない実包を二発同時に突っ込んだ俺は、ジジイのナイトビジョンも装着。
 頭が重い。
 頼むぜ俺の視覚。
 元々台所以外の明かりはつけていなかったが、玄関にあるブレーカーを落としておく。真っ暗な部屋の中を、ナイトビジョン越しの視界でゆっくり前進。リビング手前でしばらくじっとする。C棟にいる相手の位置がわからない。俺はダイニングに並べてある鈍器から警棒を選び取ると、まだぶら下がっている窓辺の死体に投げつけてみた。死体が揺れた次の瞬間、銃声とともにそいつの腕が千切れ飛んでカーペットの上に落ちる。なるほど。同じ手を繰り返すしかないか。そう思った俺は、今度は鈍器ではなく奪った散弾銃を構え、死体ひとつぶん空いた窓の向こう目掛けて銃撃する。銃全体が後退しストックが肩にめり込むのでちょっと痛い。いまのは散弾だろうか? 即座に銃身を折ると、一発排莢。新しく実包を込めておく。
 銃声の返事が来て、また新たに死体がドサリと落ちる。月明かりの幅が広がる。ナイトビジョン越しでは眩しいので寝室に移動。その最中にもう一度銃声が響き、俺の動きを読んだように寝室にある死体がドサリと落ちた。なるほど、向こうも狙いを定めるため、死体カーテンの排除を試みているのだ。ライフルの装弾数を俺は知らない。いまのところ、むこうはぜんぶで五発使っている。俺の知りえないところで装弾した可能性だってあるし、二人がかりで交互に銃撃している可能性だってある。どれを選ぶべきか。あまり考えてもらちがあかない気がして、位置の特定にだけ集中することにした。
 C棟からこの部屋の窓までの距離を十メートルとしよう。リビングに撃ち込まれた弾丸は引き戸の中央部にあるガラスを破壊した。窓から引き戸までは三メートルくらいある。角度からして、比較的平行な位置に狙撃手はいるはずだった。C棟二階の廊下か、屋上。俺は寝室の死体を撃ち抜いたと思しき銃弾のあとも探してみる。でも見つけられない。まあいい。
 作戦を変え、ある実験を試みる。俺は玄関にあるジジイの死体を抱き挙げて引きずり、筒抜けになった窓のむこうを意識しながらリビングにそれを投げ入れてみる。
 銃声が鳴り響く。弾丸がジジイの死体を貫いたかどうかに用はない。
 少なくとも向こうには、真っ暗なこの部屋の中が見えている。
 銃声は続く。窓辺の死体がまた落ちる。
 俺はリビングの壁にある電気のスイッチを手探りでオンにしておく。寝室も同じようにする。成功するかはわからないが、結局相手のことはわからない。このあとどちらかが死ぬってだけの、ざっくばらんとした関係性でしかないのだ。俺は玄関に向かうと、ブレーカーを上げた。
 C棟側に面する部屋の明かりが一斉に灯る。俺は猟銃を抱えて玄関を飛び出すと、手すりを伝って屋上へ。音を立てないよう中腰で半分ほど進み、残りは匍匐前進。俺の緑色の視界には、C棟二階の廊下でライフルを構えている人影が映る。ナイトビジョンゴーグルを外して目を細めているのは若い女だった。
 どこかで見たような顔だ。たぶん、よくいる顔なんだろう。
 ようやくこちらに気づくが、死ね。

 

 午前三時になった。俺は荷物をまとめる。

 

 午前三時半。各部屋を回って手を合わせた。

 

 午前四時。クローゼットから「脳みそ」を取り出す。


 
 午前四時半。俺の耳はまだ治らない。
 すこしずつ、朝の匂いが立ち込める。
 もしかすると鳥が鳴いているのかもしれない。
 はやく会いたいよ。

 

 五時。
 遠くの空が紫色に染まる。空に浮かぶ雲がその輪郭をくっきりと浮かべだす。
 明かりが見えた気がした。もしやと観察していると、その明かりはこちらに近づいて来る。車だ。駐車場に入ってくるのは黒塗りのベンツ二台。放置されたコンパクトカーやバンの後方にゆっくりと近づいていき、縦に並んで停車した。
 俺は十キロのダンベルを持ち上げると、それを前方のベンツめがけて放り投げる。特に回転も見せず落下したダンベルは、そのままフロントガラスに直撃し、真っ白なヒビを一面に走らせた。
 前後のベンツから男たちが一斉に飛び出す。スーツを着ていたり、高そうなジャージ姿だったり、外国人だったりしたが、動きの鈍い順にライフルで撃ち殺した。まず三人。
 俺はボストンバッグを肩にかけると、B棟の屋上からA棟の屋上に飛び移り、置いてあった散弾銃を拾い上げて、再度駐車場に構える。二人撃ち殺す。排莢と装填。地平線が白んできた。屋上から自室前に降り立つと表に出しておいた「脳みそ」を回収し、十五段の階段を降りる。もうここを上ることもないのでしょう。寂しいかどうかは時間が教えてくれるだろう。駐輪場を抜けて自販機のある通りに出た俺は、そこから駐車場入口に回り込む。停車するベンツのリアウィンドウ内には、ふたりぶんの頭が見える。左の人物が振り返る。銃口を振って指示すれば、その人物は自ら車を降りてくれた。実にゆっくりと。
 先生だ。
 続いて右に座っていた人物も自らドアを開け、落ち着いた様子で降りてくる。グレーのスーツを着て、そのすそを手で直すオールバックのメガネジジイ。
 総務部長。
 先生がなにかをしゃべっているが、いまの俺にとっちゃ遥か遠くで響くだけの、意味を成さないただの音でしかなかった。俺は猟銃の引鉄を絞る。無数の散弾を浴びた総務部長は、砕け散った窓ガラスとともにアスファルトに崩れ落ちた。
 肩をこわばらせたまま固まる先生が俺を見ている。安心させるために猟銃を下げた俺は、耳の穴に指を突っ込んで笑った。
「やっと来てくれましたね」
 やや声を張りすぎたかもしれない。先生はなにかをつぶやいたあと、後部座席に左手を伸ばす。右手は正面につき出したままで、俺が発砲しないよう制しているようだ。先生を撃つわけがない。俺はちゃんとそう伝える。
 先生の手には薬袋が握られていた。俺は笑う。先生もひきつりつつも、笑い返してくれる。ああついに。俺は深呼吸をする。もう夜の匂いはどこにもなかった。ろくでもない夜。先生から薬を受け取る。
 先生の口が「東條さん」と動くのがわかった。
「だいじょうぶですか」と。
 だから俺は伝える。
「おかげさまで」
 それから俺はポケットに入れておいた缶コーヒーを先生に渡す。
 三宅係長が俺に渡してきたものだ。
「先生。朝日を浴びながら飲むコーヒーは美味しいですよ」
 缶コーヒーを見つめる先生が微笑むことをちょっとだけ期待したが、見届けることはせずにその横を通り過ぎる。一番奥の、ありふれたコンパクトカーに乗り込んで、猟銃と「脳みそ」を助手席に起き、持ってきたキーでエンジンをかけた。座ったとたんに強烈な眠気がよぎったが、俺はもう眠らない。これまでたくさん眠ってきたのだ。もうすぐ朝日が昇る。日の光を浴びれば、体も目を覚ますだろう。
 バックミラーを調整し、シートの隙間から後ろを確認する。先生はまだ同じ所に立っている。先生はさっき、俺になんと言ったのだろう。なにを言わなかったのだろう。ギアを「R」に合わせて発進し、横たわる男たちの死体を踏み越えて、先生のそばで一時停止する。窓を下げた。
 やはり俺の中には山のように選択肢があった。なにを伝え、なにを伝えないか。だが、俺が先生に感謝しているというのは、紛れもない事実だった。
「確かにコーヒーは控えたほうがいいかもしれませんね」
 そのまま表の道路まで出た俺は、改めてクラクションを一度だけ鳴らす。先生は手すら振ってくれないが、逆の立場で考えたら、たぶん俺でも振らない。カーナビに入力する目的地を考え、その中の一つを選択する。アクセルを踏み、両サイドを畑に挟まれた侘しい道路を進んでいく。法定速度は遵守する。ラジオの音量を最大にすれば、パーソナリティーが「今日も一日、いってらっしゃい」と言った。
 午前五時半。
 閉め忘れたままの窓から、薬を投げ捨てた。